2008/11/29

パフォーマンス「母乳vs受身」とトーク「政治とアート」  イベント

シシュポス・ナウ展のイベントとして「母乳vs受身〜遺伝子異常でも繋がりたいの★」と題するパフォーマンスが行われました。出演は、シシュポス展の出品者でもある佐々木裕司さん、そして増山麗奈さん、白井愛子さんのユニット「桃色ゲリラ」です。

体と意識が硬直し、他者と繋がれない男女の物語を、アクションペイントと歌で表現したアート・パフォーマンス。佐々木さんは「受身絵画」で自身の痕跡を重ね続け、増山さんは母乳シャワーを飛ばしながら2階から登場し、「新自由主義崩壊後の世界地図」をカンヴァスに描きます。


(はじめて「学芸員日誌」に動画のUPを試みてみました)

すぐ近くにいるのに決して交わらない二人のパフォーマンス。
佐々木さんは最後に美術館の南斜面を駆け降りて、「受身絵画」で都幾川を渡ります。



佐々木さんの姿が川の向こうに消えると、「桃色ゲリラ」の歌とパフォーマンス。

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完成した絵画のなかにとらわれた白井さんが最後に歌ってパフォーマンスは終了。

   *   *   *

その後は野木庵に移動して「政治とアート」と題するトークを行いました。
出演者は、本日パフォーマンスを行った佐々木裕司さんと増山麗奈さん。《原爆の図》を展示するために開館した丸木美術館にとっては、「政治とアート」というテーマは、ある意味で不可避なもの。しかし、こうしたテーマを大上段に振りかざす、しかも若い世代の美術家によるトークは、ぼくの知る限り初めてのことです。

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トークは二人のこれまでの活動を軸に進められました。佐々木さんは1989年5月に原爆や旭日旗に昭和天皇のイメージを重ねたポップな“天皇Tシャツ”を制作して展示販売した「天皇展」や、1995年11月に皇居周辺の道路を小林多喜二のデスマスクと磔台を背負って一人行進した「多喜二の夢」というパフォーマンスについて話し、増山さんは今年10月31日に秋葉原で行った「電気料金値上げ反対デモ」や自身とイラク戦争の関わりなどを中心に映像を交えて報告しました。イラク戦争時に、従来のデモのイメージを破壊するような桃色のビキニで登場した彼女の鮮烈な姿は、ご存知の方も多いことでしょう。
二人に共通しているのは、社会との関わりを拒絶して「芸術のための芸術」を志向する耽美的な現代のアートシーンに対する抵抗感。そして、美術館や画廊が育ててきた芸術の歴史から飛び出して、社会と直接的に結びつきながら表現の可能性を模索したいという姿勢です。
「政治というのは私たちの生活のなかに深く結びついているもの。決して切り離すことはできない。デモはアートではないという人もいるけれども、そんな固定観念を一回捨ててみませんか?」と増山さん。
「メディアでは伝わらないものを伝えるのが芸術の力。例えば、戦争が映画のようにドラマチックなものではなく、みじめな殺戮でしかないことを感じてしまう奥行きのある表現が、観る人にメッセージを喚起させる。それこそが、芸術が社会に機能する瞬間」と佐々木さん。
トークは予定の時間をいっぱいに使い、会場の方々も参加して深みのあるやりとりになりました。最後に佐々木さんが語った、「社会のタブーに絡まないものは本物ではない。過去の歴史を見れば、芸術はタブーに触れる宿命にある」という言葉が強く心に残りました。

   *   *   *

その後は「革命鍋」と称して、佐々木さんご家族が用意してくださった豚汁うどんやコーンスープを食べながら、朝までキャンプ。相当過酷な寒さと強風を覚悟していたのですが、予想以上に温かく穏やかな夜になり、飲んで歌って語り合う楽しい時間を過ごしました。



最後のおまけ動画は革命鍋&キャンプの様子。これも企画展イベントの一環です。たんなる打ち上げ飲み会ではありません。念のため。
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2008/11/27

「ちひろと水墨」展搬出  館外展・関連企画

12月3日(水)から1月31日(水)まで、東京練馬区のちひろ美術館・東京で、「ちひろ生誕90年記念展 ちひろと水墨」が開催されます。淡い水彩絵の具による絵本作家として知られるいわさきちひろの、にじみや筆の勢いを用いた描法や、大胆な余白の生かし方、日本の伝統的な絵画の影響を受けた絵に対する考え方を検証しようという企画。戦後すぐに上京したばかりの岩崎知弘(いわさきちひろ)の面倒をみて、その絵画にも大きな影響を与えた丸木夫妻の作品も、位里の水墨画を中心に出品されます。

