2010/3/30

谷英美さん来館  来客・取材

次回企画展「OKINAWA つなぎとめる記憶のために」の記念企画に出演して下さる、アローンシアターの谷英美さんと、事務局のSさんが来館されました。

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谷さんは、金子みすゞの生涯を題材にしたひとり芝居「空のかあさま」をライフワークとされ、全国各地で公演を行っています。また、沖縄の集団自決で自らの子を手にかけた母親の言葉の朗読「ウンジュよ」や、原爆を描いた井上ひさしの戯曲「父と暮せば」なども行っています。

今回の企画では、沖縄での組織戦が終結した“慰霊の日”(6月23日)に近い週末の6月26日(土)午後2時から、谷さんに丸木夫妻の絵本「おきなわ島のこえ」と「ウンジュよ」の朗読をして頂く予定です。
実は、今回沖縄の佐喜眞美術館からはるばるやってくる作品のなかに、谷さんととても親交が深かったという故・近田洋一さんの《HENOKO 家族の肖像》という作品があるのです。
谷さんは、「ウンジュよ」はぜひその《HENOKO 家族の肖像》の前で朗読をしたいと計画されています。非常に思いの強く込められた舞台になりそうです。
また、今回展示する「おきなわ島のこえ」絵本原画も、谷さんの朗読の構想に合わせて6点の原画を選びました。
こうした細かい仕掛けが、公演のときにどんな効果を発揮するのか、とても楽しみ。
見逃せない舞台となりそうです。
ぜひ皆さま、6月26日は丸木美術館にお越しください。
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2010/3/27

【水俣遠足4日目】水俣病歴史考証館  調査・旅行・出張

三泊四日の水俣遠足もいよいよ最終日。
K藤さんは甑(こしき)島へ向かうため、朝早く宿を後にしました。
K沢さん・Y崎さん御夫婦とわが家の4人は、水俣市の循環バス「みなくるバス」に乗って、水俣病センター相思社・水俣病歴史考証館に向かいました。

相思社は、「水俣病患者および関係者の生活全般の問題について相談、解決にあずかるとともに、水俣病に関する調査研究ならびに普及啓発を行うことを目的とする」財団です。
水俣病が多発した漁村地域から丘を少し登ったところにある施設で、場所がわかりにくかったため、バスの運転手さんに「どのバス停で降りたら近いでしょうか?」と聞いたところ、運転手さんもわからず、バス会社に電話をして調べてもらうはめに……。
ようやく判明した小さなバス停「陣原団地前」の先には手書きの案内板があり、歩いているうちに心細くなるような小路へと続いていきます。
「何だか、どこかの美術館によく似ているわ」と笑顔で小路を歩く妻T。
ようやくたどり着いた水俣病歴史考証館は、冷暖房もなく、手づくり感の強い、つまり丸木美術館関係者にとっては親近感のわく建物でした。

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館内の雰囲気も、同じ水俣病をあつかいながら、市立の資料館とはずいぶん違います。
市立資料館の展示は視覚資料が中心でしたが、歴史考証館は漁船やチッソ関係の看板、被害者救済運動の黒い幟旗、水俣病の原因を解明するためのネコ実験に使われた小屋など、生々しい実物展示が多くありました。

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水俣病の衝撃と、その対策をめぐって激しく社会が揺れ動いた時代を直接的には知らない私にとって、館内に並べられた「モノ」から発せられる強い説得力は、非常に心に残りました。
市立資料館が“未来に生きる希望を作るためにある”ならば、歴史考証館の方は、悲しい歴史が決して忘れられないように、粘り強く伝え続ける“生き証人”なのだと感じます。
おそらくは、どちらの施設も水俣病の歴史を伝える上で大切な役割を持つ存在なのでしょう。
水俣を訪れたときには、やはり両方の施設を見ることをお勧めします。
本当は、相思社の方ともゆっくりお話をしたかったのですが、飛行機の都合で早々にタクシーを呼んで駅まで戻らなければならなかったのが残念でした。

水俣病に対する市民運動の関わり方や問題点、丸木夫妻の絵や石牟礼道子さんの文章、土本典昭監督の映画などの表現の問題……はじめて本格的に水俣をめぐって、しかし、まだわからないことはたくさんあります。
とても考えさせられることの多い旅でしたが、いつかまた水俣を訪れたときには、もう少し自分のなかでも整理をした上で、また違った視点から町を見つめ直すことになるのでしょう。
Y本さん、K藤さんはじめ、お世話になったたくさんの方々に、心から御礼を申し上げます。
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2010/3/26

【水俣遠足3日目】村丸ごと生活博物館/天野製茶園など  調査・旅行・出張

3日目もY本さんの案内で、湯の鶴温泉からさらに川をさかのぼった頭石(かぐめいし)地区へ。
この地区は集落を生活の博物館と見立て、「生活学芸員」という集落の案内役の方が実際の生活の場を案内する「村丸ごと生活博物館」という活動を行っています。

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集落を案内して下さったのは、「生活学芸員」のK目さんとY口さん。
平家の落人の里と言われる頭石ですが、集落の歴史は縄文時代にまでさかのぼるほど、古くから人が住みついていたそうです。何世代もの人びとが時間をかけて築き上げてきた石積みの棚田は、現在も見事にそのかたちを残しています。

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地名の由来となった「頭石」からはじまり、生活水路や釈迦堂(平家の落人が持ってきたと言われる雅な顔の仏様が安置されていました)など集落のあちこちを巡る時間は、大人の旅に付き合わされてやや退屈気味だった子どもたちにとっては、変化に富んだ楽しい体験だったようです。

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集落の方々も「子どもがいると風景が違う」と、とてもよろこんで下さいました。
すぐに脇道にそれる子どもたちを見守りながら一行についていくのはひと苦労で、われわれ夫婦はあまり説明を聞くことはできませんでしたが、豊かな水を中心にしながら生活圏内ですべてが循環する風景はとても正しく美しく、心を打たれました。

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途中からは、どこからか猫もやってきて、われわれ一行を得意げに案内してくれました。

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集会所に戻ると、「生活博物館」の女性メンバーたちが畑で採れた食材を使って、手尽くしの料理を用意して待っていて下さいました。その美味しさに、またしても感嘆!

