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50〜60年前、「恋人と首相は私が選ぶ」というスローガンの元、首相公選運動をやっていた私の父。社宅の小さな我が家に、中曽根先生がいらして下さり、青年達が目を輝かしていたこと、日本はそういう時代だったのですね、、

中曽根先生の初めての伝記を父が執筆。18年前に父が亡くなった時、そのことを覚えていて下さってお手紙を頂きました。昔の中曽根先生と父の交換書簡と共に私の宝物です。
101歳という大往生ながら、私の中では一つの時代が終わったような感覚。ご冥福をお祈り致します。
<満100歳にあたり>
●こうして満100歳という齢(よわい)を迎え、正に遥(はる)けくもかな、の感を強くします。大正、昭和、平成の三つの時代を生き、明年は新天皇陛下のご即位のもとに新たな元号も始まります、新たなる時代への大いなる期待と共に4代を生きることに誠に深い感慨を覚えずにはおられません。
●私が生まれた大正は日本という国が世界に勇躍しようとする時代であり、大正デモクラシーと相俟(あいま)って時代に高揚感がありました。然(しか)るに、昭和に入ると軍靴の音と共に時代は暗転してゆき、ついには太平洋戦争へと突入、あの悲劇的敗戦を迎え、正に国家存亡の危機に直面します。しかし、そのようなどん底から、我々は国民一丸となって世界も驚嘆する奇跡的な復興と経済的発展を成し遂げました。
●敗戦を機に政治の世界に身を投じた私自身でしたが、日本の再興再建のために日本国民と共に立ち上がり、働くことができたことはこの上ない喜びでもあります。こうした時代の変遷に100歳という自分の人生を重ね合わせれば、様々な思いの去来と共に万感胸に迫るものがあります。
●私は政治家となって後、「結縁・尊縁・随縁」を自らの信条として政治の世界を邁進(まいしん)してきました。決して理屈では語れぬ偶然とも言える人との繋(つな)がり、縁によって自らが生かされている、そう考えれば、自分の才や能力も天から授かったものであり、この時代に生まれ、政治家となったことも天命であり、その宿運に感謝し、全力を尽して使命を全うすることこそ、この世に生を受けた御恩に報いる道と精進を重ねてきました。これは人智を超えたものへの畏敬(いけい)の念と共に神仏への感謝にも似た気持でもあります。
●私が今日あるのも多くの方々のご支援のおかげであり、授かった縁と共に様々なお力添えに唯々(ただただ)感謝するのみで、言葉では言い尽くせぬものがあります。
●政治家として国家の発展に何がしかの貢献を成し得たのか、後の世の評価も含め、政治家は常に歴史法廷に立つ被告人であるとの思いで精励努力を重ねてきました。時に政治の現状に対する所感を求められますが、時代が人をつくり、人が時代をつくります。其々(それぞれ)の政治世代が時代の抱える問題と課題に対し政治の責任を自覚し、勇断を以(も)って確(しっか)りと役割を果たしていくべきだと思っています。
●私は政治家となって以後、一貫して憲法改正を訴えてきましたが、国家の青写真とも言うべき憲法は国の将来を考える上でも重要なテ一マです。現在、国は憲法改正の発議に向けて議論を進めようとしていますが、政治は与野党を問わず、国民世論の喚起と共に真に国民参加となる憲法の実現を目指し、国家の基本たるこの課題に真剣に取組んでゆくことを期待しています。国の将来を見据え、現状を改革し、果敢に国の未来を切り拓(ひら)いてゆくことこそ政治の要諦です。
●よく健康長寿の秘訣(ひけつ)を聞かれますが、日々精一杯努力すること、そのためにも規則正しい生活を心掛けています。加えて常にこの世の森羅万象に関心を持つことも大事です。飽くなき探求心と知的好奇心こそ肝要です。
