2013/11/16

木下晋展オープニングトーク  企画展

午後2時から、「木下晋展 生命の旅路」のオープニングトークが行われました。
会場には約30人の参加者が訪れ、熱心に木下さんのお話に耳を傾けて下さいました。
トークの最後には、特別ゲストとして、映画『おくりびと』の原作となったことで知られる『納棺夫日記』の作家・青木新門さんもお話して下さいました。
以下に、そのトークの内容を抄録でお伝えいたします。

   *   *   *

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絵本『はじめての旅』について――
映画『砂の器』を見て懐かしさを覚えたんです。でも、なぜ懐かしいのか、わからなかった。
母に聞くと、5歳の頃に富山から奈良の吉野まで旅をしたという。
母はぼくが物心ついた頃から放浪生活をしていたから、母のもとで育った記憶がない。
3歳のときに火事で家が全焼して山小屋で生活するんですが、弟が餓死するような暮らしで、母はそこから逃れて家出するようになりました。
もっぱら連れて行かれたのは兄だったけど、ぼくもたった1回、野宿しながら奈良まで1ヶ月歩いてね。その後、自分のたどった道を取材したけど、とても5歳の子には無理だと思った。その体験はトラウマになって、記憶から消えてしまったんです。
『砂の器』はハンセン病の親子が隔離政策を逃れて逃避行する映画で、自分は後にハンセン病を描くことになるんですが、不思議な縁ですね。
なぜ奈良に行ったかというと、母の最初の結婚相手が吉野の落人の部落出身で、そのお墓まで連れて行かれたんです。
ただ、ぼくの旅の記憶は定かでないし、小学校5年のときに兼六園に遠足に行って撮ったのが一番古い写真だったので、自分の5歳のときの顔もわからない。だから、山の部落に住んでいた老人たちに自分がどんな顔だったか聞きました。それから当時の風俗や子どもたちの顔の写真を調べて、自分の顔を考えた。その写真を部落の老人に見せて、イメージを作っていったんです。若い頃の母の顔もわからないから、妻にモデルになってもらって描きました。

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人生の転機――
最初の転機は、小学校4年。母を追って富山の町をさまよい、パンを盗んで少年相談所に入れられた。ぼくは身元を答えず、親父も会おうとしなかった。
そのうちに校長先生が会いに来て、忘れたように『ああ無情』の本を置いていったんです。読んでみると、パンを盗んだジャン・バルジャンの物語だった。ああ、俺と同じ奴がいると思いながら一気に読んだ。その後も、校長先生は来るたびに児童文学の本を置いていった。
そのときが一生で一番本を読んだかもしれない。その校長先生がいなければ、今の方向には進んでいなかったかもしれませんね。
それから中学2年のとき、女の先生に誘われて、夏休み中に彫塑を作った。きれいな先生だったのと、給食代わりにラーメンを食べさせてくれたことに惹かれたんです。
その彫塑を持って富山大学に行った。今でいう市民講座のような雰囲気で、いろんな専門分野の先生が集まって、中学生の彫塑のとなりにロダンを並べたりして、それが凄く勉強になった。
ただ、彫塑は学校でしかできない。家でできるのは絵だった。生活保護家庭だったので、画材は買えない。工事現場からベニヤをとってきて木枠を作り、クレヨンの屑を拾ってきて、油絵具の代用としてクレヨンを使った。目の粗いベニヤにクレヨンを埋め込んでいくと、思わぬマチエールができる。絵はマチエールが大事ですからね。そうして描いたのがデビュー作《起つ》でした。
絵を荒縄で縛って夜行で東京に持っていったが、重いので帰りは捨てていこうと思うくらいだった。すると会いに行った麻生三郎が「今ちょうど自由美術が受付している。この作品なら入るんじゃないか」と言うんです。受付の人も「これなら入るから預かりましょう」と言ってくれた。ぼくは、絵を持って帰らずにすむので清々しました。
それから1週間して、高校の授業中に担任の先生が血相変えて飛び込んできた。「木下、お前何を悪いことしたんだ」と言うわけです。
職員室に連れて行かれたら、自由美術展入選の記者会見場になっていた。会場に入る前に、自由美術に落ち続けていた美術の先生が「おれに習ったことにしてくれ」とお願いしてきましたよ。
富山県内では史上最年少だったので、一時的に甲子園の優勝投手のように騒がれて、勘違いもしたが、人の噂は10日で終わりました。そのときに絵も売れたんですよ。絵なんて売れると思っていないじゃないですか。高岡の職人でしたが、その方が亡くなった時に、ご家族に頼まれて絵は買い戻しました。

