2010/1/31

日韓高校生フォーラム  イベント

午後1時から、丸木美術館に隣接する野木庵で、「日韓高校生フォーラム」が開催されました。

主催は自由の森学園高校。フォト・ジャーナリストの鈴木賢士さんの「韓国のヒロシマ」と題する講演のあと、自由の森学園の生徒と韓国サンマウル高校の生徒がそれぞれレポートを発表し、参加者をまじえてディスカッションを行いました。

丸木美術館を舞台にして、こうした地道な取り組みが行われるのは嬉しいことです。
私は残念ながら別の用事があって参加できませんでしたが、フォーラムの資料を読むと、韓国の高校生の原爆に対する関心の深さに感心させられます。

以下に、資料に掲載された韓国の高校生のリポートを抜粋します。

国民の幸せのために存在する国家という集団が国民の生命を担保に核武器の脅威、原子力発展の脅威を国家間に何の危機意識なしに行っている。豊かさや便利のために、国家間利益関係を手安くするために、危ない手段を使っている。たくさんの核武器を持って、人間を対象に唯一の実験を行ったアメリカの大統領がノーベル平和賞を受賞する現在、私たちは人類史上最も危険な時代に生きているのかも知れない。

人類が核の脅威から離れるためには核保有国らが核武器減縮と廃棄が行われるべきであり、さらに核武器そのもの自体が地球上に存在しないべきである。これからは勿論、今まで保有してきたすべての核武器が人類の共存のために廃棄されるべきだ。原子力発電も同様だ。核武器の原料になる原子力発電が可動している以上人類は核の脅威から逃れられない。

これは平和を望む人類の希望である。しかし、この希望を現実にする方法は簡単ではない。国民より上に存在する国家、人類の平和という価値観を否定する国家では核の危機を乗り越えられなく、平和な地球を作れない。核武器と原子力発電を地球人の観点から考えると、それは絶対許せない行為である。広島と長崎の原爆を地球人の観点から考え、また、チェルノブイリの問題を人類的な観点から認識することは平和な地球を作る一歩である。今日、私たちがここでその一歩を踏み出してみたいと思う。


   *   *   *

原爆が投下された当時、広島には42万人、長崎には27万人のうち、朝鮮人は広島に5万人、長崎に2万人が住んでいた。つまり、広島と長崎に原爆が投下された際、全体人口の10人に一人は朝鮮人だったわけだ。被爆者総数対爆死者の比率は全体の33.7%程度であるが、朝鮮人の爆死者は57%に至る。つまり朝鮮人の被爆者対死亡者比率が高い。なぜだろうか。原爆が爆発した中心部に朝鮮人密集地域があったせいもあるが、朝鮮人が被爆後適切な治療を受けることができなかったこと、また、貧乏で縁故もなかったこと、朝鮮人が被爆者周辺から離れなかったため持続的に放射能に汚染されたことなどが挙げられる。

(中略)

植民地支配の被害とアメリカ軍による原爆投下の被害という二重の苦労に喘いだ朝鮮人が存在するのに原爆の問題を日本だけの問題だとは考えられない。朝鮮人は日本人と共に原爆投下の被害者である。

しかし、原爆がどれほど恐ろしいかについてよく分かっていない韓国人が多い。ある人は「アメリカはなぜ2個だけを投下したのだろう。10個20個でも足りないよ」と軽い冗談で言ったりもする。日本人からみると冗談では受け入れられないひどい話だ。しかし、それは36年間の植民地の収奪に対する反感のせいもあり、また韓国では原爆の被害については教えてなく、社会的な論点になったこともないため、その事態について無知な人々の考えである。

韓国被爆者は他人の意思によって自分の欲望や幸せを奪い取られた。韓国被爆者は、だれ一人理解してくれる人もなく植民地支配の被害と強大国間戦争の犠牲になり人類史未曾有の非人道的な武器により犠牲になり、今もその後遺症で苦痛や無関心で死んでいく人々である。個人を無視した上の全体が何の意味があり、個人の健康や幸せを奪った上の世界平和が何の意味があるだろう。歳月がたっても原爆投下の責任についての真実と被爆者がうけた被害の悲惨さは人類歴史に記録され、人類社会に警告や反省のため世界に告発すべきである。そして原爆被害者のような悲しみを再び繰りかえさないように原爆投下事件の責任と謝罪が必ず先決になるべきである。
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2010/1/30

