デビッド・リンチ監督作「インランド・エンパイア」を恵比寿で観に行った。水曜日だったので千円で観る事ができたのだが、いくらその日が千円だからといってデビッド・リンチの作品が満席で観られない事態が起こる盛況ぶりに正直驚いてしまった。とはいえ、映画が終わるとため息や理解不能という声が多く聞こえてきたのも確かだけれど。リンチの作品は映画を作る、役者がカメラの前で演じる、編集する、映画を観るという構造に対する自己言及的な意識を抜きにして作品を理解する事は無理だ。つまり作品内部の直線的なストーリだけで物語られるものではない。これは知識どうこうの問題でもなく、リンチの映画には従来の映画とは違う視点が要求される。だからそれを持ってしてみればこの映画に物語なんか存在しないという意見はすぐに間違っていると気がつくはずだが、それが満席の会場のすべての観客が可能であるとしたらとんでもない事である。それは観客を馬鹿にしているのではなく、そんな事があったら現代美術なんて誰にでも理解される世界の到来いえるだろう。
さて、僕は彼の作品は今までずっと観た事もあって「マルホランド・ドライブ」の時よりも安心して作品を楽しむ事ができた。「マルホランド・ドライブ」は最初に観たとき正直困惑してしまうほどすごい作品だった。ある意味で「インランド・エンパイア」は、「ロスト・ハイウェイ」、「マルホランド・ドライブ」、につづく三部作的な作品だと思う。
「ロスト・ハイウェイ」は男性が主人公であり、女性は完全に幻の女として機能している。「マルホランド・ドライブ」はレズビアン的な映画であった。今回はまた女性が中心の映画であるが、夫婦や不貞、男女の物語を描いていた。そして僕はこの男女の描き方がいつもとは異なっているように思えた。デビッド・リンチはいつも夫婦間や男女を描いてきたがそれはコミカルなまでに歪曲され戯画的であり、あくまでリンチの世界観を作り上げるための要素になっていたと思えるのに今回はそのようなものとどこか違っているような気がしたのだ。さらに今までになく幻想味を帯びない生っぽい女性が描かれていたと思う。ローラ・ダーン演じるニッキー・グレース/スーザン・ブルーはリンチが今までやったことがないようなやり方で描いた生っぽい女性だった。
そういった違いが他の要素でも現れていた。今回の作品はストレートすぎるほどにジェンダーや国籍・人種・階級などの構造を明確に表現していた。それはリンチ的な世界の外部にあるものへの配慮として見えてきた。そんな事リンチは今までしてこなかったはずだ。けれどもそれは政治的なものというよりもリンチのナイーブさをより強くあらわすものだったと思う。さまざまな不幸に見舞われ、カメラは執拗なまでにローラ・ダーンを追いかけ悪夢から逃れさせないのだが溝口健二やベルイマンのようなつらさはなく、リンチの世界観はそのようなものともまったく異なるものであることがわかる。最も近いのはフェデリコ・フェリーニだろうが、しかし今回の作品はなによりもリンチのエロティックな暴力性よりも、リンチのナイーブなやさしさが勝っていた。それは作品にとって重要な部分ではなく、そしてそれが作品をよく見せない要因にもなりえるかもしれないけれど、僕はそれがおもしろかった。
裕木奈江の存在は良かった、最後のリンチが歌っているエンディングのシーン(口パクで黒人の女性が合わせている映像)も良かった。けれどもそれは今までリンチの作品になかったものだし、必要ともしなかったものだと思う。もちろんこの作品も今までのリンチの技術やアイデアが遺憾なく発揮されておりおもしろいのだが、今回僕はそういったことが印象として残った。