今日は安曇野ちひろ美術館のY学芸員が来館し、作品の搬出作業を行いました。
ちひろ美術館で丸木夫妻の作品が展示されるのは初めてのこと。出品される丸木夫妻の作品は以下の通り。とても興味深い企画になりそうです。

丸木位里《紅梅》(紙本墨画淡彩、1946年)
丸木位里《臥牛》(紙本墨画、1947年頃)
丸木位里《妙義山》(紙本墨画淡彩、1940年代)
丸木位里《山》(紙本墨画、1940年代)
丸木位里《猫》(紙本墨画、1940年代)
丸木位里《鵜》(紙本墨画淡彩、1954年)
丸木位里《ちひろデッサン》(1947年頃)
丸木位里《原爆の図デッサン》(モデル:岩崎知弘、1947年)
丸木俊《原爆の図デッサン》(モデル:岩崎知弘、1947年)
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2008/11/27

散りそこねた桜の碑  掲載雑誌・新聞

今年の「今日の反核反戦展2008」に、自身の特攻隊体験を題材に《散りそこねた桜の碑》を出品した美術家の池田龍雄さんを取材した記事が、毎日新聞西部地域(富山、京都、三重の一部以西)朝刊「平和をたずねて」というコラムに連載されました。
このコラムでは、昨年末にも《原爆の図》をめぐる物語が5回にわたって連載されています。

原爆の図 終わらない旅/1 絵に塗り込めた情念
原爆の図 終わらない旅/2 反戦反核の黙示録
原爆の図 終わらない旅/3 国家と恩讐を越えて
原爆の図 終わらない旅/4 戦争と対峙する魂今も
原爆の図 終わらない旅/5 次代へ継ぐ歴史の証言者

今回、「わが内なる『靖国』超えて」と題された5週にわたる連載では、特攻隊として出撃直前に敗戦を迎えた池田さんの証言や《散りそこねた桜の碑》への想いなどが、たいへん興味深く紹介されています。

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(写真は丸木美術館に展示された池田さんの作品。池田さん関連記事は2、3、5回に掲載)

わが内なる「靖国」超えて/1 特攻からテロが分かるか
わが内なる「靖国」超えて/2 人の影消え機械の一部へ
わが内なる「靖国」超えて/3 愛国心という名の片思い
わが内なる「靖国」超えて/4 公共性捨て守られたもの
わが内なる「靖国」超えて/5 過去は未来のためにある

この「平和をたずねて」という週1回の連載企画は、広岩近広、福岡賢正両記者が交互に担当し、2007年4月から続いています。東日本地域の新聞では見ることができないのが残念なのですが、毎日新聞WEBの平和をたずねて アーカイブでテキストだけは読むことができます。
内容も深く多岐にわたる企画なので、今後も注目していきたいと思います。
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2008/11/26

トークイベント「戦争と美術」  イベント

午後3時から、現在開催中の企画展「シシュポス・ナウ展」のイベントとして、来日中のイラク人芸術家カーシム・サブティーさんをお招きして、今展の企画者でもある東京藝術大学教授の坂口寛敏さんとのトーク「戦争と美術」を行いました。
カーシムさんは現代イラクを代表する芸術家の一人で、戦争で破損した本を用いて制作したコラージュ作品などを、11月25日から12月6日まで銀座の中和ギャラリーの個展に展示しています。戦火の混乱から多くの芸術家が国外へ逃れるなか、今なおバグダードで芸術活動を行い、彼の主宰するヘワール・アートギャラリー(対話画廊)は、イラクの文化人にとって活発な議論が交わされる重要な位置を占めているそうです。