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息子Rはサトイモのコロッケが気に入ったようで、いくつもお代わりをしては、周囲の笑いを誘っていました。娘Mが気に入ったのは「しただご」と呼ばれるお餅のようなもの。こちらも負けじと何度も手をのばして食べていました。
妻Tも、農家の庭先で熱心に料理の作り方のレクチャーを受けていました。

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豊かな生活文化を守り続けている頭石地区ですが、やはり過疎の現実は深刻なようです。
「自給自足で生きられる時代はよかった。でも今は社会が変化して、生きるために現金が必要な時代。そうなると、ここにいては現金を得る仕事がないから、みんな外に出ていく。10年後には限界集落になるかもしれん」とK目さんは厳しい表情。
それでも、「村丸ごと生活博物館」をはじめたことで、住民もあらためて自分たちの生活の良さを見つめ直す機会ができ、外部の人との新たなつながりも生まれたそうです。そうした活性化の動きが、少しでも集落の未来を切り開く道につながることを祈らずにはいられません。

頭石の皆さんの笑顔に見送られながら、再びY本さんの車に乗ったわれわれ一行は、Y本さんのご自宅に立ち寄った後、Y本さんが所有する山林に向かいました。
この日、Y本さんは竹林の整備を行っていて、谷には切り倒された竹が大量に横たわっていたのです。丸木美術館でも日頃から竹林の整備を行っていますが、Y本さんの山はスケールの大きさが違います。

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なぜか、われわれも切り倒された竹を片付ける仕事を手伝うことに……
娘Mは疲れて車内で熟睡していましたが、息子Rは焚火に黙々と枝を投げ込み大活躍。

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親子で筍掘りも体験させて頂きました。
といっても丸木美術館では、もうすぐ毎朝竹林をまわって嫌と言うほど筍掘りをしなくてはならないのですが……

次に一行が向かったのは、水俣でももっとも標高の高い集落のひとつ、石飛(いしとび)地区。
そこには「天の紅茶」を栽培している天野製茶園があり、ご主人が待っていて下さいました。
牧場に案内されたわれわれは、大きな黒豚や子どもが生まれたばかりのヤギの親子、たくさんの鶏たちに出会います。

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動物がちょっと苦手な息子Rは、気ままに動き回るヤギや犬から逃げ回るのに大忙し。
鶏小屋からは、産みたての卵をとらせてもらいました。

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牧場から少し山を登ると、亀嶺峠。
不知火海や大関山、鹿児島湾の桜島、宮崎県の韓国岳まで見渡せる展望スポットです。
かつて頼山陽もこの峠を訪れて詩を詠んだそうで、頂には立派な石碑が建てられていました。

一嶺蟠四国 瞰視万山低 雄抜者五六
指点自不迷 桜嶽在吾後 依依未分携
阿蘇在吾面 迎笑如相徯 温山与霧嶠
俯仰東又西 何図九国秀


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写真は亀嶺峠から見下ろす不知火海です。

天野さん一家が自分たちで建てたという野趣あふれる家には、大きな囲炉裏がありました。
その囲炉裏を囲み、みんなで夕食をいただきました。

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先ほど鶏小屋から頂戴したばかりの新鮮な卵を、囲炉裏で炊いたごはんにかけ、イノシシ、シカ、アイガモの肉の入った鍋といっしょに食べます。水俣の山の幸の御馳走です。

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今回の水俣遠足は、どうやら海、川、山の御馳走を食べ歩く旅になったようです。
食後に囲炉裏を囲んで雑談をするなかで、Y本さんは、「水俣は狭い場所に海、川、山、町の暮らしがそろっている日本の縮図のような地域。そこに近代化のひずみのような公害病がいち早くあらわれたのは、決して偶然ではない」と言いました。

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今回の旅行は、水俣の各地で暮らす人たちの姿を見て、自然の恵みを味わいながら、この地に発生した「水俣病」の意味を逆説的に体感する旅だったのかも知れないと、遅まきながら気づいた夜でした。
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2010/3/25

【水俣遠足2日目】寒川水源/杉本家/市立水俣病資料館など  調査・旅行・出張

2日目の朝。
昨日の雨はようやくあがり、雲が切れてホテルの8階の窓からは桜島が見えるようになりました。

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午前中、K沢さん・Y崎さん御夫妻と東松山市環境保全課のK藤さんとともに、鹿児島中央駅から九州新幹線「つばめ」に乗って新水俣駅へ。
噂にたがわぬスタイリッシュな豪華車両に、鉄道好きの息子Rはよろこび、妻TやK沢さんも車内の写真を撮影するなど盛り上がりました。

