2012/2/11
生誕100年丸木俊展記念対談 イベント
1912年2月11日、つまり100年前のこの日、赤松俊子、のちの丸木俊は北海道雨竜郡秩父別村(現・秩父別町)の善性寺に生まれました。
一年でもっとも雪の多い、極寒の日だったそうです。
今日から「生誕100年 丸木俊展」が開幕しました。
今朝の『埼玉新聞』には、“生誕100年 丸木俊を回顧 きょうから企画展100点超の作品展示”という見出しで、展覧会を紹介する記事が掲載されました。
冷え込みの厳しい丸木美術館ではありますが、展覧会開催記念イベントのために、30人を超える方がわざわざ足を運んで下さいました。
本当に嬉しいことです。

午後1時からは、高瀬伸也さんの演奏+青柳秀侑さんと松川充さんの朗読が行われました。
演目は以下の通りです。
『ねずみがくれたふくべっこ』 文=松谷みよ子/絵=丸木俊/童心社/1980年
『みなまた海のこえ』 文=石牟礼道子/絵=丸木俊・位里/小峰書店/1982年
『天人のはごろも』 脚本=堀尾青史/画=丸木俊/童心社/1961年
『どんぶらこっこすっこっこ』 文=村上ひさ子/絵=丸木俊/福音館書店/1999年
「都幾川」(『女絵かきの誕生』より) 著=丸木俊/日本図書センター/1997年
高瀬さんたちの朗読は、いつもは実験的な試みが多いのですが、今回は正攻法の企画。
丸木俊の絵に囲まれた空間で、朗読による作品世界を体験するという、とても濃密な時間を過ごすことができました。

午後2時からは、丸木俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さんと、丸木夫妻と親交の厚かった画家の平松利昭さんの対談が行われました。
会場には、丸木夫妻をブルガリアに紹介した美術評論家の落合ゾーヤさんや、丸木美術館開館当時から美術館を手伝い、絵を学んでいた草薙静子さんも参加し、それぞれ思い出に残る丸木俊を語って下さいました。
人間としての懐が深く、どんな人とも対等に接し、自然とともに生きる暮らしを大切にして、一本の線に責任を持って絵を描く……そんな丸木俊の等身大の姿が浮かび上がってくる対談だったように思います。
今年は生誕100年ということもあって、沖縄の佐喜眞美術館や山口県の下関市立美術館、愛知県の一宮市立三岸節子記念美術館などで丸木俊展が相次いで開催される予定です。
イベントの最後には、わざわざ来場して下さった三岸節子記念美術館の杉山学芸員が挨拶をして下さいましたが、丸木俊の画業を再発見・再評価する一年になりそうです。
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一年でもっとも雪の多い、極寒の日だったそうです。
今日から「生誕100年 丸木俊展」が開幕しました。
今朝の『埼玉新聞』には、“生誕100年 丸木俊を回顧 きょうから企画展100点超の作品展示”という見出しで、展覧会を紹介する記事が掲載されました。
冷え込みの厳しい丸木美術館ではありますが、展覧会開催記念イベントのために、30人を超える方がわざわざ足を運んで下さいました。
本当に嬉しいことです。

午後1時からは、高瀬伸也さんの演奏+青柳秀侑さんと松川充さんの朗読が行われました。
演目は以下の通りです。
『ねずみがくれたふくべっこ』 文=松谷みよ子/絵=丸木俊/童心社/1980年
『みなまた海のこえ』 文=石牟礼道子/絵=丸木俊・位里/小峰書店/1982年
『天人のはごろも』 脚本=堀尾青史/画=丸木俊/童心社/1961年
『どんぶらこっこすっこっこ』 文=村上ひさ子/絵=丸木俊/福音館書店/1999年
「都幾川」(『女絵かきの誕生』より) 著=丸木俊/日本図書センター/1997年
高瀬さんたちの朗読は、いつもは実験的な試みが多いのですが、今回は正攻法の企画。
丸木俊の絵に囲まれた空間で、朗読による作品世界を体験するという、とても濃密な時間を過ごすことができました。

午後2時からは、丸木俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さんと、丸木夫妻と親交の厚かった画家の平松利昭さんの対談が行われました。
会場には、丸木夫妻をブルガリアに紹介した美術評論家の落合ゾーヤさんや、丸木美術館開館当時から美術館を手伝い、絵を学んでいた草薙静子さんも参加し、それぞれ思い出に残る丸木俊を語って下さいました。
人間としての懐が深く、どんな人とも対等に接し、自然とともに生きる暮らしを大切にして、一本の線に責任を持って絵を描く……そんな丸木俊の等身大の姿が浮かび上がってくる対談だったように思います。
今年は生誕100年ということもあって、沖縄の佐喜眞美術館や山口県の下関市立美術館、愛知県の一宮市立三岸節子記念美術館などで丸木俊展が相次いで開催される予定です。
イベントの最後には、わざわざ来場して下さった三岸節子記念美術館の杉山学芸員が挨拶をして下さいましたが、丸木俊の画業を再発見・再評価する一年になりそうです。
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2012/2/10
生誕100年丸木俊展会場風景 企画展
いよいよ「生誕100年 丸木俊展」の展示がすべて完了しました。
あとは展覧会初日を待つばかりです。

今展では、2階の小展示室に「俊とちひろ」という章を設けて、丸木夫妻のもとでデッサンなどの勉強を重ねた絵本画家いわさきちひろとの交流に焦点を当てた展示をしています。
ちひろ美術館のご協力によって、ちひろのデッサンや絵本原画など10点のピエゾグラフ(複製画)を展示させて頂いています。

1階の最初の展示室では、「俊と位里」と題して、俊が初めて位里の個展を訪れた際に出品されていた作品《雲》(1939年第1回丸木位里・船田玉樹個展出品作、上写真左端)や、俊が描いた位里の肖像画、俊の影響を受けて位里が描いた戦後の油彩画の自画像や人物デッサンなどを紹介しています。

次に続くのは、「俊とスマ」の部屋。お互いを描いた肖像画や、二人で連れ立ってスケッチに出かけたという三滝寺の二重の塔を描いたスマの絵などを展示しています。
俊は結婚後も「赤松」姓を名乗っていましたが、1956年のスマの死をきっかけに“女絵かき”の後を継ぐという決意を込めて「丸木」姓に変えたほど、スマのことを尊敬していたのです。

さらに続く部屋は、俊が若い頃に訪れたロシアや南洋群島の絵を集めた「異国を描く」の章。
北国と南洋という対照的な作品ですが、異国情緒あふれる油彩画がならびます。
俊はこれらの作品によって、画家としての第一歩を踏み出していったのです。

そして、今回の展覧会のチラシの表紙に掲載した油彩画の大作《裸婦(解放されゆく人間性)》が正面の壁にひときわ存在感を放つ「社会を描く」の章に続きます。
この部屋には、俊の個人制作の油彩画《原爆の図》や、60年安保の樺美智子さんを題材にした作品などがならびます。

最後の大きな展示室は、「人間を描く」、「絵本を描く」というふたつの章で、俊の画業の集大成に迫ります。《原爆の図デッサン》20点や数々の絵本原画から、俊の人間に対するたしかな眼差しが浮かび上がってくるのではないかと思います。
館内はたいへん寒いですが、本当に見応えのある展示になっています。
多くの方のご来館を心よりお待ちしています。
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あとは展覧会初日を待つばかりです。

今展では、2階の小展示室に「俊とちひろ」という章を設けて、丸木夫妻のもとでデッサンなどの勉強を重ねた絵本画家いわさきちひろとの交流に焦点を当てた展示をしています。
ちひろ美術館のご協力によって、ちひろのデッサンや絵本原画など10点のピエゾグラフ(複製画)を展示させて頂いています。

1階の最初の展示室では、「俊と位里」と題して、俊が初めて位里の個展を訪れた際に出品されていた作品《雲》(1939年第1回丸木位里・船田玉樹個展出品作、上写真左端)や、俊が描いた位里の肖像画、俊の影響を受けて位里が描いた戦後の油彩画の自画像や人物デッサンなどを紹介しています。

次に続くのは、「俊とスマ」の部屋。お互いを描いた肖像画や、二人で連れ立ってスケッチに出かけたという三滝寺の二重の塔を描いたスマの絵などを展示しています。
俊は結婚後も「赤松」姓を名乗っていましたが、1956年のスマの死をきっかけに“女絵かき”の後を継ぐという決意を込めて「丸木」姓に変えたほど、スマのことを尊敬していたのです。

さらに続く部屋は、俊が若い頃に訪れたロシアや南洋群島の絵を集めた「異国を描く」の章。
北国と南洋という対照的な作品ですが、異国情緒あふれる油彩画がならびます。
俊はこれらの作品によって、画家としての第一歩を踏み出していったのです。

そして、今回の展覧会のチラシの表紙に掲載した油彩画の大作《裸婦(解放されゆく人間性)》が正面の壁にひときわ存在感を放つ「社会を描く」の章に続きます。
この部屋には、俊の個人制作の油彩画《原爆の図》や、60年安保の樺美智子さんを題材にした作品などがならびます。

最後の大きな展示室は、「人間を描く」、「絵本を描く」というふたつの章で、俊の画業の集大成に迫ります。《原爆の図デッサン》20点や数々の絵本原画から、俊の人間に対するたしかな眼差しが浮かび上がってくるのではないかと思います。
館内はたいへん寒いですが、本当に見応えのある展示になっています。
多くの方のご来館を心よりお待ちしています。
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2012/2/9
Ring-Bong 第2回公演「名も知らぬ遠き島より」 他館企画など
連日、「生誕100年丸木俊展」の準備を進めています。
ようやく作品の展示がほぼ終わり、後は11日の初日に向けて、最終的な仕上げをするばかりになりました。
この日は、朝日新聞と埼玉新聞の記者が来館して、企画展の取材をして下さいました。
* * *
夕方からは、小竹向原のサイスタジオコモネで行われたRing-Bong第2回公演「名も知らぬ遠き島より」を観に行きました。

昨年、共通の知人を通じてお会いした文学座の山谷典子さんがみずから脚本を手がけ、出演されている作品です。
舞台は敗戦直後、1946年の中国・牡丹江にある旧日本軍病院と、現代の東京の病室。
登場人物は、ソ連軍の満州侵攻によって関東軍に置き去りにされた負傷兵と看護婦たち。
そのうちの一人、病院付きの衛生兵・近藤義春の最期を看取る義理の娘・千恵と孫の恵による会話と、若き日の近藤たちの満州での体験が交錯しながら物語は進んでいきます。
敗戦後の中国の兵站病院という設定に、私はまず丸木位里の友人の画家・靉光を思い浮かべました。靉光は1946年3月に上海の病院で戦病死しています。
病室で隣になった兵士と飯盒を交換し、帰国した隣人が飯盒を遺族のもとに届けたために、現在も靉光―本名・石村日郎―の飯盒は存在し、2007年に東京国立近代美術館で開催された「生誕100年靉光展」にも展示されていました。
今回の舞台でも、病死した兵士の飯盒を遺族に届けるか否かというやり取りが登場します。
また、「広島」という台詞が一度だけ登場したのも印象的でした。
衛生兵の一人が、従軍看護婦に、日本に残してきた妻と2人の娘の思い出を語りながら、「妻の実家が広島で、東京より食べ物があるだろうから、広島に行っているんだ……」というのです。
ただそれだけの言葉で、この衛生兵は生きて日本に帰っても家族は原爆で全滅しているのではないか、と想像させられ胸が痛みます。
「(放射能のことは)心配し過ぎよ。だって国が大丈夫だって言ってるのよ」という現代での会話に、国に見捨てられた満州の人びとの姿が重なったり、「慰安婦」をめぐる日本軍と朝鮮人女性、ロシア軍と日本人女性の状況が描きこまれていたり、厳しく重い主題がそこかしこに散りばめられていましたが、しかし、後味が決して悪くなかったのは、困難な時代のなかで、それでも可能性があるかぎり生きて、命をつないでいこうという登場人物の姿勢が、時代を超えてつながって見えてきたからなのでしょう。
山谷さんは、私とほぼ同世代。
自身の戦争体験はもちろん、おそらくは両親も戦争の記憶がない世代だと思います。
そうした世代が、体験者の話を聞きながら、60年以上前の戦争と現代をつなげて自分なりの想像力を広げ、リアリティを見出していく。
たとえば、こうの史代の『夕凪の街、桜の国』や、Chim↑Pomの広島を主題にした作品もそのひとつなのかも知れませんが、体験者の持つ“リアル”を受けとめるだけではなく、次の世代としての読みとり方を考えるような、そんな作品がこれからの時代に必要とされ、人びとの心に響いていくのだろうな……と感じながら、興味深く鑑賞させて頂きました。
「名も知らぬ遠き島より」は、2月14日まで上演されています。
ご予約・お問い合わせは以下の通り。
[mail]ringbong2011@gmail.com
[tel]03-5375-1118
(双葉&サイ(株)スタジオ事業部:受付平日11時〜18時)
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ようやく作品の展示がほぼ終わり、後は11日の初日に向けて、最終的な仕上げをするばかりになりました。
この日は、朝日新聞と埼玉新聞の記者が来館して、企画展の取材をして下さいました。
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夕方からは、小竹向原のサイスタジオコモネで行われたRing-Bong第2回公演「名も知らぬ遠き島より」を観に行きました。

昨年、共通の知人を通じてお会いした文学座の山谷典子さんがみずから脚本を手がけ、出演されている作品です。
舞台は敗戦直後、1946年の中国・牡丹江にある旧日本軍病院と、現代の東京の病室。
登場人物は、ソ連軍の満州侵攻によって関東軍に置き去りにされた負傷兵と看護婦たち。
そのうちの一人、病院付きの衛生兵・近藤義春の最期を看取る義理の娘・千恵と孫の恵による会話と、若き日の近藤たちの満州での体験が交錯しながら物語は進んでいきます。
敗戦後の中国の兵站病院という設定に、私はまず丸木位里の友人の画家・靉光を思い浮かべました。靉光は1946年3月に上海の病院で戦病死しています。
病室で隣になった兵士と飯盒を交換し、帰国した隣人が飯盒を遺族のもとに届けたために、現在も靉光―本名・石村日郎―の飯盒は存在し、2007年に東京国立近代美術館で開催された「生誕100年靉光展」にも展示されていました。
今回の舞台でも、病死した兵士の飯盒を遺族に届けるか否かというやり取りが登場します。
また、「広島」という台詞が一度だけ登場したのも印象的でした。
衛生兵の一人が、従軍看護婦に、日本に残してきた妻と2人の娘の思い出を語りながら、「妻の実家が広島で、東京より食べ物があるだろうから、広島に行っているんだ……」というのです。
ただそれだけの言葉で、この衛生兵は生きて日本に帰っても家族は原爆で全滅しているのではないか、と想像させられ胸が痛みます。
「(放射能のことは)心配し過ぎよ。だって国が大丈夫だって言ってるのよ」という現代での会話に、国に見捨てられた満州の人びとの姿が重なったり、「慰安婦」をめぐる日本軍と朝鮮人女性、ロシア軍と日本人女性の状況が描きこまれていたり、厳しく重い主題がそこかしこに散りばめられていましたが、しかし、後味が決して悪くなかったのは、困難な時代のなかで、それでも可能性があるかぎり生きて、命をつないでいこうという登場人物の姿勢が、時代を超えてつながって見えてきたからなのでしょう。
山谷さんは、私とほぼ同世代。
自身の戦争体験はもちろん、おそらくは両親も戦争の記憶がない世代だと思います。
そうした世代が、体験者の話を聞きながら、60年以上前の戦争と現代をつなげて自分なりの想像力を広げ、リアリティを見出していく。
たとえば、こうの史代の『夕凪の街、桜の国』や、Chim↑Pomの広島を主題にした作品もそのひとつなのかも知れませんが、体験者の持つ“リアル”を受けとめるだけではなく、次の世代としての読みとり方を考えるような、そんな作品がこれからの時代に必要とされ、人びとの心に響いていくのだろうな……と感じながら、興味深く鑑賞させて頂きました。
「名も知らぬ遠き島より」は、2月14日まで上演されています。
ご予約・お問い合わせは以下の通り。
[mail]ringbong2011@gmail.com
[tel]03-5375-1118
(双葉&サイ(株)スタジオ事業部:受付平日11時〜18時)
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2012/2/5
「生誕100年丸木俊展」展示替え 企画展
このところ続いていた寒さが少し和らいだこの日、大勢のボランティアが参加して下さって、企画展の展示替え作業を行いました。
「丸木スマ展」から「生誕100年 丸木俊展」へ。
館内のほとんどの部屋を総入れ替えする大規模な展示替えでしたが、Y口さん、Y浅さん、M木さん、T瀬さん、G藤さんの男性陣、S崎さん、A森さん、N村さん、K藤さんに加え、初参加のS根さんという総勢10人が熱心に手伝って下さったおかげで、予想以上に作業が進んでいます。

