2008/1/31

2008年1月の入館者数  入館者数

【2008年1月】
◇個人  281人(前年比−50人)
◇団体  118人(前年比+87人)
◇合計  399人(前年比+37人)

【2007年度累計】
◇個人  7,136人(前年比−2,754人)
◇団体  5,375人(前年比− 934人)
◇合計 12,511人(前年比−3,688人)

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12月の個人月間入館者数は前年比50人減。過去5年間では4番目の数字ですが、僅差なのでほぼ例年並の数字と言えます。
団体月間入館者数は118人。前年比87人増ですが、こちらもほぼ例年並み。
月間の合計人数も399人で、前年比微増となりました。

今回、企画展のチラシに小・中学生無料招待券をつけ、市内全域の小・中学校に配布したのですが、今月の招待客は18人とあまり機能していません。
1月中旬に市役所環境保全課の方が東武東上線各駅にポスター掲示を依頼し(東松山駅、つきのわ駅のみ掲示された)、市内各公民館や図書館にポスターを配布。丸木美術館の地域委員会の皆さまも地域でポスター掲示をするなど宣伝に力を入れているので、今後の効果に期待したいところです。
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2008/1/31

1950年10月広島五流荘展  1950年代原爆の図展調査

ここ数日、1950年10月5日から9日に広島市内の五流荘で行われた「原爆の図展」について調べています。《原爆の図》三部作が初めて広島市内で公開された重要な展覧会です。
中国新聞のK崎記者の協力により、いくつかのことがわかってきたので、以下にまとめます。

   *   *   *

まず、会場となった五流荘について。
資料によっては、「爆心地の原爆会館」(1950年10月21日付『婦人民主新聞』)「爆心地文化会館」(「原爆の図三部作展覧会記録」)などとも記されていますが、五流荘、または五流荘ホールという呼び方で良さそうです。
五流荘については、1993年2月8日付『中国新聞』に「建造者不明・資料なし…幻のホール」という記事が出ていました。
終戦直後から1951年頃までの数年間、原爆ドーム南隣にあった簡易木造建築で、当時の広島県労働組合協議会会長の松江澄さんの回想によると、「だれが、何のために造ったのか今なお分からない。個人で造れるような大きさではなく、管理する人もいなかった。中は体育館のようにがらんどうだった」そうです。
五流荘は、原爆反対などを叫ぶと連合国軍総司令部(GHQ)ににらまれた時代の平和運動を支えた建物ですが、資料はほとんど残っていないとのこと。
1950年10月の「原爆の図三部作展」に関わり、翌年8月1日には被爆者のための慰霊音楽会を開いたという松江さんは、「平和運動にはなかなか会場を貸してくれない時に、自由に使えてありがたかった」と話しています。

ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトの今年1月18日の記事には、被爆から2年後の広島中心部のパノラマ写真(撮影:菊池俊吉氏)が掲載され、五流荘の姿も確認できます。
原爆ドームの奥の、三角屋根の倉庫のような建物です。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/jp/news/n080118/n080118.html

   *   *   *

「原爆の図展」に協力したのは、『われらの詩(うた)』という詩誌を発行していた青年詩人集団「われらの詩の会」(代表・峠三吉)。
1975年7月25日付『中国新聞』の記事「《原爆の図》にかける 丸木位里・俊の30年〈4〉」によると、峠三吉・和子夫妻、深川宗俊、望月久、増岡敏和、林幸子、四国五郎らのメンバーでした。
展覧会前日には丸木夫妻と壺井繁治の座談会が行われ、『われらの詩』第10号(1950年12月発行)には「壺井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」という要約記事が掲載されています。

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俊は座談会で、以下のような発言をしています。
 原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、「長崎の鐘」でもお祈りするだけだ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという氣持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた。
 アトリエが狭いので丸めて描き部分部分を細かく描いたので、ルネツサンスにおけるリアリズムの原則の透視圖が成立しない。即ちミケランヂェロ等とちがつて繪全体に焦点がなく一つ一つの部分にそれがあるのだ。そういう傳統は東洋畫のなかにある。リアルでないといわれるけれど描く本人にとつて肉体的に感覺したもののなかにそうしたものがあるのではないかと思つている。


壺井氏はそれに対し、こう答えます。
 モチーフは失われた人間の生命に對する愛情、そういう破壊に對する憎しみ、その愛と憎しみがつよくでているとおもう。現實には木や瓦があるのだがモチーフが人間にあるからモチーフを追求した方がボリユームがあるとおもう。材木など觀る者が想像すればよい。