油絵への葛藤――
もともと、ゴッホやスーチンの影響を受けて、色に憧れがあったんですよ。
富山は、沖縄や南洋の島々みたいに派手な色彩の光景ではないんですね。だから、なおさら色彩に対する憧れがあるんだけど、こればかりは素質の問題だから。色を極めようとすると、どうしても同系色になって、色の壁にぶちあたるんですね。
それから、当時ぼくはニューヨークに油絵を持って行って、世界のアートシーンでデビューしようと思っていた。テクニックには自信があったんですよ。
ニューヨークは日本と違って実力の世界で、偉い先生の紹介がないから見てやらんということはない。世界的な画商も自分の目で見て選ぶ。
たとえば当時、キース・ヘリングがいた。まだデビューする前で、あの頃は宿にあぶれた黒人や白人が地下鉄で落書きをしてるんですよ。でも、アートとして見ると表現力が弱いんですね。ところがキース・ヘリングは、ぼくも見に行ったけれど、全然違うんですね。それから一気に世界的な作家になって、すぐにエイズで死んでしまうんですが、そうしたダイナミズムが当時のニューヨークにはあった。
テクニックの問題ではなく、オリジナリティがあれば世界デビューできる。
でも、そういう意味では、こっちは完全にだめなんだね。ヨーロッパの前近代の伝統の中でしか描いてないから、評価の対象にならない。
そこでオリジナリティとは何か、と自分なりに考えて、ニューヨークにないものを探して回った。
それが鉛筆画だった。鉛筆画もないわけではないですよ。でも版画と見間違うような小品しかなかった。
鉛筆は一番知られている画材ですが、ぼくは1本の鉛筆で筆圧を変えて表現するのではいかんと思った。
当時、共通規格で9Hから6Bまでの鉛筆が出ていたから、絵具のような色見本を手に入れようとしたが、人によって筆圧が違うから色見本がない。だから、自分で17段階の濃淡のヴァリエーションを作ったんですよ。そうすると、HBならHB、あるいは9Hや6Bの美しさを発見するわけですね。ぼくは油絵の作家だから、絵具を選択してパレットで調合してキャンバスにのせる。そのプロセスを鉛筆でやることにした。
それと、机の上ではなく、キャンバスをイーゼルに立てて描くようにしたら、自分のイメージに近く描けるようになった。

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小林ハルとの出会い――
その頃出会った小林ハルの存在は大きかった。
彼女は生後100日で盲目になった。でも話を聞いていると、色彩を感じるんですよ。
ぼくは小林ハルさんに絵を教えてもらった。あの人に絵の資質はないですよ。だけど、ひとつのことを極めた人は、すべてに共通するんですね。ぼくも含めて巷にいる人たちは、絵を描いているようで描いていない。
ハルさんの話は古い新潟方言でほとんど理解できないけど、三分の一くらいは何となくわかる。あの人たちは三味線を弾きながら瞽女歌を歌い、語り部でもあり、シャーマン的な力もある。瞽女が村に行くと蚕が糸を吐くとか、必ずしも虐げられているだけではない。むしろ大切にされて、同時に近隣の情報も運んでいく。表現の能力が凄いんですよ。
視覚に頼るということは、照明が変わるとまったく見方が変わってしまう、その程度でしかないわけですよ。人間の五感、ハルさんの場合は視覚を奪われて残った四つの感覚を駆使すれば、私たちが見ている気になっているものよりも、ものを見ることができる。
当時、ぼくは2、3年でまた油絵に戻ろうと思っていた。今でも画材は使えるようにしてありますよ。でも、もう油絵は使わんでしょうね。
小林ハルさんとの出会いはまったくの偶然でした。1981年5月に帰国したとき、現代画廊の洲之内徹が新潟の山奥の温泉宿に連れて行ってくれた。ところがバスに乗り遅れて東京に帰れなくなって、宿の主人から「瞽女歌があるから聴いていきな」と言われて。
瞽女を知らなかったから、小唄端唄とか都々逸だったら嫌だなと、いつでも逃げ出せるように端の方に座っていた。そしたら、ハルさんが「葛の葉子別れ」という代表的な瞽女歌の第一声を放ったときに、障子がビリビリと揺れた。今まで聞いたことのない音域だった。何を歌っているかわからないけれども、心臓を掴まれたようだった。5、6曲終わったとき、こちらは精も根も疲れ果てていた。
そのあと、「佐渡おけさ」をやったんです。それが決定的だったのは、冬に佐渡へフェリーに乗って行ったときの荒波を彷彿とさせる「佐渡おけさ」だったんです。そうなると、東京に戻っても、寝ても覚めても小林ハルですよ。

