可視化以前の問題
悲惨な事件が起こった。犯人につながる有力な情報も確たる証拠もない。状況証拠などから疑わしい人物は出てきた。犯人がにくい。正義感に燃える刑事たちは、この上は容疑者を直接、追及するしかないと決断する。満を持して容疑者宅に出向き、警察署まで任意同行をかける。
突然、数人の刑事たちの来訪を受け、任意同行を求められたあなたは驚くだろう。逮捕状はないのだから、拒否することはできる。しかし、そんなことを考える余裕や勇気はない。両脇を抑えられ、引かれ者のように警察署の取調室に導かれる。
白い壁に囲まれた狭い部屋。机を挟んで取調官と対じする。向こうにはもう一人、刑事が控えている。「どうして呼ばれたか分かっていますよね」。事態が飲み込めないあなたに分かるはずがない。ようよう事件の話になる。相手はあなたを犯人とみているようだ。動揺するあなたに、取調官は机をドン!とたたく。壁を蹴る。どう喝する。
取調室に入れられたのは朝だったのに、既に外は暗い。夜になっても執ような追及が続く。「お前は自分のやったことの重大さが分かっているのか!」

足利事件の菅家利和さんは任意同行されたその日の深夜、女児殺害を自白する。「DNA鑑定がお前と一致した」と追及された。しかし、当時の鑑定はお粗末で1000人に1人以上が同じ結果の出る代物だった。最新の鑑定では菅家さんのDNAは犯人と一致しないことが明らかになるが、当時、そんなことを知るよしもない。自分が犯人でもないのに観念する。
「疲れたり、眠くなったり、どうしようもなくなり、怖くなった。やりましたと話してしまいました」。菅家さんは6日、志布志市であった「取り調べの全面録画を求める市民集会」(7日、エリアニュース)でそう振り返った。
富士氷見事件の柳原浩さんは、任意の取り調べ3日目に、少女強姦を自白する。「お前の姉さんもお前がやったと思っている」と言われたのが効いたらしい。孤独を救う最後の砦、家族からも見放されたと思い込まされた。「調べ室の白い壁が迫ってくる。取調官の怒鳴り声が耳の奥に響く。壁一面から響いてくる感覚でした」と柳原さんは、集会で語った。
柳原さんは裁判でも争わず、懲役3年の判決を受ける。絶望。そして刑に服した後、真犯人が出てきて無実が明らかになるのだが、もしそうならなかったら、と想像すると警察の罪は重い。
狭い取調室に長時間、閉じ込められ、誰にも相談できず、話ができる相手は自分を追及する刑事だけ。孤独。恐怖。ついには今、唯一の世間に通じる相手・取調官に迎合する。事の重大さといった感覚などなくなり、自白してこの場を逃れたい。収めたい。そんな悪魔の誘惑に負けてしまう。
市民集会では、こうした取り調べの実態を裁判などで検証するために取り調べの可視化、すなわち全面録画の必要性が強調された。取調室にカメラが設置され、それが後に裁判で明らかになるとなったら、犯人でない人まで「落としてしまう」(自白させる)過酷な調べはなくなるかもしれない。
しかし、それはあくまでカメラのある取調室での話だ。日本では、世界の先進国で唯一、逮捕した容疑者を20日間以上ずっと警察の支配下に置ける。代用監獄だ。捜査員がその気になれば、取調室ではない部屋で厳しい追及をして、調書を取る際だけ、カメラの前で調べをすることだって可能だ。さらに、「あの被疑者はかなりのワルで、強情だ。ちょっと目をつぶってくれ」と留置担当の警務署員に頼み込み、記録に残らない取り調べを夜中にすることだって、できないことではない。
刑事訴訟法では本来、容疑者を逮捕したら48時間以内に検察庁に送検し、送検後も身柄を確保するためには24時間以内に裁判所から10日間の拘置を認めてもらい、それがあと10日間延長が認められて最長20日間留め置くことができる。しかし、送検後の身柄は法務省の管轄だから、拘置所(拘置支所)に収容されなければならない。

そうなると、警察が取り調べをするにも拘置所の了解をとらないといけない。理不尽な長時間の調べや、夜の調べはまずできなくなる。ところが日本の場合、代用監獄を明治以来、平成の今も認め、そちらの方が一般的となっているのだ(詳しくは「DAIYO−KANGOKU」)。
市民集会で甲山事件の山田悦子さんは、取り調べの可視化の必要性を問う司会者に対し、「人間の自由を剥奪し、人間を破壊させる代用監獄」の問題こそ重要だと訴えた。過酷な取り調べができる原因は代用監獄にあるのに、その原因を問わず、取り調べの可視化を訴える意味があるのか。「被疑者は拘置所に移す。世界の常識なのに、それが日本では非常識になっている」と問題の深刻さ強調した。
【写真上】えん罪をなくすために取り調べの全面録画実施を訴えた市民集会=6日、志布志市
【写真下】えん罪防止には代用監獄の解消こそ重要と語った山田悦子さん(左端)
(2009.12.09 南日本新聞)

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