竹伐りボランティア  ボランティア

昨年から森林組合に転職したDさんが、職場の先輩Kさんといっしょに丸木美術館の南側斜面の竹林を整備して下さいました。
元事務局長のNさんもサポートに駆けつけて下さいました。

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すっかり伸び放題になった竹林は、美術館南側の窓の日当たりを妨げていて、長年職員を悩ませていました。
急な斜面に隙間なく竹が密生しているため、素人では手入れができなくなっていたのです。
さすがにDさん、Kさんのプロの腕は素晴しく、みるみるうちに竹が切り倒されていきました。

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竹林の半分ほどが整備されると、見違えるほど明るい光が差し込むようになりました。
館内の冬の冷え込みは、この竹林の影響も大きいと思われるので、整備が進むことは本当に美術館にとっても“明るい光”となることでしょう。

Dさん、Kさん、Nさん、どうもありがとうございました。
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2010/1/30

NHK FMラジオ「丸木俊展」紹介のお知らせ  TV・ラジオ放送

2月5日(金)午前11時15分頃から、NHK-FMラジオ(埼玉県内向け 周波数85.1:秩父は83.5)の番組「さいたま情報ランチ」の「カルチャーインフォメーション」のコーナーに生出演し、企画展「没後10年 丸木俊展」を紹介いたします。
すでにNHKさいたま放送局のHPにも番組紹介が掲載されています。

http://www.nhk.or.jp/saitama/program/lunch/index.html

お相手くださるのは下村寧リポーター。
展覧会の見どころや注目の作品などを7分ほどの電話インタビューでお話しいたします。
県内のみの放送ですが、放送終了後にHP上で番組の音声をお聴きいただけるようです。
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2010/1/29

毎日新聞「丸木俊展」取材  来客・取材

夕方、毎日新聞西埼玉支局のS支局長が来館、「没後10年丸木俊展」を取材して下さいました。
80年代に駆けだしの記者として丸木夫妻を取材されたことがあるというSさん。
久しぶりに訪れる美術館に「ずいぶん雰囲気が変わりましたね」と驚き、企画展を取材した後には「原爆の図のイメージとは全然違いますね。今回の展覧会を見ると、俊さんの別の一面がとてもよくわかる」と感想を話して下さいました。

今回の企画展は、テレビ、新聞など多くのメディアがとりあげて下さり、たいへん好評です。
来館してくださった方も、「この《ロシア人形》が見たくてきたので、大満足です!」とよろこんでくださることが多いです。

2月5日(金)にはNHKさいたま放送局のFMラジオでも紹介されることが決まりました。
さらに多くの方が足を運んで下さるとうれしいです。

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2010/1/28

平野亮彩さんと小山田二郎の記憶  その他

午後、東松山市内にお住まいの画家、平野亮彩さんのアトリエを訪ねました。
平野さんは1922年静岡県生まれ。敗戦後に上京し、画家の小山田二郎に誘われて大日本印刷の画室に勤務しました。その後、平凡社の印刷部に勤務し、1960年頃より百科事典や児童書の挿画を手がけました。
やがて1970年半ばに体調を崩した頃、丸木夫妻と出会い、位里さんの勧めで東松山市に転居。丸木夫妻を中心にした「臥竜会」にも参加し、交流を深めました。

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丸木夫妻が自宅を建て替えた時に建物の一部を頂いたというアトリエ。
結局、敷地の都合で屋根だけを使ったそうですが、瓦には「丸木」の文字が見えます。

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入口には、俊さんが命名し、位里さんが書いたという「吾亦紅荘」の文字が。

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平野さんと丸木夫妻との交流の深さが感じられます。

   *   *   *

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自作の水墨画の前で、お話をされる平野さんの様子。
平野さんが画家になるきっかけとなった、小山田二郎との出会いについてお伺いしました。

小山田二郎(1914-1991)は、《ピエタ》や《鳥女》などの鮮烈な作品で知られる画家です。

平野さんは敗戦後に上京し、労働者を題材にしたルオー風のポスターを描いていたところを小山田さんに見出されて、大日本印刷に入社したそうです。
小山田さんと机をならべて仕事をしていた平野さんは、帰りが同じ中央線沿線だったこともあって、次第に親しくなりました。

