2009/2/6

ヨシダ・ヨシエ氏聞き取り調査  来客・取材

今日は美術批評家のヨシダ・ヨシエさんが来館され、流々庵にてヨシダさんと丸木夫妻との関わりについて聞き取り調査を行いました。
ヨシダさんは、以前、丸木美術館の企画として原爆の図を背負って全国を巡回した当時の話を講演して下さったことがあります。また、つい先日には朝日新聞T記者の取材で、生い立ちを含めた前半生について話される場に立ち会わせて頂きました。
今回伺ったのは、その続編、というか、原爆の図巡回以後のヨシダさんの歩みと丸木夫妻との関わりです。

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1950年代前半、原爆の図巡回展を終えたヨシダさんは、丸木夫妻のアトリエを離れて、吉祥寺にあった前進座の文芸演出部に入ります。そこで知り合ったある女優さんの自殺と、その後の劇団内での口論をきっかけに座を離れた彼は、新宿でパチンコ屋のサンドウィッチマンをしながら詩を書き、私家版の詩集を出版しました。クリスマスの夜、その詩集を抱えて新宿の居酒屋を歩き、檀一雄や草野心平に「君の詩は良い詩だ」と声をかけられたとか。
やがて美術編集者の太田三吉に「批評を書け」と勧められて美術批評の道に足を踏み入れたヨシダさんは、靉光の戦病死の事実を確認するため徹底した追跡調査を行い、「靉光といえばヨシダ・ヨシエ」と名が広まったとのこと。
「美術評論をする人は数多くいるけれども、筆一本で生きてきたのは私しかいない」という自負を語るヨシダさん。筆一本で、常に現場を歩きながら生きてきた彼を“最後の無頼派”と呼ぶ人もいるそうです。「それができたのは人の出会いに恵まれたから。特に美術出版社には本当に食べさせてもらった」と振り返るヨシダさんの話はとても波乱万丈で、そのまま戦後美術史になるような興味深いものでした。
丸木位里さんが亡くなる1995年に池田20世紀美術館で「丸木位里・丸木俊の世界」展を開催できたことが「若い頃にいろいろ世話になったことへの、せめてもの恩返しだった」とヨシダさんは語ります。「だって、位里さんは亡くなる最後までこの展覧会のカタログをめくっていたんだから」という言葉からは、ヨシダさんが丸木夫妻を本当にかけがえのない存在だと思っていることが感じられました。

このインタビューのために、さる方からお譲り頂いた、ヨシダさんが初めて原爆の図についての評論を書いたガリ版刷りの『原爆の図について』(1953年3月14日発行、鹿児島民主々義科学者協会物理部会)のコピーと、その文章の一部が転載された『人民文学』1953年8月号をお見せしたところ、ヨシダさんは「よくこの本を見つけてきたね!」とたいそう驚かれました。
ご本人は「文章が拙くて気にいらないので、この前出した『全仕事』にも収録しなかったんだ」とおっしゃっていますが、原爆の図巡回展をしていた当時、24歳のヨシダさんがどのように作品や原爆そのものを受け止めていたのかが生々しく伝わってくる貴重な文章だと思います。

このような、丸木夫妻や《原爆の図》周辺に生きた人びとの証言も、これから少しずつ集めていきたいと思っています。
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