2008/1/12

美術館クラブ・柿の木の日イベント@  ワークショップ

企画展「いのちをつなぐ希望の木 柿の木プロジェクト in からこ」の一環として毎月1回行われる「柿の木の日」イベント。
12月のオープニングに続き、あいにくの天候で、小雨の降る一日となりました。
残念ながら、地元の子どもたちの姿も見えません・・・が、ストーブで暖められた野木庵で行われたイベントは、とても楽しく賑やかな会になりました。

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紙芝居「かきのきおやこ」を上演して下さった木谷安憲さん。
もうすぐ4歳になる息子さんも、観客としておとなしく聞き入っていました。

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児童文学『天の園』の朗読をして下さった屋代明子さん。
寒い日に、夏の物語を朗読して、聞き手の皆さんの心を暖めて下さいました。

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そして、美術館クラブ工作教室は「置物ケーキを作ろう!」。木片とボタンを組み合わせて、ケーキの置物を作るというワークショップです。
本当はわが家の妻Tが案内人を担当することになっていたのですが、体調を崩し欠席。代理として(?)3歳の息子Rが参加しました。
この日は6歳のお姉さんも参加して、美味しそうなケーキを作っていました。
大人も子どもも大張り切りでパティシエ気分(?)を満喫していましたよ。

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ワークショップの後には、妻T手作りの本物のチョコレートケーキも登場。
みんなで楽しく頂きました。

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次回は2月16日(土)。たくさんの方のご参加をお待ちしています!
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2008/1/12

《原爆の図》展―1951年の軌跡  1950年代原爆の図展調査

引き続き新発見資料による1951年の巡回展について気づいた点を記します。

   *   *   *

大阪市大劇地下劇場展(1951.1.27-2.28)
「大劇」とは大阪市南区(現・中央区)千日前にあった大阪劇場(1967年廃座)の通称。
この展覧会のことは初めて知りました。1ヵ月という会期の長さは当時としては異例で、そのため、後に《原爆の図》三部作の模写作成の必要が生じてきます。

日本橋三越「選抜秀作美術展」(1951.1.20-31)
朝日新聞社主催の選抜秀作美術展は、国内で開催された各種美術団体展、個展、グループ展の出品作から、「優秀作と認められるものまたは構想、技法に何かしら新境地を開拓しようと試みたと認められる作品」を、作家、鑑賞家、批評家などから推薦を受け、朝日新聞社内に設けた選定委員会で選抜した「年度美術界の鳥瞰とも思われる」展覧会。(1950年3月『第1回選抜秀作美術展覧会図録』より)
「あまりに画面が大きいため陳列できず」とのこと、実際に展示されなかった事実は初めて知りました。

前橋市麻屋デパート展(1951.2.14-18)
麻屋は1934年創業の前橋初の本格的百貨店。現在は国登録有形文化財になっています。
この展覧会の情報でもっとも注目するのは、《原爆の図》三部作が大阪劇場に出品中であるため、「三部作の模写を完成して陳列」したという記述があることです。
現在、この模写作品は広島市現代美術館に所蔵されています。どのような経緯でいつ頃描かれたのかについては、これまで不明とされていましたが、今回の新資料で明らかになりました。この模写は丸木夫妻自身の手によるものではなく、アトリエに出入りしていた若い画家たちによって制作されたとの説もあります。
この前橋展は(模写の展示であるにもかかわらず)、新資料によるとかなりの盛り上がりを見せたようですので、いずれ群馬の地元紙を中心に当時の記録を調べてみたいと思いました。

桐生市モリマサ百貨店展(1951.2.22-25)
前橋、桐生ともに展覧会の存在を初めて知りました。模写をはじめ前橋展のために準備した展示物が桐生に巡回したものと思われます。

横須賀市民会館別館展(1951.3.27-31)
鎌倉市由比ヶ浜青年会館展(1951.4.5-7)

どちらの展覧会も存在を初めて知りました。
当時、藤沢市片瀬に居住していた丸木夫妻にとっては地元開催となる展覧会で、どちらも日本美術会神奈川支部が関わっています。
興味深いのは鎌倉展の賛同発起人で、大佛次郎(小説家)、小牧近江(翻訳家)、川端康成(小説家)、田辺至(画家)、吉野秀雄(歌人)ら多彩な顔ぶれが名を連ねています。久留米展の際の坂本繁二郎とともに、この時期の《原爆の図》展に、多くの芸術家・文化人が関わっていたことがわかります。
ヨシダ・ヨシエは、「当時稲村ヶ崎に住んでいた仏文学者の小牧近江に紹介されて」丸木夫妻のアトリエに出入りするようになったと回想しています。

仙台市マルエス・ストア展(1951.4.16-18)
俊は1951年4月16日の日付入りで展覧会のスケッチを残しています。

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山形市美術ホール展(1951.4.22-24)
秋田市教育会館展(1951.4.27-29)

