2012/1/17

【聞き取り調査】1965年頃の松戸での丸木夫妻  調査・旅行・出張

松戸市立博物館の企画展「松戸の美術100年史」でお世話になったT学芸員と共に、丸木夫妻が1964年頃から1966年暮れまで過ごしていた松戸の関係者の聞き取り調査を行いました。

午前9時半にJR武蔵野線の新八柱駅でT学芸員と待ち合わせて、最初に連れて行って頂いたのは「貝の花公園」でした。
この公園は、丸木夫妻が松戸で関わっていた貝の花貝塚遺跡の保存運動によって整備され、園内に遺跡の記念碑があるのです。

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記念碑は公園に築かれた小高い丘の上にあり、隣接する貝の花小学校を見下ろせます。
「子どもたちの教育のためにも遺跡を保存して欲しい」と願った丸木夫妻たちの想いが、遺跡の保存こそならなかったものの、部分的に生かされているようです。

記念碑には、次のような説明書きが刻まれています。

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 海抜二十五メートルの八ヶ崎大地を基部として東に伸びた台地と、佐野を基部として北に延びた台地とが、藤川支流をはさんで東西に相対している。
 双方ともにその縁辺には貝塚が形成されていた。東を若芝貝塚と称し、西を貝の花貝塚と呼んだ。
 貝の花貝塚は面積六十四アールの馬蹄形貝塚で、縄文式中期の遺構を主体とした全く完璧な貝塚であったが、昭和四十年にこの地は日本住宅公園の宅地開発により、一帯にわたっての整備を図ることとなった。
 市はこのため事前に記録保存することとして発掘調査を行ない、三十五戸の竪穴住居跡と四十体の埋葬人骨を初めとする数多くの遺物を収録した。
 これを記念して、本貝塚より出土の土偶をモチーフとした記念碑をここに建てる。

 昭和四十五年十一月
     松戸市教育委員会
     松戸市文化財審議会


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記念碑の像は、松戸市在住の彫刻家・本田晶彦氏の制作。
モチーフとなった土偶は、松戸市立博物館の常設コーナーに展示されています。
ちょっとユーモラスな、味わいのある表情の土偶です。

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土偶の下の「貝の花貝塚跡」という筆跡は、ドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者で当時松戸市長だった松本清氏によるものです。

   *   *   *

貝の花公園を後にして次に向かったのは、俊さんの母校・旭川高等女学校の後輩で、偶然松戸に住んでいたことから丸木家に家事の手伝いに通っていたというIさんのお宅でした。

Iさんは88歳という高齢にも関わらず、当時をはっきり記憶されている素敵な御婦人でした。
Iさんが旭川高等女学校1年のときの担任は美術教師の戸坂太郎氏(唯物論研究会の設立者として知られる戸坂潤の従弟)。彼はかつて俊さんの担任も務め、彼女の絵画の才能を高く評価して東京の美術学校への進学に尽力した、いわば恩人でもあったのです。

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写真は旭川高等女学校時代の俊さん(右)と戸坂先生(中央)。

Iさんの回想によれば、あるとき、戸坂先生を訪ねてきた若い卒業生が美術の授業で皆に話をしてくれることになったそうです。中肉中背でいつもニコニコした女性が伸びやかに外国の体験談を語ってくれた、その人こそ赤松俊子、つまり後の丸木俊でした。
当時の厳しい軍国教育の時代に、「菊を栽培するときには、立派にまっすぐ伸びているものだけではなくて、小さくてどこがいいのかわからない、伸びそこなったようなものも大切に育てなさい」と語りかける俊さんの印象は、ひときわ異質で印象的だったそうです。
ほのぼのとしていて、とても大らかで明るくて、今までこんな人には会ったことがない、とIさんはすっかり心を奪われてしまったとか。

やがて結婚して松戸市の八ヶ崎で暮らしていたIさんは、バスの中で偶然、俊さんに再会しました。旭川高女の後輩だと話しかけると、俊さんは練馬の家を移築して松戸に引っ越してきたのだというのです。そんな縁がきっかけで、Iさんは一日おきに丸木夫妻の家に手伝いに行き、身の回りの掃除などをするようになりました。
丸木夫妻は《原爆の図》の美術館を建設するために松戸に来たのですが、家の裏の松林の地主がどうしても土地を売ってくれないので、仕方なくあきらめて、すでに購入していた埼玉県東松山市の土地に美術館を建てるために、わずか2年ほどで再び転居することになったそうです。

