
「Mermaids at Play 」(1886年)
〈1〉 世紀末・象徴主義の作家の中で最も好きな作家の一人であるArnold Böcklin(アルノルト・ベックリン)を好きになったのはいつの頃だろうか。以前はBöcklinを多くの象徴主義の作家たちと同様に描写などの表現が陳腐なものだと感じ、好きになれなかった。今もその感覚を完全に切り離してこの作家のことを観れるというわけではないし、彼が描き出す死や病などは、あまりにもやり方が安直すぎる嫌いがある。まさにキッチュ!けれども、それでもこの作家をけしてつまらないと切り捨てる事ができず、興味が持ち続けているのは、そういったレッテルが貼られようとも、一貫した主題と形式に従事する事によって絵画で誰も描かかなかった詩的・文学的なインスピレーションをビジョンとして提示できているからである。その彼の技術的な洗練と発想は、ディズニーなどのアニメーションや漫画のイメージの原型を作り出したという意味でもその功績が大変大きいはずだ。
〈2〉 Böcklinの一貫した主題は、「秘める/隠す」ことは、「宿す」ことであり、存在の持続、生命を感じさせるにつなげることだ。それがたとえ『Isle of the Dead』(死の島)であっても、死者たちの永遠の生を感じさせるのだ。誰に対して「秘める/隠す」のか?それはもちろん鑑賞者にである。
歴史上で、絵画でこれほど「秘める/隠す」ことを象徴的に強調した作家はないだろう。BöcklinはNicolas Poussin(ニコラ・プッサン)に大きな影響を受けているはずだが、『The Shepherds of Arcadia』(アルカディアの牧人たち)など、Poussinが描く墓は、死者の存在を想起できないほど密封性が強調されているのに対し、Böcklinは通気孔のような入り口が用意されている。そのことで内部を探ろうとする意識(見たいという欲望)は視覚的により強調され、「見えないもの」に対するイメージの喚起を強く促している。
〈3〉 僕がそういった魅力にはっきりと惹きつけられたのは、Böcklinが描く人魚のシリーズを観てからだったと思う。
台風が上陸したときに川などを見に行くと、濁って透明度を失い激しい勢いで流れていく川の氾濫の中で、水中の生物たちはどのようにしているんだろう、とワクワクしながら想像を膨らませる事はきわめてロマン派的な想像力だが、Böcklinはその想像力を明確に作品化している。
人魚のシリーズは、『Isle of the Dead』などのような建築的な「内」と「外」の関係として「見えているもの」と「見えないもの」の関係を作り出すのではなく、透明性を持ちながら海面と海中という対比によって「見えているもの」と「見えないもの」の関係を作り出している。海面と海中の境界に戯れる人魚たちの身振りや表情は、「見えているもの」と「見えないもの」の間を有機的に媒介し、地平そのものが浮き上がっていく波の運動と、水中ので引き起こされている流体力学の透明な運動を、Böcklinは見事に描ききっている。
また、この厳しい海の表情を同じように描いているThéodore Géricault(テオドール・ジェリコー)の『The Raft of the Medusa』(メデューズ号の筏)やEugène Delacroix(ウジェーヌ・ドラクロワ)の『The Barque of Dante』 (ダンテの小舟)などの作品とは違い、溺れることも、舟という閉鎖感も持たない人魚たちは、文字どうり地に足がつかないに不安定な状況の中に新しい感情の表現を生み出している。ロマン派的な風景と感情の直接的な接続とは異なる接続がなされ、人魚たちの存在は鑑賞者の他者として存在感と感覚を浮き立たせているのだ。
こういった感覚をアニメーションが生まれる前に描き出している絵画を、あまりに文学的すぎると非難されるかもしれないが、表象の問題として考えるところもあるはずだ。

「The Waves」(1883)