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写真は左から、坂口教授、通訳のナジーブ・エルカッシュさん、カーシム・サブティーさん。
平日にもかかわらず、会場の小高文庫には50人近くの人が集まり大盛況。「シシュポス・ナウ展」の出品作家も、坂口さん、潮田さん、伊東さん、柳さん、佐々木さん、増山さんの6人が参加されました。
トークは、スライドでカーシムさんの作品を紹介しながら、非常に興味深い芸術論が展開されました。戦争の現実と自身の芸術表現との関わりについて質問されたカーシムさんの答えが、とりわけ強く印象に残っています。
「人間はあらゆる表現の方法を持っている。同じものを見て、叫ぶ人、泣く人、笑う人、怒る人もいる。バグダードに起きたことは簡単には説明できないが、それらの人びとの感情を目撃し、作品として記憶に残すのが芸術家の仕事だと思う」
カーシムさん自身が指摘されていたとおり、丸木夫妻の《原爆の図》は時代が生み出した芸術で、もし夫妻が現代を生きていれば違う表現をしていたかも知れません。芸術表現の潮流は時代とともに変化します。しかし、その根底に流れている精神は、時代を超えてつらなっているのだということを、カーシムさんの発言からあらためて考えることができました。

このトークの様子は朝日新聞とテレビ埼玉が取材し、テレビ埼玉では午後9時半のニュースでカーシムさんのインタビューを交えて紹介されました。
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2008/11/25

江東区小学校団体  来客・取材

三連休明けの休館日ですが、今日は江東区から毎年恒例の小学校団体が来館するので、美術館を開けました。
美術館職員Y子さんのお父君の教え子という縁で、毎年子どもたちを連れて来て下さるO校長。今年も元気いっぱいの来館です。

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写真はO校長先生(左)と、子どもたちの前で話をするS木K介さん。
2階にあがり、《原爆の図》の説明をした後は、館内を自由に見学します。今年は企画展示室に土手があるので、子どもたちは土手にのぼったり、横のせまい通路から中にもぐったりして大はしゃぎ。もちろん、最初に土手を体験したのはO校長先生でした。
観音堂前でお弁当を食べた後は、これも毎年恒例の川遊び。

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冷たい水にきゃあきゃあと騒ぎながら、子どもたちは皆、元気に川をわたっていました。
写真の中央で仁王立ちしているのがO校長。島育ちの血が騒ぐようです。
《原爆の図》を観て、自然を堪能して、都会の子どもたちも忘れられない体験をしたことでしょう。
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2008/11/22

目黒区美術館「石内都展」など  他館企画など

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今日は目黒区美術館で「ひろしま/ヨコスカ 石内都展」のレセプションがありました。
昨年1年間、広島をテーマに被爆者の遺品を撮影し続けた石内さん。今回の企画は、最初期の「APARTMENT」や「絶唱、横須賀ストーリー」からはじまり、最近の「ひろしま」まで、彼女の写真家としての軌跡を回顧する大規模な展覧会です。展覧会の図録用のインタビュー収録のために、石内さんは目黒区美術館のM学芸員らとともに今年の9月12日に丸木美術館を訪れて下さいました。

http://diary.jp.aol.com/maruki-g/1033.html

レセプションは夕方だったので、その前に世田谷美術館で開催中の「山口薫展」に足を運びました。会場では、「シシュポス・ナウ展」でお世話になっている東京藝術大学の坂口先生御夫妻にばったりお会いしました。
旧知のN学芸員に挨拶をすると、Nさんも石内都展のレセプションに行くとのことだったので、ちょうどアルバイトに来ていた学芸大学の大学院で写真を専攻されているというSさんと3人で目黒区美術館へ。レセプションは大盛況で、会場では現代美術家の池田龍雄さんや、松濤美術館のM学芸員、栃木県立美術館のK学芸員らにお会いしました。

   *   *   *

石内都展の図録には、「石内都連続インタビュー(3)不在の肉体―Mother's、ひろしま、そしてヨコスカ」(pp.252-260)として、丸木美術館でのインタビューの様子が収められています。
インタビュー冒頭、初めて《原爆の図》の実物をご覧になったという石内さんの感想(裸体を描いた丸木夫妻の《原爆の図》と、衣服を撮影した石内作品との比較)は表現者としての鋭い観点が感じられ、とても興味深いものでした。
展覧会は来年1月11日まで開催されています。
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2008/11/21

「おきなわ島のこえ」英語版  来客・取材

午前中、函館の英語教師ピーター・ハウレットさんが来館されました。
以前、丸木美術館ニュース第91号でもご紹介しましたが、ハウレットさんは丸木夫妻の手がけた絵本『おきなわ島のこえ』の英訳出版を目指しています。すでに英語の原稿は完成し、出版社も決まっているのですが、問題は出版費用。約200冊を出版するのに、150万円が必要とのことです。現在集まっているのは1/3程度で、まだまだ道のりは険しいのですが、今回は中間報告に訪れて下さいました。
とても情熱的で明るいハウレットさん。今後も北海道を中心に絵画展などのイベントを行いながら、出版費用の寄付を集めていきたいとのことです。
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2008/11/21

