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2012/1/19

納棺夫日記を読んで  

一、二章は業務記録の内容で、言ってみればブログ風。「おくりびと」で映画化されたのもこの部分で、読みやすい構成です。

でも私が感動したのは、三章。著者の住む富山県では葬儀の8割が浄土真宗(うちと同じ)で行われるそうで、三章も主に浄土真宗の教えについて書かれています。書籍や法話では腑に落ちなかった点が納得できたのは、僧侶でも宗教学者でもない立場で書かれた宗教論だからでしょう。

浅知恵のくせに言い切ってしまえば、日本の仏教の宗派の中で浄土真宗はヨガの思想に一番近いと思います。元がひとつなのだからリンクして当然ですが、親鸞が「念仏すれば成仏する(*)」と説いたのを、厳しい修業で知られる比叡山延暦寺の修行僧たちは、邪義として迫害したとあります。

私は既存の仏教には納得できない点もありました。苦しい修業で地位が上がる制度は生きている人間に、立派な位牌・卒塔婆・追善供養は亡くなった命に、それぞれ序列を作るものです。命に序列や宗派間の食い違いを作ることは宗教としておかしいでしょう。これが今まで持っていた疑問1。

また、現代の日本で宗教に熱心な人というと新興宗教の信者がイメージされがちですが、彼らの中には同じ信仰の人とそれ以外とで付き合い方を変える人もいます。仏教で目指すのは自他の境がなくなること、という考え方に矛盾しないかというのが疑問2。

この本の三章を読んで、それらの疑問が晴れたわけではありせんが、自分を取り巻いて大きな影響を与えるものという感覚から、自分から離れた所にあるどうでもいいものと思えるようになりました。困難の客観視という解釈はヨガでも出てくる考えです。

ヨガだと体操のように動いたり、逆にじっと座っていたりと、身体感覚から上述の視点を導きだしますが、日本の仏教は言葉で、理屈で、その考えを持つように教えます。どちらが良いかは、自分の感覚に聞いて判断すればよいのですが、私はどちらもイイナと最近は思えるようになりました。

しかし、現代の日本においてはヨガの思想の取り込み方を間違えれば、僧侶や行者の立場ならともかく、一般庶民は社会の落伍者となってしまいます。

社会的な承認欲求や慢(自分を立派に見せたい)の煩悩も、ある程度はないと困る現代社会、でも過剰になれば自分も周囲も苦しくなります。両者のバランスの「支点」は、自分の心が温かく落ち着いた状態が保てているかどうかでしょう。自分の内面にあるために軽視しがちですが、本当は一番大切で、見失ってはいけないものなのだと感想文のついでに考えました。

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納棺夫日記 増補改訂版
青木新門 文春文庫


(*)「なまんだぶと言えば極楽に行ける」という意味ではありません。深遠なのです。
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