2012/7/30

下関の帰りに広島へ  調査・旅行・出張

午前中に下関を出発して新幹線で広島へ。
広島駅で市電に乗り継ぎ、平和記念公園に向かいました。
あと1週間で8月6日を迎える広島は、雲ひとつない青空です。

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原爆ドームの南側、現在は大きな樹が枝を広げているあたりに、かつて五流荘と呼ばれる建物がありました。全国巡回展の実質的な出発点として、1950年10月に峠三吉ら「われらの詩の会」の尽力で「原爆の図三部作展」が開かれた場所です。
巡回展は、まさにグラウンド・ゼロからの出発だったわけです。

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今回、平和記念公園を訪れたのは、8月1日からはじまる国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の開館10周年記念特別企画展「失われた爆心の街」(9月30日まで)を、主事のIさんの御厚意により、見せていただくためでした。
この特別企画展は、“爆心の街”――現在の平和記念公園周辺に焦点をあて、この地域で被爆した方々の遺影や、被爆前の街の風景、そして地層の断面標本などを紹介する内容です。

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最初に見せていただいたのは、館の入口付近に展示された地層の断面標本。
爆心地の地層というものを、私ははじめて見ました。
Iさんの解説によれば、最表面のきれいな層は平和記念公園整備のために運ばれてきた土。
その下の層は、原爆投下後の焼け跡に住みはじめた人びとが住居を建てるために盛った土。
3番目の層は、瓦礫や焼け焦げた石などが生々しく残る原爆投下当時の層で、現在の地上からは60cmくらい下になります。
さらにその下には、デルタ地帯特有の、川の水によって堆積した細かい砂の層もあります。
瓦礫の上に盛り土をしたというので、当時も放射能対策(福島で表土を掘削したように)を考えていたのですか、と質問をしたのですが、Iさんによればそうではなく、単に家を建てるために土地を平らにする必要があったという理由のようです。

爆心地で被爆した方2,111人の遺影がぐるりと部屋をめぐるように展示された部屋では、丸木位里ら広島の画家たちの作品の熱心な収集家であった医師の黒川節司の遺影を見つけました。爆心直下の細工町で黒川病院を経営していた方です。
祈念館では、体験記閲覧室のコンピュータで原爆死没者の名前や遺影、被爆体験記、証言映像などを検索することができるので、黒川節司について少し調べてみることにしました。
すると、黒川節司の娘さんが当時のことを証言している映像がみつかりました。
彼女の証言によれば、黒川家の妻や子どもたちは郊外に疎開していたのですが、節司だけは原爆投下を細工町の病院で迎えており、家族が探しに行ったときには建物は完全に壊滅して「これでは人間が生きているはずがない」と思ったそうです。結局、遺骨さえも見つからず、瓦礫の中から愛用の茶碗を持ちかえったとのこと。何しろ、黒川病院は爆心地といわれる島病院の並びでわずか5軒隣り。その破壊の凄まじさは、想像を絶するものであったことでしょう。

遺影の展示は、それぞれの居住地によって分かれているのですが、それだけでなく、学徒動員にあたっていた広島一中、二中、一女などの学校ごとにも展示されています。広島一女の女学生たちの遺影を見ながらふと気づいたのは、全員が同じおかっぱ頭であったことでした。
以前に訪れた沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示では、三つ編みのおさげ髪の記憶が強かったのですが、広島の女学生はおかっぱ頭だったようです。
ということは、原爆の図第5部《少年少女》に描かれた髪の長い少女たちは、丸木夫妻の思い描いたイメージで、実際の女学生の姿とは異なっていたというわけですね。

地下2階には、被爆当時の広島の街並みを360度のパノラマで表現する平和祈念・死没者追悼空間もあり、それを見て(恥ずかしながら初めて)平和記念公園にあるレストハウスが被爆建物・旧燃料会館であることを知りました。
そこで祈念館を出たあとは、レストハウスに立ち寄って「原爆被災掲示板」を撮影。

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燃料会館(爆心地から約170メートル)
この建物は、1929(昭和4)年、大正屋呉服店として完成しました。戦争が激化し、経済統制も進められ、1944(昭和19)年6月、県燃料配給統制組合に買収されました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、すぐ近くの爆心地約580メートル上空でさく裂した原子爆弾により、コンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上し、地下室にいて奇跡的に生き残った1人をのぞいて全員が犠牲となりました。
戦後直ちに改修し、燃料会館として利用され、1957(昭和32)年には広島市東部復興事務所がおかれ、都市の復興の拠点として貢献しました。
[開店当時の大正屋呉服店(清水建設提供)]
[被爆直後の燃料会館(松本栄一氏撮影)]


さらに市電「原爆ドーム前」の近くにある猿楽町通り周辺の「原爆被災掲示板」も撮影。

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猿楽町通り周辺
この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートルでさく裂し、驀進直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。復元地図は、原爆で消えたかつての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気あふれていた1940(昭和15)年前後を生存者の情報をもとに再現したものです。
[写真 広島商工会議所屋上から猿楽町通りを見下ろす 1945年10月初旬 林重男氏撮影]
[復元戸別地図作成・監修 矢倉会(爆心地猿楽町周辺生存者の会)]


この掲示板には、復元個別地図も乗っていて、爆心地の島病院の5軒下に黒川病院、そしてその左下に猿楽町通りに面して佐伯便利社の字も見えます。

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佐伯便利社は、戦前に雑誌『実現』を発行し、丸木位里や船田玉樹、靉光ら若い前衛芸術家を支援して「藝州美術家協会」結成にも尽力した佐伯卓造の経営する印刷会社。
黒川節司や佐伯卓造については、昨年にも広島で調査して報告記事を書いています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1738.html

   *   *   *

午後は、一宮市三岸節子記念美術館S学芸員とともに、佐伯家の子孫のお宅に伺いました。
佐伯便利社は海軍の仕事をしていた関係から、前年に広島市郊外へ部分的に疎開していたため、卓造をはじめ家族たちは原爆に遭わずにすんだのです。

聞き取りをしていくなかで、非常に興味深かったのが、卓造が16歳で移民としてサクラメントに渡米し、現地の学校を卒業してビジネス界で成功していたという話でした。やがて米国で日本人排斥運動が起こったために帰国するのですが、その際に米国からフォードの自動車を持ち帰るなど、かなり華々しい“凱旋帰国”だったそうです。
やがて佐伯便利社を作るのですが、市電通りに面した一等地に当時としては珍しい3階建ての建物。もちろん英語は堪能で海外の動向にも通じていたわけですから、前衛的な芸術家たちの支援者として活躍したのも納得できようというもの。
広島の美術……というより、現在、日本近代美術史の視点から注目されている「日本画の前衛」は、まさに彼の尽力によって支えられていたと言っても過言ではありません。
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