丸木夫妻は《原爆の図》の連作(その後の南京やアウシュビッツ、水俣、沖縄なども)を通じて、徹底的に人間の身体を描くことで主題に迫っているのですが、それが1950年という初期の段階から相当強く意識されていたことが、あらためて感じられる資料です。

   *   *   *

1950年10月6日付『中国新聞』には「書きつづく原爆畫」という見出しで、第3部《水》の右半双の写真とともに展覧会の様子が報道されています。
この記事には、丸木夫妻の談話(おそらく俊の言葉でしょう)が紹介されています。
 映画でも絵画でも雲がモクモクと出ているのが原爆であるというような軽々しいあつかいをしているのが気に入りません、原爆直後の広島市をこの目でみてスケッチした私たちも爆弾は受けなかったのでこの展覧会を機として体験者の話をもきいて四部作、五部作と続けたいと思います、アメリカで画集を発行する計画もありますが、私たちはこの作品をもっともっと充実したものにしてゆきたいと思います。
広島での初公開を機に、「体験者の話をもきいて」後続作を描く構想が最初からあったこと、当時「アメリカで画集を発行する計画」もあったこと(どれほど現実的だったかはわかりませんが)などがわかります。

   *   *   *

1950年10月21日付『婦人民主新聞』には、展覧会の総括が掲載されています。
それによると、「宣伝が十分できにくかつたことと、繁華街でないため、東京展にくらべ入場者はすくなかつたが、会場での平和投票は2,668票に達し、これは広島の婦民クラブの票に加えられた」とのこと。
紙面に紹介された俊の便りには、絵の前に次々と語り手が増え、丸木夫妻は聞き手にまわりながら、「もうこれで完成と思つていた原爆之図は四部作五部作へと前進せねばならなくなりました」と思ったことが記されています。

《原爆の図》をあくまで前向きにとらえる俊に対し、位里は別の考えを書き記しています。
1950年10月5日付『中国新聞』に掲載された、位里の絵と文による「陳列館跡」。
興味深く、かつ短い文章なので、全文引用します。

見まい、思い出すまい、思い出すのはたまらない。見まいとしても見なければならない陳列館跡。わたしはこの陳列館をどうしたらいいかと広島へ来たたびに考えさせられている。原爆の図は広島へは持って来てくれるな。広島で展覧会をするのはやめてくれ、と妹はしんけんな顔をしていった。ある主催者はいまさら凄惨な思いを再現するのはどうかというてきました。わたしはこの原爆の日を描いて考えさせられております。描かなければならない。絵かきとしていま、描かなければならないものはこれだと思って、すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない。

広島では決して《原爆の図》展示は歓迎されたわけではなかったことを感じ取り、「絵かきとして描かなければならない」との決意の一方で、「すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない」との思いを抱いた位里。
原爆という未曾有の地獄図を描きながら、しかし芸術としての美しさをたたえている《原爆の図》の複雑さ、多面性は、こうした二人の感情の交錯から生まれてきたのではないかと思います。

ちなみに「陳列館」とは、現在「原爆ドーム」の名称で知られる広島県物産陳列館(1915年8月5日開館、1933年広島県産業奨励館に改称)のことです。
戦前は盛んに美術展が開催され、広島での美術普及に大きく貢献した建物で、位里も1936年に靉光らと開催した第1回藝州美術協会展をはじめ、何度も作品を展示していました。
《原爆の図》連作には「原爆ドーム」などの建物は一度も描かれていないだけに、『中国新聞』に掲載された位里の筆による「陳列館跡」のスケッチは、なかなか興味深いものがあります。

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2008/1/30

埼博連 後期研究会及び見学会  調査・旅行・出張

埼玉県博物館連絡協議会の後期研究会及び見学会に参加して、さいたま市に昨年10月オープンした鉄道博物館へ行きました。
この研究会は加盟館の職員相互の連携と能力向上を目的とし、今後の博物館活動のいっそうの充実をめざすという目的のものです。

