2017/9/23

西岡洋さんトーク「わたしの原爆体験と原爆の図展」  イベント

長崎で被爆を体験された西岡洋さんをお迎えして、「わたしの被爆体験と原爆の図展」と題するトークを行いました。

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西岡さんは1945年、長崎中学の2年生で原爆を体験されました。
以下は、その日に西岡さんが話された被爆体験の要約です。

8月9日は爆心地から約3kmの中学校の教室にいて、急に飛行機の上昇音が聞こえたために窓に駆け寄ろうとした途端、桃色か橙色の光の海に埋まったような感覚がしたそうです。
とっさに爆弾が落ちたと思い、目と耳を押さえて口を開け、床に伏せましたが、何の音もしないまま数秒が経過。級友に臆病者と笑われるのではないかと覚悟して起き上がった瞬間に、爆風で棚や窓硝子が吹っ飛んできました。級友たちが覆いかぶさってきたため、西岡さんは無傷でしたが、級友たちは血だらけになりました。
腰に下げた手ぬぐいで傷を手当てし、扉のなくなった教室から逃げ出して、外へ出ましたが、興奮のせいか熱はあまり感じなかったそうです。
不思議に感じたのは、出会う人たちが皆、自分の近くに爆弾が落ちたと語っていたこと。
遠くを見ると、爆心地には大きな火柱が上がっていました。原子爆弾を知らない当時の少年にとって、わからないことだらけの状況でした。

血だらけの赤ちゃんを抱いて歩いてくる母親、顔が半分なくなっているような人、火傷した腕をだらんと垂らして歩いてくる人、川のように傷ついた人たちが道を歩く中、山の手の方へ遠回りをして家に帰ったそうです。空はキノコ雲に覆われて薄暗く、太陽を指して「爆弾だ、逃げろ!」と半狂乱になって叫ぶ人もいたとか。
そんな状況でも西岡さんは、翌日、学校に登校しました。当時、大きな名誉であった無欠席を通したかったのだそうです。「学校が出席をとらなかったことが、何より残念だった」という少年の思いと現実とのギャップに、妙なリアリティを感じました。

先生や生徒を助けるためにスコップを持って爆心地へ行くよう指令を受けましたが、実際に行ってみると、救助なんてできるわけがないほどの壊滅的な状況。それでも報道管制で情報がなかったから、みんな口をつぐんでいたそうです。
新聞に「長崎に新型爆弾投下、損害軽微」と載ったことにも驚いたそうです。これが「軽微」なら、これまで新聞に載っていた各地の空襲の被害も、たいへんなものだったのではないかと、ようやく気がついたとのこと。
たいへんな数の死傷者を見続けていると感覚は鈍るが、ただひとつ、三菱球場の金網のバックネットがくしゃくしゃにゆがんで縮まっているのを見て、「これで戦争に勝つのか」と絶望的な気分になった、とおっしゃっていました。

そして、水を求める人びとの手を払いのけて歩き続けたことは、今も忘れられず、後悔とともに思い出すそうです。
春になると、「草木も生えない」と言われた長崎に、緑が芽吹いてきて嬉しかった。無傷や軽傷の人がどんどん死んでいくのが怖かった。自分は歯ぐきから出血はあったが、原爆症かどうかはよくわからなかった。体に斑点ができる人、髪の毛が抜ける人、いくつか生死の分岐点があり、回復に向かう人もいれば、そのまま死んでいく人もいた……。

それでも西岡さんは生き残り、東京都立大学へと進学します。
そこで「原爆の図展」と出会って、首都圏を中心に展覧会に帯同しながら、みずからの被爆体験を語っていくことになるのです。

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西岡さんの「原爆の図展」についての回想は、2010年10月26日に聞き取りをしているので、そのときの日誌をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1494.html

被爆から10年もたたないうちに体験を語ることには、勇気がいったのではないか、ためらいはなかったのでしょうか、とお聞きしたところ、それはなかった、と力強く応えた西岡さん。
後にアメリカで被爆体験を語られるなどの精力的な活動をされた源には、その気丈さがあったのでしょう。
幸い、家族に深刻な被害がなかったことも、体験を語りやすかった理由ではないか、というのは、会場にご一緒してくださった西岡さんのお連れ合いからの補足でした。

貴重なお話を聞かせて下さって、どうもありがとうございます。
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