父の残した資料にたくさんの録音テープがあり、
父と叔父との会話がおもしろいので、パソコン要約筆記の要領で
文章におこしてみました。
昭和53年4月29日録音、父58歳、父の叔父84歳の時の会話
明治時代の三井の暮らしについて
叔父/ 生活状態もこれ以上の暮らしもない。1年間を通じて米の飯を食べるのは年とりの晩か、盆の15日くれえのもんで・・・。
鱒を売りに来て、せいぜい7,80銭ぐれえで。そいつを輪切りに切って「ひじろ」で焼いて飯の上にのっけて茶をかけて、うまかったなー。漬け物に出来るものは出来るだけし、そうでないものはその時その時で食べた。遊びといっても余興といっては村の鎮守で、相原の「てんごれん」というシバヤシ(芝居師)があったんだ。好きで習ったのが、5円で来てくれる?とか、3円で来てくれる?とかって言えば(芝居師が)お祭りに行くべえって約定ということになるんだ。鎮守の祭りは1年中で最高の楽しみだった。
父/ やはり8月の25日?
叔父/ いや、9月の7日だった。あらしの時にぶつかって、相模川が大洪水で、せっかく約定しても、通行が止まってしまったなんてことが度々あるんだ。(祭りのときは)小麦をひいて田舎まんじゅうをつくるなどした。
青年が義太夫を習って、それを3月中旬あたりに座敷というのをやって、10人、15人、へたなやつから始まってな、最後が上手なやつが語ってな。それで、花をかけるんだ、50銭とか。それで、クジで景品をだすだあ。○君の家が広いし、大きかったからそこで座敷をやった。景品としては「ざんざ」「元結い」だ、そんなものを景品にだしたりした。クジでおれが1(番)を引いたことがあった。景品に「蛇の目の唐傘」が1等賞よ。「かさ」(家の屋号)じゃ、蛇の目の唐傘なんかあるのにな〜と言われたっけ。(笑)
そんなのが1年を通じて慰安の一番だったな。他には・・・祭り以外にはなかった、ほとんどなかったなあ。
父/ 食べ物っていうのはさー、麦?、全部麦なの?
叔父/ 一升のひきわり麦へせいぜい2合くらいの米だ。てえげえ(たいがい)の家で買うのは『1円買い』だ、1円買えば3升、南京米の安いのなら5升、1等米としても3升5合くらいあった。麦飯、粟飯で日常をすごした。
父/ ひえは使わなかったの?
叔父/ 使わなかった。蒔かなかった。だけどキビは作ったーよ。きびもちは使った。黄色いけど夜見ると暗いから白く見えた。米と粟餅と混ぜて餅をつくった。米はスルスルだが、粟はゴソゴソ(の手触り)、(夜、納屋に行って)米ばっかり持ってくると、(暗くても)目が見えるのかなんて親たちは言った。撫ゼクル(撫ぜる)と分かるだーわー。(笑) 正月三が日の一日の朝は雑煮、里芋、大根みたいなのをごとごと煮た。いろりで焼いた餅を入れた。そして神仏へ進ぜたーだー。その頃は油でお燈明をあげた。燈明皿(?)ってのがあって。火を取るのも火打ち石でやった。カチンカチンとな。今でもこういう此処(の家)に三角形(をした箱)で、中へトウスミを入れる引き出しと、油を入れたりな、ねえか?
父/ あるかもしれねえな〜。見たことはねえけんど。
叔父/ こういう三角形ので下が引き出しで、ちゃきん、ちゃきんとやって火がでたやつを、つばめのほうけたやつへエンショウをまぜるのかな、ホクチといって、火が移ったやつ、片方に硫黄がついてる・・
父/ ツケギか?
叔父/ そう、ツケギへ移して、そいつを燈明皿(?)に、トウスミがあるから、火を移したーだー。
父/ 電気はいつごろひいたの?
叔父/ ここのじい(父の父)なんぞが本気になって、電気の柱なんかを、あれは、(三井の)金沢辺りで切ったやつを。明治の幾年かなあ?日露戦争が37年だからな〜、明治40年くらいかな。初めて電球をここに下げてな。「もってえねえ、もってえねえ」って言ったんだー。「あにか(何か)しなくちゃもってえねえ、もってえねえ」と。(笑)
父/ それより前は?