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新水俣の駅に着くと、案内人のY本さんが車で迎えに来て下さっていました。
さっそく挨拶をしたのですが、髪の毛も髭もぼさぼさ、無愛想でにこりともしないY本さんに、K藤さんと私はともかく、ほかの初対面の人たちはちょっとびっくりしている様子。娘MもY本さんの迫力に圧されて思わず後ずさり……。

それでも一行は気を取り直し、さっそくY本さんの車に乗って移動を開始します。
実は今回、事前にこちらの旅の目的や行きたい場所をリクエストしようとしたところ、K藤さんが「Y本さんは予定通りに行動する方ではないので、すべてお任せした方が良いと思いますよ。なにしろY本さん直々に案内をして下さるだけでも贅沢なことですからね」と言うので、どこへ連れて行かれるのかは、まったく予測ができません。

   *   *   *

Y本さんは、「まずは、水俣といえば海という先入観を壊してもらおうか」と、水俣川をさかのぼり、山へのぼって行きました。途中、川は二股に分かれ、久木野川を水俣最高峰・標高約900mの大関山に向かって行くと、目の前にあらわれたのは見事な棚田の風景。
水俣は、実はその大部分が豊富な水源に恵まれた山岳地帯で、人びとは谷間に寄り添うように狭い土地を耕して暮らしてきたようです。
やがてたどり着いたのは「寒川水源」。大関山の地下水が湧水となり、一日に3,000トンほどの水が湧き出ているという水源地です。

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息子Rは、湧水をすくって一口飲むなり「ぬるい!」と叫びました。
四季を通じて水温が14℃と一定しているので、夏はひんやり、冬は温かく感じられるそうです。

水俣を支えるの水の恵みを実感したあとは、一気に川を下って市街地を抜け、海に出ました。途中、水俣駅前に広がるチッソ水俣工場(メチル水銀を含んだ排水を海に流し、水俣病の原因となった企業)の前を通り、水俣市の南の外れ、“水俣病多発地域”として知られる茂道地区へ。

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“水俣病多発地域”という言葉からは想像できないほど、静かで穏やかな漁村です。
港を見下ろす高台に車を停めて、Y本さんの御案内で、漁師の杉本雄(たけし)さんのお宅へ伺いました。
杉本さんと妻・栄子さん(2008年2月に逝去)はともに水俣病患者で、語り部として水俣病を語り伝えてこられたことで知られています。
http://www.news.janjan.jp/living/0904/0904200861/1.php

玄関には、1979年11月29日に丸木俊さんが描いた杉本栄子さんの肖像画が飾ってありました。
両手に櫂を抱えて勇壮に踊る姿の絵です。

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杉本さんは、昼食を用意して待っていて下さいました。
炊きたてのご飯にチリメンをたっぷり乗せた上に醤油とお茶をかけ、イリコで出汁をとったそうめんといっしょに食べたその食事の美味しかったこと!

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食事のあとには、ゆっくりと杉本さんのお話を伺いました。
水俣病の発生当時の体験談から、患者家族の差別の苦しみ、そして「自分で作って自分で食べる」生活の大切さ。
水俣病の苦しみに悩まされながら、杉本さん家族は「食べ物でなった病気は、食べ物で治す」と、無農薬の野菜や無添加のイリコを作り、製造販売するようになりました。「食べ物は“命薬”(ぬちぐすり)」と杉本さんは言います。人間は生きるために食べるのであって、人より良いものを食べるとか、良い暮らしをするという欲を出さず、とにかく生きることが大事。けれども、現代の社会はそんな基本的な考えを見失ってしまった結果、むしろ水俣病的状況が広がっているのではないか。静かに笑みをたたえながら語る杉本さんの言葉は、しかし、とても重く響きました。

かつて市の職員として、水俣病によってズタズタに引き裂かれた人びとの絆を取り戻す“もやいなおし”が必要だと考えていたY本さんは、「山ん人と海ん人がつながれば、町はどげんかなる」(Y本さんは水俣市山間部生まれ)と考え、杉本家を訪ねました。
そこで出されたチリメンご飯の味に心を打たれたY本さんは、その後、土地の良いものを見つめ直すことで人がつながる“もやいなおし”の発想にたどり着き、環境から水俣を再生させるという道が見えてきたそうです。
もともと水俣市は、チッソ(1909年日本窒素肥料として設立、1950年に新日本窒素肥料、1965年にチッソと社名変更)の繁栄によって支えられていた企業城下町。ほとんどの住民がチッソの工場関係者であり、水俣病が多発したのはごく一部の貧しい人たちが暮らす漁村地域でした。そのため、複雑な差別意識が生まれ、市も水俣病患者に正面から向き合おうとしなかったようです。そのなかで、患者ともつながりを持ちながら“もやいなおし”を目指したY本さんは異色の存在だったことでしょう。
杉本さんもはじめは「役所の人間が何しにきた」と警戒していたそうですが、Y本さんが「杉本さんとの出会いがなければ、その後の展開もなかった」と言うように、互いの信頼関係が結ばれていったようです。
当時水俣市長となった吉井正澄さん(それまでの水俣病対策について、市長として初めて被害者に公式に謝罪した方)も、Y本さんの理解者として活動を支えていたとのこと。
その後、Y本さんが2年間館長を務めた水俣市立水俣病資料館では、「杉本家の水俣病50年」という企画展も開催されています。

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杉本さんと記念撮影を行い、無添加のイリコやチリメンをお土産に買わせて頂いた後は、水俣市立水俣病資料館を訪れて館内を見学。
資料館のパンフレットには、Y本さんによる次の言葉が記されていました。