ヒロシマ平和メディアセンター「世界の平和博物館」  執筆原稿

今日から丸木美術館に復帰。留守中のメール整理や次号ニュースの原稿手配、館内説明などの細々とした仕事で一日が終わりました。
久しぶりの東松山は寒さが身にこたえます。

留守中、ヒロシマ平和メディアセンターのK記者から、先日『中国新聞』に掲載された丸木美術館の紹介記事が、サイトに日英両文でアップされたとの情報を頂きました。
以下のアドレスになりますので、どうぞご覧下さい。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=200811171625198_ja
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2008/11/20

【沖縄遠足5日目】 沖縄県立博物館  調査・旅行・出張

沖縄旅行の最終日は、娘のMが発熱したため、午前中はホテルでゆっくり過ごしました。
午後から沖縄県立博物館・美術館へ行き、初日に時間がとれずに観ることができなかった博物館の方を観ることにしました。
現在、特別展では「中国・北京故宮博物館秘蔵 蘇る琉球王国の秘宝」展が行われています。
しかし、飛行機の時間を考えると、常設展と特別展の両方を観るのは時間的に難しく、どちらか一方に絞ることに。琉球王国の宝物は沖縄戦でほとんど焼失してしまったため、今回の企画展のように中国に朝貢されたものでなければ観ることができません。個人的にはかなり心を惹かれたのですが、息子にとっては映像などの体験施設をそろえた常設展の方が楽しめることは間違いなく、結局、迷った末に常設展を観ることにしました。

8年前、首里城の近くの旧博物館を訪れたことはあったのですが、新しい博物館はおどろくほど現代的な施設に生まれ変わっていました。展示は総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。とりわけ、鹿児島から台湾まで東西1000km、南北400kmの海域に散在する琉球列島の島々の大型ジオラマは妻と息子のお気に入りとなり、情報端末機で島々の自然・歴史・文化を何度も呼び出して眺めていました。その間に、ぼくは琉球王国の芸術文化や沖縄戦を中心とする近代の展示を詳しく見学。時間を忘れて、危うく飛行機の搭乗時間を逃してしまうほどでした。今度訪れるときには時間をたっぷりとって再度見学したいと思います。

思いのほか充実した内容となった今回の「沖縄遠足」。
講演に呼んで下さった沖縄県立美術館のT学芸員はじめ、お世話になった多くの方々、特に佐喜眞美術館の皆さまや、タクシーガイドをして下さったTさんに感謝したいと思います。
そして、「遠足」をごいっしょしたKさん、Tさん、いろいろとお気づかいいただきまして本当にありがとうございました。
来年こそは、Kさん念願のパラオ遠足が実現できるでしょうか。がんばってみます。
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2008/11/19

【沖縄遠足4日目】美ら海水族館/「南洋群島展」講座  講演・発表

今日から家族のみの行動となり、息子Rの希望で本部町にある「沖縄美ら海水族館」へ。
美ら海水族館は、世界最大のアクリルパネルによって仕切られた水槽を持つ施設で、全長10mを超える魚類のなかでは最大種のジンベエザメや、幅6mを超えるエイ類の最大種オニイトマキエイ(マンタ)の飼育で知られています。

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早朝から長距離バスに揺られて出発したのは良かったのですが、旅の疲れが出たのか、途中から持病の頭痛が出てしまいました。娘Mもさすがに疲れたのか体調不良気味。
それでも、水族館では息子Rが大よろこびで飛び回り、クレヨンと紙を持って魚をスケッチしたりしていたので、やはり思い切って行ってよかったと思いました。

昼食後は早めに那覇へ戻り、家族と別れて沖縄県立博物館・美術館へ。
午後6時半から「赤松俊子 人と芸術」と題する講座を担当することになっていたのです。
余裕を持って美術館に到着し、事情を話して1時間半ほど救護室で横になって休ませてもらいました。頭痛薬も飲み、なんとか体調を整えて講座へ。

