私は経堂駅の近くにあるappelというギャラリーで展示をしている。ひょうんなことから脱銀座。
それで、それってどうなんだろうと考えていなくもない。
僕のような今だ「貸し画廊」の名の下にしか展示をできない身分にとっては、脱銀座というのは、銀座のギャラリーでの展示することと違いがあるような気がしている。
まず、銀座のギャラリーに比べて圧倒的に人が来ない。昨日は驚くべくことに一人しか客が来なかった。銀座に来たついでで、何気なくギャラリーを回ってみましたという人は、こちらではほとんど皆無(全くということもないけれど)なんじゃないだろうか。
ギャラリーにとって客が来ないというのは致命的だが、かといって、appelが悪いギャラリーかといえばそんなことはない。まず、銀座の地下のギャラリーのような閉息感はそれほどないし、appelのような銀座にない、わりとちゃんとした貸しギャラリーなどは、大体がみな方針としてユニークで工夫していて、雑誌を作ったり、本屋や、カフェを営んだりしていて、やっている人もクリエイティブな意識を持っている人が多いような気がする。それに興味を持って、見にくる評論家や美術ジャーナリストがいないわけでもないようだ(もちろん場所によるけれど)。
appel以外でも、銀座以外でおもしろいギャラリーは増えつつあるし、今後ますますその傾向は出てくるとも思う。
また、appelの人たちは、とてもユニークな人たちである。そういう人とめぐり合うことというのは非常に重要であるのは、今回とても感じることができた。大学を出たら、友達しかいなくなるのを、大学を出た人は痛感していることだと思う。
しかもappelの人たちは、作家であるということと、とてもフランクでフレンドリーな人柄なので、作家とギャラリーの関係としては、単に貸しということではない理想的な関係が築ける人もいると思う。
しかし、appelの人と話をしていたのだけれど、appelで展示をする人は、やはりなんか姿勢的に共通点があるという(appelの展示においてだけかもしれないが)、妙に砕けているというか、わがままに作品を作るというか。みたいな話をしていた。
僕自身も去年、銀座の画廊で展示したときとは全く違った意識で作品を作っていた。銀座ではこれは出せないかもしれないと思うようなことを作品でやろうとしたことは確かで。もちろん、手を抜いたとか、雑に作ったという意味ではなく。ギャラリーの選択が作品にも影響を与えるということもあるのかもしれない。つまり環境、場によってということ。、をここでは言っているのである。しかし、それってなんだろうか?単なる自分の甘えなのかもしれない。もしくは単なる自分の妄想に過ぎないのかもしれない。
しかし、美術というのは不思議なもので、スポーツのような一直線的な結果や答えが用意されていない。中田、中村、小野、松井、佐々木、イチロウたちをスポーツ青年が憧れる様には、海外を意識することはできないのかもしれない。
美術を中心にして生活している人たちに出会う。その人たちは、美術関係で収入を得ているわけだらか、エリートだと考えることができる。
けれど、その人たちを見ていても、それぞれの自分と美術におけるポテンシャルを見つけ出し、それぞれの人生を歩んでいる。
多分、ぼくと同じくらいの学生などは、銀座では個展をやりたくないとか、銀座で個展をやってみたいとか、ちゃんとした企画画廊で展示をしてみたいとか、美術館でやりたいとか、海外のギャラリーで展示したいとか、レジデンスに入りたいとか、いろいろ思っていると思う。
それとは別に、僕たちには生活があるわけで、貧乏がやだとか、家族を築きたいとか、自由でいたいとか、そう考えるなかで、みんなある選択をし、それが作品の意識にすくなからず反映されることになる。
ポストモダンの今現在において、大きな物語がみんなの妄想として共有されない現状で、僕らは自由になった、もしくは選択肢が広がったとも考えることもできる。が同時に、理念的な意味で日本の全体を引っ張っていくような作家、評論家(まるで中田のような)はありえなくなり、経済的、数値的なものがとりあえずとしての説得力を持つようになっているなかで(そこには何かしらの興ざめみたいなものが、今活躍している作家本人たちにもあると思う)、僕たちにはどのようして美術と人生の選択を取ろうとしていくのだろう。
と、自分だけの問題かもしれない問題意識を長々と書いてしまったが、このへんで置きようのない筆を置くことにする。