人はボールを投げるために 後ろにいったんふりかぶる
人は高く上に飛ぶために 下に一度かがむ

前や上を未来 後ろをや下を過去だとすれば
人は未来のために 過去を振り返る
ここに生きる希望を つくるために

水俣病資料館は おきたことを明らかにしながら
犠牲を無駄にしない 社会づくりに役立て
未来に生きる 希望を作るために あるのです


館内の展示は映像や模型などをまじえて視覚的にわかりやすく工夫されているようです。
そして、水俣市とチッソの関係からはじまる水俣病の歴史をたどりながら、Y本さんの基本方針が貫かれた、つまり、“未来に生きる希望を作るため”の内容になっていることが感じられます。

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最後に訪れたのは水俣市の中心部にある胎児性水俣病患者らの共同作業所「ほっとはうす」。
運営主体の社会福祉法人「さかえの杜」は、杉本栄子さんも理事長を務めていたそうです。
代表の方に御挨拶をした際に頂いた名刺には、きれいな押花がラミネートされていました。後で知ったのですが、この押花つき名刺は、「ほっとはうす」のメンバーの方々が制作されたとのこと。この作業所は「水俣病を宝物として伝えるプログラム」という活動もされているそうですが、市立水俣病資料館にも共通するような、患者とともに手をとりあって“未来に生きる希望を作る”姿勢を感じました。

   *   *   *

この日の宿は、湯の鶴温泉の旅館「あさひ荘」。
山のなかにある温泉地に向かって行く車中、子どもたちはさすがに一日の疲れが出た様子。ふだんは車酔いをしない息子Rも「ちょっと気持ち悪い」とぐったりしていました。そのせいか、車が山道でカーブを切るたびに「おっとっと……」と身体が大きく振り回されます。それを見た娘Mは大笑い。次第に息子Rも面白くなってきて、カーブが来るたびにわざと大きく身体を投げ出すようになり、車内は笑いに包まれました。Y本さんも子どもたちの様子を察して、わざと大きく車を揺らしながら運転します。
一見無愛想なY本さんですが、本当は優しく気を使われる方なのだということが、案内をされている途中で次第にわかってきました。

旅館の方々はとても温かく迎えて下さいました。
新鮮な刺身やウナギ、天麩羅などの豪華な夕食を味わい、満開の桜や棚田を眺めることのできる露天風呂や岩風呂にゆったり浸かって、一日の疲れを癒しました。

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写真は翌朝に撮影した旅館の窓から見える風景と、露天風呂の様子です。
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2010/3/24

【水俣遠足初日】かごしま水族館/桜島  調査・旅行・出張

近現代史研究家のK沢さんとわれわれ家族の丸木夫妻の足跡をめぐる“遠足”は、2007年2月、丸木夫妻が《原爆の図》を描いたアトリエが現存する藤沢を訪れたのが最初でした。その後、2007年10月に「丸木俊・スマ展」にあわせて二泊三日で俊さんの故郷・北海道へ行き、2008年11月には「美術家たちの『南洋群島』」展で沖縄を旅行。2009年8月には研究発表のため位里さんの故郷・広島を訪れました。そして今年は水俣です。

今回の旅行は、K沢さんの夫君のY崎さん、東松山市環境保全課のK藤さんとご一緒することになりました。
たまたま昨年、丸木美術館も関わっている地元の唐子地区の“ホタルの里”の事業の一環として、水俣市で“地元学”を主宰されているY本さん(詳しくはY本さんの著書である岩波ジュニア新書『地元学をはじめよう』をご覧ください)をK藤さんがお招きして、何度かフィールドワークを行っていました。その縁がきっかけとなり、今回はK藤さんも水俣に同行し、Y本さんが案内をして下さることになったのです。

   *   *   *

K藤さんが仕事で夜に合流するため、先に鹿児島空港に到着したK沢さん・Y崎さん御夫妻とわが家の家族4人は、まずは鹿児島市内のホテルに向かい、市内観光をすることになりました。
あいにくの小雨のなか、鹿児島は初めてというK沢さん・Y崎さん御夫妻は市の中心部を散策。
わが家は鹿児島港の桜島フェリーターミナルの隣にある「かごしま水族館」へ行きました。
翌日からは大人の旅行に付き合わせることになるので、初日は子どもたちのために時間を使うことにしたのです。

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「黒潮大水槽」でジンベイザメやマグロ、カツオの群れを見てよろこび、「いるかプール」でイルカの生態を楽しく学べる“いるかの時間”(ここでは「ショー」という言葉は使わないそうです)を見学し、展望室で海を見ながらアイスクリームを食べ……と子どもたちは満足気。

その後は鹿児島港から15分ほど桜島フェリーに乗り、桜島にわたりました。

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もし雨が降っていなければ、桜島港から歩いて10分ほどの高台にある「桜島自然恐竜公園」に行く予定だったのですが、雨足が強くなってきたので、しばらくフェリーターミナルで休んだ後、そのままフェリーに乗って鹿児島港に帰ることにしました。
恐竜公園を楽しみにしていた息子Rはちょっと残念そうでしたが、桜島大根と記念写真をとり、束の間の船旅をそれなりに楽しんだようです。

夕食は市内の繁華街「天文館」で黒豚料理を食べ、ホテルに戻って地上13階の展望温泉に入って疲れをとりました。
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2010/3/23

美術館ニュース101号入稿  美術館ニュース

ようやく美術館ニュース第101号の編集作業が終わりました。
今回のニュースの表紙は、昨年秋山庄太郎写真芸術館から寄贈された秋山庄太郎撮影の丸木夫妻の写真です(現在、美術館入口ロビーにも展示しています)。
その他にも、4月からはじまる「OKINAWA展」に合わせた沖縄の特集や、調査が進んでいる1952年北海道原爆展の報告など、読みごたえのある内容になっています。

今日は休館日ですが、午前中にS印刷所に行き、データ入稿をおこないます。
納品予定日は4月2日(金)。ニュース発送作業は4月3日(土)です。
ニュース発送ボランティア募集中!!

