2007年11月21日に発行された建畠晢の編による、宮川淳の著作集『絵画とその影』。
そのなかに入っている宮川のデビュー作であり代表作でもある『アンフォルメル以後』(1963)を、3月の中頃友人の誘いで突発的に読み合わせした。友人たちの解説を交えながら、読んでいくことは大変有意義なものだった。なので備忘録としてこの小論のレジュメを作ることにした。また、そこに参加していたSくんにもレジュメの補足をお願いした。≪≫内はSくんの補足説明である。
『アンフォルメル以後』は以前にレジュメを書いた高階秀爾の『手さぐりする絵画』と内容を共有する部分もある。当然同じ問題についての異なる態度がみられるので、比べてみるのも有意義かもしれない。
『アンフォルメル以後』
1<コンタンポランと近代>
近代以後、芸術は“芸術とはなにか”という問いにおいてしか成立しえなかった。
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にもかかわらずその問い自体が現在のアクチュアリティを見失わせている。
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しかしわれわれが、芸術、作品というとき、近代芸術のコンテクストの中でしか語ることができない。
反芸術もまた非芸術でない限りにおいてこれに含まれる。
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つまり近代芸術を現代絵画として語っている。コンタンポランを近代の同義語で語っている。
≪人は近代芸術にたいして現代絵画を語るようになるが、近代性と現代性を混同すること、あるいは両者をトートロジカルな関係においてしまうことにおいて、そもそも近代芸術は成立した。「ボードレールにはじまる強烈な近代の意識と感覚」。ゆえに「現代絵画」といういい方にはジレンマが生まれてしまう。≫
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近代とは様式概念であると同時に価値概念でもある。
様式概念としての現代と、価値概念としての近代の矛盾は
まさに近代であるからだ。
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そのため、アンフォルメル以後を表現の次元ではなく、表現論の次元で語ろうする。
≪表現論とは、つまりアンフォルメルを歴史必然的な芸術形式というよりも、(反芸術がひとつの身ぶりであるような)純粋な行為として語ってしまうこと。≫
2<ベルクソン=ポーラン的発想「絵画のテロル」の問題点>
アンフォルメルは、多くの評論家によって抽象芸術のアカデミズム化の反動として捉えられた。
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一切のコンベンションを排除した直接的な自己表現として評価された。
「絵画のテロル」ベルクソン=ポーラン的発想
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形式化の否定自体もやがて形式化されてしまう。
そのためまた新しい形式の必要性を求められることになってしまう。
3<想像力と物質>
アンフォルメルの特徴
・近代芸術のフォルムの否定
・現代絵画の物質化
(1940年代後半からフォルムからマチエールへの明らかな価値転換がある。)
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○在来の想像力解釈
想像力をフォルムの知覚ないし視覚に従属したもの
○バシュラール
「イメージをつくるものは、ねじれた木のフォルムではなく、まさしくねじれの力であり、このねじれた硬い物質、ねじれの中で硬直する物質を予想する」
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マチエールが近代的な自我のシステムを崩壊させる=ピエール・シェフェールのミュージック・コンクレート。
○在来の音楽
心的な構想→記号による表現→楽器演奏
○ミュージック・コンクレート
具体的なマチエール→実験的エスキス→マチエールのコンポジション
4<マチエールとジェスト>
絵画の場合
○在来の絵画
物質でしかない素材はその物質性を感知しえないほどまでに透明化させなければならなかった。
○デュビュッフェ
「芸術は道具と素材から生まれなければならず、道具の跡、道具と素材の格闘の跡をとどめなければならない。」
≪吉原治良の「具体」は、「具」すなわち道具/方法と「体」つまり身体とを接続して「具体」(具体的っていう意味の)という名前らしい。彼等がアンフォルメルに影響を受けているのは歴史的な事実だが、デュビュッフェのこの発言はまさに「具」と「体」を言っているように聞こえる。≫
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これを絵画の人間化によるものであり、現実の物そのものをつくろうとすることだという瀬木慎一の考え。
≪アンフォルメルは芸術家の内面の無媒介的な表出(ex. ポロック)、芸術の最終的な局面であるという考え。≫
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それの反証として。