午前中に鉄道博物館主幹学芸員のO原さんの講演「鉄道博物館の概要」を聞き、午後には鉄道博物館の収蔵施設や展示施設を視察しました。

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年間60〜70万人の来館者を予定していた鉄道博物館ですが、開館から約3ヵ月後の1月18日時点ですでに60万人を突破したという恐るべき盛況ぶり。
1日あたりの入館者数の最多記録となった1月3日には、1万5,300人が入館したそうです。この数字には、もちろん友の会の会員も含まれているでしょうが、丸木美術館が昨年度全体で1万9,860人だったことを思うと(予算規模やメディアへの露出度が大きく違うとはいえ)驚異的な数字です。
もっとも、これだけ予想を超えてしまうと、飲食店や駐車場などのキャパシティが深刻なほど不足し、目下その対応が一番の課題だとか。
これは丸木美術館も他人事ではなく、夏休みやイベント時など、1日あたりの入館者が100人を超えるとキャパシティ不足を痛感します。

来館者の内訳は、6〜7割が小さな子どもを連れた家族で、年配の団体や若いカップルも多いそうです。神田にあった旧交通博物館時代には考えられなかったのが、若い女性のグループが多いということ。これは現在の鉄道ブームの大きな特徴と言えるでしょう。
やはり時代を動かすのは若い女性なのでしょうか。

博物館の最大の見どころは36台の実物車両展示ですが、ミニ運転列車や運転シュミレータ、模型ジオラマなどアトラクション施設も充実し、鉄道の歴史や原理・技術を体験的に学ぶことのできる展示施設も非常に工夫して作られています。
また、博物館の立地(旧川越線車両基地)条件も素晴らしく、窓や展望台からは在来線と新幹線、ニューシャトルが行き来するのが良く見えました。

   *   *   *

休憩時間には、旧知のサトエ記念20世紀美術館のE学芸員に挨拶をして、お互いの近況報告。
小さな美術館同士、何かと課題が多いのも共通しているようですが、たまにお会いしてちょっとした話をするだけで、勇気づけられます。
埼玉は美術館の数が少ないので、つながりのある学芸員がいるのは本当に心強いものです。
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2008/1/29

来館者へカイロをプレゼント  その他

先日、友の会会員の方から頂いた120個のカイロの続報です。
事務局スタッフ会議の結果、来館者の皆さまに差し上げることに決まりました。

入館の際に受付で声をかけ、希望された方のみ、お一人さま一個ずつ差し上げます。
今日も天気予報は雪の可能性ありとのことで、結局は降りませんでしたが、館内はとにかく冷え込んでいます。
このカイロが、来館者の皆さまの身体と心を少しでも温めてくれることをお祈りします。
なお、カイロのサービスは、数がなくなり次第終了となりますが、もし「私もカイロを寄付しよう」という方がいらっしゃったら、もちろん喜んでお受けいたします。

冬の丸木美術館には、たいへんありがたい頂き物です。
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2008/1/27


昨日から美術館のトイレの水道管が凍りはじめました。
凍結を防ぐために毎日閉館時には元栓をしめて蛇口を開き、水道管を空にして帰るのですが、それでも寒い朝は美術館に来ると水が出ないようになるのです。
昨年は水道が凍る日が1日もなく、はっきり地球温暖化の危機を感じたので、今年は(寒いのはとても辛いけれども)少しほっとしています。

とはいえ冬の来館者にとっては、絵を見続けるのはかなり厳しい室内の寒さ。
数日前、友の会の方から貼るカイロ120個の寄付が届きました。
以前、W大の講演後の飲み会で「冬はカイロの寄付を募って来館者に無料で配布しては?」との意見が出ましたが、まさにそれが現実となる日も来るかもしれません。

昨日、今日と地元の「天の園」の会の方々が夕方来館し、子どもたちの絵や絵手紙の展示替えして下さっています。
少しでも、家族連れの来館者が増えるといいのだけれど・・・
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2008/1/24

ちひろ美術館学芸員来館  来客・取材

午後、ちひろ美術館・東京の学芸員U島さんとY田さんが来館しました。
ちひろ美術館・東京では、2008年度の冬に「ちひろと水墨」展を開催予定。
絵本画家いわさきちひろの絵の技術的な問題に踏み込んで、影響を受けた水墨画との接点に注目するという展覧会です。
敗戦直後、画家志望のちひろは、丸木夫妻の主催するデッサン会に頻繁に参加していました。
今回の展覧会では、その当時にちひろが見たであろう丸木位里の実験的な水墨画の展示を数点検討されているとのこと。また、ちひろがモデルになって描かれた丸木俊のデッサンなども出品されそうです。