美術館ニュースの内容は以下の通りです。

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丸木美術館ニュース第101号(発行部数3,000部)

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〈主な記事〉
表紙の写真 《沖縄戦の図》の前の丸木位里・俊(秋山庄太郎撮影) …… p.1
5月5日 丸木美術館開館記念日のご案内 …… p.2,3
《沖縄戦の図》と私のコレクション (佐喜眞 道夫) …… p.4
沖縄・辺野古に生きて (平良 悦美) …… p.5
1952年美唄「綜合原爆展」について (白戸 仁康) …… p.6
「没後10年 丸木俊展」開催報告 …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代 〈第3回〉 (岡村 幸宣) …… p.8,9
美術館の日常から (中野 京子) …… p.10
丸木美術館情報ページ …… p.11
リレー・エッセイ 第33回 (石田 佳奈) …… p.12

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岡村は明日から美術館を留守にして、鹿児島・水俣方面へ調査を兼ねた旅行に行ってきます。
近現代史研究者のK沢さん・Y崎さんご夫婦と、東松山市環境保全課のK藤さんといっしょです。
次回の出勤は3月30日(火)の予定です。
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2010/3/22

OKINAWA ―つなぎとめる記憶のために―  企画展

4月17日(土)から7月10日(土)まで丸木美術館で開催する企画展「OKINAWA ―つなぎとめる記憶のために―」のために、現在、沖縄の佐喜眞美術館と連絡を取り合いながら、準備の大詰めを迎えています。
ようやく出品作品のすべての画像データが出そろい、企画展チラシが完成しました。

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沖縄の青い空とエメラルドグリーンの海をイメージした表紙です。
丸木夫妻の《沖縄戦―きゃん岬》(1986年)を中央に大きく配し、その他の16人の出品作家の作品を一点ずつならべました。
今回の出品作家は、以下の通りです。(五十音順)
安次嶺金正、安谷屋正義、新垣安之輔、オサム・ジェームス・中川、嘉手川繁夫、儀間比呂志、金城明一、金城満、金城実、近田洋一、玉那覇正吉、照屋勇賢、仲里安広、比嘉豊光、山城見信、山元恵一(絵画、立体、写真、映像など59点)

「沖縄を描くことがいちばん戦争を描いたことになります」という言葉を残した丸木位里。
その沖縄戦から、米軍占領、基地問題と、沖縄が強いられてきた複雑な歴史の意味を、多くの芸術家の表現を通じて人びとの声/記憶とともに再考するというのが、今回の企画の趣旨になります。
飯能市在住の嘉手川繁夫さんの絵画3点、立体造形4点(新作)、丸木夫妻の絵本『おきなわ島のこえ』原画6点とオサム・ジェームス・中川さんの写真作品を除いた出品作30数点は、佐喜眞美術館の所蔵作品。
佐喜眞コレクションがこれほどの規模で東京周辺に展示されるのは、もちろん初めてのことです。
ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。
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2010/3/21

西田美術館学芸員来館  来客・取材

丸木美術館の2010年度予算・事業計画などを決定する理事会・評議員会が午後から行われ、無事に計画案が承認されました。

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途中、富山県中新川郡上市町にある西田美術館のY学芸員が来館され、私は会議を抜けてY学芸員とお話をしました。
西田美術館では、2010年10月8日から11月14日まで「丸木スマ展」(仮称)の開催を計画する予定なのです。
Y学芸員のお話によれば、2008年に埼玉県立近代美術館で開催された「丸木スマ展」をご覧になって、「ぜひ、うちの美術館でもスマさんの絵を紹介したい!」と思って下さったとのこと。
こうして展覧会はつながっていくのですね。

西田美術館の企画では、スマさんの絵25〜30点に加えて、地元の障害者美術グループの作品もいっしょに展示したいとのこと。
北アルプスの剱岳や、丸木夫妻も訪れた宇奈月温泉に近いという豊かな自然に恵まれた場所に建つ美術館で、スマさんの絵がどのように人びとの心に溶け込んでいくのか、今からとても楽しみです。
http://www.nishida-museum.com/
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2010/3/20

『戦場でワルツを』豊田直巳さんスライド&トーク  川越スカラ座

丸木美術館の仕事のかたわらで、川越でNPOが運営する映画館「川越スカラ座」のボランティアをしていることは以前にも日誌にも書きました。

その「川越スカラ座」で、4月10日(土)から23日(金)まで『戦場でワルツを』(アリ・フォルマン監督、2008年)を上映します。
元兵士のアリ・フォルマン監督が、自身の経験をもとに製作したドキュメンタリー・アニメーション。1982年にレバノンで起こったパレスチナ難民大虐殺についての友人たちの証言から、戦争がもたらす心の闇を暴き出し、カンヌ国際映画祭では審査員長のショーン・ペンが「誰の後押しがなくても観客を獲得していく映画だと確信している」とコメントしたそうです。
日本では、米国アカデミー外国語映画賞を『おくりびと』と争い、当初は本命視されていたことでも知られています。