「生誕100年 丸木俊展」(2月11日−5月19日)は、夫の丸木位里との共同制作《原爆の図》の作者であり、戦後の女流画家の草分け的な存在でもあり、数多くの民話や伝説、創作絵本などの挿絵を手がけるなど多様な活動を行った丸木俊の画業を振り返り、総作品点数100点以上を紹介する展覧会です。
また、俊に大きな影響を与えた夫の丸木位里、義理の母の丸木スマ、そして師弟であったいわさきちひろの作品をそれぞれ10点ほど展示し、その影響関係も紹介します。
2月11日(土/祝)は、俊の100年目の誕生日。
午後1時からは、丸木俊の絵本や随筆を題材にした高瀬伸也さん、青柳秀侑さん、松川充さんによる朗読+即興演奏が行われ、午後2時からは俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さん、画家の平松利昭さんによる対談も行われます。
ぜひ、多くの方においでいただきたいと思います。
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「丸木スマ展」から「生誕100年 丸木俊展」へ。
館内のほとんどの部屋を総入れ替えする大規模な展示替えでしたが、Y口さん、Y浅さん、M木さん、T瀬さん、G藤さんの男性陣、S崎さん、A森さん、N村さん、K藤さんに加え、初参加のS根さんという総勢10人が熱心に手伝って下さったおかげで、予想以上に作業が進んでいます。

「生誕100年 丸木俊展」(2月11日−5月19日)は、夫の丸木位里との共同制作《原爆の図》の作者であり、戦後の女流画家の草分け的な存在でもあり、数多くの民話や伝説、創作絵本などの挿絵を手がけるなど多様な活動を行った丸木俊の画業を振り返り、総作品点数100点以上を紹介する展覧会です。
また、俊に大きな影響を与えた夫の丸木位里、義理の母の丸木スマ、そして師弟であったいわさきちひろの作品をそれぞれ10点ほど展示し、その影響関係も紹介します。
2月11日(土/祝)は、俊の100年目の誕生日。
午後1時からは、丸木俊の絵本や随筆を題材にした高瀬伸也さん、青柳秀侑さん、松川充さんによる朗読+即興演奏が行われ、午後2時からは俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さん、画家の平松利昭さんによる対談も行われます。
ぜひ、多くの方においでいただきたいと思います。
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2012/2/3
60年安保を描いた俊の油彩画《犠牲者》 作品・資料
昨日は2012年度に行う企画展の準備のために都内各所で関係者と打ち合わせを行い、夜から池袋で丸木美術館の企画委員会に参加。
そして今日は、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」出品作品の借用のために、朝から椎名町の「アトリエ村の小さな画廊 ギャラリーいがらし」や練馬区の「ちひろ美術館・東京」などを美術品運搬トラックといっしょにまわってきました。
今回出品される俊さんの油彩画のひとつに、《犠牲者》と題された作品があります。

1960年の安保闘争における機動隊とデモ隊の衝突によって亡くなった樺美智子さん(当時東大生)を主題にした作品で、1961年6月1日から13日まで東京都美術館で開催された第15回女流画家協会展に《六月十五日》の題で初めて出品されました。
当時の作品絵葉書も現存しています。

この油彩画は、1962年5月の全ソ美術画家同盟の招請による「ソ連邦における日本現代美術展」に《犠牲者(安保斗争)》の題で展示され、その後、樺さんのご実家に贈られたようです。
今回の展覧会開催にあたって、樺家のご家族からは快く展示のご許可をいただき、作品をお借りしてくることができました。
樺家では、ずっと家の一室に油彩画を大切に展示し続けて下さっていたようです。

女流画家協会展に展示された際、樺さんのお母さんと俊さんが二人で作品をご覧になっている貴重な写真も拝見させていただきました。

展示風景の写真を見ると、作品名は《1960年の夏》となっていて、同じ主題の作品が2点展示されていたようです。
2月11日からはじまる企画展では、こうした写真資料なども紹介しながら、俊さんが見つめた“社会”というテーマで、ひとつの部屋を特集したいと思っています。
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そして今日は、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」出品作品の借用のために、朝から椎名町の「アトリエ村の小さな画廊 ギャラリーいがらし」や練馬区の「ちひろ美術館・東京」などを美術品運搬トラックといっしょにまわってきました。
今回出品される俊さんの油彩画のひとつに、《犠牲者》と題された作品があります。

1960年の安保闘争における機動隊とデモ隊の衝突によって亡くなった樺美智子さん(当時東大生)を主題にした作品で、1961年6月1日から13日まで東京都美術館で開催された第15回女流画家協会展に《六月十五日》の題で初めて出品されました。
当時の作品絵葉書も現存しています。

この油彩画は、1962年5月の全ソ美術画家同盟の招請による「ソ連邦における日本現代美術展」に《犠牲者(安保斗争)》の題で展示され、その後、樺さんのご実家に贈られたようです。
今回の展覧会開催にあたって、樺家のご家族からは快く展示のご許可をいただき、作品をお借りしてくることができました。
樺家では、ずっと家の一室に油彩画を大切に展示し続けて下さっていたようです。

女流画家協会展に展示された際、樺さんのお母さんと俊さんが二人で作品をご覧になっている貴重な写真も拝見させていただきました。

展示風景の写真を見ると、作品名は《1960年の夏》となっていて、同じ主題の作品が2点展示されていたようです。
2月11日からはじまる企画展では、こうした写真資料なども紹介しながら、俊さんが見つめた“社会”というテーマで、ひとつの部屋を特集したいと思っています。
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2012/2/1
東松山CATVの番組制作 来客・取材
このところ、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」の準備(俊作品100点に加え、位里、スマの作品、いわさきちひろのピエゾグラフをそれぞれ10点ほど展示予定)が慌ただしく、少し体調不良気味だったこともあって、久しぶりの日誌の更新です。
非常に冷え込みの厳しい館内ですが、丸木美術館紹介番組(15分番組×6本)を制作中の東松山CATVのIさんは頻繁に美術館を訪れて、撮影を進めてくれています。

この日は朝一番に河原に降りていき、都幾川の風景を撮影。
美術館紹介の導入部分で、広島の太田川に似ていることから丸木夫妻がこの地に美術館を建てた、という紹介とともに川の流れが映し出されることになります。

その後は、一日がかりで館内に展示されている《原爆の図》を撮影。
午後からは、東松山CATVのベテランスタッフNさんも手伝いに駆けつけて下さいました。
私も絵の前で、作品解説や米軍占領下の巡回展の意味についてたっぷり話をしました。
* * *
番組制作にあたって昨年から何度もIさんと打ち合わせを重ねてきましたが、そのなかで、ただ順番に絵の紹介をするだけではなく、少し変化をつけるために「○○を探ろう!」というショートコーナーを設けようという提案がありました。
通常の作品紹介の視点とは角度を変えて、絵の世界を深めていこうというコーナーです。
たとえば丸木スマの回では、《柿もぎ》を題材にしながら、人より柿の実が大きかったり、背景の色を色とりどりに塗り分けたり、本物の葉に絵具を塗って押し当てるなど自由奔放なスマの絵の魅力を具体的に紹介してみました。
この日は《原爆の図》(前編・後編)の撮影だったので、前編では芸術と記録のあいだで揺れ動く丸木夫妻の姿勢を、後編では《原爆の図》とともに制作された絵本『ピカドン』を紹介しました。
あとはIさんの編集作業によって、《原爆の図》の作品世界をさまざまな角度から深めてくれる、見どころたっぷりの番組ができあがってくることと思います。
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非常に冷え込みの厳しい館内ですが、丸木美術館紹介番組(15分番組×6本)を制作中の東松山CATVのIさんは頻繁に美術館を訪れて、撮影を進めてくれています。

この日は朝一番に河原に降りていき、都幾川の風景を撮影。
美術館紹介の導入部分で、広島の太田川に似ていることから丸木夫妻がこの地に美術館を建てた、という紹介とともに川の流れが映し出されることになります。

その後は、一日がかりで館内に展示されている《原爆の図》を撮影。
午後からは、東松山CATVのベテランスタッフNさんも手伝いに駆けつけて下さいました。
私も絵の前で、作品解説や米軍占領下の巡回展の意味についてたっぷり話をしました。
* * *
番組制作にあたって昨年から何度もIさんと打ち合わせを重ねてきましたが、そのなかで、ただ順番に絵の紹介をするだけではなく、少し変化をつけるために「○○を探ろう!」というショートコーナーを設けようという提案がありました。
通常の作品紹介の視点とは角度を変えて、絵の世界を深めていこうというコーナーです。
たとえば丸木スマの回では、《柿もぎ》を題材にしながら、人より柿の実が大きかったり、背景の色を色とりどりに塗り分けたり、本物の葉に絵具を塗って押し当てるなど自由奔放なスマの絵の魅力を具体的に紹介してみました。
この日は《原爆の図》(前編・後編)の撮影だったので、前編では芸術と記録のあいだで揺れ動く丸木夫妻の姿勢を、後編では《原爆の図》とともに制作された絵本『ピカドン』を紹介しました。
あとはIさんの編集作業によって、《原爆の図》の作品世界をさまざまな角度から深めてくれる、見どころたっぷりの番組ができあがってくることと思います。
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2012/1/26
絵本『ひろしまのピカ』ロシア語版・ヒンディー語版刊行 書籍
1980年に小峰書店から刊行されて以来、アメリカ、イギリス、ウェールズ、フランス、オランダ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、オーストリア(ドイツ語)、スペイン、イタリア、ギリシャ、中国と13言語で(フランスは2つの出版社から刊行されているので延べ14回)翻訳されている丸木俊の絵本の代表作『ひろしまのピカ』。
このたび、新たにヒンディー語版(インド)とロシア語版が刊行されたのでお知らせいたします。

写真左がヒンディー語版、右がロシア語版の絵本です。
刊行から30年の歳月が流れても、いまだに世界じゅうで翻訳が続いているというのは、本当に素晴らしいことだと思います。
* * *
2012年1月15日付『朝日新聞』の書評欄には、その『ひろしまのピカ』を海外に紹介して下さった日本著作権輸出センター創業者の栗田明子さんの著作『海の向こうに本を届ける』(晶文社、2011年)が掲載されています。
http://book.asahi.com/reviews/column/2012011500010.html
個人史がそのまま社会的、歴史的意味を帯びることがある。日本の出版物を海外へ。いまは当たり前に語られる道を切り開き、日本著作権輸出センターを創業した栗田さんの回顧録は、その幸福な例だろう。
このように紹介されている通り、『ひろしまのピカ』はもちろん、日本の出版物の海外翻訳の歴史が、栗田さんの穏やかな語り口でとても具体的に語られています。
その栗田さんは、『丸木美術館ニュース』第103号(2010年10月10日刊)に寄せて下さった文章で、「私共が海外に紹介した児童書約五〇〇〇点の中で、もっとも心に残る作品は、今でも『ひろしまのピカ』です」と書いて下さっています。
小峰書店のMさんによれば、『ひろしまのピカ』は、タジキスタンからも翻訳出版の打診が届いているとか。まだまだ世界に広がっていきそうなこの絵本のことを思うとき、あらためて栗田さんの仕事の意味の大きさを考えずにはいられません。
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このたび、新たにヒンディー語版(インド)とロシア語版が刊行されたのでお知らせいたします。

写真左がヒンディー語版、右がロシア語版の絵本です。
刊行から30年の歳月が流れても、いまだに世界じゅうで翻訳が続いているというのは、本当に素晴らしいことだと思います。
* * *
2012年1月15日付『朝日新聞』の書評欄には、その『ひろしまのピカ』を海外に紹介して下さった日本著作権輸出センター創業者の栗田明子さんの著作『海の向こうに本を届ける』(晶文社、2011年)が掲載されています。
http://book.asahi.com/reviews/column/2012011500010.html
個人史がそのまま社会的、歴史的意味を帯びることがある。日本の出版物を海外へ。いまは当たり前に語られる道を切り開き、日本著作権輸出センターを創業した栗田さんの回顧録は、その幸福な例だろう。
このように紹介されている通り、『ひろしまのピカ』はもちろん、日本の出版物の海外翻訳の歴史が、栗田さんの穏やかな語り口でとても具体的に語られています。
その栗田さんは、『丸木美術館ニュース』第103号(2010年10月10日刊)に寄せて下さった文章で、「私共が海外に紹介した児童書約五〇〇〇点の中で、もっとも心に残る作品は、今でも『ひろしまのピカ』です」と書いて下さっています。
小峰書店のMさんによれば、『ひろしまのピカ』は、タジキスタンからも翻訳出版の打診が届いているとか。まだまだ世界に広がっていきそうなこの絵本のことを思うとき、あらためて栗田さんの仕事の意味の大きさを考えずにはいられません。
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2012/1/24
再現美唄原爆の図展 館外展・関連企画
1月21日より、北海道の美唄市民会館大会議室で、原寸大複製画による再現1952年原爆の図美唄展が開催されています。

この展覧会は、60年前に北海道を巡回した原爆の図展の調査を行っていた美唄市の郷土史家・白戸仁康さんを中心に企画されたものです。
昨年も、10月28日から30日まで室蘭市民美術館で再現展が開催されました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1745.html
今回の美唄展はその流れを受け継ぐもので、展覧会はこの後、深川市でも開催予定になっています。
残念ながら、私は美唄まで伺うことはできませんでしたが、今回の展覧会の特徴は、白戸さんの丹念な調査によって掘り起こされた周辺資料が大量に紹介されていることです。
なにしろ、送って頂いたチラシの内容がとにかく凄い!
チラシなのに、まるで資料集のような情報量です。


白戸さんの精力的な調査の様子は、過去の日誌でもたびたび紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1404.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1350.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1281.html
1月21日、22日には白戸さんによる展示解説も行われたとのこと。
美唄市教育委員会生涯学習課の方のお話によれば、美唄市民の方々の大きな関心を集めており、来場者数も非常に好調だとか。
本当に嬉しいかぎりです。
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この展覧会は、60年前に北海道を巡回した原爆の図展の調査を行っていた美唄市の郷土史家・白戸仁康さんを中心に企画されたものです。
昨年も、10月28日から30日まで室蘭市民美術館で再現展が開催されました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1745.html
今回の美唄展はその流れを受け継ぐもので、展覧会はこの後、深川市でも開催予定になっています。
残念ながら、私は美唄まで伺うことはできませんでしたが、今回の展覧会の特徴は、白戸さんの丹念な調査によって掘り起こされた周辺資料が大量に紹介されていることです。
なにしろ、送って頂いたチラシの内容がとにかく凄い!
チラシなのに、まるで資料集のような情報量です。


