2009/11/29

親江会・日本児童文学者協会など来館  来客・取材

秋も深まり、丸木美術館の前のメタセコイアが燃えるような色で天を突いています。

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日曜日は、午前中から江戸川区の被爆者団体・親江会のみなさんや、日本児童文学者協会のグループが来館され、賑やかな一日となりました。

予報では、冷え込むのではないか、雨が降るのではないかと心配していましたが、思ったほどの冷え込みもなく、午後には晴れ間ものぞき、暖房のない美術館としては少し安堵しました。
館内説明をしたり、喫茶のサービスをしたり……ちょうど美術館主催の1泊2日の足尾ツアーの最中だったので、手薄なスタッフが慌ただしく時間を過ごしているときに、川越のMさん・Hさん姉妹が偶然来館。館内説明のときに事務所の留守番をして下さって、たいへん助かりました。

団体が一段落したころ、元実習生のMくんが友だち2人を連れて来館。土曜日にも元実習生のSさんが夫と子どもを連れて3人で来館してくれましたが、こうして元実習生が訪ねて来てくれるのは嬉しいものです。2人とも「中村正義展」が見たくて……と言ってくれたので、企画展効果も大きかったようです。
その後、先日特別講義を行った大東文化大学から、4年生のNさんが来館。Nさんは卒業論文に“絵本から平和を学ぶ”というテーマを取り上げたいとのことで、館内を見学した後、いろいろと絵本についてのお話をしました。

来客の多い一日は、忙しいですが、とても充実感があります。
足尾ツアーの方も大成功だったようで、良かったです。
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2009/11/27

目黒区立美術館「‘文化資源’としての〈炭鉱〉展」  他館企画など

午後は、目黒区立美術館で開催されている「‘文化資源’としての〈炭鉱〉展」を観に行きました。

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私も(少しだけ)展覧会に協力したので、図録の片隅に協力者として名前が載っているのですが、この図録が400ページを超える(しかも文章が多い)非常に濃厚な内容で、今後、日本の炭鉱文化を振り返る上で貴重な基礎資料となっていくことでしょう。
企画者であるM学芸員の凄まじい仕事ぶりには、ただただ圧倒されます。

展覧会は以下の3つに分かれています。
Part.1-〈ヤマ〉の美術・写真・グラフィック(目黒区美術館1階・2階展示室)
Part.2-川俣正コールマイン・プロジェクト(目黒区民ギャラリー)
Part.3-特集上映〈映像の中の炭鉱〉(ポレポレ東中野)


全貌を観るためには、相当の覚悟と時間を必要とするでしょう。映画館と美術館のタイアップと言うのも、前例のないことだそうです。

目黒区美術館の1階は「炭鉱と美術」の展示ではじまります。
全国各地の炭鉱を渡り歩いて働き、炭鉱記録画を描いた井上為次郎の、端正な線描によるエロティックな「炭鉱風俗」が目をひきます。上半身を露わにした女坑夫の絵が多く、「坑内出産」の絵もありました。
筑豊炭坑労働者の機関誌『サークル村』に携わった上野英信や千田梅二、上田博の力強い木版画や幻灯フィルムも見ることができます。
そして、山本作兵衛の尋常ならざる執念を感じさせる凄まじい量の炭鉱記録画に圧倒されます。墨や水彩が用いられ、絵には詳細な説明文も書きこまれています。同じ題材を繰り返し作品化しているものもありますが、坑内の仕事の様子から刺青、喧嘩、共同浴場、ミセシメ、朝鮮人飴売り、子どもの遊びなどあらゆる炭鉱風俗史が記録されています。
「絵などといえるもんじゃござっせん。ヤマの下罪人のぶざまな一生の記録にすぎまっせんたい。ただ、炭鉱を知らん孫たちにかき残しておこうと思うて」とは、作者の残した言葉。絵の向こう側、地底の奥底から、日本の近代化を支え、そして現在忘れ去られようとしている無名の人びとの声がこだまするような、圧倒的な作品群です。

2階に上がると、野見山暁治、立石大河亜ら筑豊出身の画家たちの油彩画がならび、そして常磐地区や空知地区の〈炭鉱美術家〉たちの作品、あるいは外部から炭鉱に入って取材した富山妙子、池田龍雄ら美術家の作品、風間完による五木寛之『青春の門』挿画、黒田征太郎の筑豊ライブペインティング、岡部昌生のフロッタ―ジュ作品《ユウバリマトリックス》、佐藤忠良の彫刻《常盤の大工》、横山操の大作《夕張》、詩人の吉増剛造の写真や詩の朗読など、あげていけばきりがないほど多数の、そして多様な作品が展示され、炭鉱文化の“鉱脈”の深さを物語っています。

また、「炭鉱と写真」の展示では、土門拳の代表作『筑豊の子どもたち』をはじめ、奈良原一高、本橋成一ら錚々たる写真家の作品が印象に残りました。
ひときわ存在感があったのは、年輪のように深い皺に刻まれた元女坑夫たちが晴れやかな表情でほほ笑んでいる写真とともに、彼女たちの生きた苦難の日々を力強い方言で語る談話が添えられた田嶋雅巳の『炭鉱美人』。
それまで繰り返し見ていた美術表現のなかから、本物の女坑夫たちが抜け出して迎えてくれたようで、そのリアリティには打たれたような感動を覚えました。

目黒区美術館の展示は12月27日まで。
http://www.mmat.jp/event/tanko/part1.html

ポレポレ東中野では11月28日から12月11日まで、特集上映「映像の中の炭鉱」が行われます。
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

