2011/8/12

1952年群馬県内原爆の図巡回展  1950年代原爆の図展調査

久しぶりに、1950年代はじめの原爆の図巡回展調査の話題です。
群馬県立図書館調査相談室のご協力により、1952年夏から冬にかけて開催された群馬県内の原爆の図展の調査が進みました。

1952年は、サンフランシスコ平和条約が発効となり、米軍の占領から解放された年です。
8月には『アサヒグラフ』で原爆特集が組まれ、《原爆の図》も、首都圏を中心とする学生たちの企画によって、同時多発的に各地で展示されていました。
群馬県内の展覧会としては、1952年8月11日から13日まで、高崎学生懇談会の主催により高崎市貿易会館で《原爆の図》第1部から第5部までを展示した「原爆展」が開催されており、『1952年夏 原爆展の記録』という記録集も刊行されたことが確認されています。

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高崎展の3日目、8月13日には俊さんも高崎を訪れ、学生たちの質問に答えています。
なかなか興味深い質疑なので、記録集よりその部分を抜粋します。

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『第五部“少年少女”を解説していると幾度も聞かれるのですが、着物はみな焼けているのに髪の毛だけなぜあゝいうふうに残っているのですか』

『何処でも聞かれるのですが、本当のことを云うと、丸坊主のまゝに書くのがかわいそうで、髪の毛をつけて上げたのです。又絵の藝術的効果という点からも考えたわけです』

『そうすると、先生が先刻おっしゃった暗いものを描きつくしてからでないと、本当の明るさが生れないということと矛盾しないのですか』

『これは非常に大きな創作上の問題ですね。第一部に可愛らしい赤ちゃんが何の傷もなくころがっているでしょう。そう云う赤ちゃんを描きたかったのです。この惨劇の中で、赤ちゃんだけは何時か起上って歩き出してくれたらという私のせっぱつまった願いがそうさせたのです。私だってこんな暗い惨め人間はほんとに書きたくないのです。一体だれがこのように多くの人間を、こんなにも醜い姿にしたのか私はこの絵を書きながらその鬼のような人達に腹の底から憎しみを感じました。こんな暗い絵は二度と書かれてはならないのです』


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今回の調査では、その高崎展のほかに、あらたに太田市と伊勢崎市の「原爆展」の記事が見つかりました。
まずは1952年8月28日付『上毛新聞』の記事から。

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太田で原爆展示会

太田学生懇談会(責任者岡田了三、石川昭夫両君)では廿八日から丗一日まで太田小学校で原爆展示会を開く。市をはじめ市内各種團体が後援している。


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また、1952年12月5日付『上毛新聞』には、伊勢崎市の原爆展の情報が出ています。

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伊勢崎市 学生懇談会主催の原爆展は五日から三日間毎日朝九時から夜八時まで北小学校体育館で開く。

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伊勢崎市の原爆展については、第4部《虹》の前で撮影した集合写真が現存しています。

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ただ、これまでは開催を裏付ける具体的な資料がなかったので、1952年12月5日から3日間、伊勢崎北小学校で開催されたという情報は、とても貴重なものでした。

太田、伊勢崎の原爆展については、当時展覧会の開催に関わった方々がいらっしゃるので、近いうちに聞き取り調査を行いたいと考えています。
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