2009/8/29

【広島3日目】丸木家墓参り/研究会初日  調査・旅行・出張

広島滞在3日目の午前中は、Kさんご夫妻と待ち合わせて三滝町の丸木家へ。
丸木位里が生まれたのは昨日訪れた安佐北区の飯室ですが、1931年には家財と土地を売り払って翌年広島市内の三滝町に転居しています。
丸木スマや大道あやが被爆したのも、この三滝町です。

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現在は、位里の弟・廣雄さんの孫にあたる、N也さんご夫婦が鍼灸院を営んでいます。
数年前に亡くなられた越伸さん(廣雄さんの子)のおつれあいのT子さんや、N也さんご夫婦の子の小学生・Kくんもあたたかく迎えてくれました。

挨拶をしたあと、みんなで三滝の山へ丸木家のお墓参りに行きました。

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鳩の母子像の絵が刻まれた「丸木家代々の墓」と、シンプルに文字が刻まれた「スマの墓」がならんで建っています。

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そのとなりには、飯室から持って来たという丸木家先祖の墓も建っていました。
1918年に亡くなった、位里の祖父・源平の名が刻まれています。
ひとつはさんだ左どなりには、大道家の墓もありました。
用意していたお花を捧げ、皆で手をあわせてしばし合掌。

その後は近くの三滝寺へ。
丸木スマが描いた二重の塔のモデルになった多宝塔を観に行きました。
俊とともにスケッチに行き、「四ひら(の屋根)が一ひらになってしもうた」と笑いながら描いたという塔です(作品はスマ《塔とねずみ》)。

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この多宝塔は、1526年の創建と言われ、和歌山県の広八幡神社の境内に建てられていたものを、原爆被災者供養のため1951年に三滝に移築したそうです。
俊とスマがスケッチに来たのは、塔が三滝に建てられた直後だったのでしょう。

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この三滝寺の鐘楼も、丸木位里が1935年に第14回日本南画院展に出品した水墨画《鐘》のモデルになっています。この作品は、位里が上京して最初に団体展に発表したものです。三滝には丸木家のさまざまな思い出が残っていますね。

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わが家の息子Rは、兄貴分のKくんの後を追って三滝寺を元気いっぱいに駆け回り、大満足。
時間もあまりなく、子ども連れで三滝山を上るのは無理なので、茶店でひと休みした後、駅まで車で送って頂きました。
丸木家のみなさん本当にありがとうございました。

   *   *   *

午後からは広島大学で「合同研究会〈広島/ヒロシマ〉をめぐる文化運動再考 ―「つながり」と想像力の軌跡―」に参加。
この日の内容は以下の通りです。

【報告1】水島裕雅(広島大学名誉教授/「広島に文学館を!市民の会」代表/比較文学)「峠三吉と「われらの詩の会」」
 コメント:宇野田尚哉(神戸大学/日本思想史)
【報告2】竹内栄美子(千葉工業大学/日本近代文学)「山代巴の文学/運動」
 コメント:松本麻里(ものかき/アクティヴィスト/雑誌『VOL』編集委員)
【報告3】楠田剛士(九州大学大学院生/日本近代文学)「山田かんとサークル誌」
 コメント:坂口博(創言社編集人)


峠三吉と「われらの詩の会」は1950年10月に広島市・五流荘で行われた原爆の図展に深く関わり、山代巴も丸木俊の女子美術時代の同級生。
丸木夫妻とゆかりの深い人びとについての発表を、興味深く聞かせて頂きました。
夕方からは近くの居酒屋で懇親会。わが家は妻子もいっしょに参加して、楽しい時間を過ごしました。

明日はいよいよ、「『原爆の図』全国巡回展の軌跡」と題する発表を行います。
戦後の文化運動研究を専門とする方々が全国から集まっているので、ちょっと緊張しています。
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