   *   *   *

展覧会を観た後は、M学芸員の仕事場におじゃましてご挨拶。
炭鉱展には、三菱美唄美術サークルの白田良夫、坪川光男、平山康勝、前田常男、鷲見哲彦の5人の画家の共同制作『習作 人民裁判記録画』(1950年)が出品されているのですが、この三菱美唄の労働組合本部で1951年秋頃に「総合原爆展」が開かれ、看板を前にサークルの人たちが並んでいる写真も現存するとのご教示を頂きました。
丸木夫妻の回想には美唄の原爆展は登場していませんが、1951年の11月には室蘭や札幌、旭川、秩父別、函館などを巡る《原爆の図》北海道巡回展が開催されています。
おそらくはその前後に、美唄にも巡回していたのでしょう。
この情報については、もう少し詳しく調査を進めたいと思います。
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2009/11/27

埼玉県立近代美術館「ロシアの夢 1917-1937」  他館企画など

美術館の休みをもらって、午前中に埼玉県立近代美術館で開催中の「ロシアの夢 1917-1937」を観に行きました。

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埼玉近美では、今年の2月に絵画を中心とした「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を開催していますが、今回はポスターや雑誌、食器などの生活品や絵本、演劇、建築、衣装などを中心にしたデザインの展覧会です。

20世紀のはじめ、「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる、古い伝統を打ち壊す芸術の革命がロシアを舞台に沸き起こりました。その芸術革命は世界に衝撃を与え、やがて1917年のロシア革命が起こると、多くの芸術家が革命政府に加わります。
革命思想を広大な国土に浸透させるため、芸術家は政治宣伝と前衛芸術の融合に献身的に取り組み、斬新で刺激的な表現を次々と生み出しました。やがてその活動は、新しい生活の建設/増産・工業化という課題に向かって発展します。
しかし、革命20周年にあたる1937年からはじまったスターリンの大粛清によって、ユートピアの夢は儚く消えました。芸術家たちの多くは処刑され、あるいは亡命・沈黙を余儀なくされたのです。
時代の熱狂が生み出した芸術の実験を、この展覧会では、時間軸に沿って以下の4つの章に分けて展示しています。

第1章 ぼく自身の革命だ 芸術の革命から政治の革命へ 1913〜1917
第2章 広場はぼくらのパレット 芸術とプロパガンダ 1917〜1921
第3章 生活建設の旗印のもとに ネップ(新経済政策)の時代 1921〜1928
第4章 社会主義リアリズムに向けて 五ヵ年計画の時代 1928〜1937

この時代のロシアについて、個人的に関心があるのは、丸木俊(当時は赤松俊子)が、1937年の5月から翌年4月にかけて、通訳官の子どもの家庭教師としてモスクワに滞在(1941年1月から6月にも、外交官の子どもの家庭教師として再びモスクワに滞在)していることです。
会場に展示されたポスターや雑誌、生活品のデザインなどを見ながら、俊さんも体験したであろう「革命の時代」に思いをはせました。
1937年という年は、スターリンの粛清によって、一説によると90万人以上の逮捕者が出たと言われています。俊さんはそのまっただなかにモスクワで暮らしていたわけですが、雑誌等に発表した文章や当時の日記を見ても、粛清を感じさせる記述は残されていません。外国のエリート官僚の家庭教師には、ソヴィエト政権の闇の部分は目に入ることがなかったのでしょうか。

当時のロシアの芸術に関する感想は、特に2度目のモスクワ行きとなった1941年の滞在以降に、いくつか見ることができます。
たとえば、1941年3月17日にモスクワで現代作家の展覧会を観て、日記に書きつけた感想メモ。

ソビエット現代進々作家展覧会といふのかな。
特に若い人々の展覽会であつた。
所々にスターリン、レニンのゑがあるが、ゴリキーがスターリンなどに自分の作品を朗讀して聞かせてゐたりすると言つた作品であつて、宣傳的な空氣はづゝと少なくなつてゐる。そうして、こうした作品の製作態度と手法をギン味するといふ氣持がでて來てゐるため作品をづゝと和らげてゐるし、観賞者へ餘祐を与へるのである。もう宣傳画としてよりも歴史画として一歩をふみ出してゐるのであらうか。
手法は、革命当時の荒々しいセザニズムの風が下火になつて、レンブラントの光にたよつたり。又はこの國の革命前のレピンなどの冩實風、物質感を追求した先人たちの後を追はうとしてゐる。
これは、この展覽会ばかりではなく、先日開催された『ソビエット美術展』の時にも言ふことができるし、これをまあ、宣傳画、つまり、イデオロギーを食んだこの國一般の絵画の動向とみなしてもよいのではないかと思ふ。
            

1942年5月に『生活美術』という雑誌に掲載された「ロシアに在るフランスの現代繪畫」という文章にも、ロシア美術の当時の状況についての興味深い感想が記されています。以下はその一部の抜粋。

ツレチャコフスキー美術館は、古代から現代に至るまでのロシア美術を集めたもので、時代別の陳列法は、ロシア美術の發達状態が讀まれます。キリスト教美術であつた時代、特権階級のための美術であつた時代、或は文學と結びついて多分に物語り風な美術が作られた時代、かうして時代の移るにしたがひ、キリスト教と共に移入した南ヨーロッパの影響から次第に離れて、北歐人らしい、しかもロシア人の血から出たやうな美術を生むやうになり、その油つこい寫實力は他に類のないものだと思ひます。その後の革命運動と結びついてから美術も文學的美術時代の延長期とみてよく、材料も油繪具を捨て、大衆に手近のエツチング、木炭畫、ペン畫などが用ひられてゐる。すぎまじい寫實力に言はせて、息づまる程の迫力を持つた作品が生れてゐる。この迫力を持つて當時の大衆を指導し感動させずには置かなかつたであらうことは一つ一つうなづかれるのです。この時代をこの國の美術の一つの興隆期とみてよからうと思ひます。それなのに、どういふことでせう一度彼等の目的が達成し、革命が成立すると、美術はガタ落ちなのです。政府は太鼓を打つてこれ等の美術家をはげまし、擁護してゐるにもかゝわらず。レーニン像が魂のない手を振り上げて居り、スターリンが二百號大の顔で笑つてゐたり。

