作品かネットかという前に、僕たちは画集という存在を考えてみてもいいのではないかと思っています。まだちゃんとまとまっていませんが、ノート程度の感じで書いてみます。初めに断っておきますが、これは強引にまとめちゃうため多少暴論です。
少なくとも、ネットがないときには日本で行われる展覧会だけでは理解できなし、画像の質的に言っても量的に言っても雑誌では物足りないので、画集という存在が大変重要でした。僕自身は世代的に言えば画集という存在の大きな重要性を享受した最後の世代に当たります。
画集というのは単に資料的な価値としてだけでなく、本として大変高価であるということもあり強いフェティシズムも持っていたと考えられます。その重みや大きさとともに宝物感が強かった。
そして作家は、画集のデザイン性まで考慮に入れて積極的に作家性(イメージコンセプト)を作っていった状況が90年代前半から00年代前半まであったのではないかと。けれども、その画集に対する志向が最近は以前のようには見られないのではないのではないかと考えています。
画集に対する積極的な感覚を持っていた作家とは、ダミアン・ハースト、ダグラス・ゴードン、ジュリアン・オピー、ロニー・ホーンなどの作家から、おそらくオラファー・エリアソンやマシュー・バーニーくらいまでなのではないだろうかという気がしてます。

Damian Hirst

Douglas Gordon

Matthew Barney
僕はこの画集に対する作家の積極的なアプローチがCDという存在と対応しているのではないかと考えました。レーベルから発売されるCDという存在はご周知のとおり、ネットやiPod、iTunesなどの登場で低迷しているわけですが、画集もまた同じような問題が起因となっています。この変化は少なくとも作家の作品に影響を与えているのではないかと考えられるのです。
画集といえば、日本で言えば大竹伸朗からともいえますが、大竹はアーティストブックというオリジナルの発想が強く、どこかしら自分で編集したカセットテープの存在から出発したように思えます。形態感や手仕事のフェティッシュの残し方がまさに自作のカセットテープの美学と一致しないでしょうか。アメリカでは、複製する際のわずかな劣化を見せるリチャード・プリンスと言えるかもしれません。
日本ではおそらく奈良美智、村上隆、ヤノベケンジなどが一番そのCD的美学な感覚に相当すると思っています。

大竹伸朗

奈良美智

村上隆
オラファ・エリアソンやダミアン・ハーストなんかはモロですが、CD(もしくはDVD)の半透明性と光の感覚、エッジーで滑らかな形態感というのも、フェティシズムの要素として彼らの作品と共鳴しているように見えます。また、彼らは基本的に物質の磨耗や古さを嫌っているところがある。それはある種の永遠性への憧れです。
カセットテープにはその形態と、自作のカセットテープを作成する初期衝動に対する懐かしさ(ノスタルジー)が、多分に含まれています。椹木野衣は、そういったカセットテープ/CD世代の境界線に今、意識的に立ち位置を置いているのではないでしょうか。
椹木野衣 美術と時評 第1回 大竹伸朗の現在はどこにあるのか
今の時代は、実はカセットテープのような磨耗や古びる感じはないにしても、CD世代が持っていた古びることへの拒否反応と、ロマン主義的な永遠性への憧れが完全に崩れているように思えます。それは消費速度の加速化と、音楽の情報化によって不可避的に失われていくものに対する認識の方が、CDやDVDの耐久性に対する幻想を覆し、危機意識として強まってきているからです。実はこういった考えが現在の若い世代のマテリアルに対する意識を形成させているのは確かです。
今、若い世代の中でもCD的な美学のムーブメントがあるのは確かですが、そこでもマテリアル(もしくは時間)に対する潜在意識はおそらく前世代とは何かしらの亀裂が入っていると考えるべきでしょう。
完成された複製品としての美学(そこにコレクションの欲望が含まれる)が、シュミレーショニズム的なもの美学と対応したのだという気がします。
この頃の作家は、また自分の作品(特に映像)を解体し、アレンジをくわえMAD的に構成をくわえたりもしましたが、あくまで作家の主体的な意図のもと行われるものであり、CDのコンセプトアルバム的な感覚に感じられます。
ちなみに、この90年代後半からエドワード・ルッシェの再評価が見られます。彼もまた自身で本の形態の作品を多く作っていますが、それはポップアートというよりも、作品自体が複製品という形態を取っていくその考え方(美学)に、新たな再解釈が加えられたからではないかという感じがしています。
もちろん、彼の時代は彼が「Records」という本を作っていることからもわかるように、レコード的な時代性を持っているように思えます。それはポップアート的な感覚かもしれませんが、コンテンツを並べるや重ねる、破壊するくらいで編集と意識がまだあまり生まれていないからです。むしろ編集不可能性が起点となっています。

Edward Ruscha 《Records》
一方で今示したCDの美学というのは、もうすでに破壊されつつある感覚だといえます。iPone、iTunes、iPodのような感覚は今やますます浸透しています。ソフトウェアーとハードウェアーの関係の変化が、フェティシズムや文脈に対する距離感に変化を与えているのは間違いないように思います。それを議論するためにもネットが本格化する以前(初代iPodが発売されたのが2001年11月17日であるならば、段階的な変化とはいえ、それ以前/以後の問題としてみてもあながち支障がないように思えます)の状況について少し考えてみる必要もあるのではないかと考えています。