●幼き日、赤城、榛名、妙義の上毛三山を染め上げる夕日に陶然として見入りながら、天の啓示にも似た自然の雄大さに感化され育まれた上州群馬はやはり私の原点です。こうして無事100歳という歳(とし)を迎えることができ、改めて、私を育ててくれた郷士と人に感謝したい気持でいっぱいです。
●「暮れてなお命の限り蝉しぐれ」とは私の拙い句ですが、100歳となった私の強い思いでもあります。その思いは、この国の歴史や伝統、文化が新たな時代へと受け継がれながら、営々として日本人の暮らしが未来に繋がっていくという私の願いと共にあります。
●これからも国家国民の為、郷土の為に精進努力を重ね最後のご奉公に努める所存です。こうして恙(つつが)無く紀寿を迎えることができましたことに対し、改めて皆様のお陰と深く感謝を申し上げます。
平成30年5月27日 (読売新聞より)
<語録>
「日本の国際的地位は戦争に負けて以来、非常に低い。原子力によって水準を上げ、正当な地位を得るよう努力する」(1955年12月、衆院科学技術振興対策特別委員会)
「大衆は皆いい人ばかりだ。上に立つ者ほど悪い人が多い。特に政治家はいけない。そう思った私は政治を正すため政治家になった」(68年9月発行の著書「わが心の風土」)
「よく私は政界の風見鶏と言われる。しかし風見鶏ぐらい必要なものはない。足はちゃんと固定し、体は自由。風の方向が分からないで船を進めることはできない」(78年4月、札幌市で講演)
「行革ざんまいで他のことは考えず、それに徹して進んでいきたい」(82年4月、国会答弁)
「風に向かって走ろうという気持ちだ。とにかく業績を残したい」(82年11月、第1次中曽根内閣発足後)
「日本列島を不沈空母のように強力に防衛し、ソ連のバックファイアー爆撃機が侵入できないようにする」(83年1月、訪米時のワシントン・ポスト紙幹部との懇談)
「対中経済協力は戦争により大きな迷惑を掛けた反省の表れであり当然」(84年3月、胡耀邦中国共産党総書記と会談)
「サッチャー英首相らのように大統領的首相になって力強く政策を推進したい」(85年4月、旧制静岡高校同窓会)
「公式参拝は憲法に反しない範囲と判断した。国民の大多数は圧倒的に支持してくれると信じている」(85年8月、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝した後)
「『戦後政治の総決算』は戦後40年間の成果を評価すると同時に、これまでの制度のひずみや欠陥を是正し、21世紀に備えるものだ」(86年1月、施政方針演説)
「日本は高学歴社会になっており、相当インテリジェントなソサエティーになってきている。米国などは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとかが相当いて、平均点からみると非常にまだ低い」(86年9月、自民党全国研修会)
「私が内閣の責任者だった時期に不祥事を招き、おわび申し上げる。やましいことは一切していない。疑惑は一切ない」(89年5月、リクルート事件で国会証人喚問)
「政治基盤のねじれを直すために保守・中道の提携を言ってきたので、言葉に責任を持った。党よりも国益を優先させる政治信条だ」(94年7月、共同通信のインタビューで、首相指名選挙で村山富市氏に投票しなかった理由を問われ)
「(衆院比例代表転出という)“天の声”は必ずしも変な声ではなかったかもしれない、と思った」(96年7月、比例転出を受諾し会見)
「日本国民は自分で憲法をつくったことがない。全国民で憲法を論ずるようでなければ、真の民主国家ではない」(97年6月、議員在職50周年記念祝賀会でのあいさつ)
「日本は米国にカネを出し、駐留させ、番犬として使うことになるが、それが賢明だと思う」(97年10月、北海道小樽市などでの講演)
「(小渕恵三首相は)もともと独自の政策はあまりなくてある意味で『真空機関』だ」(98年12月、月刊誌「文芸春秋」に寄稿した自自連立を評価する論文)