白戸さんの精力的な調査の様子は、過去の日誌でもたびたび紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1404.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1350.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1281.html
1月21日、22日には白戸さんによる展示解説も行われたとのこと。
美唄市教育委員会生涯学習課の方のお話によれば、美唄市民の方々の大きな関心を集めており、来場者数も非常に好調だとか。
本当に嬉しいかぎりです。
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2012/1/22
「生誕100年藤牧義夫展」/銀の鈴社/「ベン・シャーン展」 他館企画など
あいにくの雨でしたが、朝から遠出をして、近現代史研究者のKさん、Yさんといっしょに、神奈川県立近代美術館 鎌倉館ではじまった「生誕100年 藤牧義夫展」(3月25日まで)と、同じく葉山館の「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」(1月29日まで)を観てきました。
* * *
藤牧義夫は1911年に群馬県館林市に生まれた版画家です。
若くして小野忠重らが結成した新版画集団に参加して頭角をあらわし、関東大震災後に復興した東京の風景を木版画で表現して注目を集めます。
代表作とされる《赤陽》(1934年以前、東京国立近代美術館蔵)は、都会の街並みの果てに沈む赤陽が目に沁みる、一度観たら忘れがたい印象を残す作品です。
隅田川の岸辺の光景を60mに達するほどの長大な細密描写で描いた《白描絵巻》のシリーズ(1934年、東京都現代美術館蔵)も圧倒的な存在感を放っています。
しかし彼は、1935年9月2日、24歳で突然姿を消しました。
なぜ失踪したのか、その後どうなってしまったのか。
現在に至るまで、その謎は誰も解くことができません。

わずか5年という短い活動期間であるにもかかわらず、今回出品された作品・資料は約200点。
たいへん見応えのある内容で、藤牧義夫の作品の魅力はもちろん、1930年代の東京(それはまさに、1901年生まれの丸木位里や、1912年生まれの赤松俊子が画家としての道を歩みはじめた空間でした)を感じることのできる、お勧めの展覧会です。
* * *
次に訪れたのは、鶴岡八幡宮の反対側の銀の鈴社という小さな出版社兼ギャラリーでした。
昭和初期に建てられた木造の瀟洒な一室に案内されて、スタッフの方々にご挨拶をしました。
というのも、銀の鈴社では現在、『平和をねがう「原爆の図」―丸木位里・俊夫妻―』と題する小学校中学年以上向けの伝記の刊行に向けて準備をすすめているのです。
すでに初校ができあがっていて、事実関係を中心に、最近の研究成果を反映するための校閲作業を行っているところです。
書籍刊行に関しては、今後詳しい情報が決まり次第、ご紹介したいと思っています。
* * *
最後に向かったのは、神奈川県立近代美術館葉山館の企画展「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト ―写真・絵画・グラフィック・アーティスト」。

2012年3月11日、東日本大震災と福島原発事故が起きたことで記憶される日、丸木美術館では、丸木夫妻とベン・シャーンという、日米の画家の視点から見た「第五福竜丸事件」を比較する展覧会を開催中でした。
今回の展覧会には、そのとき丸木美術館に出品された作品も10点以上展示されています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2011/2011lucky.html
展覧会の最大の見どころは、ベン・シャーンの表現手段のひとつとして“写真”に着目している点があげられます。
ベン・シャーンの絵画やグラフィック・デザインの仕事の多くは、ニューディール政策の一環として彼自身が大恐慌以後の農村部をまわって撮影した写真をもとに制作されています。
展示の狙いは、その写真と絵画・デザイン作品との関連性を解き明かしつつ、“写真家”としての彼の深いまなざしを紹介するものです。
絵画やデザインのための写真ではなく、それらの領域を自在に往還して表現活動を行った、“クロスメディア・アーティスト”としてのベン・シャーンの姿が、新鮮に浮かび上がってくるように思いました。
前日の早稲田大学の幻灯研究会では、1950年代の《原爆の図》のメディア横断的な展開を紹介しましたが、ベン・シャーンと丸木夫妻の共通点は、いわゆる“社会的主題”を描いた画家というだけではなく、さまざまなメディアを通じて社会と結びついた表現者という点もあげられるのではないかと思います。
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藤牧義夫は1911年に群馬県館林市に生まれた版画家です。
若くして小野忠重らが結成した新版画集団に参加して頭角をあらわし、関東大震災後に復興した東京の風景を木版画で表現して注目を集めます。
代表作とされる《赤陽》(1934年以前、東京国立近代美術館蔵)は、都会の街並みの果てに沈む赤陽が目に沁みる、一度観たら忘れがたい印象を残す作品です。
隅田川の岸辺の光景を60mに達するほどの長大な細密描写で描いた《白描絵巻》のシリーズ(1934年、東京都現代美術館蔵)も圧倒的な存在感を放っています。
しかし彼は、1935年9月2日、24歳で突然姿を消しました。
なぜ失踪したのか、その後どうなってしまったのか。
現在に至るまで、その謎は誰も解くことができません。

わずか5年という短い活動期間であるにもかかわらず、今回出品された作品・資料は約200点。
たいへん見応えのある内容で、藤牧義夫の作品の魅力はもちろん、1930年代の東京(それはまさに、1901年生まれの丸木位里や、1912年生まれの赤松俊子が画家としての道を歩みはじめた空間でした)を感じることのできる、お勧めの展覧会です。
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次に訪れたのは、鶴岡八幡宮の反対側の銀の鈴社という小さな出版社兼ギャラリーでした。
昭和初期に建てられた木造の瀟洒な一室に案内されて、スタッフの方々にご挨拶をしました。
というのも、銀の鈴社では現在、『平和をねがう「原爆の図」―丸木位里・俊夫妻―』と題する小学校中学年以上向けの伝記の刊行に向けて準備をすすめているのです。
すでに初校ができあがっていて、事実関係を中心に、最近の研究成果を反映するための校閲作業を行っているところです。
書籍刊行に関しては、今後詳しい情報が決まり次第、ご紹介したいと思っています。
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最後に向かったのは、神奈川県立近代美術館葉山館の企画展「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト ―写真・絵画・グラフィック・アーティスト」。

2012年3月11日、東日本大震災と福島原発事故が起きたことで記憶される日、丸木美術館では、丸木夫妻とベン・シャーンという、日米の画家の視点から見た「第五福竜丸事件」を比較する展覧会を開催中でした。
今回の展覧会には、そのとき丸木美術館に出品された作品も10点以上展示されています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2011/2011lucky.html
展覧会の最大の見どころは、ベン・シャーンの表現手段のひとつとして“写真”に着目している点があげられます。
ベン・シャーンの絵画やグラフィック・デザインの仕事の多くは、ニューディール政策の一環として彼自身が大恐慌以後の農村部をまわって撮影した写真をもとに制作されています。
展示の狙いは、その写真と絵画・デザイン作品との関連性を解き明かしつつ、“写真家”としての彼の深いまなざしを紹介するものです。
絵画やデザインのための写真ではなく、それらの領域を自在に往還して表現活動を行った、“クロスメディア・アーティスト”としてのベン・シャーンの姿が、新鮮に浮かび上がってくるように思いました。
前日の早稲田大学の幻灯研究会では、1950年代の《原爆の図》のメディア横断的な展開を紹介しましたが、ベン・シャーンと丸木夫妻の共通点は、いわゆる“社会的主題”を描いた画家というだけではなく、さまざまなメディアを通じて社会と結びついた表現者という点もあげられるのではないかと思います。
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2012/1/21
早稲田大学幻灯上映&研究報告会 講演・発表
午後1時から、早稲田大学早稲田キャンパス11号館603教室で開催された上映と研究報告会「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」(主催:早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点 平成23年度公募研究「戦後映像文化史におけるオルタナティヴ的実践についての実証的研究――幻灯/スライドメディアの再評価及び映画・演劇界との連携の実態の検証を中心に――」)に参加しました。
幻灯という、これまであまり注目されていなかったメディアの研究発表とあって、遠いところでは広島や大阪から駆けつける方もあり、会場には約40人ほどの参加者が集まりました。
今回の企画の代表者である鷲谷花さんの研究発表によれば、従来は「映画以前のメディア」と見なされることの多かった幻灯ですが、実は戦時期から占領期にかけての短期間に、全国的に「幻灯ブーム」というべき非常に多くの作品が制作・上映されていたそうです。
その理由としては、フィルムやスライドに直接着色することで同時代の映画では困難だったカラー映像を比較的容易に実現できたことなどの技術的利点や、制作から上映にいたるまで映画に比べて圧倒的に費用がかからないという経済的利点によって、自主制作や自主上映が可能であったという点があげられます。
とりわけ、米軍占領末期からは、社会問題を共有する「運動」のメディアとして発展し、今回上映された『基地立川』(1953年/製作:立川平和懇談会/配給:日本幻灯文化社)、『基地横須賀』(1953年/製作:横須賀生活協同組合/脚本:吉岡多江子(組合婦人部)/配給:日本幻灯文化社)、『原爆の図』(1953年/提供:キヌタ・ヨコシネ/配給:東京スタジオ/監修:日本文化人会議、横浜シネマ製作所/構成:本郷新/解説:内田巌)、『ピカドン 広島原爆物語』(1952年/製作:プロダクション星映社/提供:日本光芸株式会社/文・絵:丸木位里・赤松俊子)などの作品が数多く制作されていったのです。
基地を主題にしたふたつの幻灯のうち、『基地立川』のなかのひとコマには、1952年8月15日から17日まで立川市南口公会堂で開催された「原爆の図展」(主催:東京平和会議)の会場風景も紹介されていました。

私の発表は、幻灯と展覧会がつながりをみせた立川の「原爆の図展」に着目しながら、1952年4月の米軍占領終結直後から1954年3月の第五福竜丸の被ばく事件によって原爆に対する社会の意識が次の局面に向かうまでの短期間に、出版・映画・幻灯などメディアの領域を横断するダイナミックな文化運動として展開された《原爆の図》周辺の活況を紹介するという内容でした。
* * *
占領下の時代、さまざまな圧力を受けながらも全国で巡回展が開催されていった《原爆の図》ですが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効となり、米軍の占領が終結すると、状況は大きく変わっていきます。
丸木夫妻の最初の画集『原爆の図』が青木書店から発行されたのは、1952年4月10日。
幻灯『ピカドン』が制作されたのも1952年4月−6月ですから、ほとんど時期が重なります。

この作品は、1950年8月、敗戦から5年の節目に企画され、すぐに発行禁止処分・原画没収という厳しい処分を受けたとされている絵本『ピカドン』をもとに作られています。
どちらも広島の三滝町に住む老夫婦(位里の両親がモデル)の視点からはじまっています。
しかし、絵本が被爆直後の同時多発的な被害の状況を、時間を行きつ戻りつしながら62点の場面によって表現しているのに対し、幻灯では絵の数を約半分の33点に絞り、順番も大幅に入れ替えて再構成し、物語がひとつの筋を通すような試みを行っています。
たしかに、絵本『ピカドン』は内容的には子どもというより大人向けに描かれたところがあるので、場面数を減らし、複雑な構成をよりシンプルにすることで、幅広い年齢層に観てもらうという幻灯の目的により沿うようになっているとは思います。
ただ、そうした編集の結果、原爆表現の本質的な困難さを象徴する「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません」という荒涼とした焼け野原に焼け焦げた木が一本立っている場面が削られてしまったのは、少々残念なようにも感じられます。

幻灯『ピカドン』の最大の特徴は、絵本では線描だった画面が、彩色されている点です。
当時はアルバイトがフィルムに彩色をすることが多かったようなので、丸木夫妻が直接色指定をしたわけではないと思いますが、非常に明るくて新鮮に感じます。
冒頭部分はもともとユーモラスな描写であったこともあり、1970年代後半から80年代にかけてテレビ放送されたアニメ『まんが日本昔ばなし』を連想させるほどです。
子どもたちも親しみやすかったのではないでしょうか。
丸木夫妻を扱った映像作品は、この後繰り返し数多く制作されることになりますが、幻灯『ピカドン』は、おそらくその最初のものと言えるのではないかと思います。
* * *
立川で「原爆の図展」が開催されたのは、占領終結直後の“終戦記念日”――1952年8月15日という、当時の全国巡回展の最盛期にあたります。
会場には、原爆の図五部作と東京都立大の学生有志の制作した資料が展示されました。
展覧会には3日間に9,907名(子どもを加えると1万2000人以上)が入場し、感想文集も発行されていて、現在は西東京市のひばりヶ丘図書館に所蔵されています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1557.html
展覧会の責任者は、当時、東京平和会議の会員だった岸清次。
彼は後に『小さなロウソクの灯のように』(1984年、けやき出版)という著書を書いています。
そこには、「原爆の図展」と幻灯制作との興味深い関わりが記されています。
==========
昭和二十七年八月十五日から三日間、立川の南口公会堂で赤松俊子、丸木位里両先生の原爆美術展を開きました。主催は東京平和会議でしたが、私が会員だったので皆さんに呼びかけて協力していただきました。暑い盛りでしたが、私も若かったので、自転車で立川市長はじめ昭和、拝島、村山、大和、国立、国分寺、小金井、田無、日野、八王子の十一市町村を訪問し、それぞれの市長さん、町長さんの賛同をいただきました。ポスターは現在有名な画家となっていられる国分寺の佐藤多持画伯が原画を描き、木版の版木を作って印刷して下さいました。準備会の時は集まりも悪く、一橋大の教授の息子さんの野村さんと二人だけの時もありましたが、開催後は大勢の人々が熱心に協力して下さいました。現在、東京土建多摩西部支部長の森田さんもその一人です。
タライの中に氷柱を一本立て、扇風機も二台使いましたが、一台は大島さんから借り、一台は私のものを使いました。当時はまだ扇風機はあまりなかったのです。三日間に二千人以上の参加者がありました。木造二階造りの建物でしたので、二階が落ちなければよいがと心配しました。入場料はいくらでしたか忘れましたが、二万円以上の利益が残りましたので、入場者の感想文集を発行しました。表紙は赤松俊子さんに描いていただき、立派なパンフレットが出来ました。実はこのパンフで少し平和運動の資金稼ぎをしようと考えたのですが、あまり売れませんでした。しかし、このパンフは平和大会などを通じ、各国の代表者達に贈ったりしましたので広く各地の平和活動家の資料として役立っております。
感想文と共にスライド「基地立川」も日本幻灯社の協力で作成しました。文学青年の方がたの協力もあり、現在の立川図書館の小沢長治先生もその一人でした。
この幻灯は、コンクールに入選しました。自主製作のはしりのようでした。これも感想文と共に全国の平和運動家に活用され、中国やオーストリアなどに紹介されております。
==========
幻灯『基地立川』の製作として記されている「立川平和懇談会」は、この展覧会がきっかけで結成された団体です。
「原爆の図展」の収益によって時代に先駆けて幻灯制作が行われたこと、幻灯にはコンクールがあり、海外に紹介されたりする機会があったこともわかります。
また、このとき、今井正・青山通春監督による記録映画『原爆の図』の撮影カメラが会場に入っていたのも特筆すべきことでした。
1952年8月頃から撮影され、翌53年に公開された映画には、後に美術批評家となるヨシダ・ヨシエさんが絵の前で身振りをまじえて説明をしている姿が記録されているのです。
(字幕などが出るわけではないので、とても注意深く見なければわかりませんが)
1953年は、1月に丸木夫妻が世界平和評議会から国際平和賞を受賞した年です。
そして、俊は6月に原爆の図三部作を携えてヨーロッパの世界婦人大会に参加しています。
絵本『ピカドン』がフランスの雑誌に掲載され、映画『原爆の図』や新藤兼人監督の『原爆の子』がパリやブリュッセル、アントワープでも公開されるなど、原爆に関する表現が海外に注目されはじめる年でもありました。
その年の終わり、10月−12月に制作されたのが幻灯『原爆の図』。