小山田さんは持病で顔が「ざくろのよう」に変形していて、そのことを苦にしてか、口が重く、もたもたと小声でほとんど話をしない方だったそうです。
煙草をよく吸うので、平野さんが心配すると、「戦争中は松葉を拾って松葉をのんでいたよ」と言い、酔うときれいな低音で「バイカル湖のほとり」を歌ったとのこと。

また、二人で新宿駅前で「バクダン」と呼ばれた安酒を飲んでは、たびたび芸術論に花を咲かせました。
当時の平野さんは、画家と言えば安田靭彦、小林古径といった院展系の大家に憧れていて、「ぼくは売れるような絵が描きたい、小山田さんの絵は売れないからなぁ」と言い、彼のシュルレアリスム風の絵を見て、「この人はどうしてデッサンをしないのか」と思っていたといいます。
ときには小山田さんが「昨日、絵かきの集まりがあって、岡本太郎が『おれはピカソを超えた』と言っていたよ。でも、言っていることはかなり参ったよ。いいことを言っていたよ」とつぶやくこともあったとか。
二人だけの親密なひとときは、平野さんにとってかけがえのない時間だったようです。

しかし、共産党に入党していた小山田さんは、1950年のレッドパージの際に、大日本印刷を辞めさせられました。
しばらくして平野さんが別の友人といっしょに見舞いに行くと、四畳半の部屋から小山田さんが出て来て、「よく来てくれた」と涙を流したそうです。
飯盒と味噌だけの何もない部屋で、小山田さんはガラス板に絵具を溶いて絵を描いていました。
差し入れの焼酎を飲み交わし、帰ろうとする平野さんと友人に、小山田さんは「おれは死のうと思うんだ」と言いました。「小山田さん、どこで死ぬんだ」と聞く友人に、彼は「高尾山」と答えました。「平野くんは生を肯定しているけど、君ならわかるだろう」と、小山田さんは喘息で苦しんでいるその友人に言ったそうです。

しかし、小山田さんは死なず、その後、同じようにレッドパージで職場を追われた画家たちといっしょに神田の印刷所の屋根裏で挿絵の仕事をしていたようです。
あるとき、平野さんが懐かしくなって訪ねて行くと、留守の人が「小山田さんは瀧口修造の推薦でタケミヤ画廊で個展をやった」と言いました。
その個展で注目を集めた小山田さんは、一躍、時代を代表する画家として、世間に知られるようになっていきました。

「自分は器用に描けるから、仕事は私の方が早かった。でも、達者と創作は違う。小山田さんは本当の芸術家だった。清潔な人柄で、はったりのない謙虚な人だった」と回想する平野さん。

話し出すと時間を忘れ、話の内容も行きつ戻りつするので、全体を把握するのは難しかったのですが、平野さんにとって非常に大切な記憶になっているということは強く伝わってきました。

何より、戦後の美術史の一断面に触れたような生々しい貴重な回想に、あらためて「人にはそれぞれ歴史がある」と痛感しました。

平野さんご自身の絵の話や、丸木夫妻との親交については、また機会をあらためて、ゆっくりお伺いしたいと思っています。
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2010/1/26

紙芝居『おとなりさん』  作品・資料

今日も朝から来館者の多い一日。
佐喜眞美術館のK子さんや、“桃色ゲリラ”の増山麗奈さんたちが「没後10年 丸木俊展」を見に来て下さいました。

   *   *   *

午後、今回の企画にも作品を貸して下さっている歌人のKさんが、お友だちを連れて来て下さいました。
Kさんは俊さんが手がけた貴重な紙芝居を見せて下さいました。

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おとなりさん
(12枚1組)
1953年3月20日印刷 1953年3月25日発行
作=高橋五山 画=赤松俊子 編集=教育紙芝居研究会
発行=日本紙芝居幻灯株式会社