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ボランティア鑑賞ガイドを中心とした30〜40人ほどが講座室に集まってくださり、南洋群島体験から原爆、沖縄戦へと続く赤松俊子(丸木俊)芸術の精神性について、主に南洋を題材にした絵本や随筆を中心にしながら話をさせて頂きました。
俊子が残した絵本や随筆から読み取ることのできる視点は、(当時の時局による限界を感じさせながらも)現地の人びとの生活に寄り添いながら、日本の殖民支配への違和感を隠そうとしない、非常に率直なものでした。そして、その視線は、40年後に沖縄戦を描く際の視線にも驚くほど重なってくるのです。
「南から南へ」とは、“南洋群島から沖縄へ”という意味を内包した今回の沖縄展の印象的な副題ですが、俊子にとっての「南から南へ」は、どのようなものだったのか。
南洋における俊子の活動を報告した今回の講座に続いて、来週には佐喜眞美術館館長の佐喜眞道夫さんが「丸木俊 人と芸術」という題でお話をしてくださるので、きっとそのお話のなかから浮かび上がってくることでしょう。

講座の後は、佐喜眞館長のご家族といっしょに沖縄料理店に行き、夜遅くまで沖縄を扱う展覧会のことや、琉球王国の歴史、佐喜眞美術館誕生の経緯など、さまざまなお話を聞かせて頂きました。佐喜眞館長の息子さんには唄三線も披露して頂き、楽しい夜を過ごしました。

そのおかげで、体調もずいぶん回復。明日夕方の飛行機で沖縄を後にする予定です。
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2008/11/18

【沖縄遠足3日目】首里城/斎場御嶽/公設市場など  調査・旅行・出張

今日は午前中に那覇市内の首里城、玉陵(たまうどぅん)と南城市の斎場御嶽(せーふぁうたき)を訪れました。

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首里城は1406年に尚巴志が琉球支配の居城として以来、1879年に琉球王朝最期の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで約500年間にわたって琉球王国の中心として栄えた城です。沖縄戦では日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、徹底的に破壊されましたが、1992年に復元されています。
ぼくは2000年の夏以来8年ぶりの再訪となりましたが、昨年より書院・鎖之間(さすのま)と庭園があらたに一般公開され、鎖之間では琉球王朝時代の代表的なお菓子(花ぼうる、くんぺん、ちいるんこう、ちんすこう)を食べながらお茶を飲むことができました。

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玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれた、第二尚氏王統の陵墓です。やはり沖縄戦で大きな被害を受けましたが、戦後修復工事がなされ、板葺き屋根の宮殿を模したという石造建築物が往時の姿を取り戻しました。

こうした琉球王国の文化を見ると、中国文化の影響をいかに大きく受けていたかを考えさせられます。同時に、日本と中国のあいだで、微妙な立場を保ちながら揺れ動いてきた歴史を思わずにいられませんでした。薩摩藩に支配されていた江戸期の琉球王国は、同時に中国にも貢物を送り続け、当時はチベットと同じ立場に位置づけられていたそうです。もっとも現代でも、日本と米国のあいだで翻弄され続ける沖縄の立場はそれほど大きく変わったわけではありません。

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斎場御嶽はKさんの希望で訪れた、琉球王国最高の聖地です。国家の最高神職である聞得大君が管理し、かつては男子禁制であったとのこと。東方の海に浮かぶ久高島は「神の島」と呼ばれ、御嶽最深部の三庫理から臨むことができます。周囲の森も素晴しく、以前に訪れたことのある屋久島の森を思い出しました。神秘的な場所に育まれた原初的なアニミズムの姿に、ひととき心を洗われる思いでした。

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昼食は奥武島へわたり、新鮮な刺身やイカ汁を堪能。
午後は新原ビーチへ行き、グラスボートに乗って、海中を元気に泳ぐ色鮮やかな魚たちの姿を観察しました。全長1kmに及ぶという白い砂浜では、息子Rも元気に水遊び。貝殻や珊瑚を拾って、沖縄の海をひととき満喫しました。

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その後は那覇市内の壺屋やちむん通りや牧志公設市場を歩いてお土産などを購入。猫好きのKさん、Tさんは、路上に猫を発見するたびに足を止めてカメラを構えます。
明日それぞれ所用のあるKさんとTさんは夕方の便で帰京されました。おふたりとの旅はとても楽しかったので、ホテルでお別れした後、息子Rは「もっと会いたかったよ……」とポツリ。
明日は沖縄県立美術館で(肝心の!)講座があり、われわれ家族は明後日の便で沖縄を後にします。
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2008/11/17

