「そろそろ選ぶ必要がある。」のコメントからの流れで。Tattakaさんはもう見られているかもしれませんが、「ねとすた☆あねっくす-ねとすたシリアス」を紹介しておきます。今後の日本現代美術を考えていくうえでこれは間違いなく必見動画です。
ねとすたあねっくす - ねとすたシリアス
また、それ一緒に「爆笑問題のニッポンの教養」で菊池成孔と太田光のやり取りも少し再考すべきかなとも思います。あの番組自体が面白かったというわけではありませんが。
「爆笑問題のニッポンの教養」〜菊地成孔 - 老後にそなえて
太田光がぶつけてくる問題を、菊池成孔がマスコミ(テレビ)の共通言語だと言っています。どのメディアないし職業を主戦場にしているかで意見はどうしても相容れないものが出てくると。
確かに多かれ少なかれみんな自分が生業としている職業もしくはメディアのインフラと自身の立ち位置を基盤として現在という世界を構成しているはずです。ねとすたシリアスの意見を見ていてもその態度の強度は重要であり、そのうえでの捏造(ふっかけ)的な断定も多分にある。
菊池本人もそういった立ち位置からまぬがれているわけではありません。職業もしくはメディアの生き残りを考えなければいけないわけで、バカ正直に美術の凋落を受け入れてもしょうがない。というか、なんとかして美術の生き残りをかけるために変革をしていかなければいけない(とここでは言わなければいけない)。
今その判断が美術の状況としては、居直って鎖国的になりどんどん島宇宙化する傾向が強く見えます。確かに、それはそれでやっていけるけれど、この盛り上がりに欠ける惰性的島宇宙は、状況として不健全と感じてしまう。
なぜなら、なぜこの作家がそこまで評価されるのか一向に理解できないうちに、なかばいっちょあがり(安定した評価と保障された立ち位置)のポジション(誰も責任をとらないうちに評価だけが勝手に進行する)が急速に与えられていくということが頻出している。90年代後半くらいから00年代前半までは、受け入れにくい作家が評価される事はあっても、これほどまでになあなあ状態はありませんでした。あえて書きますが、金氏徹平の過剰評価は間違いなくその象徴的な現象です。評価が問題ではなくその過剰な評価が決定的な理由がない中でなされている気がします。
菊池本人が生々しさはすぐ慣れてしまうと言っているように、音楽と違って物として残り続ける美術作品の場合、生々しさが活力になるとは思えないけれど、とはいえメディア的なインフラはそんなに簡単に崩壊させる事はできない(ダンスや身体表現が注目されているのは、このことと関係がないわけではないように思えます)。美術という今や恣意的な根拠でしかない立ち位置を崩壊させることなく、どう発展可能性を望めるのか。問題はここなのかなと。
だから、一方的な場所を現場か、ネット空間化かにならない、場所と場所をつなぐ営みが必要となってくるのは確かです。菊池が言っていっているように、もしくは東が言っているように、ライブ感なり、美術館はやはり補完的に関係していったほうがいい。どうも場所と場所をつなぐような関係が、美術は希薄に成りすぎている。だからたとえば美術手帖が美術の現場から切り離されて、勝手な方向(これは美術の外の人間が見ても戸惑うほど明らかな事態として)に迷走してしまう事態が引き起こされている。
現実的に日本の美術館が圧倒的な物量を示していくというのは難しいけれど、それ以外にはどのようなことが可能なのかもう少し考えていくべきなのだと思います。もちろん、これは美術にアニメやオタク文化、サブカルを取り入れるというようなポップアート/シュミレーショニズムのようなことを言っているのではなく、美術のインフラ構造(儲かるとか儲からないの話ではなく、ビジョンとしてビジネスモデル)の応用可能性を考えていくということです。