U島さんには、以前からお願いしていた、1988年頃に講談社『つば広の帽子をかぶって』取材のために行われた飯沢匡さんと丸木俊の対談記録、1994年10月19日に松本猛さん(ちひろの息子)、長嶋香矢さん(元ちひろ美術館学芸員)によって行われた丸木俊のインタビュー記録も頂きました。
どちらも、丸木俊といわさきちひろの交流の様子が細かく回想された貴重な記録です。
どうもありがとうございました。
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2008/1/23

檜画廊「丸木位里・丸木俊二人展」など  館外展・関連企画

朝から雪の降るなか、しかし今日しか動ける日がなかったので、東京に出て竹橋の東京国立近代美術館と神田神保町の檜画廊へ行きました。

   *   *   *

東京国立近代美術館では、「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」という企画展が開催中。「わたし」の根拠を問い、「わたし」を取り巻く世界を認識し、「他者」との新たな関係を切り拓こうとする作品を集めた展覧会です。
「柿の木プロジェクト展」でお世話になった現代美術家の宮島達男さんのLEDを使ったデジタルカウンターの作品《Monism/Dualism》や、過去何度か丸木美術館の企画展に出品して下さっている郭徳俊さんの、歴代アメリカの大統領の顔写真と自分自身の顔を鏡を用いて合成した連作(《フォードと郭》から《ブッシュ2001と郭》まで8点)も展示されています。
郭さんが紹介された〈「社会と向き合うわたし」を見つめるわたし〉というセクションが興味深く、特に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う2トンの粘土の頭像と格闘する自分自身の様子をコマ撮りのアニメーションで作品化し、9.11以後のアメリカの状況をアイロニカルに表現した高嶺格の《God Bless America》が印象に残りました。

   *   *   *

檜画廊では1月21日(月)から26日(土)まで「丸木位里・丸木俊二人展」を開催中。
毎年恒例の小品展です。
今年は、位里さんにしては珍しいブルガリアのイコン像を描いた水墨が目につきました。
イコンなので、もとは彫刻か絵画の聖像だと思われるのですが、位里さんが描くと人物と周辺の空気が揺らいで見えて、まるで生きている人のようです。飄々としたユーモラスな作品でした。
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2008/1/22

1950年代《原爆の図》川之江展の情報  1950年代原爆の図展調査

来館者の応対や展覧会の準備は比較的少ない冬場ですが、新しく出てきた資料の整理やデータ入力などで毎日それなりに仕事はあります。
今日は来年度に丸木スマ展を開催される予定の川口市アートギャラリーと埼玉県立近代美術館の担当の方に電話で連絡をとり、展覧会の会期や諸条件についての打ち合わせを行いました。

   *   *   *

先日発行した美術館ニュースで1950年代巡回展の情報を募集したところ、友の会維持会員のMさんから、「1950年代初頭に愛媛県宇摩郡川之江町(現四国中央市川之江町)で巡回展を観ました」とのご連絡を頂きました。
当時新制中学3年だったMさんの記憶によると、下校途中に路上の仮設会場で第1部《幽霊》をご覧になったとのこと。
「ただし、1点という印象ではなく、連続した墨一色のシーンとして記憶しています。仮設会場はテントだったのか、帆布かなにかを回廊のように張り巡らしたものだったか、とにかく白い布の壁をめぐらした通路にそって、片側の手で触れそうな距離に墨絵が続いていた印象です」と回想されています。

この川之江での展覧会については美術館にも符合する記録がなく、時期が特定できないのですが、Mさんは、「おそらく1950年の5−7月、もしくは秋頃」、「海岸沿いに予讃線沿線のめぼしい町を回ったのではないでしょうか」と推測されています。
小学4年生で東京から父母の郷里である川之江に疎開し、そのまま終戦を迎え中学3年まで残ったというMさん。
当時の川之江には「文化協会」といった組織もあり、「東京から名人といわれた桜間金太郎(弓川)師を招いて、女学校の仮設舞台で演能したり、町の劇場にさりげなく吉田文五郎の文楽が来たり」といった雰囲気だったそうです。
また、Mさんの中学1年の時の担任の先生は、広島出身でご両親を原爆で失い、2人の妹さんを引き取り、伝手を頼って川之江に来ていた方で、アララギの歌人でもあったので、《原爆の図》招致に関連があったかも知れないとのこと。

