2012/1/21

早稲田大学幻灯上映&研究報告会  講演・発表

午後1時から、早稲田大学早稲田キャンパス11号館603教室で開催された上映と研究報告会「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」(主催:早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点 平成23年度公募研究「戦後映像文化史におけるオルタナティヴ的実践についての実証的研究――幻灯/スライドメディアの再評価及び映画・演劇界との連携の実態の検証を中心に――」)に参加しました。
幻灯という、これまであまり注目されていなかったメディアの研究発表とあって、遠いところでは広島や大阪から駆けつける方もあり、会場には約40人ほどの参加者が集まりました。

今回の企画の代表者である鷲谷花さんの研究発表によれば、従来は「映画以前のメディア」と見なされることの多かった幻灯ですが、実は戦時期から占領期にかけての短期間に、全国的に「幻灯ブーム」というべき非常に多くの作品が制作・上映されていたそうです。
その理由としては、フィルムやスライドに直接着色することで同時代の映画では困難だったカラー映像を比較的容易に実現できたことなどの技術的利点や、制作から上映にいたるまで映画に比べて圧倒的に費用がかからないという経済的利点によって、自主制作や自主上映が可能であったという点があげられます。

とりわけ、米軍占領末期からは、社会問題を共有する「運動」のメディアとして発展し、今回上映された『基地立川』(1953年/製作:立川平和懇談会/配給:日本幻灯文化社)、『基地横須賀』(1953年/製作:横須賀生活協同組合/脚本:吉岡多江子(組合婦人部)/配給:日本幻灯文化社)、『原爆の図』(1953年/提供:キヌタ・ヨコシネ/配給:東京スタジオ/監修:日本文化人会議、横浜シネマ製作所/構成:本郷新/解説:内田巌)、『ピカドン 広島原爆物語』(1952年/製作:プロダクション星映社/提供:日本光芸株式会社/文・絵:丸木位里・赤松俊子)などの作品が数多く制作されていったのです。

基地を主題にしたふたつの幻灯のうち、『基地立川』のなかのひとコマには、1952年8月15日から17日まで立川市南口公会堂で開催された「原爆の図展」(主催:東京平和会議)の会場風景も紹介されていました。

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私の発表は、幻灯と展覧会がつながりをみせた立川の「原爆の図展」に着目しながら、1952年4月の米軍占領終結直後から1954年3月の第五福竜丸の被ばく事件によって原爆に対する社会の意識が次の局面に向かうまでの短期間に、出版・映画・幻灯などメディアの領域を横断するダイナミックな文化運動として展開された《原爆の図》周辺の活況を紹介するという内容でした。

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占領下の時代、さまざまな圧力を受けながらも全国で巡回展が開催されていった《原爆の図》ですが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効となり、米軍の占領が終結すると、状況は大きく変わっていきます。
丸木夫妻の最初の画集『原爆の図』が青木書店から発行されたのは、1952年4月10日。
幻灯『ピカドン』が制作されたのも1952年4月−6月ですから、ほとんど時期が重なります。

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この作品は、1950年8月、敗戦から5年の節目に企画され、すぐに発行禁止処分・原画没収という厳しい処分を受けたとされている絵本『ピカドン』をもとに作られています。
どちらも広島の三滝町に住む老夫婦(位里の両親がモデル)の視点からはじまっています。
しかし、絵本が被爆直後の同時多発的な被害の状況を、時間を行きつ戻りつしながら62点の場面によって表現しているのに対し、幻灯では絵の数を約半分の33点に絞り、順番も大幅に入れ替えて再構成し、物語がひとつの筋を通すような試みを行っています。

たしかに、絵本『ピカドン』は内容的には子どもというより大人向けに描かれたところがあるので、場面数を減らし、複雑な構成をよりシンプルにすることで、幅広い年齢層に観てもらうという幻灯の目的により沿うようになっているとは思います。
ただ、そうした編集の結果、原爆表現の本質的な困難さを象徴する「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません」という荒涼とした焼け野原に焼け焦げた木が一本立っている場面が削られてしまったのは、少々残念なようにも感じられます。

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幻灯『ピカドン』の最大の特徴は、絵本では線描だった画面が、彩色されている点です。
当時はアルバイトがフィルムに彩色をすることが多かったようなので、丸木夫妻が直接色指定をしたわけではないと思いますが、非常に明るくて新鮮に感じます。
冒頭部分はもともとユーモラスな描写であったこともあり、1970年代後半から80年代にかけてテレビ放送されたアニメ『まんが日本昔ばなし』を連想させるほどです。
子どもたちも親しみやすかったのではないでしょうか。

丸木夫妻を扱った映像作品は、この後繰り返し数多く制作されることになりますが、幻灯『ピカドン』は、おそらくその最初のものと言えるのではないかと思います。

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立川で「原爆の図展」が開催されたのは、占領終結直後の“終戦記念日”――1952年8月15日という、当時の全国巡回展の最盛期にあたります。
会場には、原爆の図五部作と東京都立大の学生有志の制作した資料が展示されました。
展覧会には3日間に9,907名(子どもを加えると1万2000人以上)が入場し、感想文集も発行されていて、現在は西東京市のひばりヶ丘図書館に所蔵されています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1557.html