紙芝居は消耗品なので、なかなか現存する作品がありません。
丸木美術館で所蔵しているのも『天人のはごろも』(童心社)1点だけです。

『おとなりさん』は、戦争ごっこの嫌いな少年・源太が主人公。
男の子に仲間外れにされた源太は、女の子といっしょに「おとなりさん」の絵本を読み、朝鮮や中国、インドの子どもたちと「おとなりさん、おとなりさん、みんな仲よしおとなりさん」と歌いながら、みんなで頭に“げんげ”の花をつけて仲良しになるというお話です。

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紙芝居は最後に、「世界中の子どもが ほんとうに 手をつないで 笑うようになると いいですね。みんなで そうなるように しましょうね」という文章で終わります。
作者は代表的な紙芝居作者の高橋五山ですが、俊さんの生涯を貫いた根本的な精神があらわれているような内容です。

いつも貴重な作品を見せて下さるKさん、本当にありがとうございます。
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2010/1/23

川越スカラ座「風のかたち」トークショー  川越スカラ座

『山のかなた』上映後の意見交換会を途中で抜け、午後5時半から川越スカラ座で行われた『風のかたち』トークショーの司会を務めました。
川越在住の友の会会員のHさんが車でスカラ座まで送ってくださり、とても助かりました。ありがとうございます。

映画『風のかたち』(伊勢真一監督、2009年)は、小児がんの治療にあたる医師と闘病する子どもたちの10年間の歩みを描いたドキュメンタリー映画です。
トークショーには伊勢真一監督と聖路加国際病院の細谷亮太先生をお招きしました。

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(写真は『風のかたち』パンフレット。伊勢監督と細谷先生のサイン入り)

医療の進歩によって、現在は約8割が完治するという小児がん。
しかし、それでも2割の子は長く生き続けることができません。
今回のトークショーには、昨年のちょうど今ごろに細谷先生に診ていだたきながらお子さんと「さようなら」をしななければならなかった川越在住のご夫婦も関わっていました。
個人的なことですが、わが家はそのご夫婦に以前からとてもお世話になっていたので、このトークショーには強い思い入れがありました。

ちょうど前の週に細谷先生が「徹子の部屋」に出演され、また多くの方の口コミの宣伝が影響したのでしょう。124席の会場には200人を超える人が集まり、超満員となりました。
細谷先生も伊勢監督も、たいへんお忙しいなかにも関わらず、川越まで駆けつけてくださって本当に感謝です。トークショーの後、近くのうなぎ屋の打ち上げ会にも参加してくださいましたが、お二人ともとても心の優しい、親しみのもてる方でした。
伊勢監督の撮影スタッフは、丸木夫妻の記録映画『水俣の図・物語』(土本典昭監督/1981年)のスタッフの後輩が多いとのことで、不思議な縁を感じました。

このトークショーの様子はNHKのニュースにも取り上げられ、たいへんな反響を呼びました。
http://www.nhk.or.jp/news/k10015181551000.html

内輪的な話ですが、取材して下さったNHKのディレクターさんは先日「没後10年 丸木俊展」を取り上げて下さった方で、こうして複合的につながりながら地域に発信していけるのは本当にありがたいことです。

トークショーの詳しい内容は、川越スカラ座のスタッフIさんの日記
http://blog.k-scalaza.com/?eid=1029170
そして岡村の記したリポートをご覧ください。
http://event.k-scalaza.com/?eid=1264234

『風のかたち』は川越スカラ座にて2月5日まで上映しています。
上映時間などの詳しい情報は川越スカラ座のHPをご覧ください。
http://k-scalaza.com/index.html
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2010/1/23

映画「山のかなた」上映会  イベント

午後から小高文庫で映画『山のかなた』(2009年/池島芙紀子監督/ストップ・ザ・もんじゅ制作)の上映会を行いました。

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この映画会は、事務局Nさんの発案で、1月から3月まで連続して毎月1回行います。
今月は、その第1回目ということになります。
鑑賞アドバイザーにチェルノブイリ子ども基金の向井雪子さんをお迎えし、20数名の参加者が集まりました。

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増殖炉開発からの撤退・閉鎖の動きが国際的に増えるなかで、日本では地球温暖化を理由に、原子力発電への依存を強めようという動きが出てきています。
しかし、原子力が電気を作るためにどれだけのCO2を出しているのかということはあまり知られていません。
この映画では、その問題に踏み込みながら、なぜ日本が原発の使用済燃料から高速増殖炉で使うプルトニウムを取り出す作業に力を入れているのかをわかりやすく映像で紹介しています。