構成を担った本郷新は「わだつみのこえ」などの作品で知られる彫刻家で、丸木夫妻とともに日本美術会に参加し、「原爆の図三部作完成記念会」では司会を務めていました。
解説も内田巌も日本美術会の初代書記長で、画集『原爆の図』に「原爆の図の芸術的価値について」という批評文を寄せています。
映画を踏まえた《原爆の図》の見せ方(1:8という極端に横に長い画面は、幻灯の横スクロール式フィルムとの相性が良いと感じました)や俊の作品解説、峠三吉の詩の引用など、幻灯『原爆の図』は、この時代を象徴するさまざまな要素が含まれています。
これまで、丸木夫妻の回想や資料にも、まったく存在が記録されていなかった幻灯作品。
それは逆に言えば、幻灯が映画や出版物とは異なり、あまりにも身近に根づいていた表現手段だったことを証明しているのかも知れません。
しかし、だからこそ幻灯は、自分たちで「見せる」「見る」「つくる」ことを重視した1950年代のサークル的な運動を知る上で、非常に重要な意味を持っているように思えるのです。
今後の鷲谷さん、紙屋さんたちの幻灯研究の成果に、大いに期待したいところです。

ちなみに、こちらは目黒区美術館のM学芸員が撮影して下さった幻灯の投影風景。
上映中の作品は『原爆の図』です。

幻灯機を見る機会もなかなかありませんが、丸みを帯びたフォルムがかわいらしいです。
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幻灯という、これまであまり注目されていなかったメディアの研究発表とあって、遠いところでは広島や大阪から駆けつける方もあり、会場には約40人ほどの参加者が集まりました。
今回の企画の代表者である鷲谷花さんの研究発表によれば、従来は「映画以前のメディア」と見なされることの多かった幻灯ですが、実は戦時期から占領期にかけての短期間に、全国的に「幻灯ブーム」というべき非常に多くの作品が制作・上映されていたそうです。
その理由としては、フィルムやスライドに直接着色することで同時代の映画では困難だったカラー映像を比較的容易に実現できたことなどの技術的利点や、制作から上映にいたるまで映画に比べて圧倒的に費用がかからないという経済的利点によって、自主制作や自主上映が可能であったという点があげられます。
とりわけ、米軍占領末期からは、社会問題を共有する「運動」のメディアとして発展し、今回上映された『基地立川』(1953年/製作:立川平和懇談会/配給:日本幻灯文化社)、『基地横須賀』(1953年/製作:横須賀生活協同組合/脚本:吉岡多江子(組合婦人部)/配給:日本幻灯文化社)、『原爆の図』(1953年/提供:キヌタ・ヨコシネ/配給:東京スタジオ/監修:日本文化人会議、横浜シネマ製作所/構成:本郷新/解説:内田巌)、『ピカドン 広島原爆物語』(1952年/製作:プロダクション星映社/提供:日本光芸株式会社/文・絵:丸木位里・赤松俊子)などの作品が数多く制作されていったのです。
基地を主題にしたふたつの幻灯のうち、『基地立川』のなかのひとコマには、1952年8月15日から17日まで立川市南口公会堂で開催された「原爆の図展」(主催:東京平和会議)の会場風景も紹介されていました。

私の発表は、幻灯と展覧会がつながりをみせた立川の「原爆の図展」に着目しながら、1952年4月の米軍占領終結直後から1954年3月の第五福竜丸の被ばく事件によって原爆に対する社会の意識が次の局面に向かうまでの短期間に、出版・映画・幻灯などメディアの領域を横断するダイナミックな文化運動として展開された《原爆の図》周辺の活況を紹介するという内容でした。
* * *
占領下の時代、さまざまな圧力を受けながらも全国で巡回展が開催されていった《原爆の図》ですが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効となり、米軍の占領が終結すると、状況は大きく変わっていきます。
丸木夫妻の最初の画集『原爆の図』が青木書店から発行されたのは、1952年4月10日。
幻灯『ピカドン』が制作されたのも1952年4月−6月ですから、ほとんど時期が重なります。

この作品は、1950年8月、敗戦から5年の節目に企画され、すぐに発行禁止処分・原画没収という厳しい処分を受けたとされている絵本『ピカドン』をもとに作られています。
どちらも広島の三滝町に住む老夫婦(位里の両親がモデル)の視点からはじまっています。
しかし、絵本が被爆直後の同時多発的な被害の状況を、時間を行きつ戻りつしながら62点の場面によって表現しているのに対し、幻灯では絵の数を約半分の33点に絞り、順番も大幅に入れ替えて再構成し、物語がひとつの筋を通すような試みを行っています。
たしかに、絵本『ピカドン』は内容的には子どもというより大人向けに描かれたところがあるので、場面数を減らし、複雑な構成をよりシンプルにすることで、幅広い年齢層に観てもらうという幻灯の目的により沿うようになっているとは思います。
ただ、そうした編集の結果、原爆表現の本質的な困難さを象徴する「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません」という荒涼とした焼け野原に焼け焦げた木が一本立っている場面が削られてしまったのは、少々残念なようにも感じられます。

幻灯『ピカドン』の最大の特徴は、絵本では線描だった画面が、彩色されている点です。
当時はアルバイトがフィルムに彩色をすることが多かったようなので、丸木夫妻が直接色指定をしたわけではないと思いますが、非常に明るくて新鮮に感じます。
冒頭部分はもともとユーモラスな描写であったこともあり、1970年代後半から80年代にかけてテレビ放送されたアニメ『まんが日本昔ばなし』を連想させるほどです。
子どもたちも親しみやすかったのではないでしょうか。
丸木夫妻を扱った映像作品は、この後繰り返し数多く制作されることになりますが、幻灯『ピカドン』は、おそらくその最初のものと言えるのではないかと思います。
* * *
立川で「原爆の図展」が開催されたのは、占領終結直後の“終戦記念日”――1952年8月15日という、当時の全国巡回展の最盛期にあたります。
会場には、原爆の図五部作と東京都立大の学生有志の制作した資料が展示されました。
展覧会には3日間に9,907名(子どもを加えると1万2000人以上)が入場し、感想文集も発行されていて、現在は西東京市のひばりヶ丘図書館に所蔵されています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1557.html
展覧会の責任者は、当時、東京平和会議の会員だった岸清次。
彼は後に『小さなロウソクの灯のように』(1984年、けやき出版)という著書を書いています。
そこには、「原爆の図展」と幻灯制作との興味深い関わりが記されています。
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昭和二十七年八月十五日から三日間、立川の南口公会堂で赤松俊子、丸木位里両先生の原爆美術展を開きました。主催は東京平和会議でしたが、私が会員だったので皆さんに呼びかけて協力していただきました。暑い盛りでしたが、私も若かったので、自転車で立川市長はじめ昭和、拝島、村山、大和、国立、国分寺、小金井、田無、日野、八王子の十一市町村を訪問し、それぞれの市長さん、町長さんの賛同をいただきました。ポスターは現在有名な画家となっていられる国分寺の佐藤多持画伯が原画を描き、木版の版木を作って印刷して下さいました。準備会の時は集まりも悪く、一橋大の教授の息子さんの野村さんと二人だけの時もありましたが、開催後は大勢の人々が熱心に協力して下さいました。現在、東京土建多摩西部支部長の森田さんもその一人です。
タライの中に氷柱を一本立て、扇風機も二台使いましたが、一台は大島さんから借り、一台は私のものを使いました。当時はまだ扇風機はあまりなかったのです。三日間に二千人以上の参加者がありました。木造二階造りの建物でしたので、二階が落ちなければよいがと心配しました。入場料はいくらでしたか忘れましたが、二万円以上の利益が残りましたので、入場者の感想文集を発行しました。表紙は赤松俊子さんに描いていただき、立派なパンフレットが出来ました。実はこのパンフで少し平和運動の資金稼ぎをしようと考えたのですが、あまり売れませんでした。しかし、このパンフは平和大会などを通じ、各国の代表者達に贈ったりしましたので広く各地の平和活動家の資料として役立っております。
感想文と共にスライド「基地立川」も日本幻灯社の協力で作成しました。文学青年の方がたの協力もあり、現在の立川図書館の小沢長治先生もその一人でした。
この幻灯は、コンクールに入選しました。自主製作のはしりのようでした。これも感想文と共に全国の平和運動家に活用され、中国やオーストリアなどに紹介されております。
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幻灯『基地立川』の製作として記されている「立川平和懇談会」は、この展覧会がきっかけで結成された団体です。
「原爆の図展」の収益によって時代に先駆けて幻灯制作が行われたこと、幻灯にはコンクールがあり、海外に紹介されたりする機会があったこともわかります。
また、このとき、今井正・青山通春監督による記録映画『原爆の図』の撮影カメラが会場に入っていたのも特筆すべきことでした。
1952年8月頃から撮影され、翌53年に公開された映画には、後に美術批評家となるヨシダ・ヨシエさんが絵の前で身振りをまじえて説明をしている姿が記録されているのです。
(字幕などが出るわけではないので、とても注意深く見なければわかりませんが)
1953年は、1月に丸木夫妻が世界平和評議会から国際平和賞を受賞した年です。
そして、俊は6月に原爆の図三部作を携えてヨーロッパの世界婦人大会に参加しています。
絵本『ピカドン』がフランスの雑誌に掲載され、映画『原爆の図』や新藤兼人監督の『原爆の子』がパリやブリュッセル、アントワープでも公開されるなど、原爆に関する表現が海外に注目されはじめる年でもありました。
その年の終わり、10月−12月に制作されたのが幻灯『原爆の図』。

構成を担った本郷新は「わだつみのこえ」などの作品で知られる彫刻家で、丸木夫妻とともに日本美術会に参加し、「原爆の図三部作完成記念会」では司会を務めていました。
解説も内田巌も日本美術会の初代書記長で、画集『原爆の図』に「原爆の図の芸術的価値について」という批評文を寄せています。
映画を踏まえた《原爆の図》の見せ方(1:8という極端に横に長い画面は、幻灯の横スクロール式フィルムとの相性が良いと感じました)や俊の作品解説、峠三吉の詩の引用など、幻灯『原爆の図』は、この時代を象徴するさまざまな要素が含まれています。
これまで、丸木夫妻の回想や資料にも、まったく存在が記録されていなかった幻灯作品。
それは逆に言えば、幻灯が映画や出版物とは異なり、あまりにも身近に根づいていた表現手段だったことを証明しているのかも知れません。
しかし、だからこそ幻灯は、自分たちで「見せる」「見る」「つくる」ことを重視した1950年代のサークル的な運動を知る上で、非常に重要な意味を持っているように思えるのです。
今後の鷲谷さん、紙屋さんたちの幻灯研究の成果に、大いに期待したいところです。

ちなみに、こちらは目黒区美術館のM学芸員が撮影して下さった幻灯の投影風景。
上映中の作品は『原爆の図』です。

幻灯機を見る機会もなかなかありませんが、丸みを帯びたフォルムがかわいらしいです。
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2012/1/19
今井正・青山通春監督と宮島義勇監督の映画『原爆の図』 作品・資料
昨年暮れに、銀座シネパトスのS支配人から、「生誕百年 今井正監督特集」記念イベントのために、今井正・青山通春監督の映画『原爆の図』(1953年/白黒/17分)の上映をしたいというお話があり、美術館内の整理をしたところ、その作品の16mmフィルムとともに、宮島義勇監督の映画『原爆の図』(1967年/白黒/27分)の16mmフィルムも見つかりました。
今井・青山版はVHSやDVDにしているので何度も観ているのですが、宮島版は未見だったこともあり(どちらもフィルム上映は未見)、午後4時から三軒茶屋のスペースKENにお願いして、16mmフィルム映写機で試写をして頂きました。
銀座シネパトスのS支配人、番組編成担当のSさん、目黒区美術館のM学芸員、I学芸員、東松山CATVのIさんら数人が集まっての、ささやかな観賞会です。
また、目黒区美術館で開催予定だった「原爆を視る」展に資料協力をされていた目黒区在住の小林誼行さんも来場され、宮島監督が撮影した頃に発行された『映画原爆の図 製作ニュース』という貴重な資料を見せて頂きました。

資料には、映画に関する重要な基本情報が掲載されていたので、以下に書き起こします。
==========
映画「原爆の図」製作ニュース 1967.8.1 No.2
映画原爆の図制作集団製作委員会事務局
注目の反戦美術映画 映画原爆の図ついに完成!
「今からでもおそくはない・・・・」という峠三吉の詩にはじまる反戦美術映画「原爆の図」は七月二十八日の改装なつた広島市の原爆ドームの撮影でクランクアップし、全国の平和を愛する多くの人々の力と、宮島義勇氏を先頭とする製作集団の全力をあげての努力でついに完成した。
今の時点でこの映画は世界の核兵器保有の禁止・核実験禁止の呼びかけを強化する目的であることは当然だが、さらにますますエスカレートされようとしているベトナムにつながるものである。脚本・監督・撮影を一人で担当した宮島氏は「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です。ベトナム問題にまでつながる原爆映画にしたい」と語つている(サンデー毎日八月十三日号)がまさしく「原爆の図」製作の意図はそこにあつたのである。レネの作品「ゲルニカ」は一九三六年のスペイン内戦当時のナチス・ドイツの惨虐行為を描いたピカソの画を題材として第二次世界大戦におけるナチスの非人道的な行為に抗議をぶつつけたものだが宮島作品の「原爆の図」もまたヒロシマを題材としながらベトナムにつながる
一九四五年八月六日――この瞬間から戦争も平和も歴史も人間もかわつた!
世界の三大反戦絵画といわれる、丸木位里・丸木俊夫妻の不朽の名作「原爆の図」(全十一部)をこの映画はこくめいに、そして怒りをこめてうつしだす。峠三吉の詩(詩朗読山本圭)、岡田和夫の音楽が一体となつて観るものの胸に 平和を!原水爆禁止を! と呼びかけきざみつける。
「原爆の図」は八月六日東京の朝日講堂で朝日新聞社主催による最初の公開が決定し、当日は他に山本圭による原爆詩の朗読と丸木俊、武谷三男両氏の講演があるが、八月六日には埼玉県東松山市の原爆の図美術館での試写会も予定されている。さらに埼玉県では、原水禁が中心になつて八月中に各地で原水禁大会の報告集会をかねた全県上映が組まれている。
映画「原爆の図」製作委員会
埼玉県東松山市下唐子「原爆の図」丸木美術館内
(順不同)
安井郁/末川博/高津正道/稲村隆一/千葉千代世/浜井信三/三宅正太郎/田近憲三/水野仁三郎/岩崎昶
映画「原爆の図」製作集団
代表 宮島義勇
製作委員会事務局
瀬戸要/宮坂博邦/岩淵正嘉/広島博
製作スタッフ
構成 宮島義勇
撮影 宮島義勇/加藤和郎/今井英雄/安藤峰章
照明 鈴賀隆夫
編集 中尾寿美子/小幡正直
音楽 岡田和夫
音響 奥山重之助
製作進行 岩部成仁
提供 丸木位里/丸木俊(財団法人原爆の図丸木美術館)
詩 峠三吉(原爆詩集―青木書店)
詩朗読 山本圭
製作協力 国際記録映画研究所/全国映研/ブープロ/インターナショナルフィルム・コレス・ポンデンス
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
黒白スタンダード 全三巻 三十分
三十五ミリ版 十六ミリ版
十六ミリ販売 四万五千円
三十五ミリ貸出し 七千円
十六ミリ貸出し 五千円
上映その他の詳細は、製作委員会又は製作委員会事務局にご連絡下さい。
==========
M学芸員の教示によれば、『「天皇」と呼ばれた男 撮影監督宮島義勇の昭和回想録』(2002年、宮島義勇著、山口猛編、愛育社)には、「手帳によると六月二六日にスタッフ打ち合わせがあり、六月三〇日から七月七日まで撮影、一一日から一四日まで編集作業をして、一五日にはスタッフ試写を行っている」という記述があり、かなり短期間に制作した作品であることは確かなようです。
実際、宮島版『原爆の図』を観た第一印象は、素材が非常にシンプルだというものでした。
映像は原爆ドームの映像と《原爆の図》第1部から第8部までの絵画で構成され(クローズアップやカメラの移動が多用されていて、映像が第何部のどの部分かということは一切説明されません)、被爆の状況説明はほとんどなく、その代わりに峠三吉の『原爆詩集』の「ちちをかえせ ははをかえせ」ではじまる「序」と「希い――「原爆の図」によせて――」の朗読、そして「ちちをかえせ」の合唱が最後に印象的に挿入される、という内容。
『映画「原爆の図」製作ニュース』に、「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です」と表明されている通り、説明的描写を極力排し、《原爆の図》を解体して宮島監督の視点から再構成したような、実験的/前衛的な作品でした。
その後に上映した今井・青山版『原爆の図』が、米軍占領期の終了(つまり原爆表現の規制からの解放)直後に撮影されたという時代背景の違いもあって、《原爆の図》周辺の情報(たとえば山端庸介、松重美人らの被爆写真や、《原爆の図》の制作風景、巡回展の観客の様子など)を丹念に取材し、一般の人にわかりやすく見せる記録映画になっているのと比較すると、非常に対照的で興味深く思いました。
* * *
宮島版『原爆の図』の今後の上映予定はありませんが、今井・青山版『原爆の図』は、2月12日(日)に銀座シネパトスの「生誕百年今井正監督特集記念イベント」で今井監督の代表作『純愛物語』とともに特別上映されます。

