2014/11/29

東大駒場博物館「ロベルト・ユンク展」トークセッション  講演・発表

東京大学駒場博物館で開催中の特別展「越境するヒロシマ―ロベルト・ユンクと原爆の記憶」(12月7日まで)のサイド企画「僕らが見つめる戦争の記憶」というトークセッションにゲストスピーカーとして参加しました。

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駒場博物館の建物は、旧制第一高等学校の駒場移転時(1935年)に図書館として建てられたそうです。
私がこの博物館を訪れたのは約20年ぶり。
学生時代に、マルセル・デュシャンの《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称「大ガラス」東京ヴァージョン)を観るために訪れて以来です。
そのときは、古色蒼然とした印象があったのですが、2003年に全面改修され、その後は学内の研究成果を公開する場として広範なテーマの企画展に取り組んでいるとのこと。

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まずはロベルト・ユンクの展示をじっくりと拝見しました。
主に出版物と解説パネル、映像のみというシンプルな展示でしたが、初めて知ることも多く、なかなか見応えのある内容でした。

ロベルト・ユンク(Robert Jungk)は1913年、ドイル・ベルリン生まれ。
ユダヤ系のために戦時中はナチスの迫害を受け、戦後はフリーのジャーナリストとして広島を取材し、核の脅威をテーマにした著作が次々と世界的なベストセラーになりました。

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最初の広島取材は1957年5月。このとき、後に「折鶴の会」を組織する河本一郎から佐々木禎子と千羽鶴の話を聞き、著書『灰墟の光 蘇るヒロシマ』(1959年刊)に紹介したことから、1961年に児童文学者のカール・ブルックナーが『サダコ』を出版し、やがて20以上の言語に翻訳されて世界に広がっていったそうです。

 広島の警告の旗印はモニュメンタルな記念建造物ではなくて、皮膚や血液や生殖細胞のうちに〈あの日〉の思い出の烙印を受けた生存者たちなのである。
 ―『灰墟の光 蘇るヒロシマ』(原田義人訳/文芸春秋新社/1961年)より

こうした言葉からは、人間の肉体に焦点を絞って《原爆の図》を描き続けた丸木夫妻の視線を連想しました。

1960年には西ドイツのTV局スタッフとともに2度目の来広。会場で上映されていたドキュメント番組「灰墟の光」(45分)は欧州各国で放映され、大きな反響を呼んだそうです。

さらに1970年には4月と11月の2回にわたって広島を訪れ、1980年の来日の際には、新潟、石川、愛媛などの原発の視察も行いました。

 平和のための原子力技術と、戦争のための原子力技術が厳密に二分されると思うのは幻想であるという認識が、今後、核エネルギーの導入に関するすべての議論において、中心的意義を持つこととなろう。
 ―『原子力帝国』(原著1978年、日本語版:山口祐弘訳/社会思想社/1989年)より

1979年のスリーマイル島原発事故が起きるより前に、こうした言葉も書き記しています。
時代の先を見通す眼も、持ち合わせていたようです。

 あの大戦中に、原爆の姉妹ともいうべきヒットラーの地獄の焼釜によってほとんどすべての身寄りを奪われた筆者自身にとっては、広島の惨禍から生き残った人たちこそ、大部分のヨーロッパ人やアメリカ人よりもはるかに身近な存在だったのである。
 ―『千の太陽よりも明るく―原子科学者の運命』(原著1956年、日本語版:菊森英夫訳/文芸春秋新社/1958年)より

「アウシュビッツ」と「広島」をつなげる視点。それは、逆に《原爆の図》から《アウシュビッツの図》へとつながっていった丸木夫妻の共同制作にも重なるものがあります。
ともに戦争で痛手を負った“被害者”同士の共感の視点というよりは、戦争の痛みを深く考え続けた結果、人種や国境を越えた普遍的な“いのち”の問題に至ったのだと思います。

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会場には、不動の常設展示になっているデュシャンの「大ガラス」東京ヴァージョンも展示されていて、久しぶりに観ることができました。