丸木夫妻が東松山に転居してからも、Iさんは何度か子どもたちを連れて遊びに行ったようです。ときには小学生の息子さんが「ちょっと見てて」と頼まれて、美術館の受付で一人で留守番していたこともあったとか。
松戸で丸木夫妻と懇意にしていた近所の魚屋さんが、二人に食べてもらうために魚を大量に持って東松山に遊びに行ったこともあったそうですが、結局、まわりの若者たちが「待ってました」と食べてしまって丸木夫妻の口には入らないので、「もう持って行くのはやめた」と怒ってしまったという話も伺いました。

松戸時代の記憶で印象深いのは、位里さんが絵本『ねずみじょうど』(福音館書店、1967年刊)の原画制作に悪戦苦闘していたことだそうです。
位里さんはアトリエに畳一枚ほどの大きな和紙を広げ、それを区切ってそれぞれの場面を描いていたようですが、編集者に散々細かい注文をつけられて、すっかり嫌気がさしていたとか。
そんな体験から絵本の仕事を避けるようになったのでしょう、位里さんの絵本は生涯を通じて、この『ねずみじょうど』と『赤神黒神』の2冊しか描かれていません。

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俊さんがIさんの娘さんをモデルに描いた、水彩画の女性像も見せて頂きました。
これはおそらく1965年、丸木夫妻が松戸に住んでいた頃に描かれたもので、Iさんと娘さんにとっても思い出深い作品のはずですが、「これからは少しでも多くの方に見て頂きたい」とのことで、丸木美術館に寄贈して下さることになりました。
俊さんを敬愛するIさんの思いを受け継ぎ、丸木美術館でも大切に展示させて頂くつもりです。

   *   *   *

次に向かったのは、松戸市八ヶ崎の丸木夫妻の旧居でした。
そこには、当時丸木夫妻と懇意にしていて、転居の際に家を買い取った元新聞記者のFさんご夫妻が今も暮らしているのです。

松戸時代の丸木夫妻の家の写真はほとんど現存していませんが、アトリエで親戚たちに囲まれて撮影した楽しそうな雰囲気の写真が一枚だけ残っています。

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早速、上の写真の部屋に案内して頂いて、さまざまな思い出話を聞かせて頂きました。
今はすっかり改築してしまって当時の面影はないそうですが、それでも家の間取りはほぼそのまま。一部の水場や玄関の三和土は、丸木夫妻が暮らしていた当時のまま残っています。

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土間のコンクリートに、小石や切り株が埋め込まれているのが、いかにも俊さんらしくてほほ笑ましいです。丸木美術館のまわりにもこうした遊び心が潜んだ場所がいくつかありますが、それは松戸時代からすでにはじまっていたようです。

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Fさんによれば、丸木夫妻は松戸の家の間取りをとても気に入っていて、東松山に家を建てる際には、松戸と同じように設計したとか。たしかに、二つの家はとてもよく似ています。

Fさんは当時、新聞の教育欄を担当しており、生活綴り方教育で知られる国分一太郎氏から丸木夫妻のことを紹介されたそうです。というのも、俊さんは若い頃千葉の市川で代用教員をしており、国分氏の教えを受けていたのです。

貝の花貝塚遺跡の保存運動でも共に活動したFさんに、丸木夫妻は松戸を離れる際、家の処分について相談したそうです。はじめは買い手を探したFさんでしたが、なかなか見つからず、結局はFさん自身が丸木夫妻の家を気に入っていたため、買い取ることにしたようです。しかし、「お金でなく、気に入った人に家を買って欲しい」という位里さんは、大らかにも土地の権利書をFさんに預けてしまい、「あとは全部あんたにまかせた」と言うだけだったとか。

金銭的な損得や見栄、浮世の贅沢とはまったく無縁に生きる丸木夫妻の姿は、Fさん夫妻にとても魅力的に写っていたようでした。
ちなみに、丸木家のとなりには、位里さんと親しかった日本画家の岩崎巴人氏が住んでいました。松戸に転居してきたのも、先に松戸に来ていた巴人氏から「いい場所がある」と紹介されたのがきっかけだったようです。

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Fさん夫婦が丸木夫妻から頂いたというスマさんのカニの絵も見せて頂きました。
スマさんらしい、とてもユーモラスで生き生きとした三匹のカニの絵です。
Fさん夫婦はきれいに軸装して、大切に家に飾って楽しんでいるようでした。