同時代を生きる芸術家の直観として、革命の昂揚期を経た後のロシア美術の停滞感(これはもちろん、前衛芸術への粛清・抑圧が影響しているのでしょう)を見抜いていたことが感じられます。当時の俊さんにとってのモスクワ体験は、社会主義リアリズムよりも西洋芸術への入口として、とりわけゴーギャンらの印象主義の絵画を直接目で見ることへの関心の方が大きかったのでしょう。一方で絵本や舞台美術などの前衛デザインには強い影響を受け、数年後の南洋絵本や装丁などの仕事に結びついていくのですが。

ともあれ、2月の「青春のロシア・アヴァンギャルド」展と今回の「ロシアの夢」展を観ることで、当時のロシア芸術の動向を多角的に知ることのできる、とても貴重な企画でした。
「ロシアの夢 1917-1937」展の会期は、12月6日まで。
http://www.momas.jp/3.htm
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2009/11/26

大東文化大学「平和学B」聴講  講演・発表

夕方、少し早めに美術館を出て、先週特別講義を行った大東文化大学「平和学B」のS先生の授業に参加させてもらいました。
先週の第1部《幽霊》鑑賞に続く今回の授業のテーマは《原爆の図》のその後の展開。
学生たちと机を並べて聴講するのは久しぶりで、新鮮な気持ちにさせられます。

S先生はまず、先週の授業の意味を学生たちに語りかけました。
一人で絵を観るだけではなく、集団的対話をすることで、自分の気づかない側面に気づいたり、自分と同じ意見を持つ他人の考えを確認する。あるいは、担当教員や学芸員を媒介にして作品世界や歴史的背景を認識する。そのプロセスによって深めていった価値観や発想を「共有」することが、「文化的平和(直接的暴力や構造的暴力を不当なものとみなし、共感・共存・調和を促進する価値観・態度・思考様式・信念体系)」の重要な点だとS先生は強調します。

初期の《原爆の図》が描かれた1950年は、日本が占領軍の統治下にあり、原爆の被害写真や情報の公開が禁じられている時代でした。情報が「共有」されていなかったということは、被爆体験者と非体験者が、あるいは被爆体験者同士でさえもが、「分断」されていたことを意味します。
《原爆の図》とその巡回展は、原爆の記憶を「共有」する場と時間を作ることで、「分断」されていた人びとをつなげていく役割を果たしたのではないかというのがS先生の興味深い指摘でした。

そしてもちろん現在も、私たちは作品を通じて背後にある当時の人たちの歴史的な体験を同時に見ることで、時間を越えてつながるきっかけを得ているわけです。

S先生の平和学/平和博物館に関する授業は、丸木美術館とも直接深く関わってくる内容なので、とても勉強になります。
ふだん自分が話していること、考えていることが、S先生によって再構成され、新たな視点で提示されるため、再考させられることも多々ありました。
「これからも、ぜひ参加してください」とS先生。
本当にありがたいお言葉です。ぜひ連携を深めていきたいと思います。
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2009/11/21

江戸川原爆犠牲者追悼碑  調査・旅行・出張

東京・江戸川区の地下鉄東西線葛西駅から北へ徒歩5分。
江戸川区立滝野公園という緑豊かな公園の一角に、縦横約2mほどの大きな自然石による「原爆犠牲者追悼碑」が建っています。

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この追悼碑は、江戸川区内に住む被爆者や多くの市民によって、1981年7月に建てられました。広島、長崎という被爆地以外で、市民や行政が一体となって「原爆犠牲者追悼碑」を建てるというのは、他にほとんど例がないそうです。

かねてから、追悼碑の建立に尽力された江戸川区の被爆者団体・親江会の会長で、丸木美術館顧問のGさんに「追悼碑を見に来て下さい」とお誘いを受けていたのですが、この日の午後、ようやく訪れることができました。
さいわい天気は快晴、コートを着ていると汗ばむほどの温かい日で、Gさんはじめ親江会の方が追悼碑を案内して下さいました。

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石碑には、丸木夫妻が下絵を描き、親江会の皆さんが自分たちの手で彫ったという平和の鳩の母子像が刻まれています。
Gさんのお話によると、追悼碑を立てるという案が出て、丸木夫妻に絵を描いて欲しいと相談に行った際、俊さんから「まず石を選びなさい。絵は私たちが描くから、石は自分たちで彫りなさい」と言われ、石屋に彫ってもらうものとばかり思っていたGさんは、とても驚いたそうです。
石屋さんが四国から運んできた自然石には、まず俊さんが母子像を描き、位里さんがそのまわりを囲むように鳩を描きました。その後、「ちょっと寂しいな」と俊さんが絵の上に花を描き添えて、下絵は完成しました。
それから親江会の皆さんは、週末ごとに集まって、朝から夕方まで石を彫り続けました。
ところによってはとても硬くて彫るのに苦労した部分もありましたが、石碑は無事に完成。丸木夫妻のアドバイスを得て、母子像は朱、鳩は白、夫妻の署名は黒で色を塗りました。
「自分たちで彫ったおかげで、とても良いものになりました」とGさんは笑顔で語ります。
「丸木夫妻は、それまで、平和の鳩のなかに赤ん坊の絵を描いていました。私たちは、大きな石碑を作りたいので母子像を描いて下さいと俊さんにお願いしたので、もしかしたら、平和の鳩の母子像はこの追悼碑がきっかけで生まれたのではないかしら」という貴重な証言まで聞かせて下さいました。