「原発に反対している人だけでなく、一般の人や原発のことをよく知らなかった友の会の人に、関心をもってもらいたくて上映会を企画した」というNさん。

私は残念ながら別の映画館で行われるイベントで司会を務めるため、途中で会場を離れましたが、鑑賞後には参加者からさまざまな発言があり、活発な意見交換が行われたようです。

   *   *   *

連続上映会の第2回目は、2月13日(土)午後1時から『タクシー・トゥー・ザ・ダークサイド』(アレックス・ギブニー監督/2007年/米国/2008年度第80回アカデミー長編ドキュメンタリー賞/2007年度トライベッカ映画祭ベスト・ドキュメンタリー賞)が行われます。
ぜひ多くの方にご来場いただきたいと思います。
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2010/1/21

「BANTA -沁みついた記憶-」展  他館企画など

銀座ニコンサロンで開催中のオサム・ジェームス・中川さんの写真展「BANTA -沁みついた記憶-」に行ってきました。
中川さんは昨年の夏に沖縄の佐喜眞美術館で個展を開催しました。今回は2月2日まで銀座ニコンサロン、そして5月20日から26日まで大阪ニコンサロンで、21点の壮大な断崖(BANTA)の写真を発表します。

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http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2010/01_ginza.htm

中川さんは1962年ニューヨーク生まれ。生後7カ月で両親とともに日本に帰国し、15歳まで東京で育ちました。その後テキサス州ヒューストンに移住し、ヒューストン大学芸術学部にて修士号を取得。インディアナ大学芸術学部写真学科長・准教授となり、現在はニューヨーク・グッゲンハイム財団からのフェローシップを受けて妻の故郷である沖縄に滞在し、断崖や壕の内部の撮影に取り組んでいます。

高さ150cm、幅50cmほどの縦に長い画面に、ごつごつした岩肌や打ち寄せる波濤の荒々しい質感が圧倒的な迫力で映し出される作品。
沖縄の断崖といえば、沖縄戦の際に多くの一般の人びとが米軍に追い詰められ、次々と身を投げたことが思い起こされます。
そんな悲しい歴史を潜ませているせいか、BANTAシリーズからは、美しさだけではない深い畏怖の念を感じさせます。

   *   *   *

作品を鑑賞した後、会場にいらっしゃった作者の中川さんにご挨拶。
実は、4月17日から7月10日まで丸木美術館で開催する「沖縄展」に、ぜひ中川さんの作品を出品して頂きたいと思い、ご相談にうかがったのです。
丸木夫妻の《沖縄戦の図》に深い感銘を受けたという中川さんは、出品を快諾して下さいました。
会期途中の5月20日から大阪展があるので、BANTAシリーズは5月中旬までの展示になりますが、それとは別に、沖縄戦における「強制集団死」の記憶が残る壕(ガマ)の作品も展示できないかと検討中です。
丸木夫妻の水墨画とジェームス中川さんの写真がならんだ空間は、それぞれの作品が共鳴しながら、さらに迫力を増すことでしょう。
今回の展覧会における大きな核となりそうです。
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2010/1/20

埼玉新聞「没後10年 丸木俊展」掲載  掲載雑誌・新聞

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本日の『埼玉新聞』県西版に「俊さんの画業再び」との見出しで、「没後10年 丸木俊展」がカラー写真入りで紹介されました。
http://www.saitama-np.co.jp/news01/20/04.html

今展で初公開となる《女性像》(1935年頃)と《モスクワ アパートへ向かう並木道》(1937年頃)の俊さんの20代の頃の作品2点について「学校を卒業したころの若き日の作風を伝える貴重な作品」と紹介されています。
写真に大きく写っているのは晩年の作品《つつじのむすめ》と《飛天》で、俊さんと交流のあった東久留米市在住の歌人のKさんの所蔵作品です。

『埼玉新聞』の同ページ情報欄には23日(土)午後1時から行われる映画上映会「山のかなた」の情報も掲載され、1面の新聞ロゴ下のインデックス欄にも丸木俊展記事の見出しが紹介されるなど、今回はかなり注目度の高い扱いになっていました。
取材して下さったA記者、どうもありがとうございます。