【沖縄遠足2日目】南部戦跡めぐり  調査・旅行・出張

今日は、佐喜眞館長から紹介を受け、タクシーガイドのTさんに一日がかりで戦跡めぐりの案内をしていただきました。最大の激戦地となった沖縄本島南部の戦跡をめぐりながら、沖縄戦の記憶を体感する一日となりました。
この日訪れた主な場所を順番に書き出してみます。

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旧海軍司令部壕 (豊見城市)
1944年海軍設営隊によって掘られた司令部壕。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと枕木で固め、持久戦を続けるための地下陣地として、約400人が収容されていたそうです。壕内には、下士官兵員室や医療室、幕僚が手榴弾で自決した破片の跡が残る幕僚室、大田實海軍少将ら幹部が拳銃自決をした司令官室などが生々しく残されていました。

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白梅の塔・白梅学徒隊自決の壕 (糸満市)
沖縄県立第二高等女学校の4年生56人で編成された「白梅学徒隊」を慰霊する塔。白梅学徒隊は1945年3月23日、東風平町八重瀬岳にある陸軍第24師団第1野戦病院に配置されました。
沖縄守備隊が首里から撤退した6月4日には解散命令が出されたものの、隊員は散り散りとなって各地で命を落としたそうです。一部の生徒たちは、この地で再開された病院活動に再び合流しましたが、6月21日、22日に米軍の猛攻撃を受けてその多くは亡くなりました。1947年1月に建立された初代の塔は、現在の巨大なモニュメントに向かって左側にひっそりと建ち、右側の少し離れた場所には「白梅学徒隊自決の壕」も現存しています。

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喜屋武岬 (糸満市)
沖縄本島最南端の喜屋武岬(写真は展望台から荒崎海岸を眺める風景、丸木位里の水墨画や丸木俊の水彩画に同じ構図の作品があります)。地球の丸さを実感できる美しい海の景色を一望できますが、沖縄戦の最末期には、この海はアメリカの軍艦で埋め尽くされていました。米軍に追いつめられた住民や兵士は、ここで行き場を失い、断崖から次々と身を投げ、海は一面血に染まったといわれています。

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ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館 (糸満市)
「ひめゆり」の名の由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の校友会誌『音姫』、『白百合』からとられたものだそうです。米軍の上陸作戦がはじまった1945年3月23日深夜、両校の生徒222人、教師18人は南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。その後は負傷兵の看護や死体の埋葬などに追われ、戦局の悪化とともに5月下旬に日本軍とともに本島南部に移動、激しい砲爆撃の続く6月18日に突然の解散命令を受けます。絶望と混乱のなか、戦場を逃げ惑った学生たちは、砲弾やガス弾で命を奪われ、また自らの手榴弾で命を失いました。ひめゆりの塔及び資料館はガス弾攻撃で多くの犠牲者が出た伊原第三外科壕に隣接して建てられています。館内では豊富な映像や資料の展示とともに、生存者の方が証言を話して下さるコーナーがあり、乳児を抱える妻や幼い息子も真剣に耳を傾けていました。

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魂魄の塔 (糸満市)
沖縄戦の最激戦地に1946年1月に旧真和志村の住民によって建立された沖縄県で最初の慰霊碑。住民、軍人、敵味方の区別なく、全ての犠牲者の骨を収めて祀った精神は、1995年に摩文仁の丘に建てられた「平和の礎」のもとになったそうです。この周辺には各県出身者の慰霊碑も数多く建立されています。

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沖縄師範健児の塔 (糸満市・平和祈念公園内)
沖縄師範学校男子部の生徒によって編成された「鉄血勤皇隊」を祀った碑です。塔の後方には、「平和の像」が建てられ、向かって右から友情・師弟愛・永遠の平和を象徴しているそうです。近くには鉄血勤皇隊が南部の断崖絶壁に追い詰められ最期を遂げた壕がありました。最前線での日々は、近くの水くみ場に行くにも複数名で行動し、そのうちの一人が無事に帰還できればよいというほど苛烈なものだったそうです。

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南冥の塔 (糸満市・平和祈念公園内)
沖縄戦に参戦した日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、1954年9月にこの付近に放置されていた地元住民や身元不明の兵士などの遺骨を収めて建立したものだそうです。

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第32軍司令部終焉地 (糸満市・平和祈念公園内)
第32軍の司令官牛島満陸軍中将らが6月23日頃に、この壕(もしくは、近隣の岩場)で自決し、日本軍の組織的な戦いは終わったとされています。