■『生誕百年 今井正監督特集』 記念イベント
日時:2月12日(日) 14:15〜予定
《特別上映&トークショー》
《特別上映》
「純愛物語」(1957年/東映)
「原爆の図」(1953年/丸木美術館所蔵)
《スペシャルゲスト》
俳優・江原真二郎
女優・中原ひとみ
*聞き手:樋口尚文(映画批評家)
《2月12日上映スケジュール》
14:15〜15:00トークショー
15:10〜15:30「原爆の図」
15:40〜17:55「純愛物語」
★注意事項★
※「純愛物語」「原爆の図」は16mm上映です。
※ゲスト・上映スケジュールはやむなく変更する場合がございます。
※映画「純愛物語」「原爆の図」は無料上映。トークショーご来場のお客様のみ鑑賞できる資料上映です。
※当日上映の「喜劇にっぽんのお婆ぁちゃん」「米」もご覧いただけます。
■1月14日より劇場窓口にて自由席前売券販売開始予定
【料金】一般¥1300(トークイベント当日¥1500のところ)
■上映劇場予定:銀座シネパトス1(177席)
* * *
また、1月21日(土)には、午後1時から早稲田大学早稲田キャンパス11号館603教室にて、「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」が開催され、幻灯版『原爆の図』(1953年/本郷新構成/内田巌解説/キヌタ・ヨコシネ提供/東京スタジオ配給)などの上映の後、岡村の研究報告のなかで、ほぼ同時期に撮影された今井・青山版の映画『原爆の図』と幻灯版『原爆の図』の比較を行います。
興味のある方はぜひ、会場にお運びください。
http://kyodo.enpaku.waseda.ac.jp/activity/20120121.html
上映と研究報告会「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」
◆日時
2012年1月21日(土) 13:00〜18:00
◆会場
早稲田キャンパス11号館603教室
※入場無料・予約不要
※定員80名・先着順
◆概要
幻灯――光源とレンズを使った静止画像の拡大映写装置――は、映画に先行する近代的な映像メディアとして、明治期日本に広く普及しましたが、映画時代の本格的な到来と共に、長い衰退期を迎えます。しかし、幻灯は戦時期から占領期にかけて、教育・宣伝メディアとして復興をとげ、占領後期から1950年代後半までの約10年間に、明治期に次ぐ第二の全盛期を迎えます。
この時期、幻灯は学校や官庁等で教材として利用されたほか、労働争議、反基地闘争、原水禁運動、あるいはうたごえ運動、生活記録運動といった、戦後の主要な社会運動にとっても重要なメディアとなり、運動の当事者による自主製作・自主上映が盛んに行われました。今回は、神戸映画資料館所蔵の幻灯資料のうち、「基地」と「原爆」をテーマとする4本のフィルムを上映し、併せてさまざまな視点とアプローチによる研究発表を行うことで、戦後社会運動のメディアとしての幻灯の知られざる―面を明らかにすることを試みます。
◆タイムテーブル
13:00 研究発表「《映画以後》のメディアとしての幻灯」
鷲谷花(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
13:30 幻灯上映『基地立川』
14:00 幻灯上映『基地横須賀』
14:40 休憩
14:55 研究発表「基地をめぐるジェンダー表象:幻灯と映画を中心に」
紙屋牧子(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
15:25 幻灯上映『原爆の図』
15:55 幻灯上映『ピカドン 広島原爆物語』
16:15 休憩
16:30 研究発表「幻灯版『原爆の図』『ピカドン』と50年代《原爆の図》のメディア表現」
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
17:00 研究発表「ルポルタージュの器としての紙/布/フィルム」
鳥羽耕史(早稲田大学文学学術院准教授)
17:30 全体討議・質疑応答
18:00 終了予定
◆主催
早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点 平成23年度公募研究「戦後映像文化史におけるオルタナティヴ的実践についての実証的研究――幻灯/スライドメディアの再評価及び映画・演劇界との連携の実態の検証を中心に――」(代表・鷲谷花)
◆協力
神戸映画資料館
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今井・青山版はVHSやDVDにしているので何度も観ているのですが、宮島版は未見だったこともあり(どちらもフィルム上映は未見)、午後4時から三軒茶屋のスペースKENにお願いして、16mmフィルム映写機で試写をして頂きました。
銀座シネパトスのS支配人、番組編成担当のSさん、目黒区美術館のM学芸員、I学芸員、東松山CATVのIさんら数人が集まっての、ささやかな観賞会です。
また、目黒区美術館で開催予定だった「原爆を視る」展に資料協力をされていた目黒区在住の小林誼行さんも来場され、宮島監督が撮影した頃に発行された『映画原爆の図 製作ニュース』という貴重な資料を見せて頂きました。

資料には、映画に関する重要な基本情報が掲載されていたので、以下に書き起こします。
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映画「原爆の図」製作ニュース 1967.8.1 No.2
映画原爆の図制作集団製作委員会事務局
注目の反戦美術映画 映画原爆の図ついに完成!
「今からでもおそくはない・・・・」という峠三吉の詩にはじまる反戦美術映画「原爆の図」は七月二十八日の改装なつた広島市の原爆ドームの撮影でクランクアップし、全国の平和を愛する多くの人々の力と、宮島義勇氏を先頭とする製作集団の全力をあげての努力でついに完成した。
今の時点でこの映画は世界の核兵器保有の禁止・核実験禁止の呼びかけを強化する目的であることは当然だが、さらにますますエスカレートされようとしているベトナムにつながるものである。脚本・監督・撮影を一人で担当した宮島氏は「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です。ベトナム問題にまでつながる原爆映画にしたい」と語つている(サンデー毎日八月十三日号)がまさしく「原爆の図」製作の意図はそこにあつたのである。レネの作品「ゲルニカ」は一九三六年のスペイン内戦当時のナチス・ドイツの惨虐行為を描いたピカソの画を題材として第二次世界大戦におけるナチスの非人道的な行為に抗議をぶつつけたものだが宮島作品の「原爆の図」もまたヒロシマを題材としながらベトナムにつながる
一九四五年八月六日――この瞬間から戦争も平和も歴史も人間もかわつた!
世界の三大反戦絵画といわれる、丸木位里・丸木俊夫妻の不朽の名作「原爆の図」(全十一部)をこの映画はこくめいに、そして怒りをこめてうつしだす。峠三吉の詩(詩朗読山本圭)、岡田和夫の音楽が一体となつて観るものの胸に 平和を!原水爆禁止を! と呼びかけきざみつける。
「原爆の図」は八月六日東京の朝日講堂で朝日新聞社主催による最初の公開が決定し、当日は他に山本圭による原爆詩の朗読と丸木俊、武谷三男両氏の講演があるが、八月六日には埼玉県東松山市の原爆の図美術館での試写会も予定されている。さらに埼玉県では、原水禁が中心になつて八月中に各地で原水禁大会の報告集会をかねた全県上映が組まれている。
映画「原爆の図」製作委員会
埼玉県東松山市下唐子「原爆の図」丸木美術館内
(順不同)
安井郁/末川博/高津正道/稲村隆一/千葉千代世/浜井信三/三宅正太郎/田近憲三/水野仁三郎/岩崎昶
映画「原爆の図」製作集団
代表 宮島義勇
製作委員会事務局
瀬戸要/宮坂博邦/岩淵正嘉/広島博
製作スタッフ
構成 宮島義勇
撮影 宮島義勇/加藤和郎/今井英雄/安藤峰章
照明 鈴賀隆夫
編集 中尾寿美子/小幡正直
音楽 岡田和夫
音響 奥山重之助
製作進行 岩部成仁
提供 丸木位里/丸木俊(財団法人原爆の図丸木美術館)
詩 峠三吉(原爆詩集―青木書店)
詩朗読 山本圭
製作協力 国際記録映画研究所/全国映研/ブープロ/インターナショナルフィルム・コレス・ポンデンス
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
黒白スタンダード 全三巻 三十分
三十五ミリ版 十六ミリ版
十六ミリ販売 四万五千円
三十五ミリ貸出し 七千円
十六ミリ貸出し 五千円
上映その他の詳細は、製作委員会又は製作委員会事務局にご連絡下さい。
==========
M学芸員の教示によれば、『「天皇」と呼ばれた男 撮影監督宮島義勇の昭和回想録』(2002年、宮島義勇著、山口猛編、愛育社)には、「手帳によると六月二六日にスタッフ打ち合わせがあり、六月三〇日から七月七日まで撮影、一一日から一四日まで編集作業をして、一五日にはスタッフ試写を行っている」という記述があり、かなり短期間に制作した作品であることは確かなようです。
実際、宮島版『原爆の図』を観た第一印象は、素材が非常にシンプルだというものでした。
映像は原爆ドームの映像と《原爆の図》第1部から第8部までの絵画で構成され(クローズアップやカメラの移動が多用されていて、映像が第何部のどの部分かということは一切説明されません)、被爆の状況説明はほとんどなく、その代わりに峠三吉の『原爆詩集』の「ちちをかえせ ははをかえせ」ではじまる「序」と「希い――「原爆の図」によせて――」の朗読、そして「ちちをかえせ」の合唱が最後に印象的に挿入される、という内容。
『映画「原爆の図」製作ニュース』に、「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です」と表明されている通り、説明的描写を極力排し、《原爆の図》を解体して宮島監督の視点から再構成したような、実験的/前衛的な作品でした。
その後に上映した今井・青山版『原爆の図』が、米軍占領期の終了(つまり原爆表現の規制からの解放)直後に撮影されたという時代背景の違いもあって、《原爆の図》周辺の情報(たとえば山端庸介、松重美人らの被爆写真や、《原爆の図》の制作風景、巡回展の観客の様子など)を丹念に取材し、一般の人にわかりやすく見せる記録映画になっているのと比較すると、非常に対照的で興味深く思いました。
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宮島版『原爆の図』の今後の上映予定はありませんが、今井・青山版『原爆の図』は、2月12日(日)に銀座シネパトスの「生誕百年今井正監督特集記念イベント」で今井監督の代表作『純愛物語』とともに特別上映されます。