上映記念イベントとして、長年にわたりパレスチナなどの紛争地に暮らす人々の日常を取材し続けているフォトジャーナリストの豊田直巳さんのスライド&トークを行うことが決まりました。
2003年に丸木美術館で写真展を開催し、たびたびスライド&トークをして下さっている豊田さん。今回の依頼にも快く応じて下さいました。
映画の舞台になっているレバノン戦争は、豊田さんが最初に取材した紛争とのこと。
実際に現地を歩いた視線から、貴重な話が聞けることでしょう。
豊田さんのスケジュールの都合で、開催が金曜日の夕方になってしまったのが残念ですが、ぜひ多くの方に足を運んでいただきたいと思います。

「川越スカラ座」は1905年に寄席・演芸場として開業した歴史ある映画館。
昔ながらの懐かしい雰囲気の漂う空間も映画ファンには必見です。

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『戦場でワルツを』上映記念イベント
スライド&トーク
『戦場でワルツを』を歩く 〜レバノン、イスラエル、そしてパレスチナの旅〜


ゲスト:豊田直巳氏(フォトジャーナリスト)
日時:4/16(金)17:30〜 (15:30の回終了後)
場所:川越スカラ座(川越市元町1-1-1 TEL049-223-0733)

※4/10(土)から当日15:30の回までに当館で本作をご覧になり、イベント参加券をお持ちの方のみイベントに参加できます。
※イベント参加券はチケットをお買い求めの際に受付でお配りいたします。
※満員の場合は入場をお断りする場合がございます。(定員124名)
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2010/3/19

1952年「第二次」北海道原爆展の動き  1950年代原爆の図展調査

北海道立図書館から取り寄せた松井愈氏資料「朝鮮戦争下の科学運動―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」をもとに、1952年の「第二次」原爆の図巡回展の動きを北海道の地図に落とし込んでみました。

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1.夕張 2.岩見沢 3.美唄 4.美流渡 5.砂川 6.上砂川 7.赤平 8.茂尻 9.幌内
10.赤間 11.豊里 12.帯広 13.根室 14.釧路 15.網走 16.北見 17.名寄 18.稚内
19.留萌 20.雨龍 21.小樽 22.余市 23.大和田 24.苫小牧 25.浦河 26.静内
27.深川 28.富良野 29.名寄 30.幕別


「第二次」巡回展というのは、丸木夫妻自身が1951年10月から12月にかけて室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館を巡回した展覧会を「第一次」として、便宜上つけている呼び方です。
この巡回展には丸木夫妻が帯同していませんでした。
つまり作家の手を離れて、初めて「原爆の図展」がひとつのMovementとして運営された画期的な巡回展と言えるのかも知れません。
この「第二次展」が、目黒区美術館の「炭鉱展」によって、そして三菱美唄炭鉱の一枚の写真を契機に掘り起こされたのも、決して偶然ではなく、当時最盛期を迎えていた北海道の炭鉱文化ネットワークが、このMovementに大きな役割を果たしていたようです。

「第二次展」の掘り起こしについては、美唄市のSさんが大きな役割を果たして下さっています。
先日、三菱美唄労働組合本部の内部写真を公開しましたが、Sさんによれば「内部写真は、階上ではなく階下事務所のようで、階上もおおむね同じ構造になっていました。大会議室もさほど広くはなく、5部作すべての展示は無理だったかも知れません」とのこと。
ご丁寧に、建物内部の図面まで送って下さいました。

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また、「大会議室奥の小会議室には、パネルのようなものがびっしり張られていたように記憶しています。短期間で多数の会場を次々と移動し、何より広い会場を確保するのも大変でしたので、小学生の感想文や<釧路>展からも推察されるように、「第二次」は、初期3部作と解説パネル(カートン紙)による「綜合原爆展」だったのかも知れませんね」とご教示頂きました。

長年、郷土史家として炭鉱の歴史を調査されてこられたSさんは、ほかにも多くの情報や示唆を与えて下さっています。
その内容を、以下にまとめて書き出すことにします。

・夕張(1月10日〜)から始まる「第二次」は、岩見沢・砂川を除いてまず空知地方の炭鉱地域で主に開催し、2月中旬以降に道東地方(〜北見市3月9日まで)、3月中旬は道北地方(沼田町浅野雨龍炭鉱まで)、4月頃から小樽ほかを転々とし、5月1日の幕別で終了した様相が見えて来る。

・『北海道大學新聞』1952年5月5日付の「全道原爆展終る 平和の意志を大きく育てよう」という記事の冒頭に「全道三十八ヶ所をまわり観客三十五万人を動員した一大カンパニア原爆展は一日の北見幕別を最後に多大の成果を収めて終了」とある。「北見幕別」とあるが、新田ベニヤの工場があった中川郡幕別町と思われる。

・夕張・赤平では、複数の炭鉱企業・鉱業所内ごとに開催されたのは明らかである。

・1月10日−14日「夕張展」の会場は「夕張市民会館」で、女子高生も手伝い。

・3月6日−9日の「北見展」は、北見商工会議所大会議室で開催。実行委員となった美術団体関係者情報のほか、「入場者数約2万人」といった記録もある。

・「上砂川」は町ぐるみ三井砂川炭鉱地域だったが、当時の三井砂川労組新聞『砂労』にも記事は皆無。ところが、サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)後の1952年8月になってから、労組として「平和運動月間」を設定している。労組事務所前に『アサヒグラフ』同年8月6日号に掲載された原爆被害写真を展示し、労働組合報『砂労』に、おそらく『原爆の図 画集普及版』(青木書店)からとったと思われる原爆の図の一枚(少年少女)やアサヒグラフの被害写真(広島)、長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(1951、岩波書店)の一節を紹介して、「反戦平和文芸作品」を募集。後日、「反戦平和文芸作品発表特集号」も発行している(三井砂川労組機関紙『砂労』1952年8月20日付・同年11月7日付)。

