去年のバレンタインデー。
とても丁寧で親身に患者のことを考えてくれる誠実な担当医と、
明るく気さくで手際よく看護をしてくれるナースに囲まれて、
病室のベッドで数日後に迫る退院を心待ちにしていた。
いつものように時間つぶしのための洗濯をしに
ランドリー室へ向かおうと準備をしている朝に
一本の電話が入った。
この病院は比較的携帯電話に対する制限が緩く、
同室の患者さんも当然のように電源は入れっぱなしで、
さすがに会話は室外へと出るものの
メールはベッドの上でやり取りをしているほどだった。
電話の相手は父親だった。
それは、長いこと病気で苦しんでいた叔父が
今朝方亡くなったという悲しい報せ。
叔父は十年ほど前からピック病という脳の病に冒されていて、
現在の医学では治療を施すことはできない病。
脳の一部と全身の筋肉が、まるで綿飴が溶けていくかのように
じわじわと縮んでいってしまう病。
自分自身の行動や、周りの人間のこと、
記憶すらも混沌としていくその過程はとても辛い有様で、
何もせずに死を待つのみという残酷な現実がすぐそばに存在していた。
叔父は母の妹の夫で血は繋がっていないものの、
家の事情で母の実家に預けられていたり、
従姉弟と年齢が近かったこともあって
幼い頃から実の子供のようにとてもかわいがってくれていた。
そのせいか、親戚などが
「あなたの子供は誰なの?」
という質問をすると、2人の子供の他に
常に私の名前を答えていたそうだ。
生前の叔父と最後に会った日。
いつもは涼しい夏の東北も、温暖化の影響で
35度を越していて、とても暑く、嫌味なほどの青い空。
叔母の運転する車で、叔父が入所している施設へと向かった。
6年前の従弟の結婚式で会った叔父と、
ベッドに横たわる目の前の叔父とは全くの別人だった。
歩くことはおろか、咀嚼すること、飲み込むこと
しゃべることすらすでに不可能なくらいに弱った筋肉。
それはまさに”骨と皮だけ”以外は
表現する言葉が思いつかないくらいだった。
そして、すでに、自分の妻を理解する時間も
ほとんど消え失せてしまっていた。
そんな叔父を見て、ベッドに近づくことを躊躇してしまった。
自分を理解してくれなかった時に寂しい気持ちに支配されてしまう恐怖。
近寄ることで叔父が死に向かうスピードを速めてしまう気がして。
それが怖くてすぐには傍へ行くことができなかった。
しかし、叔父はすぐに私を理解してくれた。
そして無意識に自分の弱さを優先させてしまっていた私に、
叔父は二つの行動をとった。
母が叔父に直接手渡した見舞金を入れた熨斗袋から、
現金を取り出そうとし
「おじちゃんは今これしかないけどお小遣いやるからなぁ」
と聞き取るのがやっとの言葉で、必死に手渡そうとした。
そして
「今度は旦那になる人を連れてくるから。
だからそれまで元気でいてね。」
と語りかけると
「おじちゃんなぁ、こんなになっちゃってなぁ・・・」
この言葉の後に、かなりの時間をかけて
何かを一生懸命に伝えようとしていた。
が、叔父の体力はすでに尽きていて、
後に続いていた言葉が何だったのか
まったく聞き取ることができなかった。
そんな最後の面会から半年後の別れ。
入院という事情があったにせよ、
最後のお別れに行くことが叶わない申し訳なさも加味され
ナースに心配されてしまうほどに泣いた。
あれから一年。
あの時とは違う申し訳なさが私の中を泳いでいる。
叔父がお小遣いをくれようとした時。
どうしてそれを受け取らなかったのだろうか?
もしかすると叔父は、自分の病状を理解していたのではないだろうか?
そして、そんな自分を姪に見せたくなくて、
ある種の見栄のような、そんな行動だったのではないのだろうか?
だとしたら、あの時、私が取るべきだった行動は?
その場では”お小遣い”を受け取って、
施設を出た後で叔母にそれを渡せばよかったのではないだろうか?
そして何よりも。
叔父が最後に伝えたかったことはなんだったんだろう?
今までにも大切な命をいくつも亡くしている。
その度に同じような申し訳なさが悠々と泳ぎ始める。
これまでたくさんの申し訳なさを飼育してきたはず。
なのに、未だに上手に飼育することができない。
時として、それを殺してしまうこともある。
もしかすると、この申し訳なさは
旅立った者から残された者への、
大きな大きな置き土産なのかもしれない。
だとしたら、それを上手に飼育できるようになること、
もしかしたらそれが一番の供養になるのではないだろうか。
大切な命達の供養はまだまだできそうにない。
だけれども。
いつかきっと。

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