こうした周辺の記憶もたいへん興味深いです。
Mさんの当時の担任教師や同級生の方々は川之江に健在なので、また新たな情報を探して下さるというのが楽しみです。
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2008/1/19

小高文庫の整理  ボランティア

昨日はボランティアのM園さんが来てくれて、小高文庫の図書整理をして下さいました。
ぼくもいっしょに丸木夫妻の古い資料(掲載雑誌・図録・書籍・画集など)の整理をしましたが、昨日のうちに終わりきらなかったので、今日も引き続き一人で整理をしました。

M園さんの図書整理は順調に進んでいて、そろそろデータ入力作業に移ろうかという状態です。
ぼくの方は、この冬の間にいまだ未開封資料が大量に眠っている押入れの整理をしてしまいたいと考えているところ。
今日も、本棚の一番下の戸棚を少し整理してみたら、まむし酒などのビン(俊さんが作ったものらしい。20年以上前のものと思われるが、オソロシくて誰も飲もうとしない)といっしょに、初めて見る60年代の掲載誌がまとまって見つかりました。
まだまだ何が埋もれているかわかりません。
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2008/1/18

17歳の池田満寿夫と《原爆の図》展  1950年代原爆の図展調査

池田満寿夫美術館の元館長さんから、《原爆の図》展を見た池田満寿夫の17歳のときの日記のコピーを送って頂きました。
この日記は2003年に池田満寿夫の遺族宅で発見された「芸術家として知られる以前の様子が分かる貴重な資料」とのことです。

1月12日の学芸員日誌にも記しましたが、今回発見された《原爆の図》巡回展の記録によって、池田満寿夫の見た展覧会は、1951年5月27日から31日まで長野市・城山公園大会場で開催されたものだということがわかっています。

以下はその日記の抜粋です。

   *   *   *

5月27日[日]来信―吉兼賢次
 遂に、あのことを母に打ち明けた。あまりに痛く、病状が悪化しても困るので、病院に行ってみる気になった。母も心配して直ぐ行くように言ってくれた。早速、行ったが、生憎、休みだった。で、展覧会を見に行くために城山まで行ってみたが、まだ準備中で見られなかった。それに、みんな野球を見に行くので、つい見る気になってグランドへ行った。本校は松商に勝って決勝を長姫とすることに決まった。今日の応援は上出来で、みんな亢奮し、熱中した。ブラス・バンドも大会の気分を出すのに充分なほど上手くいった。応援席を開けてもらうのに、応援団にいくら頼んでも聞いてくれないが、悠然と座っている大人が随分いた。中には反って文句を言い、他の者の非難を蒙った者もいたが、やはり退いてくれなかった。こんな時は実に不愉快で腹が立つ。
自分は、どうしても彼女を忘れることが出来ない。いくら冷静を保とうと心掛けても、彼女を見ると、異様に胸が踊ってくる。そして、自分自身、諦めることが不可能であるということを知り過ぎるくらいに解っている。一体、彼女のどこがそんなに良いのだ。そして何故、彼女でなければならないのか。彼女の方では自分など眼中にないのに。自分だけが亢奮し、やきもきしている。自分は本当に冷静になって心を落ち着けて考えることが出来ない。彼女の前で、わざと他の店員から本を買った。自分の方をちょっと見て強い目つきをみせたが、好い気味だと思った。勿論、内心は逆だが。
《原爆の図》は野球の帰りに見た。黒白で描かれたもので、日本画か洋画か、ちょっとまごついた。が、何しろ大作で、特に百枚ものデッサンには感服した。幽霊・火・水の三部作からなり、その意図するものは戦争への激しい反抗であり、人間のおののき、叫ぶ赤裸々な姿である。

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個人的には、「日本画か洋画か、ちょっとまごついた」という箇所が興味を惹きました。
《原爆の図》は水墨画家の丸木位里と油彩画家の赤松俊子(丸木俊)の共同制作。特に第2部《火》では、西洋的なリアルな人物像と東洋的な様式化された炎の描写が溶けあい、不思議な効果を発揮しています。
昨年5月の講演で神奈川県立近代美術館の水沢勉さんが話されていた、「西洋の前衛表現の要素と日本の伝統が融合した1930年代後半の到達点から、戦争をくぐり抜けて《原爆の図》という従来の日本画と洋画という区分けがほとんど意味を成さない、新しい表現が生まれてきた」という言葉も想起します。
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2008/1/17

