2007/1/15

丸木俊と吉川英治  原爆堂計画

一昨日(1月13日)は丸木俊の命日でした。
7年前の2000年、ぼくはまだ丸木美術館の学芸員ではなくて、ボランティアとして雪の降る葬儀の日に駅前の路上に立って案内係をしたことを覚えています。

その一昨日に、吉川英治記念館のK学芸員から、吉川英治の秘書が残した業務日誌に「赤松俊子氏来訪 原爆紀念堂建立の発起人依頼の件に付き御来宅あり 其の折丸木スマ女史筆のカニの図贈らる」(1955年11月4日)という記述があるとご教示頂きました。
「原爆紀念堂」とは建築家白井晟一(1905-83)による「原爆堂」(TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES)構想のことで、最終的に実現しなかったにもかかわらず、しばしば彼の代表作として語られるものです。
原爆堂は、弓形のパヴィリオン棟と、池に浮ぶように見える展示棟の二つのパートから成り立っており、二つの棟は地下(水底)で通じているという設計でした。エントランスから暗く長い地底の廊下を抜けて展示棟にいたると、円筒型の空間には光が降り注ぎ、螺旋階段を上って画廊にたどり着くとはじめて《原爆の図》が姿を現すという、死と再生をイメージしたものだったようです。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木俊子『生々流転』(実業之日本社1958年11月1日発行)には、「原爆堂計画」についての詳しい記述があります。
それによると、丸木夫妻は原爆堂ができたら全作品を寄附するつもりで、そればかりではなく、ピカソら各国の美術家に作品を寄贈してもらい、庭には木をたくさん植えて彫刻を配置し、図書館には長田新、太田洋子、峠三吉、原民喜らの原爆文学を置き、映画や芝居の小講堂など、総合的な文化施設を作ろうと思い描いていたようです。
計画の発起人には湯川秀樹、吉川英治、木辺宣慈、朝倉文夫、藤田藤太郎、高津正道、滝波善雄、河井弥八、服部之総らの名前が挙げられています。
今回ご教示頂いた記録は、その構想を裏づける資料と言えるでしょう。

注目すべきは、俊がスマの《カニの図》を持参し、吉川英治に贈ったと記されている点です。
実はスマの生前に発行された『丸木スマ画集』に掲載されているカラー図版の中で、現在所在不明となっている作品が数点あります。その中に《カニ》(1950年制作、1951年女流画家協会展出品)と題する作品があるのです。

クリックすると元のサイズで表示します

おそらくスマの作品のなかでも代表的な絵を贈ったと思われるため、俊が持参したのは、この《カニ》であった可能性もあるでしょう。

そう思ってK学芸員に画像をお送りしたのですが、吉川英治記念館の吉川英明館長(吉川英治の長男)は見覚えがないとのこと。吉川家に遺された美術品の整理の際にもそれらしいものは無かったとのことです。
「誰かに譲ったか、出入りの美術商が持ち出したか、いずれにせよ、他家に渡ってしまったもののようです。」とのお返事で、今回は残念だったのですが、スマ作品の行方をたどる上ではたいへん貴重な情報でした。
いずれ、今回の情報をきっかけに、《カニ》の所在が明らかになるかも知れません。
K学芸員、ご教示ありがとうございました。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