どちらも初めて存在を知った展覧会です。
山形新聞に農民運動家・詩人の真壁仁による批評記事が掲載されたというのが興味深いところで、いずれ調査をしたいと思っています。

大阪市生野町大瀬天理教会展(1951.5.8)
大阪市生野町御幸森朝鮮小学校展(1951.5.9)
大阪市生野町田島朝鮮小学校展(1951.5.10)

この生野の《原爆の図》展では、小沢節子著『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年岩波書店)で詳しく言及されている「焼け死んだややこ」のエピソードが生まれました。このエピソードは俊にとって、繰り返し回想するほど印象に残るものとなりました。
「大阪の生野で原爆展を開いた時の話です。(中略)さっきからその絵の前にしゃがみこんでじっと動かない、二人の子供づれの中年の婦人がありました。見れば彼女はそっと手をのばして、画面の赤ん坊をなでさすっているのです。そして、子供たちにささやくように言っておりました。『このヤヤコが死んだんやぜ、このヤヤコが死んだんやぜ』と。二人の子供はびっくりしたような顔でじっと火につつまれた赤ん坊を見つめていました。私は、この親子達の絵の見方といって何一つ知らない、しかし、それだけに素朴な態度に、力強い感動を受けました」(1952年10月『新世界』より)
「『このややこ(赤ん坊)が焼けて死んだんやで』大阪の天理教の御堂に陳列した原爆之図、二部の火の中の赤ん坊をおばさんはなでながら子供に話して聞かせています。『あ、絵にさわらないで』と、口から出そうになる言葉を抑えて、わたしは、その素直・素朴な鑑賞の態度に胸を打たれました。」(1952年12月『美術批評』より)
このエピソードの意味するところについては、小沢前掲書pp.166-171をお読みいただくとして、この展覧会がいつ、どこで行われた展覧会だったのかという疑問が、新資料によって決着したようです。
「大阪の生野」の「天理教の御堂」で開催された展覧会ですので、5月8日に開催された大瀬天理教会での展覧会と考えるのが妥当でしょう。
また、俊は1951年5月9日の日付入りで展覧会のスケッチを残していますが、こちらも会場が御幸森朝鮮小学校と判明しました。

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大阪市天王寺駅展(1951.5.11-13)
奈良市椿井町社会館展(1951.5.15-17)

これらの展覧会も初めて知りました。
主催はどちらも国鉄労組(南近畿地方本部と奈良支部)。天王寺駅は阪和線2階が会場になったというので、どういう構造の駅なのか気になります。

松本市第一公民館展(1951.5.20-25)
長野市城山公園大会場(1951.5.27-31)

近畿地方から長野に移動して2会場で展覧会を開催。
以前に池田満寿夫美術館の元館長さんから、当時17歳で長野高校に通っていた池田満寿夫が1951年5月27日に長野市内で《原爆の図》展を観て大変感動したと日記帳(未刊行)に記しているとご教示いただきましたが、その展覧会の会期と会場が今回の新資料で判明しています。

弘前市かくはデパート展(1951.6.16-18)
□(四角)の内側にひらがなの「は」と表記される弘前市の「かくはデパート」(1923年に東北地方初めてのデパートとして開業した「かくは宮川」デパート、現在は閉店)で行われた展覧会。
俊は1951年6月16日の日付入りで展覧会の会場スケッチを残しています。

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盛岡市川徳デパート画廊展(1951.6.20-22)
福島市福ビル展(1951.6.24-26)

これらの展覧会の存在は知っていましたが、会期・会場は初めて特定されました。
4月に宮城、秋田、山形を巡回しているので、青森、岩手、福島とこの年に東北地方全県を巡ったことになります。

京都丸物百貨店「総合原爆展」(1951.7.14-24)
会場となった丸物百貨店は1920年創業の老舗店で、その後京都近鉄百貨店となりました(現在は閉鎖)。
原爆の図第4部《虹》、第5部《少年少女》が初公開され、新資料に「最も完成された総合展」と記されているように、医学、物理、化学、政治、経済の各部門からの展示が充実し、その後の展覧会の基礎となった重要な展覧会であったようです。10日間の会期で入場者はおよそ3万人。
当時展覧会を手伝った方の証言によると、丸木夫妻は智積院に宿泊していたそうです。

   *   *   *

以上、ざっと気づいた点を書き記しましたが、個々の展覧会については、これからもう少し資料を探して深く掘り下げてみたいと思っています。
それにしても、「京都展までの展覧会総日数158日 総入場者約50万人」・・・一日平均3,000人強とは想像を絶する数字です。
巡回展の足跡をたどりながら当時の熱気を追体験し、《原爆の図》の受容に新たな展開を見つけ出していきたいものですね。
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