W大学ゼミ来館  来客・取材

昨年9月に教員養成プログラム「記憶を語ることば」の講演でお世話になったW大学のK井先生が、ゼミの学生13人を引率して来館して下さいました。

K井先生はじめ、学生たちはかなりの厚着で到着。入館前には用意してきたカイロも配られて、防寒対策はばっちりです。
よほど「寒い」という事前情報が行き渡っていたようですが、実際、やっぱり寒い一日でした。
《原爆の図》を見てまわりながら、いつもより少し長めの館内説明。
自由見学の後、炬燵やホットカーペットのある小高文庫で1953年制作の記録映画『原爆の図』を鑑賞。最後に質疑応答を行いました。
参加者全員、丸木美術館を訪れるのは初めてとのことで、とりわけ初期の《原爆の図》は強い関心を持って見ていた方が多いようでした。

今回来館されたのは教育学部の学生たち。すでに教員になることが決定している学生も多いそうです。K井先生は、「これからもW大学と丸木美術館の間には良い関係を築いていきたいし、今日見学に来た学生もぜひ教育の現場に立ったときに丸木夫妻の仕事を活用して欲しい」との嬉しい言葉をおっしゃって下さいました。
本当にありがとうございます。

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今日は他にも東久留米市の歌人K山さんが来館し、地元「天の園」の会のM本さんもホウレン草とミズナをたっぷり持ってきて下さいました。
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2008/1/14

日韓の高校生が来館  来客・取材

飯能市にあるJ学園の高校生と韓国の高校生合わせて39人が来館。
(毎年J学園は韓国の高校生を連れてきて下さいます)
ぼくは韓国の高校生の館内説明を担当しました(通訳付き)。

《原爆の図》初期三部作が発表された1950年は朝鮮戦争のはじまった年でもあります。
広島の被爆から5年の歳月が経過し、人びとの記憶が薄れつつあるという危機感のなかで、再び始まった戦争に核兵器が使用されることを案じて、丸木夫妻は《原爆の図》を描きました。
解説を聞く韓国の学生も「朝鮮戦争で原爆が使用されたら、この絵の様子は他人事ではなかったはず」と頷きながら絵を見ていました。

第14部《からす》は、日本の軍需工場で労働に従事していた朝鮮人被爆者が死後も遺体を差別されたというテーマの作品。2000年の光州ビエンナーレに出品され、2002年にはソウルの仁寺洞でも展覧会が開かれたことを紹介しました。
国家や民族を越えて、常に虐げられる側から20世紀の戦争や公害を描き続けた丸木夫妻の絵を、韓国の学生はどのような思いで見つめたのでしょうか。

日本と韓国の両国の学生がならんで絵を見つめる光景に、《原爆の図》は見る側にとっても、一人の人間として絵と向き合うことを求められる、厳しい(そしてある意味ではとても優しい)作品なのだとあらためて感じました。
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2008/1/13

丸木俊の命日  来客・取材

今日は丸木俊の命日です(2000年1月13日、87歳で没)。
丸木夫妻の命日や誕生日など、節目の日には必ずお参りに来る近所のE野さんが、今日もお花とお線香を持って来てくれました。

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「私が自分で来られるうちは、お二人に会いに来ますよ」とE野さん。
N事務局長とE野さんと三人で並んで宋銭堂に合掌。
E野さんも、お元気そうでなによりでした。

今年一番の厳しい強風でしたが、この季節にしては多い36人の入館者がありました。
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2008/1/12

美術館クラブ・柿の木の日イベント@  ワークショップ

企画展「いのちをつなぐ希望の木 柿の木プロジェクト in からこ」の一環として毎月1回行われる「柿の木の日」イベント。
12月のオープニングに続き、あいにくの天候で、小雨の降る一日となりました。
残念ながら、地元の子どもたちの姿も見えません・・・が、ストーブで暖められた野木庵で行われたイベントは、とても楽しく賑やかな会になりました。

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紙芝居「かきのきおやこ」を上演して下さった木谷安憲さん。
もうすぐ4歳になる息子さんも、観客としておとなしく聞き入っていました。

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児童文学『天の園』の朗読をして下さった屋代明子さん。
寒い日に、夏の物語を朗読して、聞き手の皆さんの心を暖めて下さいました。

