2017/5/10

大阪人権博物館にて作品調査  調査・旅行・出張

大阪人権博物館(リバティおおさか)へ、作品調査に行ってきました。

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大阪人権博物館は、1985年12月に大阪市立栄小学校の跡地に開館しました。当時の名称は大阪人権歴史資料館。館銘板の書は丸木位里が手がけました。
1995年に現在の名称に改めた際、水上勉の書による新たな銘板に変わりましたが、中庭には今もかつての銘板が大切に保存されています。

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縦の直線が印象的な旧栄小学校の建築模型を見ていたら、ボランティアガイドの方が小学校の歴史を丁寧に教えて下さいました。
大阪市立栄小学校は、1872年、大阪で2番目に古い小学校として開校しました。当時はお寺を仮教室にしていましたが、2回目の移転先として現在の人権博物館の地に移り、1928年に第3期校舎として、当時としてはとても珍しい鉄筋コンクリート3階建ての校舎が建てられたのです。

設計は、「たしか朝鮮総督府を手がけたドイツ人建築家・・・」とのことで、調べてみるとゲオルグ・デ・ラランデなのですが、彼は1914年に死去しているので、正確なところはよくわかりません。
校舎は旧渡辺村、江戸時代から差別を受けていた西浜部落の人たちの出資によって建てられ、土地も小学校建設のために大阪市に寄付したのだそうです。皮革産業などで栄えた地域だからこそ、それだけ立派な小学校建設が可能だったのでしょう。
博物館の建物は戦火をくぐり抜けて耐久性に問題があったため、小学校の校舎そのままではなく、同じデザインで再建されたものとのこと。正面玄関のアプローチと門だけが当時のままだそうです。

1871年の「解放令」の翌年に早くも開校したという歴史からは、差別からの解放、克服のために、学校教育が欠かせないという強い思いがあったことも感じられます。
人権博物館は、そうした地域の強い思いのシンボルのような存在だったようです。

   *   *   *

今回は、15日に課外講座を行う武蔵野美術大学日本画学科研究室のU先生とGさんらに同行しての調査でした。

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画家の目から見る丸木夫妻の仕事はやはり新鮮で、絵具や紙などの素材調査の必要性を改めて感じました。
人体のみで画面構成を行うことの難しさや空間とのバランスの工夫、墨のたらし込みの効果などの話も面白く、しばらく大画面の前で意見交換。伝統を踏まえつつ新しいことを試みていく丸木夫妻の姿勢を再確認しました。

15日の課外講座は、こちらの情報をできるだけ提供しながら、双方向的な議論で新たな発見の場にしていきたいと思っていますが、さて、どうなることか。

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1970年代から2000年代はじめまで大阪府内の公立小学校全生徒に配布された解放教育読本『にんげん』の表紙原画全11点(未使用含む、丸木俊画、2年生から中学生向けまで1975年、1年生向けのみ1976年)もすべて確認し、1年生向けに収録された読み物「だれのパンか」の挿絵原画7点も撮影しました。

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「だれのパンか」はソビエト民話をもとに国語教育者・児童文学者の今井誉次郎が文を書いたもので、動物たちを主人公にしたかわいらしい俊の絵は、『でてきておひさま』など同時期の絵本を思い起こさせます。

調査に協力して下さったのは、長年、人権博物館に関わってこられたOさんとAさん。
そして、夜に奈良から駆けつけて、ガード下の居酒屋で『にんげん』と丸木夫妻のかかわりについて熱く語って下さったIさん。
皆さま、どうもありがとうございました。
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