・松井愈氏資料「朝鮮戦争下科学運動」pp9-10に、室蘭・旭川・秩父別・札幌・函館各展の後、民科札幌支部として「『全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!』各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった」とある。その結果が、30カ所の巡回展につながった。三菱美唄展は労組文化部主催だが、必ずしも幹部たちの指導方針に基づくものでもなかったように、実際に受け入れた側には、組合幹部の意向に限らず、受け入れ側の多様な文化状況や人々の思い、人間関係なども深く関与していたと思われる。


Sさんの綿密な調査力には本当に驚かされ、勉強になることばかりです。
何より、60年前の展覧会の調査を続けていく上で、大きな励ましと勇気をもらっています。
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2010/3/18

《鳩笛》と《横笛》  来客・取材

以前、藤沢市民ギャラリーの企画で、神奈川県立近代美術館のM学芸員といっしょに丸木夫妻の展覧会を行ったとき、M学芸員が「良い展覧会は、はじまってからも“育つ”もの」という印象的な言葉をおっしゃっていました。
展覧会というのは展示をして終了、というわけではなく、会期中に、その企画を通じて作品や美術館にとって新たな発見があるような、そんな展覧会が「良い展覧会」という意味だと受け止めて、いつかは丸木美術館で、“育つ”企画を手がけてみたいと思い続けていました。

とはいえ、予算規模の少ない丸木美術館では、なかなか手ごたえのある展覧会を企画するのは難しいのですが、今回の「没後10年 丸木俊展」は、少しだけ、“育つ”展覧会に近づいているかも知れない、と思うことがありました。

   *   *   *

先日来館された女性は、「私は《鳩笛》のモデルになりました」と名乗り出て下さいました。
制作は1956年。まだ丸木夫妻が練馬区の谷原に住んでいた頃の話です。
丸木夫妻の近所に住んでいたその女性は、「ピンクの着物を着ていらっしゃい」と俊さんに言われて、鳩笛を手にポーズをとったそうです。

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当時、丸木夫妻は《原爆の図》(おそらく、第10部《署名》の時期でしょう)のモデルも探していて、その女性も「ぜひモデルに」と頼まれたそうですが、さすがに《原爆の図》のモデルは気がひけた、とのことで、《鳩笛》だけのモデルを務めたそうです。
彼女のお父さんがその作品をとても気に入り、「絵をいただくという話もあったのですが、その後曖昧になったままのようでした……」とのこと。
今回は、NHKのニュースに映る会場風景を見て、「《鳩笛》がある!」と驚いて丸木美術館まで足を運んでくださったようです。

   *   *   *

そして、昨日来館して下さったのは、《横笛》(1956年制作)のモデルの方。
やはり、NHKのニュースをご覧になって、「私がモデルになった絵がある!」と気づいて下さったようです。
現在、《横笛》という題がついているその作品は、当時《竹ぶえ》の名で毎日新聞社主催の第3回日本国際美術展に出品されたとのことで、そのときの絵はがきも持参して下さいました。

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展覧会を通じて、半世紀以上前の作品とモデルがつながるというのは、企画した立場としては、とても嬉しいものです。
貴重な体験談もお聞きすることができて、美術館にとっても大きな財産となります。
これからも、今回のようにさまざまな人とつながり、新たな発見を生むような、“育つ”展覧会を企画していきたいものです。
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2010/3/17

「『日本画』の前衛」展の調査  館外展・関連企画

午後から京都国立近代美術館のY学芸員と広島県立美術館のN学芸員が来館されました。
2010年9月3日から10月17日まで京都国立近代美術館、2011年1月8日から2月13日まで東京国立近代美術館、2月22日から3月27日まで広島県立美術館で開催される「『日本画』の前衛 1938-1949」という展覧会の作品調査のためです。
この展覧会は、1938年に結成された「歴程美術協会」を中心に、「激動の時代にあって未知の『日本画』表現をさぐろうとした画家たちの果敢な動向を探る」企画とのこと。
丸木位里は、「歴程美術協会」の初期の重要なメンバーの一人だったのです。
同郷の船田玉樹とともにこの会に参加した位里さんは、第2回展では赤い背景に白い絵の具を垂れ流し、その効果を利用して馬の群像を描いた《馬(群馬)》という実験的な作品を出品しています。
今日は収蔵庫で、その《馬(群馬)》のほかに、表裏両面に作品が描かれている《竹》《高原》を観て頂きました。

戦前の団体ということもあり、なかなか現存する作品を揃えることが難しい(位里さんの作品も、大半が所在不明となっています)ようですが、これまでにない視点から「日本画」の前衛を検証する取り組みで、注目すべき展覧会になることでしょう。
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2010/3/16

嘉手川繁夫作品撮影  企画展

来月17日からはじまる企画展「OKINAWA―つなぎとめる記憶のために」展のため、飯能市吾野の嘉手川繁夫さんのお宅に伺い、新作の鉄のオブジェの撮影を行いました。
今回の企画展では、A5版の小図録を作成し、展示作品をすべて収録します。
……といっても普通の美術館では別に珍しくもない話ですが、予算規模の小さな丸木美術館にとっては、画期的な試みなのです。