キュビズム/ダタとアンフォルメルにおける、異質なマチエールの導入の意識の違い。
○キュビズム/ダタ
異質なマチエールの利用目的
・キュビズム:物質の単刀直入なステートメント
・ダダイズム:完璧なアリバイ提示のため
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アントロポモルフィックな秩序の支配下にあるかぎり、新聞紙は新聞紙であるかぎりにおいて物質である。
○デュビュッフェ(アンフォルメル)
マチエールは表面において、外在的ではなく物質の中にはらむ表現行為の可能性として
内在的にとらえられる(現代物理学の内的な物質認識とともに、イマジネールの振幅が存在する)。
新聞紙を水で湿らせて金属等で引っ掻き、独特の表情を与える。
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フェティシズムの発生。
つまりこれは現実の物そのものをつくろうとすることではない。
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マチエールの表現可能性は、変形ではなく変質の可能性である。
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物質の想像力のディアレクティク、ジャクソン・ポロックの<ギブ・アンド・テーク>、主体と客体のディアレクティク
ジェストがマチエールの潜在可能性を明証化する。
マチエールがジェストを現実化する。※画家が媒体にもなってしまう。
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マチエールのはらんでいる表現可能性は同時に人間行為と不可分なものとしてあらわれてくる。
物質化の状況が「ジェストの時代」といわれる必然性。
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ジェストとマチエールにおけるディアレクティクは、行為の持続、持続の一瞬一瞬のみにおいて成立する。
「この物質=持続の中で人間は、存在としてよりも生成として実現される。」
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アンフォルメルで作り出されるイメージは、シュールレアリスムのようにイメージが事後的に完結されるのではなく、ましてや制作に先立って存在するのでもない。
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アンフォルメルにおいて、イメージはマチエールとジェストのディアレクティクによって生成される(物質=持続と厳密に同時的)。
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それは表現概念それ自体の価値転換である。
○在来の表現
表現とはつねになにかの表現であり、表現されるものは表現行為に先行する。
○アンフォルメル以後
表現されるものは表現行為そのものによってしかうまれない。→表現行為の自己目的化。
≪(余談ですが)宮川さんの考えでは、描くという行為自体はつまり「表現過程の自立」として現れてくる。ラウシェンバーグ/ジョーンズにおいて、ポロックを先駆的な存在とする「表現過程の自立」の無限性は、日常的な物体の発見と相同的に現れる。つまり彼らにあっては、オブジェクトの使用にダダ的なアリバイ(変換作用)はない。同語反復的な、それがそれ自体を指し示す非―指示性においてダダのように観念を欺こうという意志がない(index性)。日常的なオブジェを使用するポップアートもまた、それゆえにアンフォルメル以後を相続するものである。
だから、ジャスパーは、キャンバスとオブジェ(旗)がそれぞれの矩形が反復しあうように同一化してみせたけど、アンフォルメル以後において表現過程の自立化から表現に先立つ形式である絵画の支持体が見いだされることと、表象に先立って存在する日常的なオブジェが重ねあわされることはとても巧妙な戦略だと思う。簡単にいうとジャスパーは、「旗」も「キャンバス」も「二次元」の「平面」のものであるということに気付いた。作品は旗でもありキャンバスでもあるという二重性を持ちつつ、相互にとって表象となることを避けている。P.91参照≫
アンフォルメルにおいてそれが表現主体の唯一のアンガジュマンである。
≪ここにアンフォルメル以後の難問がある。表現主体を否定して表現行為の自立化を目指したものが、逆説的に新たな表現主体を呼び寄せてしまう?「無償の饒舌」。≫
5<結び>
にもかかわらず、アンフォルメルがヒューマニズムの破産を示すものとして、
その価値転換を把握されることなく、アンフォルメルのアクチュアルな可能性は流産してしまう。
≪批評家は、アンフォルメルが、ヒューマニズムに対する大きな価値転換であったのに、それを形式的な問題としてだけ処理してしまった。つまりそれを表現としてだけとらえ表現論としてとらえ損なった。ゆえにアンフォルメルが単なる様式と化してしまうことは自明である。「矛盾の再生産」?≫
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反芸術もまた同じように矛盾の再生産としてとらえられていく。