連日の寒さで館内はかなり冷え込んでいますが、このところの報道効果か、今日も多くの方が来館して下さっています。
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2010/1/17

埼玉新聞・北海道新聞取材  来客・取材

今日もまた、NHKニュースの影響で問い合わせと来館者の多い一日になりました。

午前中、埼玉新聞A記者が「没後10年 丸木俊展」の取材に来て下さいました。
毎回企画展に足を運んで下さるA記者は本当に心強い存在です。
企画の見どころをお話しした後、会場の写真を撮影。
「どの作品の前で撮りましょうか」とAさんから質問され、晩年の俊さんと親交のあった歌人Kさんからお借りした《飛天》の掛軸を選ぶことにしました。

今回の企画展では、すでに朝日新聞で版画家Uさんから寄贈された初公開作品《女性像》が紹介され、NHKのニュースで「アトリエ村の小さな画廊」Iさんからお借りした《ロシア人形》が紹介されています。
これで埼玉新聞に《飛天》が掲載されれば、ひととおりお世話になった方の作品がメディアで紹介されることになるので、企画側としては心安らかになれそうです。

   *   *   *

午後には北海道新聞K編集委員が来館して下さいました。
このところ調査が進んでいる1950年代はじめの原爆の図巡回展の北海道の足どりを取材するためです。
以前にも紹介しましたが、丸木夫妻は1951年10月29日に開幕した室蘭展をはじめに、旭川、札幌、秩父別、函館と《原爆の図》5部作を持って巡回しています。俊の回想にもこの5会場のことが登場するのですが、最近になってその後も《原爆の図》が北海道で巡回を続け、1952年のはじめに美唄炭鉱や釧路で展覧会をしていたことがわかってきました。

しかし、当時の原爆の図展(原爆展、総合原爆展の呼称もあり)は、占領軍にマークされており、新聞にもほとんど報道されず、主催者の記録も(おそらくは意図的に)残されていません。
そのため、展覧会の足どりを掘り起こすには、地元の方々の記憶を頼りながら、わずかな記録をつなげていくよりほかに手立てがないのです。
現在、美唄市のSさんはじめ北海道在住の数人の方が調査に協力して下さっていますが、北海道新聞が大々的に取り上げてくれれば、あらたな情報が寄せられるかもしれません。

1950年代はじめの原爆の図展は、米軍占領下において原爆の被害状況を一般の人たちに伝えた最初期の試みであり、個別に分断された戦争の記憶をつなげる貴重な役割を担いました。
文化サークルや労働組合、学校、行政、宗教団体、商業施設など、さまざまな立場の組織や人びとが展覧会に協力し、その動員力が高い商業価値を備えていたことも特筆されます。

近年、再評価の動きが高まりつつある1950年代の文化運動のなかでも重要な柱のひとつとして、原爆の図展はこれから注目されていくのではないかと思います。
北海道新聞の記事、そしてその反響に期待したいところです。
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2010/1/16

美術館クラブ「チビタイルであそぼ」  ワークショップ

毎月1度の工作教室「丸木美術館クラブ」ワークショップ。
今回は石塚悦子さんを案内人に、小さなタイルにボタンやビーズなどを貼って、かわいい壁かけを作りました。

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参加者は8人ほど。みんな一所懸命に工作に取り組んでいました。

   *   *   *

NHKニュースの影響で、電話の問い合わせや「テレビを観ました」という来館者の方も多く、窓口の対応の忙しい一日でした。
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2010/1/15

「没後10年丸木俊展」NHKニュース放送  TV・ラジオ放送

朝いちばんでNHKさいたま放送局のHディレクターとカメラマンの方々が来館され、「没後10年丸木俊展」の撮影を行いました。

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会場風景のほかに、撮影した作品は《パラオ島》(1940年)と《ロシア人形》(1960年頃)。
どちらも《原爆の図》のイメージとは異なる、俊さんの鮮やかな色彩感覚や繊細な表現力がよくあらわれた魅力的な作品です。

映像は中継車を経由してすぐに放送局へ送られ、さっそく正午すぎの首都圏ニュースで放送。午後3時のニュースでも再度放送されました。
http://www.nhk.or.jp/saitama-news/20100115132633_01.html

