2012/4/1

「美術館としての原爆堂に関する覚え書」  原爆堂計画

先日、武蔵野美術大学非常勤講師の石崎尚さんから、武蔵野美術大学研究紀要No.42抜刷「美術館としての原爆堂に関する覚え書―丸木位里・俊夫妻と白井晟一の交流について―」(2012年3月1日、武蔵野美術大学発行)を頂きました。

丸木夫妻の《原爆の図》を収蔵する美術館として構想され、1955年に発表された白井晟一の建築計画「原爆堂」。結局、実現にはいたらなかったものの、白井建築を象徴する作品として評価の高いこの計画がどのような経緯をたどったのかを、石崎さんは丹念に調査し、なぜ実現しなかったのかを読み解いています。
今回あらためて発掘された資料も多く、すでに知られている伝説的な言説を建築家と美術家の両方から複眼的にとらえなおす、非常に興味深い内容です。
以下に論文の見出しを紹介いたします。

1. はじめに
2. 原爆堂計画の経緯
 2-1. 1955年4月、原爆堂計画の発表
 2-2. 1954年8月、原爆美術館の公表
3. 原爆堂の設計と双方のすれ違い
 3-1. 原爆堂の名称
 3-2. 原爆堂の理念
 3-3. 原爆堂の収蔵品
4. 実現されなかった原爆堂
 4-1. 1956年3月、計画の難航
 4-2. モダニズムと民族主義
 4-3. 原爆体験との距離
5. 1967年5月、丸木美術館の開館
6. おわりに


石崎さんは、原爆堂が実現しなかった理由として、敷地や予算などの現実的な条件だけではなく、白井側と丸木側の意見の相違が大きかったことをあげ、その相違について「民族主義」と「原爆に対する立場」という2つの違いが考えられると論じています。

丸木夫妻は、広島の悲劇を表現するには日本の画材を用いて日本人の理解者とともに運動を推進しなければならないと(少なくともこの時点では)考えており、白井は原爆を人類共通の悲劇であり文明の生み出した課題であると考えていたため、「徹底的に非日本的な要素で」原爆堂を組み立てていた。
また、自分たちが直接体験しなかった原爆の中心部分へ肉薄するために努力を尽くして絵を描いた丸木夫妻に対し、白井は体験としての原爆から遠ざかり、記号化され抽象化された原子エネルギーに近づくことで思想を深めていった。

こうした方向性の違いを提示した上で、石崎さんは、「両者の作品がそれぞれの思想の結晶化だとするならば、これほどまでに異なった二つの思想が一つの美術館として結実するには、神学論争にも似た隔たりを乗り越えねばならなかっただろう。そして原爆という出発点から発した二つの作品の隔絶を等閑視できるほどには、両者は不真面目ではなかった。仮にそれが実現していれば、という空想は自由であるが、結果が必ずしも幸福な作用を生んでいたわけではないだろう。ともすると実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なものであったかもしれない。」と結論づけています。

このあたりの論考はとても読み応えがあり、丸木夫妻の《原爆の図》に(意図的に)一度も原爆の象徴的なイメージである“キノコ雲”が登場していないこと、白井晟一の「原爆堂」がまさにその“キノコ雲”のイメージを抽象化して設計されていることの“隔たり”に、今さらながら思いいたりました。
個人的には、原爆堂を「実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なもの」という石崎さんの結論に同意します。

「原爆堂」計画の経緯については、まだ謎の部分も多いのですが、石崎さんの論考によって研究が大きく前進したことは間違いありません。
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