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投稿者:石川
僕も簡単に「ネット直接民主制」と、あえてを書きましたが、とりあず具体的なやり取りがここで見ることができます。
http://togetter.com/li/399

あとこれもつけておこうかな。
宮台真司と森岡正博の簡単な対談です。
http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/277/


>ここで書いてもしくりこないですね(笑)
そうですね〜(笑)
でもありがとうございます。

所沢ビエンナーレはある意味で課題が多く、
また自己反省的な意味でもいろいろと考えさせられます。
けど従来の美術的なセオリーから考えすぎると結局何も新しい可能性を生まれずきわめてつまらない改善点しか生まれないような気がしています。

>pixivなどで若い作家(とあえて言いますが)が無数に絵を投稿する時代における美術の定義は、もはや表現行為を指すものですらなくなりつつあるのかなとも思います。

う〜ん、そうですね。ここらへんは見守りつつ、応用可能性を考えたいなぁと思っています。
投稿者:Tattaka
× ビジュtっす
○ 美術

http://love.ap.teacup.com/tattaka/
投稿者:Tattaka
連投失礼します。
東さんはどうやら「ネット直接民主制」のことではないと言っていますが、どうもまだ出てないルソー論をみてみないとよくわからない気がします。
ただ、確かにネットの是非はともかく、素直に考えていけばギャラリーを軸としたマーケット主導型の現代美術というモデルは、オルタナティブを推奨するという意味ではなく、急速に古びた感があり、いわゆるpixivなどで若い作家(とあえて言いますが)が無数に絵を投稿する時代における美術の定義は、もはや表現行為を指すものですらなくなりつつあるのかなとも思います。
ではそれはなにか?と思うのですが、最近は「脳の映画」に対し「脳の美術」すなわち思考がビジュtっすである可能性も考えています。
もちろん流行りの唯脳論などではなく、映画的な世界/照射のプロセスとしてのアートですが、ではこれはどうゆうものなのか?とか・・
僕は関口さんなどはそういう行為に近いとは思ってますし、やはり石川さんのいくつかの作品にはそういう視点から新たな解釈が可能な気がしています。

まあでも、考えてる途上のことをここで書いてもしくりこないですね(笑)

http://love.ap.teacup.com/tattaka/
投稿者:石川
 あと、僕自身が「美術の現場に足を向けると」と書いているわけで、僕も通りすがりさんを批判しているわけではありません。
投稿者:石川
 「そろそろ選ぶ必要がある。」を書いたら、通りすがりさんとTattakaさんから、コメントを早速いただきました。ありがとうございます。
 最近あまりこの手の内容は書いていなかったけれど、やっぱり書かなきゃいかんなとあらためて思いました。
 僕自身は、通りすがりさんが言われるような「戦後経済とともに美術制度がほぼ瓦解した」というのが、どの部分にあたるのか残念ながら「資本主義はニヒリズムか」を読んでいないのでわかりません。が、僕は通りすがりさんの言う「現場」って概念を、そろそろもう一度はっきり議論していくべきだと思うんですよね。
 すみません、Tattakaさんの質問と重複しています。美術の現場ってどこ?って問題ですが。
 当然これは70年代を中心にも問われた問題なのですが、もう一度違うレベルからの再考が必要なのは確かです。
 東浩紀が「朝まで生テレビ!」で、「ネット直接民主制」を言って話題を作っていますが、議論なり作品を展開させる場=現場をどこに置くかの思考をそろそろアップデートしなければ、立ちいかなくなっているように感じます。もちろん単にギャラリーからでればとか、ネットを中心にということではありません。むしろ場所と場所をどう繋ぐかという問題に関係するのかもしれません。
 この問題は僕が参加した所沢ビエンナーレでも考えさせられましたが、作品の発表の場所や形式で考えるべき問題を既存の美術制度(オルタナティブも含め)の考え方に沿わしてしまうと作り手も見る側も可能性を取りこぼしてしまう可能性があるように思うのです。この問題は美術犬の問題でもあるはずですね。

 新連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/1ABkx0hEC9izobIetRKa

連載 田中功起 質問する 1-2:土屋誠一さんから
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/bKXvJ04woxajzGrSAFdt/

投稿者:Tattaka
すみません。人のブログのコメント欄で質問するべきではないのですが[通りすがり]氏の言う「Tattakaさんのいう「美術の問題」という語彙もナイーブに聞こえてしまう」という言葉の本意はなんでしょうか?
ある意味確かに馬鹿正直な言葉ではありますが、この言葉には含意はなく、石川さんが「美術」についての批評の不在を問題にしてたことに対する普通の言葉の選択でした。
「美術についての批評の不在」を問題にすることがナイーブという意味でしょうか?
すみません。えーと、変に絡もうとしてるのではなく、語の正確な意味を捉えかねたので(三浦さんと松宮さんの著作を読んでない人間にもわかりやすく)、大まかな説明をお願いしたいところです。
また同様に「研究者や批評家ではなく現場で働く者」という言葉もその意味把握できかねております。ここで言う「現場」とはなんでしょうか?
美術における「現場」とは作家・批評家・観客を含む世界をさすのではないかと考えておりましたが、どうも違う意味で用いられているように思えます。
もちろんこれも、通りすがり氏の論を頭ごなしに批判する意図ではなく、共通の下地を確認したい気持ちからであることはご理解ください。
おそらくはある種の配慮からかと思いますが、どうも含みの多い文章のため、誤解を産みやすいし、いかようにもとれてしまうのです。
ご理解いただければ幸いです

http://love.ap.teacup.com/tattaka/
投稿者:通りすがり
作家印とは名和さんのような行為ですね。ただこのような凡庸な作家には今後を切り開く能力はないと思います。
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2009/09/nawakohei-lbs2.html

美術の内部とか外部といいますが、この度の出来事は三浦雅士が近著「資本主義はニヒリズムか」で述べているように戦後経済とともに美術制度がほぼ瓦解したと理解するほうが適切です。また別の観点から同じ射程を提示する松宮秀治の著作を読めば明らかです。Tattakaさんのいう「美術の問題」という語彙もナイーブに聞こえてしまう今日この頃です。

私は研究者や批評家ではなく現場で働く者ですからこれ以上は発言せずに現場での実験で証明していこうと考えています。
投稿者:Tattaka
どうなんでしょう。シンポジウム行けなかったのは残念ですが。
僕自身はとりあえず近現代美術は2000年を迎える前後に失効したと認識しているので、批評の凋落は美術全体の失調の一つの徴候と捉えています。美術における本質的な意味でのポストモダンは、モードの変化ではなくかつての「美術」が現在の社会における機能不全に陥ったことを意味するかと。
だから、そこからどうするかの態度が問われるとは確かに思うのですが、どうあがいたところで仕方がないので、近現代美術が失効した事実に対峙して、各人ができることをやるしかないと思っています。
いずれにしろ作品・作家の価値は努力によって決まるものでもないですし、売れるか売れないかには関係するかもしれませんが、そこはあんまり美術の問題ではないのではないかとは思います。

ただ、批評全体の旧態依然とした議論には正直飽きてしまいましたが・・

http://love.ap.teacup.com/tattaka/
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