「今の日本の状態を見ると、体がうずいて放っておけない。このままあの世にはいけない。もうしばらく働かせてほしい」(2001年5月、83歳の誕生パーティー)
「終身比例1位を早く返上した方がいいと思っている。大きな改革をやらざるを得ない段階がきた。小泉純一郎首相を中心にして、正しい政治を行えるように側面から支持して自民党を正しいものにできるようにする」(02年3月、自民党江藤・亀井派の総会)
「85歳になってまだやっているのかと言われる。マッカーサーは『老兵は死なず消え去るのみ』と言ったが『老兵は死なず消え去りもしない』だ」(03年5月、江藤・亀井派の総会)
「今回の人事のポイントは君だ。これで民・由合併の衝撃が吹き飛んだ」(03年9月、安倍晋三幹事長の就任あいさつに)
「突然来て、爆弾を投げるようなやり方は、総理、総裁としてとるべき態度ではない。政治的テロみたいなものだ」(03年10月、小泉首相の引退要請を受け記者会見)
「(ねじれ国会は)半身不随の状態であり、6年も9年も続くと国の前進を阻む。当面の課題は(自民、民主両党が)大連立を組むことだ」(07年10月、講演)
「石にかじりついても職責を尽くすものであり、気概が薄れている。首相がサラリーマン化した。日本の民主主義が弱まっている」(08年9月、テレビ番組で福田康夫首相の退陣表明について)
「事業仕分けや外交機密公開で新しい面を切り開いた功績はあるが、信念を通す強さがなかった」(10年6月、鳩山由紀夫首相の退陣表明で記者団に)
「約60年間で世の中は大きく変わったが、憲法だけが変わっていない。国民の責任ではなく怠けた政治の責任だ」(11年4月、超党派国会議員の会合)
「政治家は常に歴史法廷に立つ被告人との思いで精励努力を重ねてきた。与野党を問わず、真に国民参加となる憲法の実現を目指し、真剣に取り組むことを期待する」(18年5月27日、100歳の誕生日に合わせて出したコメント)(共同)
<母への思慕>
中曽根康弘元首相が11月29日逝去した。享年101。大勲位≠ニ呼ばれ、長く日本政治を見届けてきたタカ派政治家だ。その中曽根氏について、半世紀近く記者として見てきた毎日新聞客員編集委員・松田喬和氏が、知られざる中曽根氏の横顔を語った。
1974年、三木武夫内閣の時、私は毎日新聞東京社会部から政治部に異動し自民党中曽根派を担当することになり、同郷の中曽根康弘さんに取材者として対峙(たいじ)しました。その時、中曽根さんは自民党幹事長。以来、私は中曽根さんという政治家を通じ、「日本政治」を見てきたといっても過言ではありません。
中曽根さんは、自民党という政党の中において、常に異端の政治家でした。吉田茂首相の流れを汲(く)む「軽武装・経済優先」を掲げる主流派に対し、憲法改正を掲げて真の日本の自立を訴え、反主流派のレッテルを貼られ続けてきたからです。
70年代は三木、田中角栄、大平正芳、福田赳夫各氏とともに「三角大福中」と呼ばれた次世代のリーダーの一人とされてきたものの、資金力が乏しい弱小派閥のリーダーだけに苦労続きだった。ポスト大平の最右翼とみられていたものの、鈴木善幸首相の後塵(こうじん)を拝し、82年に第71代首相の座に就いた。
とはいえ、戦後の政治家を振り返ってみると、傑出しているのは、角栄氏と中曽根さんだった。
共に首相となったが、角栄氏は人間性の凄(すご)さがクローズアップされ、首相になるまでの足跡はまばゆい。首相になってからも日中国交正常化の実現といった実績はあるものの、その後のスキャンダルで失墜した。一方、中曽根さんは首相になってからスケール感が増し、大政治家に脱皮した。
自主独立を掲げていたことから、首相就任後は対米外交が難しいはずだったが、「ロン・ヤス外交」という個人的な信頼関係を米・レーガン大統領と築き、日米同盟を推進していった。また、中曽根さんは語学が堪能で、英語のみならず仏語も流ちょうに操った。語学に関しては天賦の才があり、韓国語の歌謡曲もマスターしました。