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指で表面のくぼみをたどると、いまだ生々しい彫り跡のひとつひとつを通って、この石碑に関わった方々の思いが伝わってくるような、温かい気持ちにさせられます。
追悼碑に向かって手を合わせると、そのまま広島、長崎の方向に向かって祈ることができるように建てられていると、後から教えて頂きました。

石碑の前には、次のような「建立のことば」の碑が建てられています。


 建立のことば

 一九四五年八月六日・九日、広島と長崎に原爆が投下され、一瞬にして数十万人の生命が消えました。
 炎天下、水を求めながら亡くなった人たちに、どうぞ、あなたの手で一ぱいの清水をたむけてください。
 この碑の建立にあたっては「原爆の図」の作者丸木位里・俊夫妻が絵筆をとり、江戸川在住の被爆者二百余名と区民がノミをふるい、多くの人の協力がありました。
 原爆は人が落とさなければ落ちてきません
 この碑によせる人びとの心が平和の礎となることを念じて

 一九八一年七月二六日
 江戸川区に原爆犠牲者追悼碑を建立する会



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追悼碑建立の翌年には、広島市と長崎市から原爆の熱線に焼かれた「原爆瓦」が寄贈され、追悼碑のために切り落とされた自然石の下の部分を使って、追悼碑の隣に並べられました。
瓦は、爆心地の川底に埋まれていたものを、広島・長崎の子どもたちや市民の手で掘りだされたものだそうです。

その後、Gさんたちは区長にお願いして噴水を設置し、1日2回、8時15分と11時2分(広島と長崎に原爆が落とされた時刻)に追悼碑に水がかけられるようにしました。そこには、水を求めて亡くなった原爆犠牲者の苦しみを、少しでも和らげてあげたいという祈りが込められています。
この日は見ることができませんでしたが、水をかけられた自然石は、表面が洗われて、きれいな緑色になるそうです。

現在の追悼碑のまわりには、平和の鐘や千羽鶴棚が作られ、2007年には江戸川区に縁のある原爆犠牲者の名簿が刻まれた「追悼碑に眠る方たち」の碑も建てられました。

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Gさんは、「追悼碑に眠る方たち」の碑に刻まれた名前をひとつひとつ指でたどりながら、「この方は『建立のことば』の文字を書いて下さった当時の会長さん。この方は戦争中に軍隊のラッパ手をしていて、最初の式典で俊さんと桐笛の共演をされた方。この方たちは韓国人被爆者のご家族……ここへ来ると、亡くなられた関係者のことを思い出します。名前があるというのはいいですね」とおっしゃっていました。

追悼碑のまわりには、広島市から贈られたクスノキ(広島市の木)、長崎市から贈られたナンキンハゼ(長崎市の木)が、これらの碑を守るように立派に生い茂っています。
少し離れたところには、広島の爆心地から1.5kmの地点で被爆したアオギリの種から育てた被爆二世アオギリも植えられています。今年は初めて種が採れたとのことで、いよいよ被爆三世のアオギリが育ちはじめるようです。

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写真は被爆二世アオギリを見上げる親江会の皆さん。一番右がGさんです。

Gさんたちが「原爆犠牲者追悼碑」を建てたいと思ったとき、当時の江戸川区長は理解を示し、「区立公園ならどこに建ててもよい」と言ってくれたそうです。
そのとき滝野公園を選んだのは、区民館や駅からも近く、まだ何もない公園だったから、自分たちで育てていける、と思ったのが理由だったとのこと。
その思いの通り、追悼碑は多くの人の支援を得て、少しずつ育ち、形を整えていきました。
毎年7月下旬の日曜日には「江戸川区原爆犠牲者追悼式」が行われ、多くの方が参加して平和への思いをあらたにしています。

「はじめは壊されたり、いたずらされたりするんじゃないかと心配したけど、皆さん大事にして下さっていますね」とGさん。
「ついこの間、地元で葛西祭りというのがあって、滝野公園にも出店がいっぱい並んでいました。親江会でも追悼碑の前にテントを出すのですが、公園が人であふれるので、子どもたちは、石碑や噴水の上によじ登ったり、座ったりするんです。でも、それもいいのかなと思いますね。公園で暮らすホームレスの方が、通りすがりの人に追悼碑の説明をするのを見たこともあります。いろんな形で、この追悼碑は地域に溶け込んでいるんですね」と親江会のNさん。
ぼくが説明を聞いている間にも、お母さんに連れられてきた女の子が追悼碑の前で手を合わせ、軽やかに走り去って行きました。

時間も場所も遠く離れたところで、広島・長崎に思いをはせる。
日常のなかにそんな場所があるということの意味が、心のなかに深く沁み込み、この追悼碑が、これからも地域の方々に大切に守られていって欲しいと心から思いました。

親江会の皆さんは、次の週末に丸木美術館まで見学に来て下さいます。
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2009/11/19

大東文化大学「平和学B」特別講義  講演・発表

昨年に続き、今年も大東文化大学S先生にお招きいただいて、「平和学B」の授業で特別講義を行いました。
昨年の講義の様子は以下の通り。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1075.html

原爆の図第1部《幽霊》の原寸大複製画をコミュニティ・ギャラリーに展示して、午後4時40分から授業開始。
昨年と同様に、まずは絵の説明をせず、とにかくじっくりと時間をかけて作品を見てもらいます。