   *   *   *

最後に訪れたのは、松戸市立博物館。
当時、貝の花貝塚遺跡の発掘調査をしていた松戸市立博物館のS館長にお話を伺いました。
俊さんが描いた遺跡発掘のスケッチにも、Sさんは登場しています(右端)。

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松戸市貝花塚発掘 1965年10月10日

1964年、国鉄(当時)常磐線の馬橋駅から北東約2kmに、日本住宅公団小金原団地の造成がはじまりました。住宅公団と松戸市教育委員会の依頼を受けた東京教育大学文学部史学科史学方法論教室は調査団を派遣し、翌65年11月まで2次にわたる遺跡発掘調査を行います。
調査員は延べ1,560人、作業員延べ900人、調査費約230万円。
遺跡の規模は東西70m、南北60mの少しゆがんだ円形で、面積は約30u。遺跡の形態は東南の方向に開いた馬蹄形貝塚で、竪穴式住居跡が41件、完形土器約150点、土器片リンゴ箱約200箱、石斧や石剣などの石器類、埋葬人骨40体などが発掘されました。

Sさんは市川の和洋学園で教師をしていましたが、遺跡調査のために常勤職員が必要とのことで、当時松戸の市史編纂をしていた教育大のI先生に誘われて松戸市職員になったとのこと。
俊さんのスケッチに描かれている女性たちは、Sさんの和洋学園時代の教え子だそうです。

貝の花貝塚は、団地造成にともなう周辺整備のため、調査終了後には遺跡を取り壊すことが決まっていましたが、65年夏頃から遺跡保存を求める声が高まり、岩崎巴人や丸木夫妻らが中心になって「松戸市貝の花古代遺跡保存会」を結成。約3,000人の署名を集めて松戸市長や日本住宅公団、文化財保護委員会などに要望や陳情を繰り返しました。

しかし、すでに団地造成計画は進行しており、変更は難しいとのこと。
松戸市教育委員会も「貝の花貝塚は規模も大きくないし、特色のある出土品もないため、学問的価値はない」と返答したそうです。
丸木夫妻たちは「散々発掘した後で学問的価値がないから取り壊すというのは学会のエゴイズムであり、それぞれの遺跡が何ものにも代えがたい、子どもたちへの教育的価値を持っているのではないか」と強く反論し、千葉県出身の参議院議員を通して問題を参議院文教委に持ち込んだといいます。

その間、丸木夫妻たちはたびたび遺跡発掘現場を見学し、S先生も発掘の手を止めて解説をすることもあったそうです。
「芸術家にとって、目の前で古代の生活の様子が掘り起こされていくのは、想像力を刺激されたのではないか。特に俊さんは人骨に興味を示していた」とS館長は回想されていました。

結局、団地造成工事は一部計画が変更され、公園を整備して出土品の土偶をかたどった記念碑を制作するという妥協案が成立します。保存会では、竪穴式住居の再現などを要望していたので、決して本意ではなかったのでしょうが、しかし、現在も遺跡を偲ぶ記念碑が残されているのは、保存会の活動の一定の成果ということができるでしょう。
発掘調査終了後、丸木夫妻たちは遺跡で「縄文祭り」を開催して皆で踊りを踊ったそうです。
率先して踊る俊さんの姿は、S館長の記憶にも鮮明に焼きついている様子でした。

   *   *   *

丸木夫妻にとって、松戸で暮らしたわずかな歳月は、美術館建設計画や遺跡保存運動という、どちらかといえば成果をあげられなかった記憶と結びついていたことでしょう。
そのためか、二人の回想録には、ほとんど松戸時代のことが触れられていません。
しかし、今回の聞き取り調査で感じたのは、丸木夫妻が松戸の人びととたしかなつながりを持ち、豊かな人間関係を築いていたということです。

貝の花貝塚の保存運動も、S館長によれば決して無駄なものではなく、その後松戸市北部で幸田(こうで)貝塚が発掘された際には、今度はきちんと保存しようということになったそうで、現在も遺跡の一部、約5000uが公園となって残されています。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/sanpo/bunkazai-map/si9.html

そして、東松山に転居して丸木美術館を開館した丸木夫妻は、後に美術館の庭に竪穴式住居を復元し、縄文式の野焼きの土器や人形を作るなどの活動を展開することになりました。
松戸で縄文遺跡に触れた体験は、丸木夫妻にとっても、忘れがたいものだったようです。

貴重なお話を聞かせて下さった皆さま、そして今回の調査のためにさまざまな準備をして下さったT学芸員に、心から御礼を申し上げます。
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