「祖父パーマー」横浜・近代水道の創始者
著者 樋口次郎 有隣新書 (平成10年10月15日発行)
イギリス人の工兵中佐であるパーマー氏は明治20年に
日本最初の近代水道を横浜市に設計・監督した人です。
この本はその孫にあたる樋口次郎さんという人が還暦を
すぎてから約20年にわたって国内外での調査研究をもとに
パーマー氏の伝記を書いたもの。
明治12年41歳の時に初来日してから明治26年54歳で脳卒中で
亡くなるまでの14年間をパーマー氏は「横浜水道」だけでなく、
函館など各地の水道や横浜ドックの設計など技術者として
多くの功績を残しました。「タイムズ」の東京通信員として、
英国ジャーナリストの重要な役割も果たしました。
当時の日本は開国間もなく、発展途上の状態で物資も乏しく、
工事も困難を極めたそうです。横浜築港にも携わりましたが、
工事に用いた日本製のセメントの品質に問題があり、亀裂が
生じるという事件も発生し、その時はすでに故人となっていた
パーマー氏の責任ということにされたそうです。孫である
樋口さんはこの問題の真相を究明し、祖父の汚名をそそごうと
しています。
著者樋口次郎さんの母親は、当時の神奈川県知事の公邸で
行儀見習いをしていた財藤うたという娘さんがパーマー氏の
身の回りの世話をまかされ、明治25年うたが19歳の時に二人の
間に生まれた”たか”と名付けられた女の子でした。
パーマー氏が亡くなる1年前に生まれた”たか”はパーマー氏の
死後、彼の親友ブリンクリーが引き取るという話もあったそう
ですが、”うた”の父財藤清二とその妻すみが拝辞し、うたの
故郷の鳥取県で女学校を卒業するまでりっぱに育てられました。
その後、亡き父(パーマー)ゆかりの地である横浜で貿易を営む
樋口利喜太郎に嫁ぎ、筆者の樋口次郎さんは次男として生まれ
たというわけです。
樋口さんは少年の頃、母親(たか)から祖父パーマーが横浜の
水道を設計監督したことを聞いてはいたが、母親に遺された
パーマーの遺品は中佐時代の写真2枚だけで、他に「日出ずる
国からの手紙」というタイトルの本1冊だけだったそうです。
この本は明治27年にパーマーがジャーナリストとして
「ザ・タイムズ」に送った通信文をまとめたもので、後にこの
本がきっかけで樋口さんのパーマーの足跡追跡が始まったのだ
そうです。
さて、パーマー氏の設計監督した日本最初の近代水道である
横浜水道の水元、取水口は私の住むこの地であるのです。
そのことは私自身、子供時代は全然知らなかったのですが、
最近になって、今は湖に沈んでしまったこの取水口のわずかな
名残が湖の畔に残っていることを知り、3月に写真に収めて
来ました。
私の家から歩いて60分くらいのところ、道路は荒れていました。
簡易製のパイプの階段が下へと続いています。
だんだん雑木や笹の枝が覆いかぶさってきました。
まだか、まだかと100メートルほど下へ階段を行きました。
一人では恐くていられませんね。
あ〜!やっと見えてきました。

すぐそばは津久井湖の水辺です。
水道創設の記念碑、横浜市が昭和16年に建立したものです。
そして、その一段下には取水口の跡地の名残がわずかに。
すぐ横は湖、落ちたら大変。
ここは津久井湖になる前は相模川、この川の水を43キロ離れた
横浜へ明治20年から10年間(その後はさらに奥の取水口に変更となった)
送られたのです。
明治時代の煉瓦が残る

パーマーさんもこの煉瓦、風景をみたのでしょうか。
当時の写真