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そして、美術館クラブ工作教室は「置物ケーキを作ろう!」。木片とボタンを組み合わせて、ケーキの置物を作るというワークショップです。
本当はわが家の妻Tが案内人を担当することになっていたのですが、体調を崩し欠席。代理として(?)3歳の息子Rが参加しました。
この日は6歳のお姉さんも参加して、美味しそうなケーキを作っていました。
大人も子どもも大張り切りでパティシエ気分(?)を満喫していましたよ。

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ワークショップの後には、妻T手作りの本物のチョコレートケーキも登場。
みんなで楽しく頂きました。

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次回は2月16日(土)。たくさんの方のご参加をお待ちしています!
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2008/1/12

《原爆の図》展―1951年の軌跡  1950年代原爆の図展調査

引き続き新発見資料による1951年の巡回展について気づいた点を記します。

   *   *   *

大阪市大劇地下劇場展(1951.1.27-2.28)
「大劇」とは大阪市南区(現・中央区)千日前にあった大阪劇場(1967年廃座)の通称。
この展覧会のことは初めて知りました。1ヵ月という会期の長さは当時としては異例で、そのため、後に《原爆の図》三部作の模写作成の必要が生じてきます。

日本橋三越「選抜秀作美術展」(1951.1.20-31)
朝日新聞社主催の選抜秀作美術展は、国内で開催された各種美術団体展、個展、グループ展の出品作から、「優秀作と認められるものまたは構想、技法に何かしら新境地を開拓しようと試みたと認められる作品」を、作家、鑑賞家、批評家などから推薦を受け、朝日新聞社内に設けた選定委員会で選抜した「年度美術界の鳥瞰とも思われる」展覧会。(1950年3月『第1回選抜秀作美術展覧会図録』より)
「あまりに画面が大きいため陳列できず」とのこと、実際に展示されなかった事実は初めて知りました。

前橋市麻屋デパート展(1951.2.14-18)
麻屋は1934年創業の前橋初の本格的百貨店。現在は国登録有形文化財になっています。
この展覧会の情報でもっとも注目するのは、《原爆の図》三部作が大阪劇場に出品中であるため、「三部作の模写を完成して陳列」したという記述があることです。
現在、この模写作品は広島市現代美術館に所蔵されています。どのような経緯でいつ頃描かれたのかについては、これまで不明とされていましたが、今回の新資料で明らかになりました。この模写は丸木夫妻自身の手によるものではなく、アトリエに出入りしていた若い画家たちによって制作されたとの説もあります。
この前橋展は(模写の展示であるにもかかわらず)、新資料によるとかなりの盛り上がりを見せたようですので、いずれ群馬の地元紙を中心に当時の記録を調べてみたいと思いました。

桐生市モリマサ百貨店展(1951.2.22-25)
前橋、桐生ともに展覧会の存在を初めて知りました。模写をはじめ前橋展のために準備した展示物が桐生に巡回したものと思われます。

横須賀市民会館別館展(1951.3.27-31)
鎌倉市由比ヶ浜青年会館展(1951.4.5-7)

どちらの展覧会も存在を初めて知りました。
当時、藤沢市片瀬に居住していた丸木夫妻にとっては地元開催となる展覧会で、どちらも日本美術会神奈川支部が関わっています。
興味深いのは鎌倉展の賛同発起人で、大佛次郎(小説家)、小牧近江(翻訳家)、川端康成(小説家)、田辺至(画家)、吉野秀雄(歌人)ら多彩な顔ぶれが名を連ねています。久留米展の際の坂本繁二郎とともに、この時期の《原爆の図》展に、多くの芸術家・文化人が関わっていたことがわかります。
ヨシダ・ヨシエは、「当時稲村ヶ崎に住んでいた仏文学者の小牧近江に紹介されて」丸木夫妻のアトリエに出入りするようになったと回想しています。

仙台市マルエス・ストア展(1951.4.16-18)
俊は1951年4月16日の日付入りで展覧会のスケッチを残しています。

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山形市美術ホール展(1951.4.22-24)
秋田市教育会館展(1951.4.27-29)

どちらも初めて存在を知った展覧会です。
山形新聞に農民運動家・詩人の真壁仁による批評記事が掲載されたというのが興味深いところで、いずれ調査をしたいと思っています。

大阪市生野町大瀬天理教会展(1951.5.8)
大阪市生野町御幸森朝鮮小学校展(1951.5.9)
大阪市生野町田島朝鮮小学校展(1951.5.10)