展覧会の責任者は、当時、東京平和会議の会員だった岸清次。
彼は後に『小さなロウソクの灯のように』(1984年、けやき出版)という著書を書いています。
そこには、「原爆の図展」と幻灯制作との興味深い関わりが記されています。

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 昭和二十七年八月十五日から三日間、立川の南口公会堂で赤松俊子、丸木位里両先生の原爆美術展を開きました。主催は東京平和会議でしたが、私が会員だったので皆さんに呼びかけて協力していただきました。暑い盛りでしたが、私も若かったので、自転車で立川市長はじめ昭和、拝島、村山、大和、国立、国分寺、小金井、田無、日野、八王子の十一市町村を訪問し、それぞれの市長さん、町長さんの賛同をいただきました。ポスターは現在有名な画家となっていられる国分寺の佐藤多持画伯が原画を描き、木版の版木を作って印刷して下さいました。準備会の時は集まりも悪く、一橋大の教授の息子さんの野村さんと二人だけの時もありましたが、開催後は大勢の人々が熱心に協力して下さいました。現在、東京土建多摩西部支部長の森田さんもその一人です。
 タライの中に氷柱を一本立て、扇風機も二台使いましたが、一台は大島さんから借り、一台は私のものを使いました。当時はまだ扇風機はあまりなかったのです。三日間に二千人以上の参加者がありました。木造二階造りの建物でしたので、二階が落ちなければよいがと心配しました。入場料はいくらでしたか忘れましたが、二万円以上の利益が残りましたので、入場者の感想文集を発行しました。表紙は赤松俊子さんに描いていただき、立派なパンフレットが出来ました。実はこのパンフで少し平和運動の資金稼ぎをしようと考えたのですが、あまり売れませんでした。しかし、このパンフは平和大会などを通じ、各国の代表者達に贈ったりしましたので広く各地の平和活動家の資料として役立っております。
 感想文と共にスライド「基地立川」も日本幻灯社の協力で作成しました。文学青年の方がたの協力もあり、現在の立川図書館の小沢長治先生もその一人でした。
 この幻灯は、コンクールに入選しました。自主製作のはしりのようでした。これも感想文と共に全国の平和運動家に活用され、中国やオーストリアなどに紹介されております。


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幻灯『基地立川』の製作として記されている「立川平和懇談会」は、この展覧会がきっかけで結成された団体です。
「原爆の図展」の収益によって時代に先駆けて幻灯制作が行われたこと、幻灯にはコンクールがあり、海外に紹介されたりする機会があったこともわかります。
また、このとき、今井正・青山通春監督による記録映画『原爆の図』の撮影カメラが会場に入っていたのも特筆すべきことでした。
1952年8月頃から撮影され、翌53年に公開された映画には、後に美術批評家となるヨシダ・ヨシエさんが絵の前で身振りをまじえて説明をしている姿が記録されているのです。
(字幕などが出るわけではないので、とても注意深く見なければわかりませんが)

1953年は、1月に丸木夫妻が世界平和評議会から国際平和賞を受賞した年です。
そして、俊は6月に原爆の図三部作を携えてヨーロッパの世界婦人大会に参加しています。
絵本『ピカドン』がフランスの雑誌に掲載され、映画『原爆の図』や新藤兼人監督の『原爆の子』がパリやブリュッセル、アントワープでも公開されるなど、原爆に関する表現が海外に注目されはじめる年でもありました。
その年の終わり、10月−12月に制作されたのが幻灯『原爆の図』。

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構成を担った本郷新は「わだつみのこえ」などの作品で知られる彫刻家で、丸木夫妻とともに日本美術会に参加し、「原爆の図三部作完成記念会」では司会を務めていました。
解説も内田巌も日本美術会の初代書記長で、画集『原爆の図』に「原爆の図の芸術的価値について」という批評文を寄せています。
映画を踏まえた《原爆の図》の見せ方(1:8という極端に横に長い画面は、幻灯の横スクロール式フィルムとの相性が良いと感じました)や俊の作品解説、峠三吉の詩の引用など、幻灯『原爆の図』は、この時代を象徴するさまざまな要素が含まれています。

これまで、丸木夫妻の回想や資料にも、まったく存在が記録されていなかった幻灯作品。
それは逆に言えば、幻灯が映画や出版物とは異なり、あまりにも身近に根づいていた表現手段だったことを証明しているのかも知れません。
しかし、だからこそ幻灯は、自分たちで「見せる」「見る」「つくる」ことを重視した1950年代のサークル的な運動を知る上で、非常に重要な意味を持っているように思えるのです。

今後の鷲谷さん、紙屋さんたちの幻灯研究の成果に、大いに期待したいところです。

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ちなみに、こちらは目黒区美術館のM学芸員が撮影して下さった幻灯の投影風景。
上映中の作品は『原爆の図』です。

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幻灯機を見る機会もなかなかありませんが、丸みを帯びたフォルムがかわいらしいです。
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