2018/3/23

【長崎出張初日】長崎原爆の図《母子像》調査  調査・旅行・出張

丸木夫妻の作品調査のため、長崎出張。
午前中は丸木夫妻とゆかりの深い場所を訪ね、貴重な作品を拝見しました。所有者の意向で情報公開はできませんが、今も良好な状態で作品が保存されていることを嬉しく思いました。

その後、長崎県美術館へ行き、収蔵庫で、かつて長崎県教育文化会館が所蔵していた長崎原爆の図《母子像》を確認。
作品の制作過程は、ジャン・ユンカーマン監督の映画『HELLFIRE 劫火ーヒロシマからの旅』にも記録されています。
こちらも絵の状態は非常に良好。

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作品が描かれた経緯は、2000年3月20日付『ながさき教育新聞』に、平山惠昭さんが詳しく記しています。
平山さんは当時公立中学校の先生で、長崎市同和教育研究会の事務局長を兼務。春陽会に所属する画家でもありました。
記事によれば、1984年8月8日から12日まで「原爆の図」長崎展が市民会館で開かれ、このときに第15部《長崎》を長崎市国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に寄贈するという話が持ち上がったそうです。
実際、《長崎》は半年後の1985年2月1日に正式に寄贈されるのですが、長崎でもう一枚絵を描きたいという丸木夫妻の意向と、ぜひ描いてほしいという「長崎展」実行委員の思いが重なり、同年12月に丸木夫妻は長崎を再訪。40日余りを平山さんの家で過ごし、大作を描きました。それが、現在はブルガリア国立美術館に所蔵されている《地獄の図》です。映画『劫火』の冒頭には、平山家で制作をする丸木夫妻の姿が映し出されています。
この《地獄の図》制作中に、当時の県教組委員長の近藤禮司氏が丸木夫妻のもとを訪ね、県教組のために一枚《原爆の図》を描いてほしいと依頼したそうで、埼玉の東松山に帰宅してから描いたのが、長崎原爆の図《母子像》というわけです。画面には1985年夏の制作と記されています。

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作品調査の後は、県美術館で開催中の「田川憲展」を観ました。田川憲(1906-67)は長崎における創作版画の草分けで、戦中は従軍画家として中国に渡り、上海で創作版画の会を創設して個人誌を発行していました。
上の画像(絵葉書より)は、田川が長崎に帰郷後の1951年に制作したという木版画《長崎原爆遺跡(浦上天主堂)》。
また、菊畑茂久馬の1990年代の「海」をテーマにした特集展示も見ることができて良かったです。

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長崎は昼頃から気温が上がり、稲佐山の国際墓地(唐人/中国人はじめ、ロシア人、ポルトガル人、オランダ人、ユダヤ人などの墓がならぶ)では、すっかり桜が満開でした。
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