この生野の《原爆の図》展では、小沢節子著『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年岩波書店)で詳しく言及されている「焼け死んだややこ」のエピソードが生まれました。このエピソードは俊にとって、繰り返し回想するほど印象に残るものとなりました。
「大阪の生野で原爆展を開いた時の話です。(中略)さっきからその絵の前にしゃがみこんでじっと動かない、二人の子供づれの中年の婦人がありました。見れば彼女はそっと手をのばして、画面の赤ん坊をなでさすっているのです。そして、子供たちにささやくように言っておりました。『このヤヤコが死んだんやぜ、このヤヤコが死んだんやぜ』と。二人の子供はびっくりしたような顔でじっと火につつまれた赤ん坊を見つめていました。私は、この親子達の絵の見方といって何一つ知らない、しかし、それだけに素朴な態度に、力強い感動を受けました」(1952年10月『新世界』より)
「『このややこ(赤ん坊)が焼けて死んだんやで』大阪の天理教の御堂に陳列した原爆之図、二部の火の中の赤ん坊をおばさんはなでながら子供に話して聞かせています。『あ、絵にさわらないで』と、口から出そうになる言葉を抑えて、わたしは、その素直・素朴な鑑賞の態度に胸を打たれました。」(1952年12月『美術批評』より)
このエピソードの意味するところについては、小沢前掲書pp.166-171をお読みいただくとして、この展覧会がいつ、どこで行われた展覧会だったのかという疑問が、新資料によって決着したようです。
「大阪の生野」の「天理教の御堂」で開催された展覧会ですので、5月8日に開催された大瀬天理教会での展覧会と考えるのが妥当でしょう。
また、俊は1951年5月9日の日付入りで展覧会のスケッチを残していますが、こちらも会場が御幸森朝鮮小学校と判明しました。

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大阪市天王寺駅展(1951.5.11-13)
奈良市椿井町社会館展(1951.5.15-17)

これらの展覧会も初めて知りました。
主催はどちらも国鉄労組(南近畿地方本部と奈良支部)。天王寺駅は阪和線2階が会場になったというので、どういう構造の駅なのか気になります。

松本市第一公民館展(1951.5.20-25)
長野市城山公園大会場(1951.5.27-31)

近畿地方から長野に移動して2会場で展覧会を開催。
以前に池田満寿夫美術館の元館長さんから、当時17歳で長野高校に通っていた池田満寿夫が1951年5月27日に長野市内で《原爆の図》展を観て大変感動したと日記帳(未刊行)に記しているとご教示いただきましたが、その展覧会の会期と会場が今回の新資料で判明しています。

弘前市かくはデパート展(1951.6.16-18)
□(四角)の内側にひらがなの「は」と表記される弘前市の「かくはデパート」(1923年に東北地方初めてのデパートとして開業した「かくは宮川」デパート、現在は閉店)で行われた展覧会。
俊は1951年6月16日の日付入りで展覧会の会場スケッチを残しています。

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盛岡市川徳デパート画廊展(1951.6.20-22)
福島市福ビル展(1951.6.24-26)

これらの展覧会の存在は知っていましたが、会期・会場は初めて特定されました。
4月に宮城、秋田、山形を巡回しているので、青森、岩手、福島とこの年に東北地方全県を巡ったことになります。

京都丸物百貨店「総合原爆展」(1951.7.14-24)
会場となった丸物百貨店は1920年創業の老舗店で、その後京都近鉄百貨店となりました(現在は閉鎖)。
原爆の図第4部《虹》、第5部《少年少女》が初公開され、新資料に「最も完成された総合展」と記されているように、医学、物理、化学、政治、経済の各部門からの展示が充実し、その後の展覧会の基礎となった重要な展覧会であったようです。10日間の会期で入場者はおよそ3万人。
当時展覧会を手伝った方の証言によると、丸木夫妻は智積院に宿泊していたそうです。

   *   *   *

以上、ざっと気づいた点を書き記しましたが、個々の展覧会については、これからもう少し資料を探して深く掘り下げてみたいと思っています。
それにしても、「京都展までの展覧会総日数158日 総入場者約50万人」・・・一日平均3,000人強とは想像を絶する数字です。
巡回展の足跡をたどりながら当時の熱気を追体験し、《原爆の図》の受容に新たな展開を見つけ出していきたいものですね。
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