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遠くから離れて観たり、近づいて一人一人の描かれた人間の姿を丹念に見つめたり。
絵の中から、何が読み取れるか。
絵の中に、どんな物語がひそんでいるか。
想像力を広げながら、それぞれが《原爆の図》と対話をする時間です。

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絵を観た後は、ひとりひとりの学生に、短い感想を話してもらいます。
どんなことでもいいから、授業に参加した学生全員が話せるように時間をとります。
同じ絵を観ても、感じたことは皆それぞれ違います。
そして、その感想に答えながら、少しずつ《原爆の図》を読み解いていくのです。
学生たちの感想を引き出しているようで、解説をする自分のなかの蓄積も引き出されていくような、ちょっと不思議な関係が成り立ちます。
解説する側は瞬発力が必要で大変なのですが、S先生は、そのやりとりを面白いと思って下さっているようです。

学生の感想は「当時の人は、この絵を観て現実にあったことだと信じられたのだろうか」「人物の黒と背景の白のコントラストが原爆の凄まじさを物語っている」「猫が描かれているのを見て、原爆で死んだのは人間だけではないと気づいた」「妊婦の姿を描いているのは、原爆が現在の命だけではなく未来の命も奪ってしまったことを表現しているのではないか」など、さまざまなものが出てきました。

今回、解説をする上で学生たちに伝えた重要なポイントは2点。
ひとつは、《原爆の図》にはキノコ雲などの背景が省略され、傷つけられた側の人間の肉体の痛みが集中的に描かれていること。過去の歴史や戦争を振り返るとき、その痛みを想像することはとても重要だということ。
もうひとつは、この絵画が、無数の被爆体験者の記憶の集積であり、丸木夫妻はその器のような役割を果たしていること。そのため、戦争を知らない世代が過去の戦争の記憶を追体験しようとするとき、《原爆の図》は記憶の窓のような役割を果たすのではないか、ということ。

《原爆の図》をはじめて観た当時の人が、「大袈裟に描いたのではないか」とにわかに信じられなかったように、体験者と非体験者のあいだには、決して埋めることのできない壁があります。
私たちも、どんなに想像力を広げても簡単に「理解した」気持ちになってはいけないと思います。
そうした不可能の壁は、丸木夫妻も痛切に感じたことでしょう。
それでもなお、筆をとり続け、描かずにはいられなかった丸木夫妻の作品から、私たちが何を読み取るべきなのか。
この日の授業に参加した学生たちも、それぞれに思いを深めてくれたように感じます。
(写真提供:杉田明宏氏)
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2009/11/16

唐子地区ホタルの里竹林整備  自然・生きものたち

休館日の月曜日ですが、朝から唐子地区のホタルの里の整備をお手伝いしました。
この日は、竹林の竹を伐り出し、枝を落として一定の間隔に分断してまとめる作業をしました。
地元の人や市の環境保全課の職員たち20数人が一斉に作業をするので、どんどん整備が進んでいきます。

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事務局のN野さんも、オレンジのコートを着て大張りきり。

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慌ただしく動き回る人びとの様子を、どこからか迷いこんできたチャボが見つめています。

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2時間後、竹林はすっかり明るく気持ちの良い空間になりました。

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一方、道路わきには伐られた竹が大量に積み上げられました。

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作業の後は、地元農家の女性たちが握って下さった美味しいおにぎりが!!

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実はこのおにぎり、被爆稲のお米を使っているのです。
今年の春、環境保全課のK藤さんが地元農家の方にお願いして栽培をはじめた長崎の被爆稲。丸木美術館でも少し栽培していたのですが、唐子の農家のお宅では、なんと40kmも収穫をしたのこと。放射能による突然変異で「それほど収獲は期待できない」と言われていたものの、唐子の豊かな土地のおかげでしょうか、大豊作になりました。
梅、ごま、ねぎ味噌……いろいろな種類のおにぎりが用意され、とても美味しく頂きました。

ホタルの里の事業は、丸木美術館にとって、地元の皆さんとつながりを深めることのできる貴重な機会です。
いっしょに汗を流して、美味しいものを食べて、他愛のない会話をする。
何でもないようなことですが、そのたびに唐子の皆さんの笑顔に心が温まります。
皆さん本当にお疲れさまでした。
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2009/11/15

第五福竜丸展示館との交流会  ボランティア

今日は東京・江東区にある都立第五福竜丸展示館のボランティアの皆さんが、バスに乗って丸木美術館に来て下さいました。
第五福竜丸展示館は、ご存知の通り、1954年3月1日にビキニ環礁でのアメリカ水爆実験により被災したマグロ漁船「第五福竜丸」の船体の保存と資料の展示を行っている施設。
ボランティアの皆さんは、展示館に来館する団体に説明を行うなど、熱心な活動をされています。
事務局長のY田さんには、平和のための博物館全国ネットワークなどで、たびたびお世話になっています。とても行動的で、人脈の広い方です。

今日は丸木美術館を見学した後、流々庵にて丸木美術館のボランティアと交流会を行いました。

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M年山さん夫妻が昼食に美味しいカレーと、交流会用の軽食を用意して下さいました。
交流会では、第五福竜丸展示館のバスに同乗してきたT田理事が司会を務め、お互いの館の仕事の内容を話したり、それぞれの課題を認識したり……それほど長い時間ではなかったのですが、とても刺激のある有意義な内容になったと思います。

第五福竜丸展示館の皆さま、遠いところまでご来館下さり、本当にありがとうございました。
「今度はぜひ、丸木美術館が第五福竜丸展示館へ!」という声も出ていました。
ぜひ実現したいと思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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2009/11/15