   *   *   *

幼少時に沖縄戦を体験し、戦後に上京して画家として活動した嘉手川繁夫さん。
2008年夏には沖縄県立博物館・美術館でも個展を開催しています。
今回は、代表的な油彩画の大作を3点お借りし、その他に新作の鉄のオブジェを数点出品して頂くことになりました。
「戦争を描くというのはたいへんなことだ。ぼくは上京してすぐ、板橋で丸木夫妻の《原爆の図》を見て圧倒されたよ。あそこまで描かれたら、後から来る人はもう描けないと思った。もちろん戦争を経験しているから、平和願望は強く持っているよ。それが円形の表現につながっている。円は平和や安泰や調和を象徴するからね」
囲炉裏ばたに座って、嘉手川さんは語って下さいました。
彼は古民具の収集家でもあり、ご自宅にはいたるところに箪笥や石臼、薬研、火鉢、古時計などの古民具が飾られています。
嘉手川さんによれば、「古民具には円形の鉄が多く使われている」とのこと。そして、彼がオブジェに使用する鉄は、実は民具として長年使われていた古鉄なのです。
古鉄の見た目は今の鉄とはまったく違う味わいで、材質もとても良いそうですが、「表現したいものと合致している」というのが、作品に使う一番の理由。
民具のかたちを生かしながら、平和を願う“円形”のオブジェに再生させているのです。

とにかくいたるところに古民具がある家なので、撮影場所を決めるのには少々苦労しました。
何度か場所を変えて撮り直したあと、結局、アトリエにあった作成途中の白い下塗りの状態の絵画の前にカンヴァスを敷き、そこにオブジェをおいて撮影することに。
嘉手川さんの絵画は、下塗りの時点ですでに立体的な模様ができあがっているので、白地の背景に面白い効果が出て、うまい具合に撮影ができたように思います。
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2010/3/13

貴司山治関係資料  作品・資料

この日は、プロレタリア文学者として知られる貴司山治(きし・やまじ、1899−1973)のご子息I氏が来館されました。
I氏は、貴司山治の研究者でもあり、WEB資料館を運営されています。
http://www1.parkcity.ne.jp/k-ito/

貴司山治については、2007年10月27日から11月18日まで開催された鳴門市立図書館・市制60周年記念展示「郷土の作家・貴司山治」で、1946年4月18日から7月5日に貴司山治が『読売報知新聞』に連載した小説「愛の歌」に赤松俊子が挿絵を描いていたことを知りました。

当時、貴司山治は、京都・丹波山中の胡麻郷村に開拓農民となって入植しており、俊さんはその山治の六畳一間の小さな家を訪ねているそうです。
そのときに俊さんが描いたデッサンも現存しています。

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(徳島県立文学書道館蔵)

この日、I氏が来館されたのは、1947年1月に民衆書房より刊行された小林多喜二の『党生活者』の装幀が赤松俊子であるかどうかを確認するためでした。

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これがその『党生活者』の表紙です。
たしかに俊さんの絵のようにも見えますが、絵には署名がなく、装幀を担当した人の名前が書籍のどこにも記されていません。
I氏の説明では、この書籍は復刻版で、中身は以前に出版されたものをそのまま使用して、表紙の装幀だけを新しくして発行いるとのこと。そうした事情から、装幀者の名前が抜け落ちているのかもしれません。
復刻版の刊行には貴司山治が関わっているらしく、この当時、貴司山治の周辺で装幀の仕事を頼めそうな画家といえば、赤松俊子の名前があげられることから、Iさんはその可能性が高いとみているようです。
小林多喜二といえば、俊さんは1947年6月に新興出版社から刊行された『蟹工船・不在地主』の装幀・挿絵を手がけています。
『党生活者』とは発行時期も近く、俊さんが手がけた可能性は充分にあると思いましたが、確たる証拠がなく、断定はできませんでした。
今後も折を見て調査を進めていきたいと思います。
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2010/3/13

連続映画上映会「おきなわ戦の図 命どぅ宝」  イベント

午後1時から小高文庫で、丸木美術館連続映画会の第3回、『おきなわ戦の図 命どぅ宝』(前田憲二監督/制作 前田プロ/1984年/日本)の上映が行われました。

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丸木夫妻が沖縄を取材し、共同制作《沖縄戦の図》を描きあげる様子を取材したドキュメンタリー映画です。
参加者は約25人と、狭い会場はほぼ満席。
この連続映画会は、「冬のお客さんの少ない時期の丸木美術館を盛り上げたい!」と、事務局のNさんが発案したのですが、ボランティアの皆さんの協力もあって、3回とも盛況となりました。

今回の上映会は、なんと当日になって、前田憲二監督が駆けつけて下さることがわかりました。
本当は韓国に取材に行かれるとのことで、上映会に来られるのは難しいと聞いていたのですが、ハヌルハウスの若手メンバーを連れて来場して下さったのです。
これには参加者の皆さんも大よろこび。

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上映の後には、急きょ前田監督のご挨拶があり、ハヌルハウスの方の楽器演奏なども行われて、とても充実した時間になったようです。
私は残念ながらほとんど参加できませんでしたが……

たいへん好評だった連続上映会。
丸木美術館は、春から夏にかけては大きなイベントが多く、少数スタッフによる準備などの負担も大きいことから、連続上映会はこれでいったん区切りとさせていただきます。
ご参加・ご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございました。
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