2018/3/25

【長崎出張3日目】原爆文学研究会/長崎平山家調査  調査・旅行・出張

長崎大学環境科学部大会議室にて、第55回原爆文学研究会の2日目。

午前中のみの開催で、発表者は2人。
新木武志さんは、1950年代前半の長崎における平和運動と被爆者運動の歴史を丁寧に解説してくださいました。
この発表でも、丸木夫妻の1953年1月に長崎労働会館で開催された「原爆の図」展が紹介され、被爆者の救済運動のための募金の宣伝として「原爆の図」が大歓迎を受けたという指摘がありました。

山口響さんの発表は、被爆者の証言を、あえて原爆が「大日本帝国」に投じられたという「固有の文脈」に埋め戻すことで、当時の軍の倫理や秩序の存在を浮かび上がらせるという「読み解き」の可能性の一例を提示する内容。体験者の「証言」を次の世代がどのように生かしていくか、という問題を考える上で、興味深く聞きました。

今回もまた、濃密な発表と白熱した質疑に、さまざまな考える材料をもらい、研究会は終了。
次回は7月28日、29日に神戸で開催予定です。

* * *

原爆文学研究会の後は、1984年12月から翌1985年1月にかけて丸木夫妻が約40日間滞在して《地獄の図》を描いた平山惠昭さんのお宅に伺い、聞き取りをしました。
ジャン・ユンカーマン監督の映画『HELLFIRE 劫火ーヒロシマからの旅』の冒頭のシーンを撮影したアトリエも、映画の印象そのままでした。稲佐山の急傾斜に立つ家の高低差を、撮影に生かしていたことがよくわかります。

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アトリエの写真は、1985年に同じ角度から本橋成一さんが撮影した写真(2017年カレンダーより)を、参考として右下にいっしょに写しています。

平山さんご夫婦と、わざわざ来てくださった当時20歳だった上の娘さんにとって、丸木夫妻の滞在していた日々は幸せな記憶であり、とりわけ妻の千枝子さんは「とにかく楽しい毎日だった、あんなに楽しいことはなかった」と繰り返し語っていました。

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丸木夫妻の長崎滞在の相談は、当初、長崎銀屋町教会の牧師のもとに寄せられ、ともに同和教育に取り組んでいた縁で、春陽会に出品していた平山さんが紹介されたそうです。平山さんはよろこび、ふたつ返事で承諾して、アトリエを提供することにしました。
絵画の制作に専念するため、丸木夫妻が滞在していることは極秘でしたが、ユンカーマンさんや本橋さんの撮影のほか、石牟礼道子さんや松谷みよ子さんが来訪するなど、賑やかな日々であったとのこと。

1985年は丑年だったので、位里は世話になった御礼に、牛の絵を2点、平山さんに贈りました。俊は平山さん夫婦と下の娘さんの肖像を描きました。
大切に保管されたそれらの絵を見せていただくと、丸木夫妻と平山さん一家の心のつながりが伝わってきます。

平山さんはその後、丸木夫妻のように絵にはメッセージがなければいけないと思うあまり、しばらく絵の制作ができなくなったそうですが、やがてフラメンコを踊るロマというテーマに取り組むようになりました。
そして、ふたりの娘さんも丸木夫妻の影響を強く受け、それぞれ中学校、小学校の先生になって、今も平和教育に熱心に取り組んでいるそうです。
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