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黎明の塔 (糸満市・平和祈念公園内)
摩文仁の丘の先端には第32軍を祀る「黎明の塔」が建てられています。ここからは周囲の海を一望することができます。

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平和の礎 (糸満市・平和祈念公園内)
国籍を問わず、沖縄で亡くなったすべての人々の名前が刻まれています。沖縄戦の期間は、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から沖縄守備軍が降伏文書に調印した同年9月7日までとされ、沖縄県出身者については満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡したものを含むそうです。刻銘は戦没者の母語で記されています。1995年6月に戦後50年を記念して建立され、現在は25万人ほどの名前が刻まれているそうです。

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糸数アブチラガマ (玉城村)
全長270mに及ぶ自然洞穴。 はじめは陸軍壕や住民の避難壕として使用していましたが、戦況が激しくなった4月下旬にはひめゆり学徒隊らが入って病院壕となり、連日1000名近くの傷病兵を収容していたそうです。しかし、薬品や器具もなく、照明もほとんどない闇のなかで、麻酔なしの手足の切断手術が行われていたとのこと。5月下旬には撤退命令により、自力で歩行できない傷病兵は毒薬を渡され置き去りにされたと言われています(その後、壕に残った敗残兵や住民等の壕内での避難生活は8月下旬まで続いたそうです)。現在も米軍の火炎放射や爆風の跡が生々しく残っています。
この壕探検は、さすがに乳児を抱える妻は危険を伴うため断念。4歳の息子も不安視されたのですが、「根性つけてこい!」とのタクシーガイドTさんの一言でヘルメットをかぶり、懐中電灯を持って参加が決定。暗闇のなか、最後までがんばって歩きとおしました。

地下深い壕や高い絶壁の上など、複雑な地形のなかで展開された数ヶ月に及ぶ激烈な地上戦では、一般住民が本来避難すべき地下壕を日本軍によって追い出され、戦闘の最前線を逃げ惑わなければならなかったといいます。
糸満の市街をタクシーで走る途中、Tさんが「このあたりの家の3割ほどは一家全滅をしてしまった。だから、今もところどころに、家もなくなって位牌だけが安置されている空き地がある」と教えてくれたことも印象的でした。
“鉄の暴風”とも呼ばれた凄まじい戦闘のことは、今はまだ十分に整理できません。

今日の旅程は大人にとってもかなり濃密なものでした。4歳の息子は帰りのタクシーで力尽きて寝てしまいましたが、幼い子どもにとっても、この日の体験は深く心に刻まれたことでしょう。

   *   *   *

夜は国際通りにある島唄ライブのお店に行き、沖縄料理を食べながら楽しいひとときを過ごしました。沖縄の踊りが好きというTさんが唄にあわせて踊る指先の動きは軽やかで、娘Mといっしょに踊る妻TやKさんの笑顔もとても心があたたまりました。
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2008/11/16

【沖縄遠足初日】沖縄県立美術館/佐喜眞美術館  調査・旅行・出張

近現代史研究者のKさん、町田市国際版画美術館ボランティアのTさん、そしてわが家の家族4人で、今日から「沖縄遠足」です。
Kさんとは、昨年2月に藤沢、10月には北海道へごいっしょに「遠足」に出かけていて、今回が3回目になります。
「こんどは南洋がいいな、ぜひパラオに行きましょうよ」と誘われていたのですが、わが家の家計を考えると、外国旅行は少々ためらわれ……そんなおり、ちょうど沖縄からの講演依頼が来たので、「今年は沖縄にしましょう。同じ南洋だから……」とお願いして、「沖縄遠足」に行くことになったのです。意外にも、ぼくを除いた全員が沖縄は初めてとのことです。

   *   *   *

早朝の便で羽田空港を出発して、午前中のうちに那覇空港に到着。
泊港を見下ろすホテルの部屋に荷物を置き、昼食には近くの店で沖縄そばを食べました。

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午後は昨年秋に開館したばかりの沖縄県立博物館・美術館へ。現在、美術館では「美術家たちの『南洋群島』」展を開催中。町田、高知をへて巡回してきた展覧会ですが、沖縄では「南から南へ」との副題がつけられて、内容も独自性を打ち出しています。