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母親を描く――
要するに、ぼくは絵を描くというよりも、人を知りたいわけですよね。
最初はモデルになってくれるのは家族しかいないんですよ。知った人間しか描けない。
小林ハルの前に、自分の母親を描きはじめたんです。この母親が普通の人じゃないわけです。幼い頃は母親を慕っていくけれども、大人になると憎しみの対象ですよ。俺がこうなったのもみんな母親が悪いんだ、と。
そんな思いでいたところに、ニューヨークで荒川修作と出会って、「君のアイデンティティは何か」と言うので、母親のことや自分の境涯を語ったんですね。
それまで自分にとってコンプレックスでしかなかった記憶を、荒川は「君は芸術家として最高の環境に生まれ育ったんだ」と言った。「しかるに君は、何をこの絵で言いたいのか」と。相手は世界的作家ですよ。そんな人に、おれの絵見りゃわかるだろ、なんて言えたものではない。立て続けに「君はもっとお母さんを描け。ただ描くだけじゃだめだ。どうせ君の親子関係は無茶苦茶になっているだろうから、修復してお母さんの話を聞け。そしてそれを文章に描け」と言われました。
最初は、ちゃんと親子関係になれるわけがない。でも絵を描くうちに、問わず語りに、いろんなことを聞き出せるんですよ。それまでは忌まわしいだけの存在だったのが、この人にかなわんなと思うようになった。そういう下地があったから、ハルさんと向き合っても、それほど気後れせずにすんだんでしょう。
母にしても、小林ハルさんや桜井哲夫さんにしても、キーワードは、孤独だったですね。われわれが考えている孤独とは全然違うんですよ。あの人たち、例えて言うなら神に選ばれている。
本当は絵なんて描かなくてもいい。必ず断られましたよ。桜井さんにも、小林さんにも、説得するのに1年以上かかった。でも、説得するために1年かけたのではないんですよ。
ぼくは、とにかく話を聞きたい。知りたい。そのために行った。そのうちに彼らはモデルになってもいい、と言ってくれた。
体全体から出てくる孤独。そういう人たちのことを知るのは、自分の心の安定にもつながりますね。信じていいものが目の前にあるわけじゃないですか。人間は誰かを信じなければ生きていけないから、ぼくにとってはそういう人たちがそうだったということですね。絵を描くことは、それほど……もちろん絵描きだから描きますけどね。

丸木夫妻の仕事を観て――
ぼくは最初、拒否反応に近かったんですよ。
ところが、丸木夫妻の概念のフィルターを外すと、絵がエロティックなんですよ。本当にすごいですよ、あのエロティックさは。聖と俗がひしめきあって緊張感を生んでいる。
位里さんは非常に女性好きで、モテもしたわけで、彼の自慢話も聞きましたよ。だけど、それとは違いますね。たぶん、彼と俊さんは、命懸けで向かってるわけですよ。だから、こういうものが出てくるわけですね。
最初からエロティックに描こうとすると、くだらん日本画家と同じになってしまう。あんなものはエロティックではない。だけど、丸木さんには芸術の美がある。究極の状態に自分を追い込んでいるわけです。だからこそ、フィルターを外すと凄い。アートってそんなもんですよ。

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特別ゲスト・青木新門さんのお話――
いまから50年前、私は富山でパブみたいなことやっていたんですね。そこへ17歳の彼が店に入ってきたんです。ちょうど16歳で自由美術に最年少に入選して、ぼくは知らなかったんだけど、美術の詳しい放送局の知人から「デッサンの天才なんだ」と聞いたんですね。
それが最初の出会いです。
それから2、3年して、私の店で今の奥さんと駆け落ちの相談をしてどっか行っていなくなっちゃった。しばらくたって私の店は倒産して、葬儀屋に務めて納棺夫に成り下がりまして、その体験を『納棺夫日記』に著しまして、本を出してすぐに彼から電話がかかってきたんです。それから、東京のストライプハウス美術館で対談をやりまして、以来、彼の展覧会を見続けております。
納棺をしておりまして、非常にいい顔をして亡くなった人の最後を聞きますと、だいたい「ありがとう」と言って亡くなった人の顔がいいんですね。そのときの「ありがとう」は、マクドナルドのお客さんへの「ありがとう」とはレベルが違いまして、人生すべての重みが濃縮されているんですね。
木下くんの絵も、中には初めて絵を見た方はドキっとなさると思うんですね。なぜかと申しますと、仏教では生病老死という、それが四苦であると捉えますね。その老病死を隠して、生のみに価値を置いて生きている人は、木下くんの絵を見るとドキっとする。木下くんの絵には、人生を濃縮したものがある。私が『納棺夫日記』に描きました「ありがとう」に凝縮されているものと、木下くんの鉛筆の凝縮は同じだなと、そういう感じがする。
美にまで昇華するということは、ものを「まるごと認める」ということに通じるんですよ。
皆、まるごと認めないで、青春は美しく、老病死は忌み嫌うものという感覚になっている。
木下くんの絵に「光」があることに、私は非常に共感いたしまして、絵を追いかけ続けています。
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