83年1月、首相就任後初の外訪先に選んだのが韓国だった。タカ派の日本首相訪韓で、当初韓国国民は冷ややかでしたが、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の前で韓国語でスピーチすると場の雰囲気は一変。その後の宴席で中曽根さんは韓国語で「黄色いシャツを着た男」を歌い、全大統領は日本語で「愛染かつら」を歌って信頼関係を築いた。韓国を出立する時は、着いたころとは打って変わって沿道の国民も温かい見送りをしてくれたと、自負していました。
『サンデー毎日』2009年10月4日号で、中曽根さんは女優の岸惠子さんと対談しています。岸さんは、1987年に中曽根さんが首相を辞めた翌年、パリ市庁舎で仏語で演説した姿に感激したと語っていた。仏語でアドリブでスピーチする政治家は、中曽根さん以降、出ていません。
「母は星になって私を見ている」
一方で、中曽根内閣は行政改革にまい進する。国鉄、電電公社、専売公社の3公社民営化は、その象徴だった。憲法改正は封印し、内政で確実に果実≠獲(と)りにいく姿は、リアリスト政治家そのものだった。
そんなリアリスト政治家の一端を垣間見たのは、82年に首相就任後、初めて組閣発表する前日夜のことだった。それまで就いていた行政管理庁長官の部屋に籠もり、電気は消したまま。デスクの明かりだけを頼りに『国会便覧』をめくり、各議員の略歴などを見比べていたのです。
誰にも邪魔されないように秘密主義を貫き、鬼気迫る形相で組閣名簿を作成した。そしてできあがったのが、当時、最大派閥だった田中派を重用する人事だった。それがもとで田中曽根内閣≠ニ揶揄(やゆ)されましたが、本人は柳に風。すぐに倒閣運動される内閣より、安定して政治に取り組める人事を優先したのです。
また、護憲派の後藤田正晴氏を官房長官に起用しました。他派閥からの長官起用は異例。しかも87年、ペルシャ湾への掃海艇派遣に対して強く反対した後藤田氏ですが、異論を持つ者でも抱え込む度量を中曽根さんは持ち合わせていた。
そんな中曽根さんは、母親への思慕が猛烈に強かった。中曽根さんが東京帝国大(現・東大)生の時、母親は急性肺炎で亡くなっています。41年、海軍将校として艦船に乗り込む際、聖書とお茶の本、シューベルトの『冬の旅』を持参したのも、ミッション系の共愛学園を卒業した母親の影響が強かったと、振り返っていました。
中曽根さんが首相になった時、「お母さんは空から星になって私を見ている」と、ふと漏らしたことがあります。自分への戒めとして、この国の舵(かじ)取りをしっかりやらなければいけない、そう思う時に母親が常に自分を見守っている、それに恥じぬよう務めなければいけないと思っての言葉だったのでしょう。
もう一つ、中曽根さんを語る上で欠かせないのが、教養主義者だったこと。100歳を過ぎても秘書に「ベストセラー本を買ってきてくれ」と言いつけていました。ベストセラーは、時代の潮流を読むことに役立つものだと言い、常に目を通すことを心がけていた。
当選同期で同じ河野(一郎)派だった櫻内義雄元衆院議長、園田直(すなお)元外相がまだ若手のころ、中曽根さんを日劇ミュージックホールに連れていったことがあった。堅物の中曽根さんを少し和らげようという気持ちからだったそうです。しかし、幕が上がり、裸の踊り子のショーが始まると、中曽根さんは席から立ち上がり、「こんなのを観るんだったら家で本を読んだ方がいい」と言い、さっさと帰ったそうです。しかし、単なる教養主義者に止まらず、哲学書を読みながら肥溜(だ)めを担ぐ青年≠目指していた。それは、終生変わらなかった。(毎日新聞客員編集委員・松田喬和)
(構成/本誌・山田厚俊) 母への思慕>