■『生誕百年 今井正監督特集』 記念イベント
日時:2月12日(日) 14:15〜予定
《特別上映&トークショー》
《特別上映》
「純愛物語」(1957年/東映)
「原爆の図」(1953年/丸木美術館所蔵)
《スペシャルゲスト》
俳優・江原真二郎
女優・中原ひとみ
*聞き手:樋口尚文(映画批評家)
《2月12日上映スケジュール》
14:15〜15:00トークショー
15:10〜15:30「原爆の図」
15:40〜17:55「純愛物語」
★注意事項★
※「純愛物語」「原爆の図」は16mm上映です。
※ゲスト・上映スケジュールはやむなく変更する場合がございます。
※映画「純愛物語」「原爆の図」は無料上映。トークショーご来場のお客様のみ鑑賞できる資料上映です。
※当日上映の「喜劇にっぽんのお婆ぁちゃん」「米」もご覧いただけます。
■1月14日より劇場窓口にて自由席前売券販売開始予定
【料金】一般¥1300(トークイベント当日¥1500のところ)
■上映劇場予定:銀座シネパトス1(177席)
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また、1月21日(土)には、午後1時から早稲田大学早稲田キャンパス11号館603教室にて、「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」が開催され、幻灯版『原爆の図』(1953年/本郷新構成/内田巌解説/キヌタ・ヨコシネ提供/東京スタジオ配給)などの上映の後、岡村の研究報告のなかで、ほぼ同時期に撮影された今井・青山版の映画『原爆の図』と幻灯版『原爆の図』の比較を行います。
興味のある方はぜひ、会場にお運びください。
http://kyodo.enpaku.waseda.ac.jp/activity/20120121.html
上映と研究報告会「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」
◆日時
2012年1月21日(土) 13:00〜18:00
◆会場
早稲田キャンパス11号館603教室
※入場無料・予約不要
※定員80名・先着順
◆概要
幻灯――光源とレンズを使った静止画像の拡大映写装置――は、映画に先行する近代的な映像メディアとして、明治期日本に広く普及しましたが、映画時代の本格的な到来と共に、長い衰退期を迎えます。しかし、幻灯は戦時期から占領期にかけて、教育・宣伝メディアとして復興をとげ、占領後期から1950年代後半までの約10年間に、明治期に次ぐ第二の全盛期を迎えます。
この時期、幻灯は学校や官庁等で教材として利用されたほか、労働争議、反基地闘争、原水禁運動、あるいはうたごえ運動、生活記録運動といった、戦後の主要な社会運動にとっても重要なメディアとなり、運動の当事者による自主製作・自主上映が盛んに行われました。今回は、神戸映画資料館所蔵の幻灯資料のうち、「基地」と「原爆」をテーマとする4本のフィルムを上映し、併せてさまざまな視点とアプローチによる研究発表を行うことで、戦後社会運動のメディアとしての幻灯の知られざる―面を明らかにすることを試みます。
◆タイムテーブル
13:00 研究発表「《映画以後》のメディアとしての幻灯」
鷲谷花(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
13:30 幻灯上映『基地立川』
14:00 幻灯上映『基地横須賀』
14:40 休憩
14:55 研究発表「基地をめぐるジェンダー表象:幻灯と映画を中心に」
紙屋牧子(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
15:25 幻灯上映『原爆の図』
15:55 幻灯上映『ピカドン 広島原爆物語』
16:15 休憩
16:30 研究発表「幻灯版『原爆の図』『ピカドン』と50年代《原爆の図》のメディア表現」
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
17:00 研究発表「ルポルタージュの器としての紙/布/フィルム」
鳥羽耕史(早稲田大学文学学術院准教授)
17:30 全体討議・質疑応答
18:00 終了予定
◆主催
早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点 平成23年度公募研究「戦後映像文化史におけるオルタナティヴ的実践についての実証的研究――幻灯/スライドメディアの再評価及び映画・演劇界との連携の実態の検証を中心に――」(代表・鷲谷花)
◆協力
神戸映画資料館
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2012/1/18
NHK FMラジオ「丸木スマ展」紹介 TV・ラジオ放送
午後6時から30分ほど、NHKさいたま局のスタジオで、埼玉県内向けのFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に生出演させて頂きました。
お相手をして下さったのは、石垣真帆キャスター。小学生のときに同じ東京・国立市の某スイミングスクールに通っていた石垣さんと、ついに初のスタジオ共演が実現です。
番組では、現在、リスナーの皆さんから「今年こそ○○」というお題でお便りを募集しているそうですが、出演直前に石垣さんから、「番組のはじめに、岡村さんの今年こそは何ですか、と質問してもいいですか?」と突然の提案がありました。
話が面白くなりそうなので、もちろん質問して頂くことにしたのですが、何と答えようか、散々迷った挙句、「こ、今年こそ、健康診断をしなければ……」とリアルな回答になってしまいました。
というのも、ちょうど午前中に美術館事務局長のNさんに、「岡村くん、早く健康診断の手続きしなさいよ!」と尻を叩かれたばかりだったのです。
石垣さんには、すかさず「どのくらい健康診断してないんですか?」と突っ込まれ、「あ、いや、10年くらいかな……」と冷や汗。「ええーっ!!」と驚かれてしまいました。
「実は私たちは同い年なんですよね。そろそろちゃんと健康のことを考えないと」という具合に、さりげなく“同級生”トークにつながっていったので、それはそれで良かったのですが。
* * *
そんなスタートではあったのですが、しっかり企画展「丸木スマ 生命のよろこびを見つめて」の紹介もしてきました。
石垣さんも数年前から何度も丸木スマの作品展も見て下さっているので、スマの絵がどれほど大らかで観る人の心をとらえるか、そして、3.11を経験した後、人と自然との調和のとれた世界がどれほどまぶしく私たちの目に映るか、という話を、時間いっぱいまで熱く語ることができました。
番組をお聴き下さった皆さまには、親しみやすくて奥行きの深い、スマさんの絵の魅力が伝わったのではないかと思います。
私の話にひとつひとつ丁寧に頷きながら応えてくれた石垣さんに感謝。
おかげでまったく緊張せず、普段通りに落ち着いて話をすることができました。
そして、1月5日に80歳で亡くなられた林光さんへの追悼の想いを込めて、原民喜作詞・林光作曲『原爆小景』の「水ヲ下サイ」と、宮澤賢治作詞作曲・林光編曲の「星めぐりの歌」という2つの合唱曲(いずれも東京混声合唱団による合唱)もリクエストさせて頂きました。
せっかくの“同級生”対談だったのに、「今年こそ○○」のお題で頭がいっぱいになってしまって、記念写真を撮り損ねてしまったのが、返す返すも残念です。
1
お相手をして下さったのは、石垣真帆キャスター。小学生のときに同じ東京・国立市の某スイミングスクールに通っていた石垣さんと、ついに初のスタジオ共演が実現です。
番組では、現在、リスナーの皆さんから「今年こそ○○」というお題でお便りを募集しているそうですが、出演直前に石垣さんから、「番組のはじめに、岡村さんの今年こそは何ですか、と質問してもいいですか?」と突然の提案がありました。
話が面白くなりそうなので、もちろん質問して頂くことにしたのですが、何と答えようか、散々迷った挙句、「こ、今年こそ、健康診断をしなければ……」とリアルな回答になってしまいました。
というのも、ちょうど午前中に美術館事務局長のNさんに、「岡村くん、早く健康診断の手続きしなさいよ!」と尻を叩かれたばかりだったのです。
石垣さんには、すかさず「どのくらい健康診断してないんですか?」と突っ込まれ、「あ、いや、10年くらいかな……」と冷や汗。「ええーっ!!」と驚かれてしまいました。
「実は私たちは同い年なんですよね。そろそろちゃんと健康のことを考えないと」という具合に、さりげなく“同級生”トークにつながっていったので、それはそれで良かったのですが。
* * *
そんなスタートではあったのですが、しっかり企画展「丸木スマ 生命のよろこびを見つめて」の紹介もしてきました。
石垣さんも数年前から何度も丸木スマの作品展も見て下さっているので、スマの絵がどれほど大らかで観る人の心をとらえるか、そして、3.11を経験した後、人と自然との調和のとれた世界がどれほどまぶしく私たちの目に映るか、という話を、時間いっぱいまで熱く語ることができました。
番組をお聴き下さった皆さまには、親しみやすくて奥行きの深い、スマさんの絵の魅力が伝わったのではないかと思います。
私の話にひとつひとつ丁寧に頷きながら応えてくれた石垣さんに感謝。
おかげでまったく緊張せず、普段通りに落ち着いて話をすることができました。
そして、1月5日に80歳で亡くなられた林光さんへの追悼の想いを込めて、原民喜作詞・林光作曲『原爆小景』の「水ヲ下サイ」と、宮澤賢治作詞作曲・林光編曲の「星めぐりの歌」という2つの合唱曲(いずれも東京混声合唱団による合唱)もリクエストさせて頂きました。
せっかくの“同級生”対談だったのに、「今年こそ○○」のお題で頭がいっぱいになってしまって、記念写真を撮り損ねてしまったのが、返す返すも残念です。
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2012/1/17
【聞き取り調査】1965年頃の松戸での丸木夫妻 調査・旅行・出張
松戸市立博物館の企画展「松戸の美術100年史」でお世話になったT学芸員と共に、丸木夫妻が1964年頃から1966年暮れまで過ごしていた松戸の関係者の聞き取り調査を行いました。
午前9時半にJR武蔵野線の新八柱駅でT学芸員と待ち合わせて、最初に連れて行って頂いたのは「貝の花公園」でした。
この公園は、丸木夫妻が松戸で関わっていた貝の花貝塚遺跡の保存運動によって整備され、園内に遺跡の記念碑があるのです。

記念碑は公園に築かれた小高い丘の上にあり、隣接する貝の花小学校を見下ろせます。
「子どもたちの教育のためにも遺跡を保存して欲しい」と願った丸木夫妻たちの想いが、遺跡の保存こそならなかったものの、部分的に生かされているようです。
記念碑には、次のような説明書きが刻まれています。
==========
海抜二十五メートルの八ヶ崎大地を基部として東に伸びた台地と、佐野を基部として北に延びた台地とが、藤川支流をはさんで東西に相対している。
双方ともにその縁辺には貝塚が形成されていた。東を若芝貝塚と称し、西を貝の花貝塚と呼んだ。
貝の花貝塚は面積六十四アールの馬蹄形貝塚で、縄文式中期の遺構を主体とした全く完璧な貝塚であったが、昭和四十年にこの地は日本住宅公園の宅地開発により、一帯にわたっての整備を図ることとなった。
市はこのため事前に記録保存することとして発掘調査を行ない、三十五戸の竪穴住居跡と四十体の埋葬人骨を初めとする数多くの遺物を収録した。
これを記念して、本貝塚より出土の土偶をモチーフとした記念碑をここに建てる。
昭和四十五年十一月
松戸市教育委員会
松戸市文化財審議会
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記念碑の像は、松戸市在住の彫刻家・本田晶彦氏の制作。
モチーフとなった土偶は、松戸市立博物館の常設コーナーに展示されています。
ちょっとユーモラスな、味わいのある表情の土偶です。

土偶の下の「貝の花貝塚跡」という筆跡は、ドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者で当時松戸市長だった松本清氏によるものです。
* * *
貝の花公園を後にして次に向かったのは、俊さんの母校・旭川高等女学校の後輩で、偶然松戸に住んでいたことから丸木家に家事の手伝いに通っていたというIさんのお宅でした。
Iさんは88歳という高齢にも関わらず、当時をはっきり記憶されている素敵な御婦人でした。
Iさんが旭川高等女学校1年のときの担任は美術教師の戸坂太郎氏(唯物論研究会の設立者として知られる戸坂潤の甥)。彼はかつて俊さんの担任も務め、彼女の絵画の才能を高く評価して東京の美術学校への進学に尽力した、いわば恩人でもあったのです。

写真は旭川高等女学校時代の俊さん(右)と戸坂先生(中央)。
Iさんの回想によれば、あるとき、戸坂先生を訪ねてきた若い卒業生が美術の授業で皆に話をしてくれることになったそうです。中肉中背でいつもニコニコした女性が伸びやかに外国の体験談を語ってくれた、その人こそ赤松俊子、つまり後の丸木俊でした。
当時の厳しい軍国教育の時代に、「菊を栽培するときには、立派にまっすぐ伸びているものだけではなくて、小さくてどこがいいのかわからない、伸びそこなったようなものも大切に育てなさい」と語りかける俊さんの印象は、ひときわ異質で印象的だったそうです。
ほのぼのとしていて、とても大らかで明るくて、今までこんな人には会ったことがない、とIさんはすっかり心を奪われてしまったとか。
やがて結婚して松戸市の八ヶ崎で暮らしていたIさんは、バスの中で偶然、俊さんに再会しました。旭川高女の後輩だと話しかけると、俊さんは練馬の家を移築して松戸に引っ越してきたのだというのです。そんな縁がきっかけで、Iさんは一日おきに丸木夫妻の家に手伝いに行き、身の回りの掃除などをするようになりました。
丸木夫妻は《原爆の図》の美術館を建設するために松戸に来たのですが、家の裏の松林の地主がどうしても土地を売ってくれないので、仕方なくあきらめて、すでに購入していた埼玉県東松山市の土地に美術館を建てるために、わずか2年ほどで再び転居することになったそうです。
丸木夫妻が東松山に転居してからも、Iさんは何度か子どもたちを連れて遊びに行ったようです。ときには小学生の息子さんが「ちょっと見てて」と頼まれて、美術館の受付で一人で留守番していたこともあったとか。
松戸で丸木夫妻と懇意にしていた近所の魚屋さんが、二人に食べてもらうために魚を大量に持って東松山に遊びに行ったこともあったそうですが、結局、まわりの若者たちが「待ってました」と食べてしまって丸木夫妻の口には入らないので、「もう持って行くのはやめた」と怒ってしまったという話も伺いました。
松戸時代の記憶で印象深いのは、位里さんが絵本『ねずみじょうど』(福音館書店、1967年刊)の原画制作に悪戦苦闘していたことだそうです。
位里さんはアトリエに畳一枚ほどの大きな和紙を広げ、それを区切ってそれぞれの場面を描いていたようですが、編集者に散々細かい注文をつけられて、すっかり嫌気がさしていたとか。
そんな体験から絵本の仕事を避けるようになったのでしょう、位里さんの絵本は生涯を通じて、この『ねずみじょうど』と『赤神黒神』の2冊しか描かれていません。

俊さんがIさんの娘さんをモデルに描いた、水彩画の女性像も見せて頂きました。
これはおそらく1965年、丸木夫妻が松戸に住んでいた頃に描かれたもので、Iさんと娘さんにとっても思い出深い作品のはずですが、「これからは少しでも多くの方に見て頂きたい」とのことで、丸木美術館に寄贈して下さることになりました。
俊さんを敬愛するIさんの思いを受け継ぎ、丸木美術館でも大切に展示させて頂くつもりです。
* * *
次に向かったのは、松戸市八ヶ崎の丸木夫妻の旧居でした。
そこには、当時丸木夫妻と懇意にしていて、転居の際に家を買い取った元新聞記者のFさんご夫妻が今も暮らしているのです。
松戸時代の丸木夫妻の家の写真はほとんど現存していませんが、アトリエで親戚たちに囲まれて撮影した楽しそうな雰囲気の写真が一枚だけ残っています。

早速、上の写真の部屋に案内して頂いて、さまざまな思い出話を聞かせて頂きました。
今はすっかり改築してしまって当時の面影はないそうですが、それでも家の間取りはほぼそのまま。一部の水場や玄関の三和土は、丸木夫妻が暮らしていた当時のまま残っています。

土間のコンクリートに、小石や切り株が埋め込まれているのが、いかにも俊さんらしくてほほ笑ましいです。丸木美術館のまわりにもこうした遊び心が潜んだ場所がいくつかありますが、それは松戸時代からすでにはじまっていたようです。

Fさんによれば、丸木夫妻は松戸の家の間取りをとても気に入っていて、東松山に家を建てる際には、松戸と同じように設計したとか。たしかに、二つの家はとてもよく似ています。
Fさんは当時、新聞の教育欄を担当しており、生活綴り方教育で知られる国分一太郎氏から丸木夫妻のことを紹介されたそうです。というのも、俊さんは若い頃千葉の市川で代用教員をしており、国分氏の教えを受けていたのです。
貝の花貝塚遺跡の保存運動でも共に活動したFさんに、丸木夫妻は松戸を離れる際、家の処分について相談したそうです。はじめは買い手を探したFさんでしたが、なかなか見つからず、結局はFさん自身が丸木夫妻の家を気に入っていたため、買い取ることにしたようです。しかし、「お金でなく、気に入った人に家を買って欲しい」という位里さんは、大らかにも土地の権利書をFさんに預けてしまい、「あとは全部あんたにまかせた」と言うだけだったとか。
金銭的な損得や見栄、浮世の贅沢とはまったく無縁に生きる丸木夫妻の姿は、Fさん夫妻にとても魅力的に写っていたようでした。
ちなみに、丸木家のとなりには、位里さんと親しかった日本画家の岩崎巴人氏が住んでいました。松戸に転居してきたのも、先に松戸に来ていた巴人氏から「いい場所がある」と紹介されたのがきっかけだったようです。

Fさん夫婦が丸木夫妻から頂いたというスマさんのカニの絵も見せて頂きました。
スマさんらしい、とてもユーモラスで生き生きとした三匹のカニの絵です。
Fさん夫婦はきれいに軸装して、大切に家に飾って楽しんでいるようでした。
* * *
最後に訪れたのは、松戸市立博物館。
当時、貝の花貝塚遺跡の発掘調査をしていた松戸市立博物館のS館長にお話を伺いました。
俊さんが描いた遺跡発掘のスケッチにも、Sさんは登場しています(右端)。

松戸市貝花塚発掘 1965年10月10日
1964年、国鉄(当時)常磐線の馬橋駅から北東約2kmに、日本住宅公団小金原団地の造成がはじまりました。住宅公団と松戸市教育委員会の依頼を受けた東京教育大学文学部史学科史学方法論教室は調査団を派遣し、翌65年11月まで2次にわたる遺跡発掘調査を行います。
調査員は延べ1,560人、作業員延べ900人、調査費約230万円。
遺跡の規模は東西70m、南北60mの少しゆがんだ円形で、面積は約30u。遺跡の形態は東南の方向に開いた馬蹄形貝塚で、竪穴式住居跡が41件、完形土器約150点、土器片リンゴ箱約200箱、石斧や石剣などの石器類、埋葬人骨40体などが発掘されました。
Sさんは市川の和洋学園で教師をしていましたが、遺跡調査のために常勤職員が必要とのことで、当時松戸の市史編纂をしていた教育大のI先生に誘われて松戸市職員になったとのこと。
俊さんのスケッチに描かれている女性たちは、Sさんの和洋学園時代の教え子だそうです。
貝の花貝塚は、団地造成にともなう周辺整備のため、調査終了後には遺跡を取り壊すことが決まっていましたが、65年夏頃から遺跡保存を求める声が高まり、岩崎巴人や丸木夫妻らが中心になって「松戸市貝の花古代遺跡保存会」を結成。約3,000人の署名を集めて松戸市長や日本住宅公団、文化財保護委員会などに要望や陳情を繰り返しました。
しかし、すでに団地造成計画は進行しており、変更は難しいとのこと。
松戸市教育委員会も「貝の花貝塚は規模も大きくないし、特色のある出土品もないため、学問的価値はない」と返答したそうです。
丸木夫妻たちは「散々発掘した後で学問的価値がないから取り壊すというのは学会のエゴイズムであり、それぞれの遺跡が何ものにも代えがたい、子どもたちへの教育的価値を持っているのではないか」と強く反論し、千葉県出身の参議院議員を通して問題を参議院文教委に持ち込んだといいます。
その間、丸木夫妻たちはたびたび遺跡発掘現場を見学し、S先生も発掘の手を止めて解説をすることもあったそうです。
「芸術家にとって、目の前で古代の生活の様子が掘り起こされていくのは、想像力を刺激されたのではないか。特に俊さんは人骨に興味を示していた」とS館長は回想されていました。
結局、団地造成工事は一部計画が変更され、公園を整備して出土品の土偶をかたどった記念碑を制作するという妥協案が成立します。保存会では、竪穴式住居の再現などを要望していたので、決して本意ではなかったのでしょうが、しかし、現在も遺跡を偲ぶ記念碑が残されているのは、保存会の活動の一定の成果ということができるでしょう。
発掘調査終了後、丸木夫妻たちは遺跡で「縄文祭り」を開催して皆で踊りを踊ったそうです。
率先して踊る俊さんの姿は、S館長の記憶にも鮮明に焼きついている様子でした。
* * *
丸木夫妻にとって、松戸で暮らしたわずかな歳月は、美術館建設計画や遺跡保存運動という、どちらかといえば成果をあげられなかった記憶と結びついていたことでしょう。
そのためか、二人の回想録には、ほとんど松戸時代のことが触れられていません。
しかし、今回の聞き取り調査で感じたのは、丸木夫妻が松戸の人びととたしかなつながりを持ち、豊かな人間関係を築いていたということです。
貝の花貝塚の保存運動も、S館長によれば決して無駄なものではなく、その後松戸市北部で幸田(こうで)貝塚が発掘された際には、今度はきちんと保存しようということになったそうで、現在も遺跡の一部、約5000uが公園となって残されています。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/sanpo/bunkazai-map/si9.html
そして、東松山に転居して丸木美術館を開館した丸木夫妻は、後に美術館の庭に竪穴式住居を復元し、縄文式の野焼きの土器や人形を作るなどの活動を展開することになりました。
松戸で縄文遺跡に触れた体験は、丸木夫妻にとっても、忘れがたいものだったようです。
貴重なお話を聞かせて下さった皆さま、そして今回の調査のためにさまざまな準備をして下さったT学芸員に、心から御礼を申し上げます。
1
午前9時半にJR武蔵野線の新八柱駅でT学芸員と待ち合わせて、最初に連れて行って頂いたのは「貝の花公園」でした。
この公園は、丸木夫妻が松戸で関わっていた貝の花貝塚遺跡の保存運動によって整備され、園内に遺跡の記念碑があるのです。