放送地域は首都圏のみ、それも1分程度の短い放送でしたが、すぐに電話の問い合わせや「テレビを観ました」という来館者があり、あらためてテレビの影響力の大きさを感じました。
本当にありがたいことです。
「没後10年丸木俊展」、新聞やテレビなどでじわじわと浸透しつつあるようで、うれしい限りです。
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2010/1/14

弘前大Sさんなど来館  来客・取材

本日は来客の多い一日でした。
まず午前中から弘前大学国際交流センターのSさんが来館。
ニュージーランド人のSさんは、丸木俊の絵本の研究者で、戦中期の南洋の絵本に画家としての俊さんを読み説くカギがあるのではないかと考え、以前からたびたび質問などを寄せて下さっていました。
今回の訪問の目的は、南洋時代の俊さんのデッサンを観ること。当時発行された絵本にどのようにデッサンが生かされているのか、現地の人の視線に寄り添うようにして描かれた絵から、俊さんのどのような思いが読み取れるのかを調べに、わざわざ弘前から足を運んで下さったのです。
「後に俊さんは、戦争に協力する絵本を描いてしまったと懺悔しているけれども、当時の絵本の絵そのものを丁寧に見ていったり、エッセイを読んだりすると、とても戦争協力をしたとは感じられない。むしろあの時代によくこれだけ勇気のある文章を書けたなと驚きますよね!」と明るい笑顔で話して下さるSさん。
植民支配をしている日本人の側に立たず、あくまで現地の人の視線で絵や文章を描く俊さんの姿勢には、私も強く共感していたので、Sさんの指摘はとても嬉しく思いました。

   *   *   *

昼にはテレビ埼玉が「没後10年 丸木俊展」を取材。まだ放送日は決まっていませんが、近いうちにニュース番組のなかで展覧会の様子を映して下さるそうです。
年が明けてから、急にマスメディア関係者から問い合わせが相次ぐようになりました。
明日の『週刊金曜日』には企画展の案内情報が掲載される予定です。また、NHKさいたま放送局のHさんが取材に来て下さるとのこと。
昨日は朝日新聞のO記者と埼玉新聞のA記者も来館して下さったそうです。

   *   *   *

午後には学芸員実習希望の日本女子大のIさんが来館されました。
Iさんは5月1日から7日まで丸木美術館で実習を行います。
また、8月1日から10日までは跡見学園女子大のSさん、Kさんが実習を行う予定で、いまのところ来年度の実習希望者は3名となっています。
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2010/1/13

吾野・嘉手川繁夫さん訪問  企画展

4月から開催予定の沖縄展の準備のため、西武秩父線吾野駅にほど近い、嘉手川繁夫さんのお住まいを訪れました。嘉手川さんは沖縄出身の画家・彫刻家です。
神社のわきの坂をのぼった高台にあるお住まいを訪ねると、まずは室内に所狭しとならんだ江戸時代の古民具コレクションにびっくり。その古民具に調和するように、嘉手川さんの強烈な色彩と生命力を感じさせる作品が置かれています。

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嘉手川繁夫さんは2008年夏に沖縄県立博物館・美術館で個展を行いました。
亜熱帯植物を思わせる装飾的な絵画の生命力の根源には、沖縄戦の記憶が流れているという嘉手川さん。鉄を用いた立体造形では、対照的に鋭い刃物が取り入れられ、その刃先を環が包み込むという作品を制作しています。環は平和を象徴しているそうです。

今回の丸木美術館での展覧会は、《原爆の図》から《沖縄戦の図》に続く丸木夫妻の共同制作の思考の過程を追いながら、沖縄出身の芸術家の沖縄へ向けるまなざしも交錯させるという試みになります。
沖縄出身の芸術家の作品の多くは、沖縄の佐喜眞美術館からお借りしてくるのですが、そのなかに、嘉手川さんの立体と油彩画の作品も加わる予定です。
スケールの大きな嘉手川さんの作品は、丸木美術館の天井の高い展示室にもよく映えることでしょう。

温かく迎えて下さった嘉手川さんご夫婦にあらためて御礼を申し上げます。
4月からの沖縄展がますます楽しみになりました。
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