美術館クラブ「名前をアートするって楽しいぞ」  ワークショップ

毎月一度の美術工作教室「丸木美術館クラブ」ワークショップ。
今月は「名前をアートするって楽しいぞ」と題し、画家の谷口幹郎さんが案内をして下さいました。
企画のM年山さんが額屋さんからもらってきた角切りにしたマットの余りに、一枚一文字で名前を書き、それを楽しくデザインして竹に貼りつける、という工作です。
竹は、地元のホタルの里で伐ったものを、環境保全課のK島さんがM年山さんの注文通りに一所懸命切り分けました。K島さんいつもありがとうございます。
名前の文字は、大人は漢字で書きますが、子どもはひらがなで書くことにしました。

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よく見ると、名前ではなくて、お正月の飾りを書いている人もいました。
面白いアイディアです。

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いろいろな楽しい作品ができました。

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工作の後は、妻Tの差し入れのアップルパイをみんなで食べました。
アップルパイに使ったリンゴは、評議員のS藤Y子さんが送って下さったものです。
とても美味しいリンゴでした。

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S藤さん、どうもありがとうございました。

次回の美術館クラブ工作教室は、12月12日(土)、本川なおこさんの案内で、「びっくりクリスマスグッズ作り」です。
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2009/11/12

『ミュゼ』第90号「ボランティア特集」  掲載雑誌・新聞

『ミュゼ』という雑誌があります。
“ミュージアムを「自分化」するための博物館・美術館ジャーナル”というサブタイトルがついている、とても丁寧な作りの季刊誌です。
その『ミュゼ』編集長のYさんに初めてお会いしたのは、昨年の文化ボランティアフォーラム全国集会でのこと。以来、何度かお会いする機会があって、そのたびに「丸木美術館のボランティアのことを取材させてください」と言われていました。

今年の8月6日の“ひろしま忌”。
ついにY編集長が丸木美術館に取材に来て下さいました。
本来なら、「うちの美術館のボランティアはこういう活動をしているんですよ」とご案内できればよいのですが、何しろ“ひろしま忌”は一年でもっとも大切なイベント。職員も朝から飛びまわっています。Y編集長に挨拶をしているうちにも、ボランティアスタッフから声をかけられ、いつの間にか仕事に駆け回ることに。
いったい誰が職員で、ボランティアで、お客さんなのか。きっとY編集長は呆然と目の前の喧騒を眺めていたことでしょう。
「また取材に来ます」と帰っていくY編集長の後ろ姿を眺めながら、次はきちんとお相手をしなければ、と思ったのですが……

次にY編集長が取材に来られたのは、反核反戦展の展示替えの日でした。
その日も何かと慌ただしく、結局、ボランティアの皆さんを紹介する時間もありませんでした。
Yさん困っただろうな、ちゃんと記事になるのだろうか……と心配していたのですが、本日、『ミュゼ』第90号(2009年10月25日発行)が届いてビックリ!
「それがミュージアムの原点なのか…。〜いわば「神殿」に集う人々がつくりあげていく〜」という特集記事に、丸木美術館のボランティアの実態がとてもわかりやすく紹介されていました。
臨場感ある文章もさることながら、写真の視点がとても温かく、ボランティアの皆さんが生き生きと活動している様子が伝わってきます。

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嬉しくなって、「ミュゼ」をネットで検索すると、Y編集長のブログ「週刊ミュゼ」が見つかりました。
遅まきながら、8月6日の丸木美術館取材記事も拝読しました。
http://blog.livedoor.jp/umproyamashita/archives/51599749.html

細身の体で精力的に取材をされるY編集長、素敵な記事を本当にありがとうございました。

『ミュゼ』第90号はジュンク堂などの書店や各地の美術館・博物館などでご購入いただけます。
ぜひ皆さま、この機会にご一読下さい。
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2009/11/7

天の魚ひとり芝居公演など  イベント

企画展「中村正義展」に関するイベントが目白押しの一日。
集客が心配されましたが、多くの方の口コミ宣伝と、数日前に『朝日新聞』の埼玉マリオン情報欄に掲載されたおかげで、60名を超える参加者が集まりました。

午後1時からは針生一郎館長による「中村正義の真価を語る」と題する講演会。

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「正義とは、無所属の人気作家だったときに出会った」という針生館長。その後の「これが日本画だ!」展や「東京展」などの日本画革新運動に正義とともに深く関わった時代の記憶を、詳しく語って下さいました。
「正義はよく『天下をとる』と言っていたが、それは自分が権力の頂点に立つという意味ではなく、日展を包囲し無化していくというということなのだろう」
「正義には、表現されない隙間に本音が隠されているという思いもある。それがどういうものかはよくわからない」
「天下をとらずにはおかないような本物の狂気を含んだ眼と、結核で手術を繰り返した身体の弱さのギャップに、正義の本当の魅力が潜んでいるかも知れない」
針生館長の訥々と語る言葉のなかから立ちのぼる“正義像”に、参加者の多くはじっと耳をすませて聞き入っていました。

   *   *   *

休憩をはさんで午後3時40分からは、東京・水俣病を告発する会の久保田好生さんが、「水俣病の今」と題して、具体的な数字をあげて現在も続く水俣病被害の実態についてお話をして下さいました。

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久保田さんは、丸木夫妻の「水俣病はゆっくりやってきた原爆」という言葉を引用し、終わることのない汚染の恐ろしさを伝えてくれました。水俣湾の汚染が完全になくなったとは誰にも断言できないこと。そして、人間の肉体はもちろん、地域で長い間守られてきた独自の食文化や生活に深い打撃を与えたことも、決して忘れてはならないと思いました。

