2011/1/21

大原社会問題研究所にて資料調査  1950年代原爆の図展調査

朝一番に東京・町田市の法政大学大原社会問題研究所へ行き、一日じゅう資料調査。
1950年代の新聞をひたすら読み込む作業です。
NHKラジオ深夜便を聴いた翌日だったので、睡魔との戦い……それでも、いくつかの重要な収穫がありました。

   *   *   *

ひとつは、1952年に板橋区で開催された原爆展の日程と会場が判明したこと。
これは従来、ヨシダ・ヨシエ氏とともに原爆の図全国巡回を担った野々下徹氏のメモでは「1952年8月に4日間」と記されていましたが、1952年10月6日付『アカハタ』に掲載された小学5年生の女の子の「原爆展」感想文によれば、正確には「9月3日から4日まで」、場所は「板橋議事堂」で開催されたようです。
以下は、その女の子の感想文です。

 九月四日、板橋議事堂に原爆展を見にいった。議事堂ではお兄さんみたいな人が説明してくれた。廣島と長崎では四十万人の人たちが皮がはがれ、やけどをして死んだそうです。
 かいだんを上つてゆくうちに、たたみ八畳に書いたすごく大きな絵があつたが、それを見てもうぞうツとしました。手がとれていたり、火でかこまれてまつ黒こげになつて苦しんで、お母さんが赤ちやんを泣きながらだつこして立ちおくれて行くのや、死骸のおく場所がないので山につみかさねておいたのやら、それはひどかつた。それを見て感じた人に書いてもらおうとして机に紙がのつかつていた。どこかのおじさんは、すみでふでをまつすぐ立てて長く書いていました。
 この議事堂は三日から七日までだつたが、区長さんが三日から四日までと急にいつたので、まだ見ない人がたくさんいるから、日にちを作つて見せればよいなあ――と思つた。
 私の感じたこと。戦争をぜつたいにやらないで、平和にして行きたい。戦争をやらない國にしたい。原子爆弾をよいことにつかつてほしいと感じました。


この“板橋議事堂”というのが気になったのですが、どうやら当時板橋区にあったエスビー食品のカレー工場(現在は板橋スパイスセンター)の入口正面に、1947〜48年頃に国会議事堂を模した工場が建てられ、“板橋の国会議事堂”と呼ばれて親しまれていたそうなのです。
※S&Bエスビー食品株式会社HPを参照。
http://www.sbfoods.co.jp/sbsoken/tanbo/tenjikan/1floor.html

展覧会の主催者は不明ですが、エスビー食品の関係者が関わっていたのか、あるいは、女の子の感想には区長が介入して日程を縮めたと思われる箇所があるため、板橋区が“板橋議事堂”を借りて展覧会を開催したのかも知れません。

   *   *   *

また、原爆の図10部作が完成し、“世界行脚”に出発することになった1956年のはじめに、平塚と横須賀でも展覧会が開催されていたことがわかりました。

1956年5月1日付『アカハタ』の記事「“原爆の図”展の成果 =神奈川平塚地区委員会の総括=」によれば、1956年2月11日から3日間、会場は平塚市体育館で、平塚市原水爆禁止実行委員会と平塚市の主催、地区労、教育委員会をはじめ市内各種青年婦人団体、文化連盟、医師会、社会福祉協議会、仏教会、キリスト教協議会などの後援で開催されたそうです。
展示されたのは「八部の絵と、惨状をつたえる瓦や竹」、「三日間に延一万四千五百名(生徒七千七百余、一般六千七百余)の人びとが参観し、経費をひいて約十七万円の益金をあげ、会場での原水爆禁止署名三千七百五十票、カンパ千二百二十一円、感想文二百八十一通がよせられた。このほかに、一日夜体育館でおこなわれた原水爆禁止講演会に約千名の人びとが集まった」とのこと。

記事の中で俊は、この平塚展の運営について、次のように語っています。
全国で図展をひらいてきましたが、どこでやった時よりもすばらしい。市が後援になって開いたということはありますが、婦人団体が中心になると労組とうまくゆかないとか、労組がやれば婦人、青年団体はいっしょにやらない、というようなこともあり、みんなでというところはなかなかないのですが、ここでは市主催で、労組も婦人の方もいっしょ、共産党まで公然とお手伝いをしているなんて、こうして平和を守るためにやられているのをみるとほんとうにうれしい」。

1956年5月8日付『アカハタ』の記事「“聞けば聞くほど恐ろしい”横須賀で原爆展、被爆者座談会」では、横須賀市で1956年4月21日から3日間、横須賀・三浦原水爆禁止懇談会主催、横須賀市議会、神奈川新聞をはじめ市内の教育・青婦人・医師・漁業・商工関係の団体、地区労、官公労など50の団体後援で原爆展が開催されたと報じられています。
展示内容は、原爆の図10部作を中心に原爆関係写真もあわせて展示されたとのこと。
入場者数は1万人に近く、「会場での寄付一万二千円余、これとは別に横須賀市議会議長や市の主だった各種団体、個人から二万五千円の寄付があり、会場での感想文は五百通も集った」ようです。
「同懇談会では、この原爆展とあわせて広島から村上操さん(原水爆禁止広島協議会理事)他三名の被爆者を招き、四月二十日から三日間、横須賀、三浦両市あわせ十カ所で“被爆者を囲む座談会”を催した。座談会は地域の民生委、PTA、社共、青年団、婦人会、地元の有力者の協力をうけ、四十、五十人と集り、ペルリ上陸で有名な久里浜では七十人も集った」とも記されています。

同じ紙面の「『原爆の図』世界行脚へ 12日夜出発の丸木・赤松夫妻」も注目すべき記事でした。
「これまで『原爆の図』の一部から三部までの展覧会がオランダ、デンマーク、イギリス、イタリアの各都市でひらかれてきたが、それらの図とこんど夫妻がもっていく四部から十部までの図と合わせて、北京で表装しなおされ、それから一年以上の予定でアジアとヨーロッパの各地を廻る予定である」と“世界行脚”の行程が紹介されるとともに、「その間、日本では一部から三部までの別図と“夜”と題する図と、四部から十部までの大写真とで『原爆の図』展をひきつづきひらいていく」と、留守中の日本国内での巡回展の内容についても触れています。

1956年以後の「原爆の図 世界行脚」の間も日本国内で「原爆の図」巡回が続いていたことは、多くの方々の証言からわかっていたのですが、具体的にどの作品が巡回していたのかをはっきり記しているこの記事は、非常に興味深いです。
やはり“模写/再制作版”の原爆の図3部作は、従来考えられていた以上に重要な役割を担っていたのだと、あらためて感じています。
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