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現代美術を学んでいた学生時代には、まさか将来、この「大ガラス」の前で、しかも「戦争の記憶」をテーマにしたトークセッションに出演することになるとは考えてもいませんでしたが、人間の運命とは不思議なものです。

   *   *   *

この企画を提案して下さった東京大学教養学部前期課程・全学自由研究ゼミナール 「平和のために東大生ができること」の岡田晃枝先生と学生代表の4人とともに、午後1時より、トークセッションを開始。
参加者16名ほどのアットホームなセッションで、フロアからの発言も多く飛び出し、なかなか面白い討論になりました。

若い学生たちにとって、「戦争の記憶」とは、かなり近づきがたいテーマ。
フロアの戦争経験のある世代の方からは「想像力」と「共感」が大切、という発言があったものの、学生たちからは「受け止めきれない、想像しきれないもの」、「真剣に聞かなければいけないという強迫観念があるので、内面に入りこめない」、「大人に求められている反応を意識してしまう」といった思いが語られました。

たしかに、《原爆の図》にも共通するのですが、「戦争の記憶」を受け止める際には、「想像力」のために必要とされる自由な発想をなかなか発揮しにくい、という問題点があります。
「不謹慎」かもしれない、という自己規制が働くと、「想像力」は一気に委縮します。
まずは、「定型化」されていると思われる「戦争への想像力」に縛られず、一度まっさらの状態に解きほぐし、自分たちなりの視線で再構築することが必要なのでしょう。

もっとも、その「定型化」と言われるものが本当に確かなのか、さらには、その「定型化」にいたるまでの、多くの人たちによる膨大なエネルギーの蓄積を、見ないことにしてしまっていいのか、という問題も考えなくてはなりません。

学生たちからは、戦争を体験していない自分たちが「戦争の記憶を発信できるような立場なのか」、「発信する資格がないのではないか」という疑問も投げかけられました。

もちろん、「戦争の記憶」を発信するために国家資格などが必要なわけではありません。
ロベルト・ユンクも丸木夫妻も、1945年8月6日の広島を「体験」していませんが、「原爆の記憶」を世界に伝える役割を果たしています。
そもそも「体験」の線引きも曖昧なものだし、一番の体験者は命を奪われた人たちなので、「体験」を伝えることはできません。

発信の前提としてどれだけの理解が必要かという疑問も、あまり意味がない。
むしろ、「戦争の記憶」を受け止めるだけではなくて、自分の身体を通しながら、思いを深め、まとめて、表に出す(発信)という過程で、より理解が深まっていくのではないか。
「発信」という過程は、何より自分自身が理解を深めるために必要なのではないか、ということを、学生に向けて話してみました。

セッションのなかでは、今夏に丸木美術館で個展を開催した竹田信平さんの作品や映画の話題が出ましたが、美術家たちの表現も、みずからの「戦争の記憶」を描く作品から、長い時を経て、自分がどのように他者の「戦争の記憶」に向き合ったかを提示する作品に変化してきているように思います。

そして、「発信」や「表現」というと大げさなように感じるけれども、美術館の感想ノートに思いをまとめて記すのも大事な「表現」だし、言葉にまとめて人に伝えること、あるいは、岡田先生いわく「選挙で投票する」ことも立派な「発信」のひとつ。身近なところで、発信・表現の機会はたくさんあるのです。

ロベルト・ユンクや丸木夫妻の仕事も、もしかすると原点は、そうした私たちと同じ地平にあるのではないか、という気もしました。
「戦争の記憶」に触れたことで、心の中で何かが変わったり、揺れ動いたりしたことを受け止め、これからの自分の生き方や世界を見る視線につなげながら、考え、深め続けること。

70年前の「過去の歴史」としてとらえるのではなく、今の現実世界を生きるための道標として、この豊饒な「記憶」の蓄積を生かしていくことが、何よりも大切だと思うのです。
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