   *   *   *

午後4時45分からは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』をもとに故砂田明さんが作りあげたひとり芝居「天の魚」の公演が、丸木美術館隣の野木庵で行われました。出演は、砂田明さんの弟子の川島宏知さんです。

昨日から野木庵につくられた簡易舞台は、江戸時代の農家の面影を残す建物の雰囲気にすっかり馴染んで、水俣の漁師がひとり語りする内容によく似合っていました。

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写真はリハーサルの際に撮影したものです。
川島さんの熱演に、会場に集まった人びとは息を呑んで引きこまれ、公演の終了とともに大きな拍手が沸き起こりました。
「素晴しい空間でした。またいつか再演をさせてください」と笑顔の川島さん。
スタッフの白木さん、小澤さんの手際の良い活躍ぶりも見事でした。
会場の設営を手伝ってくださったボランティアのK林(T)さん、N川さん、ありがとうございました。
ビールケース50個を手配して下さった東松山市環境保全課のK島さんとかしまや酒店さんにも御礼申し上げます。
少人数のスタッフにとっては、正直なところ少々たいへんな部分もあったのですが、皆さまのご協力のおかげで無事に成功させることができました。
本当にありがとうございます。
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2009/11/6

スカラ座カルチャー  川越スカラ座

午後8時からという遅い時間にもかかわらず、川越スカラ座で行ったトーク・イベント「スカラ座カルチャー」に、約30人の方が来て下さいました。
テーマは「芸術が生まれるとき」。
はじめに川越スカラ座でトークを、というお話を聞いた時には、さて何を話そうかととても迷ったのですが、長い歴史のなかでたくさんの人に愛され、守られてきた川越スカラ座という場を考え、「芸術の本質は巨大な殿堂ではなく末端の現場から立ち上る」という話を導入に、「美しいもの、心地よいものだけが芸術ではない」「表現せずにはいられないという衝動」というテーマを中心に話をしてみようと決めました。

大きなスクリーンに画像を投影できるのは、映画館ならではの特長です。
スクリーンの前に立ち、マイクを使って12点の絵画を中心にトークを進めていきました。
以下はそのダイジェスト版です。

   *   *   *

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フランシスコ・デ・ゴヤ《1808年5月3日、プリンシペ・ピオでの銃殺》1814年 マドリッド・プラド美術館蔵

フランシスコ・デ・ゴヤは近代絵画の先駆者と言われる画家。フランス軍の侵攻により虐殺されたスペイン民衆の姿を「描かずにはいられない」衝動を抱えて最初の戦争画と呼ばれる作品に仕上げています。また、宮廷画家でありながら裸婦という当時のタブーに挑んで異端尋問にかけられたこともあります。


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中村正義《ピエロ》1975年 神奈川県立近代美術館蔵

日本でも日展審査員に抜擢されながら裸の舞妓を描いて日展を脱退した画家がいます。中村正義です。「絵はすべて自画像」という信念を持つ彼は、晩年、人間の内面を鋭くえぐりだすような自画像や顔を題材にした連作を繰り返し描き残しました。


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松本竣介《立てる像》1943年 神奈川県立近代美術館蔵

松本竣介も印象的な自画像を描いています。戦争という厳しい時代のなかで、それでも彼は自分の信じる絵画を描かずにはいられませんでした。限られた自由のなかで表現を続けることが、「生きている画家」の証だったのかも知れません。


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靉光《眼のある風景》1938年 東京国立近代美術館蔵

靉光の代表作《眼のある風景》も重苦しい時代を映した心象風景であり、ある意味では自画像でもあったことでしょう。軍隊に召集されることになった彼は、当局に睨まれていたシュルレアリスム風の自作絵画を燃やし、最後に3点の自画像を描き残します。そしてそのまま、敗戦翌年に上海の病院で病死するのです。


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丸木位里・丸木俊《原爆の図 第1部 幽霊》1950年 原爆の図丸木美術館蔵

《原爆の図》を描いた丸木位里・丸木俊もまた、広島の焼け跡のなかで「描かずにはいられない」衝動を覚えたことでしょう。二人は「池袋モンパルナス」と呼ばれたアトリエ村で、靉光たちとともに体験した自由の精神や芸術表現を、敗戦後に継承し深化して行った画家たちです。


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丸木スマ《村の夕暮れ》1954年 原爆の図丸木美術館蔵

広島で被爆を体験した丸木スマは、70歳を過ぎてはじめて絵筆をとり、身近な生きものや花、四季の風景などを伸び伸びと描きました。見る人の心を解きほぐすような温かい作品には、スマが描かずにはいられなかった生命のよろこびが満ちています。


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アルフレッド・ウォリス《青い船》1934年頃 ロンドン・テートブリテン蔵

アルフレッド・ウォリスも、スマと同じように70歳を過ぎてから描きはじめました。人生の大半を船乗りとして海で過ごした彼は、その記憶を刻み込むように、板きれやボール紙など、身のまわりの素材に次々と船の絵を描いていったそうです。


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ニコ・ピロスマニ《女優マルガリータ》1909年 トビリシ・グルジア国立美術館蔵

グルジアの国民画家と呼ばれるニコ・ピロスマニは放浪の画家でした。独学で絵を学び、酒場をわたり歩きながら看板の絵を描いては一杯のワインやパンと交換し、最後は誰にも理解されないまま、野たれ死にのようにして生涯を終えています。彼が旅の女優に恋した逸話を題材にした歌は『百万本のバラ』の題で日本でも知られています。


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長谷川利行《新宿風景》1937年 東京国立近代美術館蔵

日本にも放浪の画家がいました。「池袋モンパルナス」に生きた長谷川利行です。家を持たず、一杯の酒や食事と引き換えに絵を描きながら放浪を続けました。新宿や浅草の雑踏を題材に、地を這うような視点で時代の空気を描いています。彼もまた、最後は路上に倒れ、施設に運ばれて息を引き取りました。


