美術においては、批評が衰退し、ついにはジャーナリズムまで衰退しつつある。批評を語るにしても包括的に語るべき状況がまったく見出せなくなってしまった今、少なくとも従来の美術批評を書く事は、書き手も読み手も思った以上に期待しなくなってきている。
BankART Studio NYKで行われた「美術犬(I.N.U.)」 第三回企画 シンポジウム「批評」と、その後の会話からの印象で感じた一番大きな事はそのことでした。
美術に関わる多くの人は、美術という全体の中で急速的/長期的に、何かが失われた(ていく)という危機感を多くの人が共有している。シンポジウムや自主企画の展覧会を企画する(そこに足を運ぶ)ということは、何かしら状況を知りたい、動かしたいと思っているからです。ただ、だからと言って自分が美術において言説や状況において何かを知りたい、何かを動かしていきたいと本気で思っているのかと問うてみると、美術という全体に対しては危機意識以外に特にヴィジョンを持てず、それ以外の具体性は失われてしまう。そういった中で、あからさまに公言される事はないにしても、多くの人が何かをする体力が奪われていると感じています。この行き詰まりをどう打破するかこれが課題となるはずです。
その課題に向かわなければ、単に今いる作家を寄せ集めて新しいムーブメントを起こそうとしてもたかが知れているとかなり多くの人が思っているという事実が美術の現場に足を向けると理解することができます。
美術の状況とは反比例して、美術の外部ではきわめて具体的な問題があらゆる場所で乱立し、美術という制度はそれに対応する事はきわめて鈍く、制作のレベルでも議論のレベルでも(おそらく制度的なものが足かせともなって)全体的には追いついていない。
こういった状況でうまくことを運ばせるのは、根拠を必要としないたくましい自己顕示欲か、そつなくコミットメントできる能力だけなのかもしれません。
作家の場合、そのモチベーションを確保する一番やりやすい方法は、全体を俯瞰せず(メタ的な位置に立たず)、活躍の場となる機関(ギャラリー、美術館、レジデンス)で求められるポイントと自身の作家印(作品のフェティシズムとコンテクストの整備)を形成することに集中することです。
それは悪い意味に聞こえるかもしれないけれど、そういったことで作家はヘタに勉強家で内省的な人間よりも便利ですから依頼を受け、さまざまな経験(仕事)をし、作家として化ける可能性が高いと思います。
こういった事は一昔前の作家が持ちがちな「不器用であることの美学」がどんどん機能しなくなってきていることを意味しています。
それはこうも言えるかもしれません。一時期の現代美術において重要な部分であったはずのシニカルな態度という効能がきわめて低下しつつあると。
そういったポテンシャルを持ちやすい作家のタイプというのは、ともするとお山の大将状態に近いにあります。しかし、美術という領域がポストモダン的な状況によって決定的に磨耗してしまった今、お山の大将であることが一つのポテンシャルを持つことも確かです。これは決断主義と言えるのかもしれないけれど。
メタ的な意識を持ち、それが捨てられない人間は、価値が相対化され、たくましい自己顕示欲を持つこともそつなくこなす(わかりやすくまとめる)ことも難しくなる傾向があります。この種のタイプの人間とは、多かれ少なかれインプット志向の強い人間です。
それ自体もリアリティがあることで、こういったメタ的な思考を持っちゃう人間がいかに活動をアクチュアルにしていくのかという課題を考えていかないといけない。
ただ重要なのは、余計なことまで考えてしまう人間も、どんな形であれ状況に対応するようなアウトプットによって抵抗しなければ存在の意味を成さない。これが昔の状況よりもはるかに要請として強くなってきているということです。中途半端なインプットは足かせになるのみです。余計なことまで考えてしまう人間の自由度、存在価値は昔よりもはるかに奪われてきていると僕の実感としては強く感じます。
でなければヘタに状況論的なものに囚われず「切断の自由」を行使し、自分の研究・作品制作に没頭しオタク的にやっていくことの方が生産的だと言えるはずです。
もちろんこんなこと書くのは、自分に突きつけられている問題だからだということは書くまでもないことですかね。