mixiの三木コミュニティで次のような書き込みがあった。
「「すべての制度はフィクションだ」というような鋭い感覚も持っていますが、人間の行為、創造がすべて構想力の導きによるものだ、というだけでは、想像力があるから進歩がある、という通俗的な認識と変わりないと思います。個々人の思い、主体性、想像力を重視し、さらに文化人類学的観点からしても原始の民族以来、構想力が主導権を握ってきた、という程度で、いかほど現代的な意義があるのかピンときません。
「形の思想」にしても、生物学、形態学の概念装置を導入していますが、整合性をどう取るのか不明。接木的な気もします。まさか構造主義でもないだろうし。どなたかご教示願います。」
私には「現代的意義を感じない」という意味がピンとこない。当たり前のことを言っているからだろうか。
当時は西洋近代を超えてアジアの台頭という発想があり、「世界史の哲学」が話題になっていた。つまり西洋の実証的科学技術文明に論理的に対抗するのに構想力やポイエシスが対置された。だからすごく現代的意義があるわけだ。その発想から東亜共同体構想が打ち出されていった。そうするとそれなりに大義名分が整って、お国のためだけでなく、世界史的意義や、人類的普遍的正義のためにも戦争に協力しなくてはということになった。
もちろん現実にはそれは野蛮な侵略戦争を美化して、国民を戦争に総動員するのに使われたわけだ。もっとも三木たちは正しい理念に基づいてアジア解放を目指すべきだという立場で、それを帝国主義的侵略に悪用するのには反発していた。それでも戦争協力の結果責任は問われるべきだろう。
21世紀の現代はグローバル統合の過程に入っている。これを構想力、ポイエシスでどのようにナビしていくかが哲学の課題なのだ。反グローバリズムではだめである。環境問題や交通・通信の進歩からみて統合自体は避けられない。要はそれを覇権主義の餌食にならないようにし、グローバル・デモクラシーを確立して、諸民族・諸文化の共存・共栄につなげ、大いなる生命の循環と共生を実現していかなくてはならない。三木や西田の意義は大きいのだ。
たとえばこのままいくと地球温暖化で大変なことになる。NHKの「気象大異変」という特集でやっていた。京都議定書を守っても大異変なのだ。するとどうしたらいいのか。既にいっぱい災害がおきてしまっている。中国・中南米の大洪水、アメリカ、日本のハリケーン・台風被害、ヨーロッパの熱波などは3万人死亡だ。「テロより怖い温暖化」なのである。今年の大雪被害だって、それが原因かもしれない。明日の問題じゃない、今現在の問題である。
そこで大変なことだからということで、たとえば乗用車はソーラーカー以外は駄目にする。そしたらどれだけの効果があるのかというだ。どこか一国でも決断して実験的にやってみる価値はある。一時的にはスピードが落ちたり、開発にコストがかかるが、やがてソーラーカーや公共交通機関で十分交通は間に合うようになるだろう。
その国が世界に実績を示して、ソーラーカーや技術を輸出するようになり、これが世界標準になれば、地球温暖化は劇的に緩和するかもしれないわけである。
そうなれば、構想力やポイエシスの勝利だといわれるだろう。つまり構想力やポイエシスが必要なのは当たり前、何時の時代でもそうである。だからそんなことを言っても仕方がないのじゃないということである。それぐらいに構想力およびそれに基づく決断力の貧困が深刻なのだ。だから「構想力の論理」を説いた三木清は偉い。ということである。

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