記念碑は公園に築かれた小高い丘の上にあり、隣接する貝の花小学校を見下ろせます。
「子どもたちの教育のためにも遺跡を保存して欲しい」と願った丸木夫妻たちの想いが、遺跡の保存こそならなかったものの、部分的に生かされているようです。
記念碑には、次のような説明書きが刻まれています。
==========
海抜二十五メートルの八ヶ崎大地を基部として東に伸びた台地と、佐野を基部として北に延びた台地とが、藤川支流をはさんで東西に相対している。
双方ともにその縁辺には貝塚が形成されていた。東を若芝貝塚と称し、西を貝の花貝塚と呼んだ。
貝の花貝塚は面積六十四アールの馬蹄形貝塚で、縄文式中期の遺構を主体とした全く完璧な貝塚であったが、昭和四十年にこの地は日本住宅公園の宅地開発により、一帯にわたっての整備を図ることとなった。
市はこのため事前に記録保存することとして発掘調査を行ない、三十五戸の竪穴住居跡と四十体の埋葬人骨を初めとする数多くの遺物を収録した。
これを記念して、本貝塚より出土の土偶をモチーフとした記念碑をここに建てる。
昭和四十五年十一月
松戸市教育委員会
松戸市文化財審議会
===========

記念碑の像は、松戸市在住の彫刻家・本田晶彦氏の制作。
モチーフとなった土偶は、松戸市立博物館の常設コーナーに展示されています。
ちょっとユーモラスな、味わいのある表情の土偶です。

土偶の下の「貝の花貝塚跡」という筆跡は、ドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者で当時松戸市長だった松本清氏によるものです。
* * *
貝の花公園を後にして次に向かったのは、俊さんの母校・旭川高等女学校の後輩で、偶然松戸に住んでいたことから丸木家に家事の手伝いに通っていたというIさんのお宅でした。
Iさんは88歳という高齢にも関わらず、当時をはっきり記憶されている素敵な御婦人でした。
Iさんが旭川高等女学校1年のときの担任は美術教師の戸坂太郎氏(唯物論研究会の設立者として知られる戸坂潤の甥)。彼はかつて俊さんの担任も務め、彼女の絵画の才能を高く評価して東京の美術学校への進学に尽力した、いわば恩人でもあったのです。

写真は旭川高等女学校時代の俊さん(右)と戸坂先生(中央)。
Iさんの回想によれば、あるとき、戸坂先生を訪ねてきた若い卒業生が美術の授業で皆に話をしてくれることになったそうです。中肉中背でいつもニコニコした女性が伸びやかに外国の体験談を語ってくれた、その人こそ赤松俊子、つまり後の丸木俊でした。
当時の厳しい軍国教育の時代に、「菊を栽培するときには、立派にまっすぐ伸びているものだけではなくて、小さくてどこがいいのかわからない、伸びそこなったようなものも大切に育てなさい」と語りかける俊さんの印象は、ひときわ異質で印象的だったそうです。
ほのぼのとしていて、とても大らかで明るくて、今までこんな人には会ったことがない、とIさんはすっかり心を奪われてしまったとか。
やがて結婚して松戸市の八ヶ崎で暮らしていたIさんは、バスの中で偶然、俊さんに再会しました。旭川高女の後輩だと話しかけると、俊さんは練馬の家を移築して松戸に引っ越してきたのだというのです。そんな縁がきっかけで、Iさんは一日おきに丸木夫妻の家に手伝いに行き、身の回りの掃除などをするようになりました。
丸木夫妻は《原爆の図》の美術館を建設するために松戸に来たのですが、家の裏の松林の地主がどうしても土地を売ってくれないので、仕方なくあきらめて、すでに購入していた埼玉県東松山市の土地に美術館を建てるために、わずか2年ほどで再び転居することになったそうです。
丸木夫妻が東松山に転居してからも、Iさんは何度か子どもたちを連れて遊びに行ったようです。ときには小学生の息子さんが「ちょっと見てて」と頼まれて、美術館の受付で一人で留守番していたこともあったとか。
松戸で丸木夫妻と懇意にしていた近所の魚屋さんが、二人に食べてもらうために魚を大量に持って東松山に遊びに行ったこともあったそうですが、結局、まわりの若者たちが「待ってました」と食べてしまって丸木夫妻の口には入らないので、「もう持って行くのはやめた」と怒ってしまったという話も伺いました。
松戸時代の記憶で印象深いのは、位里さんが絵本『ねずみじょうど』(福音館書店、1967年刊)の原画制作に悪戦苦闘していたことだそうです。
位里さんはアトリエに畳一枚ほどの大きな和紙を広げ、それを区切ってそれぞれの場面を描いていたようですが、編集者に散々細かい注文をつけられて、すっかり嫌気がさしていたとか。
そんな体験から絵本の仕事を避けるようになったのでしょう、位里さんの絵本は生涯を通じて、この『ねずみじょうど』と『赤神黒神』の2冊しか描かれていません。

俊さんがIさんの娘さんをモデルに描いた、水彩画の女性像も見せて頂きました。
これはおそらく1965年、丸木夫妻が松戸に住んでいた頃に描かれたもので、Iさんと娘さんにとっても思い出深い作品のはずですが、「これからは少しでも多くの方に見て頂きたい」とのことで、丸木美術館に寄贈して下さることになりました。
俊さんを敬愛するIさんの思いを受け継ぎ、丸木美術館でも大切に展示させて頂くつもりです。
* * *
次に向かったのは、松戸市八ヶ崎の丸木夫妻の旧居でした。
そこには、当時丸木夫妻と懇意にしていて、転居の際に家を買い取った元新聞記者のFさんご夫妻が今も暮らしているのです。
松戸時代の丸木夫妻の家の写真はほとんど現存していませんが、アトリエで親戚たちに囲まれて撮影した楽しそうな雰囲気の写真が一枚だけ残っています。

早速、上の写真の部屋に案内して頂いて、さまざまな思い出話を聞かせて頂きました。
今はすっかり改築してしまって当時の面影はないそうですが、それでも家の間取りはほぼそのまま。一部の水場や玄関の三和土は、丸木夫妻が暮らしていた当時のまま残っています。

土間のコンクリートに、小石や切り株が埋め込まれているのが、いかにも俊さんらしくてほほ笑ましいです。丸木美術館のまわりにもこうした遊び心が潜んだ場所がいくつかありますが、それは松戸時代からすでにはじまっていたようです。

Fさんによれば、丸木夫妻は松戸の家の間取りをとても気に入っていて、東松山に家を建てる際には、松戸と同じように設計したとか。たしかに、二つの家はとてもよく似ています。
Fさんは当時、新聞の教育欄を担当しており、生活綴り方教育で知られる国分一太郎氏から丸木夫妻のことを紹介されたそうです。というのも、俊さんは若い頃千葉の市川で代用教員をしており、国分氏の教えを受けていたのです。
貝の花貝塚遺跡の保存運動でも共に活動したFさんに、丸木夫妻は松戸を離れる際、家の処分について相談したそうです。はじめは買い手を探したFさんでしたが、なかなか見つからず、結局はFさん自身が丸木夫妻の家を気に入っていたため、買い取ることにしたようです。しかし、「お金でなく、気に入った人に家を買って欲しい」という位里さんは、大らかにも土地の権利書をFさんに預けてしまい、「あとは全部あんたにまかせた」と言うだけだったとか。
金銭的な損得や見栄、浮世の贅沢とはまったく無縁に生きる丸木夫妻の姿は、Fさん夫妻にとても魅力的に写っていたようでした。
ちなみに、丸木家のとなりには、位里さんと親しかった日本画家の岩崎巴人氏が住んでいました。松戸に転居してきたのも、先に松戸に来ていた巴人氏から「いい場所がある」と紹介されたのがきっかけだったようです。

Fさん夫婦が丸木夫妻から頂いたというスマさんのカニの絵も見せて頂きました。
スマさんらしい、とてもユーモラスで生き生きとした三匹のカニの絵です。
Fさん夫婦はきれいに軸装して、大切に家に飾って楽しんでいるようでした。
* * *
最後に訪れたのは、松戸市立博物館。
当時、貝の花貝塚遺跡の発掘調査をしていた松戸市立博物館のS館長にお話を伺いました。
俊さんが描いた遺跡発掘のスケッチにも、Sさんは登場しています(右端)。

松戸市貝花塚発掘 1965年10月10日
1964年、国鉄(当時)常磐線の馬橋駅から北東約2kmに、日本住宅公団小金原団地の造成がはじまりました。住宅公団と松戸市教育委員会の依頼を受けた東京教育大学文学部史学科史学方法論教室は調査団を派遣し、翌65年11月まで2次にわたる遺跡発掘調査を行います。
調査員は延べ1,560人、作業員延べ900人、調査費約230万円。
遺跡の規模は東西70m、南北60mの少しゆがんだ円形で、面積は約30u。遺跡の形態は東南の方向に開いた馬蹄形貝塚で、竪穴式住居跡が41件、完形土器約150点、土器片リンゴ箱約200箱、石斧や石剣などの石器類、埋葬人骨40体などが発掘されました。
Sさんは市川の和洋学園で教師をしていましたが、遺跡調査のために常勤職員が必要とのことで、当時松戸の市史編纂をしていた教育大のI先生に誘われて松戸市職員になったとのこと。
俊さんのスケッチに描かれている女性たちは、Sさんの和洋学園時代の教え子だそうです。
貝の花貝塚は、団地造成にともなう周辺整備のため、調査終了後には遺跡を取り壊すことが決まっていましたが、65年夏頃から遺跡保存を求める声が高まり、岩崎巴人や丸木夫妻らが中心になって「松戸市貝の花古代遺跡保存会」を結成。約3,000人の署名を集めて松戸市長や日本住宅公団、文化財保護委員会などに要望や陳情を繰り返しました。
しかし、すでに団地造成計画は進行しており、変更は難しいとのこと。
松戸市教育委員会も「貝の花貝塚は規模も大きくないし、特色のある出土品もないため、学問的価値はない」と返答したそうです。
丸木夫妻たちは「散々発掘した後で学問的価値がないから取り壊すというのは学会のエゴイズムであり、それぞれの遺跡が何ものにも代えがたい、子どもたちへの教育的価値を持っているのではないか」と強く反論し、千葉県出身の参議院議員を通して問題を参議院文教委に持ち込んだといいます。
その間、丸木夫妻たちはたびたび遺跡発掘現場を見学し、S先生も発掘の手を止めて解説をすることもあったそうです。
「芸術家にとって、目の前で古代の生活の様子が掘り起こされていくのは、想像力を刺激されたのではないか。特に俊さんは人骨に興味を示していた」とS館長は回想されていました。
結局、団地造成工事は一部計画が変更され、公園を整備して出土品の土偶をかたどった記念碑を制作するという妥協案が成立します。保存会では、竪穴式住居の再現などを要望していたので、決して本意ではなかったのでしょうが、しかし、現在も遺跡を偲ぶ記念碑が残されているのは、保存会の活動の一定の成果ということができるでしょう。
発掘調査終了後、丸木夫妻たちは遺跡で「縄文祭り」を開催して皆で踊りを踊ったそうです。
率先して踊る俊さんの姿は、S館長の記憶にも鮮明に焼きついている様子でした。
* * *
丸木夫妻にとって、松戸で暮らしたわずかな歳月は、美術館建設計画や遺跡保存運動という、どちらかといえば成果をあげられなかった記憶と結びついていたことでしょう。
そのためか、二人の回想録には、ほとんど松戸時代のことが触れられていません。
しかし、今回の聞き取り調査で感じたのは、丸木夫妻が松戸の人びととたしかなつながりを持ち、豊かな人間関係を築いていたということです。
貝の花貝塚の保存運動も、S館長によれば決して無駄なものではなく、その後松戸市北部で幸田(こうで)貝塚が発掘された際には、今度はきちんと保存しようということになったそうで、現在も遺跡の一部、約5000uが公園となって残されています。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/sanpo/bunkazai-map/si9.html
そして、東松山に転居して丸木美術館を開館した丸木夫妻は、後に美術館の庭に竪穴式住居を復元し、縄文式の野焼きの土器や人形を作るなどの活動を展開することになりました。
松戸で縄文遺跡に触れた体験は、丸木夫妻にとっても、忘れがたいものだったようです。
貴重なお話を聞かせて下さった皆さま、そして今回の調査のためにさまざまな準備をして下さったT学芸員に、心から御礼を申し上げます。
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2012/1/16
『埼玉新聞』に丸木スマ展紹介記事掲載 掲載雑誌・新聞
2011年1月15日付『埼玉新聞』県西版に、“生命のよろこび見つめて スマさんの作品49点展示”との見出しで現在開催中の企画展「丸木スマ展」の紹介記事が掲載されました。
以下は、記事からの一部抜粋です。
==========
「花」「生き物」「四季の移ろい」のテーマごとに展示され、里山を駆け回り成長したスマさんらしい、天真らんまんな作品が並ぶ。特に死去前年に制作した「簪」は2畳分の屏風絵で、スマさんが見る世界観を描いたような作品は、「おばあちゃんの生涯の曼荼羅(まんだら)絵」と俊さんに言わしめたという。
同館学芸員の岡村幸宣さん(37)は「東日本大震災や原発事故で大きな苦しみを経た今こそ、スマさんが見つめた生命の喜びに触れ、スマさんの絵を多くの人の励みにしてほしい」と話している。
==========
記事には、スマの代表作「簪(かんざし)」が写真入りで紹介されています。
寒いなか、美術館に足を運んで取材して下さったS記者に感謝です。
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以下は、記事からの一部抜粋です。
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「花」「生き物」「四季の移ろい」のテーマごとに展示され、里山を駆け回り成長したスマさんらしい、天真らんまんな作品が並ぶ。特に死去前年に制作した「簪」は2畳分の屏風絵で、スマさんが見る世界観を描いたような作品は、「おばあちゃんの生涯の曼荼羅(まんだら)絵」と俊さんに言わしめたという。
同館学芸員の岡村幸宣さん(37)は「東日本大震災や原発事故で大きな苦しみを経た今こそ、スマさんが見つめた生命の喜びに触れ、スマさんの絵を多くの人の励みにしてほしい」と話している。
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記事には、スマの代表作「簪(かんざし)」が写真入りで紹介されています。
寒いなか、美術館に足を運んで取材して下さったS記者に感謝です。
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2012/1/15
脱原発世界会議・第2日 館外展・関連企画
脱原発世界会議の第2日目。
初日のプログラムが福島原発事故を検証する内容が多かったのに対し、2日目は自然エネルギーへのシフトや核廃絶を中心とする、未来に目を向ける企画が中心です。
まずは、午前10時から4階シアターで開催された〈『第4の革命 エネルギー・デモクラシー』上映&監督トーク〉に参加しました。
この映画は、30年以内に100%再生可能エネルギーへのエネルギーシフトが可能だということを、様々な角度から分析し紹介していく内容で、2010年にドイツで公開されてドキュメンタリとしては異例の13万人を動員し、福島原発事故後の昨年5月にもドイツのTV放送で200万人が視聴、ドイツの脱原発閣議決定に大きな影響を与えたと言われる作品です。
前日のトークイベントなどでたびたび紹介されていたこともあって、120席用意された会場の椅子は早々に満席。立ち見、座り見もいっぱいで、参加者の関心の高さがうかがえました。
約20分間のダイジェスト上映後、ドイツから来日されたカール=A・フェヒナー監督と、朝日新聞の伊藤千尋氏のトークが行われました。
フェヒナー監督は、従来のドキュメンタリ映画が、問題提起だけで何も解決していないという点に不満を感じていて、問題解決のヴィジョンを持っている人や実践している人に着目する作品を作りたいと考えていたそうです。そして、「エコロジーは人類最大のヴィジョン」という思いから、100%再生可能なエネルギーを世界中の人に大きなスクリーンで見てもらいたいと発案したのです。
朝日新聞の伊藤さんも、日本における自然エネルギーの実践例を伝えながら「対策を示すことの重要性」を説いていました。

