エドワード・マイブリッジが連続写真で撮影した馬のギャロップとテオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」についての比較というのは有名だが、この比較を現在においてメディアの性格として行うのはどうなのだろうか?
マイブリッジの写真は馬が運動している瞬間を正確に捉えているが一枚で観ると動いているような感覚が伝わってこないと言われ、ジェリコーの「エプソムの競馬」は、馬のギャロップのあり方が不正確であるにもかかわらず、動いている感覚を観る者に強く与えるということを言われる。確かにこの二つの作品における性格の違いは明らかである。
とはいえ、それは本当にメディアの性格の違いとして決定論的に語ってしまっていいことなのだろうか?と僕は疑問がある。
子供のときにノートや教科書の端っこに描いた「ぱらぱら漫画」を思い出してほしい。あの「ぱらぱら漫画」はアニメーションの原型と言えるわけだが、パーとめくっていけば確かに動画としての運動が起こるが、その絵を一枚として観たときは絵画のような運動性があるのか?と考えてみてほしい。
そこでは、マイブリッジの写真と同じような問題が起こっていないだろうか?つまりそれは写真と絵画の問題ではないのではないだろうか?「ぱらぱら漫画」の一枚の絵に絵画の中で作り出される運動性を持たせたとき、動画としては破綻をきたすものかもしれない。その問題はメディアの問題ではなく技術の問題となるのではないか。つまり、1つの運動を描こうとするとき、絵画で、もしくは漫画で、もしくはアニメーションで描こうとするとき一枚の絵のシステムや技術はまったく異なるものなのである。だから表現における写真と絵画の性格として現在ジェリコーの絵とマイブリッジの写真を比較する事は不等に思われるのだ。ジェリコーがやろうとしていた趣旨と、マイブリッチがやろうとしていた趣旨が違っている事が大きく違っていたのであって、それでメディアの要因とするのは危険であると思う。
ゲイリー・ウィノグランドやカルティエブレッソンの写真がそんなに動いているようには見えないだろうか?もちろんそれはジェリコーが描いた馬たちたちの運動性と同じものではないとはいえである。
議論を呼ぶためにメディアを決定論的に言いきる必要はあるにせよ、メディアと格闘している作家にとって(作品を作るときメディアと格闘していない者はいないはずだ)、メディアで決められてたまるかという思いが昔から僕にはある。
とはいえそれは僕の態度であって、メディアのあり方についての議論が持ち込まれるのも当然であり、その議論の中で有益な問題というのが生まれるのだと思う。だからこそさまざまな意見が提出されなければならないはずだ。

テオドール・ジェリコー「エプソムの競馬」

エドワード・マイブリッジ「ギャロップする馬」