私は、持統天皇を陰謀家とか思わない。686年の大津皇子の事件も鸕野皇女(後の持統天皇)の陰謀ではなくて、藤原不比等が勝手にやったのではないだろうか。鸕野皇女の陰謀だという証拠はない。歴史研究家や歴史作家が則天武后のイメージで持統天皇像をつくりあげているだけのような気がする。
689年に草壁皇太子が亡くなった後、皇位継承が高市皇子にいかなかったのも、高市皇子がだれとも分からない闇の謀略家に脅迫されていて、恐ろしくて即位できなかった、それで皇后が引き受けざるをえなかったというのが真相ではないだろうか。
皇后は高市皇子に即位を勧めたけれど固辞されてしまった。それで次はあなたですよという意味の後皇子尊という称号を与えたわけだ。だから実際の政治は高市皇子が太政大臣として行っていたのである。皇太子にならなかったのは、皇太子では太政大臣なれなかったという事情もあるのだ。
鸕野皇女が天皇になるには、当時の皇親政治から考えて、皇子たちの支持が必要不可欠ではなかったろうか。大津皇子を謀略で殺した張本人として皇子たちに恐れられていたら、皇子たちは結束していたので、結局皇后は天皇にはなれなかったはずである。
皇子たちと鸕野皇女を対立的に捉えるのは、称制期から近江京の官僚たちの復権を進めて、それが藤原氏の台頭に道を開いてしまったからだろうが、これも皇子たちだけではとても律令官僚体制を動かせないので、皇親政治を輔弼させるために行わざるを得なかったというのが実情だったと想像される。
たとえ心の底では草壁皇子やその息子の軽皇子のライバルはすべて殺してしまいたいと考えていたとしても、そんなことは微塵も感じさせなかっただろうし、自分自身でも自覚的にはあくまでも皇子たちをまとめて天武天皇の遺志を継ぎたいと健気に頑張っていたのではなかろうか。
幼児期の649年に祖父蘇我石川麻呂が父中大兄皇子に殺されて、そのショックで母遠智娘が狂死したことがあり、それが鸕野皇女の人格形成に恐ろしい性格を生み出したという解釈がある。私はむしろそういう悲劇があり、しかも672年の壬申の乱で弟大友皇子が夫大海人皇子に殺されたり、668年に姉大田皇女に先立たれたり、ひょっとしたら671年に父天智天皇が夫大海人皇子に殺されたりといろいろ不幸があっても、あくまでも夫への愛に生きたのである。
夫の遺志を引き継いで皇子たちと貴族官僚たちを纏め上げ律令国家を築こうとして、明るく健気に「かわいい」女を演じきったので、皇子たちの支持でやってこれたのではなかろうかと、私は推察している。ワイフに言わせれば「それは甘い、甘すぎる」ということだが。
もし696年の高市皇子の死が変死で、だれかに毒を盛られたとしたら、皇親政治を終わらせて貴族官僚独裁にもっていこうとした藤原不比等たちの勢力がやったと思われる。彼はたしかに持統天皇の腹心だったが、持統天皇自身は両勢力の均衡の上に立っていたので、皇親勢力の中心の高市皇子を殺してバランスを崩すことにはメリットを感じなかっただろう。

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