2008/1/11

《原爆の図》展―1950年の軌跡  1950年代原爆の図展調査

昨日発見した「原爆の図三部作展覧会記録」について。

昨日も記しましたが、これほど詳細な《原爆の図》巡回展の資料は、今までに例がありません。
いつ頃、何のためにまとめられたのかが気になるところです。
ひとつの可能性として考えられるのは、1952年1月に平和擁護日本委員会代表の大山郁夫が、パリにおける世界平和文化賞審査委員会委員長ピエトロ・ネンニに宛てた「世界平和文化賞出品《原爆の図》推薦の言葉」のために、記録をまとめたのではないか、ということです。
『画集普及版 原爆の図』(1952年4月青木文庫)に収められた大山の文章には、1950年2月から1951年11月までの期間に行われた展覧会の回数や日数、入場者数などが具体的に記されています。この文章が、現在判明している限りではもっとも古い《原爆の図》巡回展の記録なのです。

それでは、以下に順を追って気づいたことを記していきます。

   *   *   *

東京上野美術館 日本アンデパンダン展(1950.2.8-17)
新資料には「1950年2月8日から18日まで」とありますが、日本美術会の記録によると2月17日まで。原爆の図第1部《幽霊》が《八月六日》の題で発表された展覧会です。日本美術会機関紙『BBBB』などに詳しい記事が出ています。1950年2月24日の『婦人民主新聞』には、初めて《原爆の図》という題で作品が紹介されました。

東京丸善画廊「原爆之図展」(1950.3.21-24)
新資料には記されていませんが、第1部《幽霊》のほかに未完成作《夜》も発表。主催の桃季会は日本美術会のグループのようです。6名の発起人については初めて知りました。

東京渋谷東横デパート「水爆原爆展」(1950.7.末)
この展覧会に出品されていたことは初めて知りました。

東京丸善画廊「原爆之図三部作完成展覧会」(1950.8.7-13)
東京銀座三越「原爆之図三部作完成展覧会」(1950.8.15-20)

従来の資料では会場が併記され会期も8月7日から20日までとされていたが、新資料で7日から13日までが丸善画廊、15日から20日までが銀座三越と判明。
俊は画文集『ちび筆』(1954年室町書房)で、三部作完成展を8月6日に三越本店で開催したいと考えて新聞社から紹介状をもらったが、“原爆”と聞いて三越側が慌てて断ったため、丸善画廊と二股で交渉しながら今度は銀座三越へ何度も足を運んで実現にこぎつけたと回想しています。
絵本『ピカドン』の原画が出品されていたことや、主催が「平和を守る会」、後援が「ポツダム書店」(絵本『ピカドン』の発行元)だったことは初めて知りました。三部作完成と同時に絵本『ピカドン』出版記念の意味があったのでしょう。

東京日本交通協会「原爆之図三部作完成記念会」(1950.8.18)
丸木夫妻が後に、「鉄道会館」で記念集会が開催されて《原爆の図》全国巡回の決議がなされたと回想している(『日中』1975年11月号)集会。1950年8月26日の『婦人民主新聞』に詳細が報じられています。

広島県山県郡加計町「原爆之図三部作表装完成展覧会」(1950.9.26)
巡回展のため位里の弟の宜三に頼んで軸物に仕立て直したところ、絵の噂が町じゅうに広がって寺のお堂で完成披露を行ったと、画文集『ちび筆』に回想されている展覧会。
新資料によって会期が特定されました。

広島市爆心地文化会館展(1950.10.5-9)
この展覧会を手伝った「われらの詩の会」は峠三吉を代表とする青年詩人集団。
展覧会前日に五流荘で丸木夫妻と壺井繁治の座談会が行われ、その様子は『われらの詩』第10号(1950年12月号)に掲載されました。
後年の資料では会場が「五流荘ホール」であったり、会期が10月9日から16日であったりするものもありますが、1950年10月21日の『婦人民主新聞』には、10月5日から9日まで「爆心地の原爆会館」で開催されたと報じられており、新資料の記録を裏付けています。

九州志免炭坑展(1950.10.19)
八幡市大谷会館展(1950.10.21-24)
福岡市新天会館展(1950.10.25-27)
久留米市金文堂展(1950.10.28-30)

従来の資料では、丸木夫妻も同行した《原爆の図》展が九州から山陰地方にかけて行われたとされていましたが、具体的な会場と日程は初めて知りました。
主催・後援団体を見ると労働組合(国鉄労組、八幡製鉄労組)が目につきます。この頃から組合系の団体が主導して全国巡回展が組織されたと考えていいのでしょうか。
久留米展のところで坂本繁二郎の名が登場(坂本繁二郎を訪問し原爆使用禁止署名の賛同を得て家族一同署名、とあります)したのは意外でした。故郷の久留米で俗世間を離れて静謐な絵を描き続けた画家との印象があったためです。

松江市公会堂展(1950.11.12-15)
後にヨシダ・ヨシエとともに《原爆の図》巡回展の担い手となる野々下徹(当時松江の中学校の美術教師)が、この展覧会を見たのを機に上京し、丸木夫妻のもとで居候をしながら絵の勉強をすることになったと回想する展覧会。
1994年7月の『丸木美術館ニュース』第50号には、「先生たちとの出会いは、島根県松江市の原爆の展覧会会場でお会いしたんですよ。市の公会堂でしたね。先生たちのデッサンをずーっと見てね、それから、《原爆の図》を見て、ああこれはただごとではないわ、こんな所でまごまごしていると何も出来ないなあ、と思ってね、一つ刺激をあたえられたんですね。私はもっぱら油絵というかデッサンの方に固執していました。俊さんが、私の24、5歳の肖像をコンテで描いて下さったのは、今も大事にしています」という野々下の回想が紹介されています。

米子市明道校講堂展(1950.11.18-20)
野々下徹とともに翌年から丸木夫妻のアトリエに居候をした画家の吉留要(当時米子市の中学校の美術教師)が1997年8月24日の公開講座で《原爆の図》を見たと回想した展覧会です。
回想によると、吉留と親しい画家仲間の野々下と大森が米子展の手伝いをして、「まだ見てないのか、早く見に行け!」とはっぱをかけられて会場になっていた小学校の講堂に行ったそうです。
「終戦後いくらも経っていない頃で壁はよごれ、窓ガラスはこわれ、床はざらざらで裸電球がぶら下がったうす暗い会場でした。そしてあの大画面に囲まれていると文字通り息を呑むような異様な緊張を強いられ、見るというより、何ていうんでしょうね、得体の知れない力に捉えられているという感じだったことをはっきりと覚えています。そしてその感覚は――つまり《原爆の図》はいまも私の中にしっかりと存在しているといっていいと思います」(『丸木美術館ブックレット2 「原爆の図」を論ず』より)

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また長くなりましたので、1951年の巡回展については後日記します。
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