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ちょうど午後2時から担当T学芸員のキュレータートークがあったので、会場をめぐりながらトークを聴きました。
まず、入口に流れている映像は『海の生命線-我が南洋群島』(1933年)。これは町田の会場にはなかった展示(1日のみのイベントとして上映会は行った)で、「南洋群島」の美術を紹介する前に、日本の“南進政策”との関わりを印象づける狙いになっています。
また、日本と南洋の地理的な関係を提示するパネルと並んで、広島・長崎に原爆を落とした米軍機が「南洋群島」の一部だったテニアンから出発し、長崎から帰還する際には沖縄で給油をしていたことがわかる資料も展示されていました。
会場に入ると、「南洋群島」の写真を展示した大きな壁と壁の間から、別の部屋に展示されている沖縄出身の画家、儀間比呂志さんの作品がのぞき見えるしかけになっていました。当時の「南洋群島」の置かれた状況から、現在の沖縄の姿が透けて見えるという意味の込められた展示で、T学芸員が特にこだわった部分とのことです。
儀間さん自身、若い頃に沖縄からパラオへの移住を経験された方ですが、「南から南へ」という副題には、当時の貧しい沖縄から脱出するために「南洋群島」に移住した人びとを指すと同時に、現在の沖縄を「南洋群島」から逆照射するという二重の意味が感じられました。

その後は宜野湾市の佐喜眞美術館にタクシーで移動。
佐喜眞美術館は館長の佐喜眞道夫さんが丸木夫妻から《沖縄戦の図》の永久貸与を受けて1994年に開館した美術館です。米軍から返還された元軍用地に建てられ、普天間基地の一部に食い込むように立地しています。ぼくは8年ぶりの再訪となります。

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美術館に到着すると、佐喜眞館長が高校生を相手に《沖縄戦の図》を説明していたので、いっしょに聞かせていただきました。そのうちに、ちょうど同じ時期に沖縄旅行をしている丸木俊の姪H子さん一行も来館され、喫茶室でコーヒーを飲みながら佐喜眞館長はじめスタッフの方々と歓談。学生たちの修学旅行シーズンということで、皆さまたいへんお忙しそうでした。
息子Rは美術館の前にある佐喜眞家の亀甲墓や屋上の(普天間基地を見わたせる)展望台をとても気に入って、よろこんでかけまわって遊んでいました。
夕食は、町田のTさんの入念なリサーチにより、国際通りの近くにある郷土料理屋に行き、沖縄料理をたっぷりと堪能しました。
明日は一日がかりで南部戦跡めぐりを行います。
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2008/11/15

美術館クラブ「きもの地でお正月の飾りを作ろう!」  ワークショップ

今日の美術館クラブ工作教室は、布作家・青海しとみさんの案内で「きもの地でお正月の飾りを作ろう!」。鶴などを刺繍した豪華な絹布を、赤く塗った板の壁かけに切り貼りして、思い思いの作品を作りました。

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もとの柄を鋏で丁寧に切り抜いて生かす人もいれば、それを一切無視して円形などのかたちを切り抜き、コラージュを楽しむ人もいます。
「これはお正月の玄関に飾れる」
「お母さんのプレゼントにしたら、きっと喜ぶわよ」
会話も楽しくはずみ、とてもめでたい色彩の飾りがたくさんできました。

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妻Tの差し入れはマンゴーのケーキと、りんごとくるみのケーキ。工作の後は、みんなで美味しく食べました。
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2008/11/14

県民の日  その他

今日は県民の日で高校生以下無料。でも高校生以下は来館せず、一般のグループ相手に2件の館内説明を行いました。
美術館周辺の木々はすっかり黄色に色づいています。

「シシュポス展」出品作家の増山麗奈さんが公開制作のため来館。今後、11月末まで毎週金曜日に来館される予定です。その増山さんが編集委員をされている雑誌『ロスジェネ』が流行語大賞にノミネートされたそうです。『ロスジェネ』創刊号、増刊号とも丸木美術館入口で販売中です。

   *   *   *

16日(日)から4泊5日で沖縄に行きます。
19日(水)には沖縄県立博物館・美術館で開催中の「美術家たちの南洋群島」展の公開講座で「赤松俊子 人と芸術」と題するレクチャーを行います。
その準備やこまごまとした仕事の整理のため、ここ数日は忙しく過ごしました。
ようやく仕事に目途がつき、一段落しつつあります。
沖縄ではインターネットをチェックできる環境にいますので、急ぎの用事のある方はメールにてご連絡ください。
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