ここしばらく映画について書いていない。書いていないと何を書けばいいのかわからなくなる。そして今に至るのでリハビリを兼ねて雑多にやってみる。
『ベオウルフ/呪われし勇者』(2007年)
ロバート・ゼメキスが監督した全編CGアニメーションの作品(終盤に一瞬実写が混ざったと思う)。
前作の『ポーラ・エキスプレス』が、列車による直線的な運動を延々と引き伸ばしたとすれば、『ベオウルフ/呪われし勇者』は城と洞窟の往復運動の映画だった。
最近の彼は、CGアニメーションが可能にするカメラワークとアクション(新しい実感)にしか興味がないかもしれない。そのぶん地味ではあるが、意識的な実験が行われていた。
この映画では、プレイステーションなどのTVゲームにあるようなCGくらいのクオリティーにとどめられている。これは予算的な問題もあるだろうが、単にそれだけではないだろう。このCGのクオリティーの制限は、ゲーム的な映像(硬い表情・動き)が持っている独特のフェティシズムが心地よく生まれている。また、アンジェリーナ・ジョリーの裸やグレンデルにおけるモーションキャプチャの表現が、画質の低さによって逆にその存在感を際立たせていた。
実写としてのリアリティーをブラックボックスに入れながらも、観るものに強い実感を与える。その実感は高い描写力や高画質によって現れるリアルさではなく、もっと抽象的なものでひきだされるのだ(ゼメキスの場合、運動の描き方によって)という彼のはっきりした態度が読み取れる。美術でいえばジュリアン・オピーがこの問題をやっているといえるだろうか。
余談だが僕は、テレビや映像の安易な高画質志向がどうも嫌いである。映画で俳優の毛穴など見たくないのだ。
『スキャナー・ダークリー』(2006年)
リチャード・リンクレイター監督が、『ウェーキングライフ』(2001年)に続き、実写をアニメーションに置き換える手法で作った作品。原作はフィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』。人の感想を読んでみると、原作をかなり忠実に作っているようだ。
『ウェーキングライフ』は、哲学的な思弁があらゆる立場から横断的に語られていく話だった。映像は実写から乖離し再び実写的に戻ったり、キャラクターや設定の同一性も壊されながら変化していく、実験的な作品と呼べる。
しかし、さまざまな分野での理論や思弁はとくに深入りされることはないし、かといってそれらがおもしろく束ねられもしなかった。だから論が単調に並列され、映像も同様に単調にみえ、驚きがなかったのが残念だった。だから試みはわかるにせよ、試みに見えてしまった。
『スキャナー・ダークリー』は、原作がディックなだけに内容がおもしろい。が、それだけでなく実写とアニメという映像の二重性が、物語と合致してサスペンスをうまく作り上げていた。だから手法が作品として昇華されていたように思える。
その説明をしてしまうとネタバレになってしまうのでやめておくが、DVDのメイキングをみると地道に作り上げていることがさらにわかる。(メイキング映像ではディックのインタヴューを聞く事ができ、この物語の背景を知ることができておもしろい。)
また、『ウェーキングライフ』より地味だったが、ドラック的な身体感覚と、歪曲し定まりにくい視覚表現とがうまく一致していた。
けれどもこの手法は、彼のなかでいまだ発展途上にみえる。アクションがないからなのか、映像の単調さがどうしても抜けきらない。かといって単に単調さを抜いてしまえば、映像の意味あいも消えてしまう気もする。
アニメーションでありながら映像の背後や身体感覚にこだわり続けるのは、アニメでよく問題となるフィクション世界から外部(現実空間)への志向とは違うアプローチだが、共通した問題項も引きずっている。今後の展開も観ていきたい。
『ソラリス』(2002年)
同じ原作の映画でタルコフスキーの『惑星ソラリス』は有名だが、スタニスワフ・レム原作の『ソラリスの陽のもとに』をスティーヴン・ソダーバーグが映画化したもの。職人的で非常に丁寧に作られた作品。
SFというよりも良質なホラー映画だと思った。
コンパクトで経済的な映像編集が映像の抽象性を引き出し、明快なフラッシュバックがとても詩的になる。それらの特徴は、三隅研次(『斬る』など)を思い出させた。照明や構図など画面に対する美的感覚も重なるところがあるように思う。
徹底的に切り詰めることで増す映画の存在感を重視することは、惑星ソラリスが作り出した妻レイアの抵抗感を失わせたが(彼女はタルコフスキーや原作のレイアに比べてあまりにもものわかりがよすぎる)、これをホラーと考えるのであればこの映画のレイアも、独自の存在感を作り出している。
DVDの音声解説は、ソダーバーグとプロデューサであるジェームズ・キャメロンによって行われている。2人の映画に対する意見の違い、こだわりを聞く事ができて大変おもしろい。また解説のなかで示されるが、ソダーバーグは一度原作に対して忠実に作り、そこから徹底的にそぎ落としていく手法をとる。(キャメロンはそれを彫刻のようにと言っていた。)
ショットは、すでに撮られたものであり完結した価値を持つが、全体に組み込まれる事により、相対的な意味あいを持つ。確信が持てるまで、何回も試行錯誤を繰り返すらしい。しかしその確信とはどこまで客観性を持ちえるものなのだろうか。自分の制作でも経験があるので興味があるところだ。