叔父/ 石油ランプだ。2種類あってな、ゴブジンというホヤのふくらんでるやつと、まっすぐなやつとがあってな、まっすぐの方が灯りが強いだー。そいで、そこに吊るすだー。
父/ ああ、あそこにあったなあ。
叔父/ あっちに味噌蔵があって、そこに石油をドウコで買って、置いといた。
父/ そういうので、じゃあ夜なべなんかやったーの?
叔父/ お針をやった。山仕事ではくモモシキのモモ小僧が切れるから、ツギを当てて縫う。悪口のひとなんかは、「おめえ、今日は東海道をはいてきたのか?」なんて言う。(たくさんのツギがあたって)53次(ツギ)だから。(笑)
父/ (お針は)女の人がやったんだんべ。男の連中は?
叔父/ 縄なえをやったり、ワラジを作ったり。日の暮れにトントンと打っといて。明日履くものがねえ、なんて言って。こうやって、ワラジを作ったんだ。よそ行きは紐が琉球紐よ。畳屋が来たときに取っといて。八王子なんかに行くときに履いて行く。○○のオヤジなんかは店をやって琉球紐ワラジが3銭、わらひもワラジが2銭5厘で売ったーだ。
父/ 山に行って、草を刈ってきて畑にいれたーの?
叔父/ オトコシ(男衆)は山へ行って草を刈ってきて牛小屋に入れて、牛に踏ませて、積んでおいて息れかして、肥やしにした。そいつが麦ごえの土台になるだーわー。オトコシは一軒なしにみんな高山(三井の山の一つ、一番高い山)の下まで行って。朝4時頃起きてよ、山に行って草を刈って、朝飯を食うのは8時ごろだ。
父/ 冬は?
叔父/ 燃し木を取りに行った。ある人なんかは徒党を組んで多摩川の淵で砂利ふるいだ。10人ぐらい揃って、多摩川の淵に行って。その頃は道路にみんな砂利を敷くだーから。正月にはもどって、3が日の後また行って、それから3月4月くらいまで砂利ふるいだ。
父/ その頃はまだ陸稲なんかは作らなかった?
叔父/ まだ作らなかった。穫れるんだか、穫れねえんだか、わからねえものよりも、粟とかサツマとか。陸稲は、そうよなー、せいぜい餅を作るに3畝か5畝もつくれば。
父/ ほとんど蚕やってたんだな?
叔父/ 蚕が9分9厘よ。寺沢の施餓鬼が4月24日にあって、それが目当てで最後の遊び日だっちゅうわけで。その時にはへえ、蚕を掃いたーだー。冷蔵庫というのが中野にあって、そこへ種をあつれえといて、いつ頃掃きてえ、というのを持ってきてすれば、種から蚕に孵ってくるからな、そこでもって、てえげえ「おうしゅうばあ」、というのが蚕の指導者で来た。栃木だか茨城だか、あっちのほうから来たんだ。
父/ 「おうしゅうばあ」て何?女の人か?
叔父/ ああ、女よ。此処(の家)だとか、マスヤだとか、シタだとか頼むという家に、あちこち選別に歩って。上簇するのに蚕が5回変わるけど、いつ頃眠りにつくからこうしろ、桑はもうこのくらいにしろとか、言って聞かせてそのようにするだ。
父/ 魚釣りは?
叔父/ 5月から子供なんぞは盗み釣りに行ったーわ。ある時に平岩でもって大勢で釣って、笛がピリピリーなんて音して、あんだよ(何だよ)、なんて言ってたら、「アユを釣るにはまだ早いからもう帰りな!」っておまわりが二人来てよ、脅かされて、帰ってきたことがあるわ。その頃ももう県の条例かなんかで、6月の1日(解禁が)ということだったんだんべえ。荒川のあの、なんだんべえ、川のサクリョウ(?)の上手な人がいてな、岩の上でサクリョウをしていたんだーわー。おまわりが川の「こっちへ来い」と。とっ捕まったらかなわねえから、川につん潜った。はるか川の向こうに潜って行っちゃったもんだからな、おまわりのほうは死んだと思って大騒ぎだった(笑)。 そのころはなあ、アユもたんと(たくさん)いたーわー。『鮎の登り』なんていうと(魚が)列をつくって、(川の流れが)真っ黒だった。・・・・・
(話はまだまだ続きますが・・・おしまい)
このおじいさんは94歳でなくなりましたが、とても話のおもしろい楽しい人でした。