2012/7/26

『東京新聞』「非核芸術案内」第2回  執筆原稿

2012年7月26日付『東京新聞』4面「3.11後を生きる」欄に、岡村が執筆している連載「非核芸術案内」の第2回が掲載されました。
今回は丸木スマの《ピカのとき》や、大道あやの絵本『ヒロシマに原爆がおとされたとき』を取り上げ、原爆表現の多様な広がりと、その一方で表現することのできない「記憶の闇」に触れました。

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以下、スマ、あやの作品について記した部分を抜き出します。

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……被爆から五年後には、早くも丸木位里の母・スマが《ピカのとき》という絵を残している。スマは七〇歳を過ぎて初めて絵筆をとり、身近な自然を天真爛漫に描いた。そのごく初期に、広島市郊外の三滝町で彼女が目にしたであろう被爆者の群像を、独特の色面分割の画面上に表現している。スマは、原爆を「天災と思ってあきらめましょう」という周囲に対し、「それは違う、ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」と言い切る鋭さと気丈さを持っていた。彼女の語る体験が、とりわけ初期の原爆の図に与えた影響は大きい。

 しかし、被爆という強烈な記憶を、誰もが的確に表現できたわけではない。むしろ、長い歳月を経た後でも、原爆を表現することへの葛藤を抱え続けた人は多かった。位里の妹の大道あやは、原爆の図が描かれた当初「広島には持ってきてくれるな」と拒み、母の後を追うように六〇歳で絵をはじめてからも、原爆を描くことはなかった。二〇〇〇年にNHKの企画で原爆の絵本を作る決意をした際には、苦心の末に描いた爆心地付近の風景を、翌朝に「生きながら死んでいった人たちは描けん」と激しい憤りをぶつけるように鉛筆で塗り潰している。

 原爆というテーマが幅広い表現者によって広がりをみせるそのとなりには、常に「表現できない」記憶の闇が深く横たわっている。彼女の憤りもまた、そのことを伝えているのだろう。


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お読み頂いた皆さま、そして感想を伝えて下さった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
次回は第五福竜丸の被ばく事件を中心に、「見えざる核の可視化」について考えます。
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