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熊谷守一《陽の死んだ日》1928年 大原美術館蔵

利行と親しかった画家の熊谷守一は、題材を極端に単純化した“守一様式”と呼ばれる絵画を生み出しました。しかし、若い頃はどうしても描けなかった時期があり、幼い息子を貧しさのために十分な治療を施すことができないままに病気で失っています。その悲しみを画面にぶつけたのが《陽の死んだ日》という作品でした。


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谷口幹郎《アンデス高原の調べ》1999年頃 個人蔵

描けない時間の果てに生み出された作品の重みを考えさせるのが、谷口幹郎の《アンデス高原の調べ》。描かれた風景は、彼がまだ訪れたことのない心のなかのアンデスです。しかし、その心象風景が、おそらくは精神的に苦しい時間を過ごした彼を、ずっと支え続けていたのだと思われます。


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大塚直人《東京駅》2003年 個人蔵

精神的な病を抱え、他人に心を開くことができなかった大塚直人が、50歳を過ぎてようやく絵筆をとることができて生まれてきたのが《東京駅》というユーモラスな作品。彼にとっては、描くことが周囲の人に自分の言葉にならない思いを伝える、大切な手段なのでしょう。

   *   *   *

自分の好きな画家をピックアップしたので、どうしても話に熱がこもって長くなってしまったのが反省点ですが、トークの後の会場からの質問や意見交換も活発に行われ、とても楽しく充実した夜になりました。

遅い時間までトークをサポートして下さった川越スカラ座のスタッフの皆さん、そして会場に足を運んで下さった参加者の皆さん、本当にありがとうございました。
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2009/11/5

川越スカラ座など講演予定  講演・発表

明日11月6日(金)午後8時から川越にある小さな映画館「川越スカラ座」にて、「芸術が生まれるとき」と題するトークを行います。
いつもお世話になっている川越スカラ座。今回はスクリーンを使ってお話させて頂けるので、とても楽しみにしています。
現在準備しているのは、以下の12人の画家たちの作品。うまくまとめられると良いのですが。

フランシスコ・デ・ゴヤ
中村正義
松本竣介
靉光
丸木位里・丸木俊
丸木スマ
アルフレッド・ウォリス
ニコ・ピロスマニ
長谷川利行
熊谷守一
谷口幹郎
大塚直人

参加料は1ドリンク付き500円。予約なしで参加できますので、お気軽にご来場ください。

   *   *   *

また、今年も大東文化大学で平和学の特別講義をさせて頂くことになりました。
11月19日(木)の午後4時40分から、原爆の図第1部《幽霊》のレプリカを展示して、学生たちにお話をする予定です。
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2009/11/2

第32回日本スリーデーマーチ  イベント

あいにくの雨模様となってしまった第32回日本スリーデーマーチ。
毎年、丸木美術館は第2日のコースに入っているのですが、今年は平日の月曜日に当たり、おまけに雨ということもあって、例年にくらべてずいぶん入場者が減ってしまいました。

美術館の前の道沿いでは、ボランティアの方がたに手伝って頂いて、恒例の長野直送のリンゴジュース販売を行いました。

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地元ボランティアのK林(T)さん、M山くん、T野さん、川越のS木(N子)さんに、スタッフのN野さん、K田さんたちが、寒いなか一所懸命にリンゴジュースを売って下さいました(K林Tさんは販売用のトマトジュースも寄付して下さいました)が、残念ながら半分以上売れ残ってしまいました。
今年は気温が上がらなかったので、冷たいジュースはあまり人気がなかったようです。

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いつもイベントに参加して下さるインドネシア輸入雑貨のぶんぶん堂さんや、地元の珈琲店アズさんも出店。今回初参加の小川町のチャンドラバザールさんも有機野菜カレーや黒糖チャイなどを販売し、たいへん好評でした。

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水を使わない有機野菜カレー、とても美味しかったです。
チャンドラバザールさんは、これからも丸木美術館のイベントに参加して下さるとのこと。美味しい楽しみがまたひとつ増えました。

来年は天気が良いといいですね。
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2009/11/1

日本経済新聞「美の美」掲載  掲載雑誌・新聞

2009年11月1日付『日本経済新聞』朝刊18-19面「美の美」欄に、「南へ――楽園を描いた日本人画家(下)」と題する特集記事が掲載されています。

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紙面には大きく赤松俊子(丸木俊)の代表作《ヤップ島》と《アンガウル島へ向かう》が紹介。
1940年に当時日本の統治下にあった「南洋群島」パラオ島やヤップ島を訪れた俊さんの活動の様子が、K記者により詳しく取材されています。
俊さんの自伝『生々流転』の文章や、姪のひさ子さんが聞いたという南洋の思い出話、近現代史研究者・小沢節子さんの著書『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』からの引用、学芸員岡村の南洋体験と《原爆の図》との関連の説明などから、俊さんの南洋体験の意味が立体的に浮かび上がってくる内容です。

また、後半部では彫刻家の土方久功、画家の川端龍子、儀間比呂志ら丸木夫妻とも関わりの深い芸術家たちの南洋体験に焦点が当てられ、町田市立国際版画美術館の滝沢学芸員や法政大学の今泉裕美子教授の研究内容などをもとにしながら、幅広く当時の時局と南洋との関係が掘り下げられています。

見開き2頁を全面に使った非常に読み応えのある記事でした。
さっそく、記事のコピーを現在南洋の絵を展示している部屋に貼り出すことにします。
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