フェヒナー監督は、「ドイツと日本はきょうだいのように似ている」と話して下さいましたが、こうした新しい変化を積極的に紹介するドイツと、ほとんど報じようとしない日本のメディアの姿勢の違いについて、会場から鋭い質問も飛びました。
フェヒナー監督によれば、「ドイツのメディアは、第二次世界大戦の反省が今も大きい」とのこと。伊藤さんは自身の体験を踏まえて、一度会社としての方針が決まってしまうとなかなか方向転換できない(つまり、戦時中と本質的には変わっていない)日本のメディアの問題点を指摘。この討論はたいへん興味深いものでした。
『第4の革命 エネルギー・デモクラシー』は、オーディトリウム渋谷などで上映中。
今回はダイジェスト版だったので、私もぜひ映画館で観ておきたいと思っています。
* * *
12時15分からは、N事務局長やT理事と合流し、3階ホールで開催されたセッション〈原発も核兵器もない世界へ〉に参加しました。
原子力と核兵器開発が深い関係にあり、核の連鎖を断ち切るために原発輸出の問題を考えなおそうという内容のセッションです。
登壇者は、進行役の豪州緑の党フェリシティ・ヒルさんをはじめ、米国の軍縮教育家キャスリン・サリバンさん、インドのジャーナリストのプラフル・ビドワイさん、バングラディシュの映画監督タンヴィール・モカメルさん、ヨルダンの弁護士ムナ・マハメラーさん、ヨルダン国会議員のジャマール・ガッモーさん、核戦争防止国際医師会議ケニア支部事務局長のポール・サオケさん、日本のジャーナリスト鈴木真奈美さん。

キャスリン・サリバンさんは、昨年秋に丸木美術館を訪れて下さった方です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1758.html
長年国連軍縮局の教育コンサルタントを務めてきた方らしく、ワークショップの手法を用いながら、人間らしい生活を破壊する「核」の脅威をあらためて実感させる発表を行いました。
そして、日本が原発輸出を計画しているヨルダンなど世界各国の核をめぐる状況の報告を受けた後、最後に「核」と「原子力」という日本語の使い分けの問題や、核拡散防止条約(NPT)と日本の歴史的な背景を的確にわかりやすくまとめた鈴木真奈美さんの発表が見事でした。
「原子力輸出は、輸出する側もされる側も、両国の脱原発への道すじをより難しくさせる」という鈴木さんの結論には大きく頷く思いでした。
* * *
午後2時30分からは、1階メインホールで開催されたセッション〈エネルギーシフトへの道筋〉に参加しました。
登壇者は、進行役を務めた環境ジャーナリストの枝廣淳子さんをはじめ、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さん、おひさま進歩エネルギー株式会社代表取締役の原亮弘さん、ドイツ政府環境諮問委員会のミランダ・シュラーズさん、フランスの原子力・エネルギー専門家のマイケル・シュナイダーさん。

開会イベントでも講演を行った飯田哲也さんの発表は、やはり聞き応えがありました。
ひとつは、今後の脱原発に向かう変化はYesかNoかの二項対立ではなく、多様な意見の違いのなかで合意できる部分を積み重ねながら未来を築いていくべきだという基本理念の話。
そしてもうひとつは、脱原発=自然エネルギーへの転換は、中央集権型から小規模分散型の社会に向かう革命であるという話でした。国や県などの大きな主体任せの事業はたいてい失敗する。そうではなくて、その逆――つまり、地域の小さなところから成功経験を地道に積み重ねていくことが大切、という発想です。
その実践例として、長野県飯田市で全国から基金を募って自然エネルギーの普及を進めているおひさま進歩エネルギーの原亮弘さんによる活動報告は、たいへん興味深く思いました。
まずは自分たちでできることを確実に成功させていく。
結局は、その小さな実践が「持続可能なコミュニティ」を作り、飯田さんの言う「石油と核による戦争から太陽による革命へ」という大きな結果に向かう、一番確かな道なのかも知れません。
* * *
最後に参加した特別セッションは、午後4時45分から3階ホールで開催された〈2030年の市民社会―エネルギー・食・教育の未来を描く―〉。

登壇者は、進行役を務めたピースボートの小野寺愛さん、京都造形芸術大学文化人類学教授の竹村真一さん、エルサルバドルのFoEインターナショナル元代表リカルド・ナヴァロさん、環境ジャーナリストの枝廣淳子さん。
このセッションでは、世界初のマルチメディア地球儀触れる地球を開発した竹村真一さんの発表が非常に刺激的でした。
竹村さんは、現代社会の問題を、文明が発達し過ぎたのではなく、未だ人類が幼稚で未熟であることから起きているのだと位置づけます。
そして、地球にはまだ新たな可能性があり、子どもたちには絶望ではなく、20年、30年後の確かなヴィジョンを伝えることが大人の役割だというのです。
今後の社会は再生可能エネルギーが基幹エネルギーとなり、各家庭での太陽光発電のような「超ローカル」な形態と、地球の自転に合わせてエネルギーをリレーしていくような広域ネットワーク「超グローバル」な形態が並立していくという未来像には、目を開かれる思いがしました。
* * *
午後6時から1階メインホールで行われた〈閉会イベント さぁ、始めよう〉には、東京大学名誉教授の上野千鶴子さんや首都大学東京教授の宮台真司さん、俳優の山本太郎さんらが出演するという最後まで豪華な顔触れでした。

閉会にあたり、会議の成果として「原発のない世界のための横浜宣言」が発表されました。
@福島の被災者の権利
A日本政府と東電の説明責任
B住民の被ばく最小化
C世界的な脱原発の工程表づくり
D日本は停止中の原発を再稼働しないこと
E途上国への原発輸出の禁止
F地方自治体の役割などを強調し、福島を支援する国際ネットワークを進めること
その詳細は、以下のWEBサイトから見ることができます。
http://npfree.jp/download/yokohama_declaration.pdf
また、「東アジア脱原発自然エネルギー311人宣言」が紹介され、韓国と日本からすでに100人ずつの署名者が集まっていることも報告されました。311人宣言は2012年3月11日に正式に発表され、日中韓を中心とする東アジア行動ネットワークになるそうです。
http://npfree.jp/download/statement_311.pdf
延べ1万1,500人が参加したという脱原発世界会議。
気がつけば慌ただしく会場内を駆けまわり続けた2日間でしたが、さまざまな刺激と勇気を蓄えることができたような気がします。
この会議で得たものを、丸木美術館の日々の活動にどう生かしていくか。
そして、私たちの生きる未来にどのように小さな一歩を踏み出していくか。
原爆の図三部作の原寸大複製画を撤去しながら、そして電車に乗って家に帰るまでの道すじのあいだ、熱くなった胸を抑えながら、自分にできることは何かをずっと考え続けていました。
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初日のプログラムが福島原発事故を検証する内容が多かったのに対し、2日目は自然エネルギーへのシフトや核廃絶を中心とする、未来に目を向ける企画が中心です。
まずは、午前10時から4階シアターで開催された〈『第4の革命 エネルギー・デモクラシー』上映&監督トーク〉に参加しました。
この映画は、30年以内に100%再生可能エネルギーへのエネルギーシフトが可能だということを、様々な角度から分析し紹介していく内容で、2010年にドイツで公開されてドキュメンタリとしては異例の13万人を動員し、福島原発事故後の昨年5月にもドイツのTV放送で200万人が視聴、ドイツの脱原発閣議決定に大きな影響を与えたと言われる作品です。
前日のトークイベントなどでたびたび紹介されていたこともあって、120席用意された会場の椅子は早々に満席。立ち見、座り見もいっぱいで、参加者の関心の高さがうかがえました。
約20分間のダイジェスト上映後、ドイツから来日されたカール=A・フェヒナー監督と、朝日新聞の伊藤千尋氏のトークが行われました。
フェヒナー監督は、従来のドキュメンタリ映画が、問題提起だけで何も解決していないという点に不満を感じていて、問題解決のヴィジョンを持っている人や実践している人に着目する作品を作りたいと考えていたそうです。そして、「エコロジーは人類最大のヴィジョン」という思いから、100%再生可能なエネルギーを世界中の人に大きなスクリーンで見てもらいたいと発案したのです。
朝日新聞の伊藤さんも、日本における自然エネルギーの実践例を伝えながら「対策を示すことの重要性」を説いていました。

フェヒナー監督は、「ドイツと日本はきょうだいのように似ている」と話して下さいましたが、こうした新しい変化を積極的に紹介するドイツと、ほとんど報じようとしない日本のメディアの姿勢の違いについて、会場から鋭い質問も飛びました。
フェヒナー監督によれば、「ドイツのメディアは、第二次世界大戦の反省が今も大きい」とのこと。伊藤さんは自身の体験を踏まえて、一度会社としての方針が決まってしまうとなかなか方向転換できない(つまり、戦時中と本質的には変わっていない)日本のメディアの問題点を指摘。この討論はたいへん興味深いものでした。
『第4の革命 エネルギー・デモクラシー』は、オーディトリウム渋谷などで上映中。
今回はダイジェスト版だったので、私もぜひ映画館で観ておきたいと思っています。
* * *
12時15分からは、N事務局長やT理事と合流し、3階ホールで開催されたセッション〈原発も核兵器もない世界へ〉に参加しました。
原子力と核兵器開発が深い関係にあり、核の連鎖を断ち切るために原発輸出の問題を考えなおそうという内容のセッションです。
登壇者は、進行役の豪州緑の党フェリシティ・ヒルさんをはじめ、米国の軍縮教育家キャスリン・サリバンさん、インドのジャーナリストのプラフル・ビドワイさん、バングラディシュの映画監督タンヴィール・モカメルさん、ヨルダンの弁護士ムナ・マハメラーさん、ヨルダン国会議員のジャマール・ガッモーさん、核戦争防止国際医師会議ケニア支部事務局長のポール・サオケさん、日本のジャーナリスト鈴木真奈美さん。

キャスリン・サリバンさんは、昨年秋に丸木美術館を訪れて下さった方です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1758.html
長年国連軍縮局の教育コンサルタントを務めてきた方らしく、ワークショップの手法を用いながら、人間らしい生活を破壊する「核」の脅威をあらためて実感させる発表を行いました。
そして、日本が原発輸出を計画しているヨルダンなど世界各国の核をめぐる状況の報告を受けた後、最後に「核」と「原子力」という日本語の使い分けの問題や、核拡散防止条約(NPT)と日本の歴史的な背景を的確にわかりやすくまとめた鈴木真奈美さんの発表が見事でした。
「原子力輸出は、輸出する側もされる側も、両国の脱原発への道すじをより難しくさせる」という鈴木さんの結論には大きく頷く思いでした。
* * *
午後2時30分からは、1階メインホールで開催されたセッション〈エネルギーシフトへの道筋〉に参加しました。
登壇者は、進行役を務めた環境ジャーナリストの枝廣淳子さんをはじめ、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さん、おひさま進歩エネルギー株式会社代表取締役の原亮弘さん、ドイツ政府環境諮問委員会のミランダ・シュラーズさん、フランスの原子力・エネルギー専門家のマイケル・シュナイダーさん。

開会イベントでも講演を行った飯田哲也さんの発表は、やはり聞き応えがありました。
ひとつは、今後の脱原発に向かう変化はYesかNoかの二項対立ではなく、多様な意見の違いのなかで合意できる部分を積み重ねながら未来を築いていくべきだという基本理念の話。
そしてもうひとつは、脱原発=自然エネルギーへの転換は、中央集権型から小規模分散型の社会に向かう革命であるという話でした。国や県などの大きな主体任せの事業はたいてい失敗する。そうではなくて、その逆――つまり、地域の小さなところから成功経験を地道に積み重ねていくことが大切、という発想です。
その実践例として、長野県飯田市で全国から基金を募って自然エネルギーの普及を進めているおひさま進歩エネルギーの原亮弘さんによる活動報告は、たいへん興味深く思いました。
まずは自分たちでできることを確実に成功させていく。
結局は、その小さな実践が「持続可能なコミュニティ」を作り、飯田さんの言う「石油と核による戦争から太陽による革命へ」という大きな結果に向かう、一番確かな道なのかも知れません。
* * *
最後に参加した特別セッションは、午後4時45分から3階ホールで開催された〈2030年の市民社会―エネルギー・食・教育の未来を描く―〉。

登壇者は、進行役を務めたピースボートの小野寺愛さん、京都造形芸術大学文化人類学教授の竹村真一さん、エルサルバドルのFoEインターナショナル元代表リカルド・ナヴァロさん、環境ジャーナリストの枝廣淳子さん。
このセッションでは、世界初のマルチメディア地球儀触れる地球を開発した竹村真一さんの発表が非常に刺激的でした。
竹村さんは、現代社会の問題を、文明が発達し過ぎたのではなく、未だ人類が幼稚で未熟であることから起きているのだと位置づけます。
そして、地球にはまだ新たな可能性があり、子どもたちには絶望ではなく、20年、30年後の確かなヴィジョンを伝えることが大人の役割だというのです。
今後の社会は再生可能エネルギーが基幹エネルギーとなり、各家庭での太陽光発電のような「超ローカル」な形態と、地球の自転に合わせてエネルギーをリレーしていくような広域ネットワーク「超グローバル」な形態が並立していくという未来像には、目を開かれる思いがしました。
* * *
午後6時から1階メインホールで行われた〈閉会イベント さぁ、始めよう〉には、東京大学名誉教授の上野千鶴子さんや首都大学東京教授の宮台真司さん、俳優の山本太郎さんらが出演するという最後まで豪華な顔触れでした。

閉会にあたり、会議の成果として「原発のない世界のための横浜宣言」が発表されました。
@福島の被災者の権利
A日本政府と東電の説明責任
B住民の被ばく最小化
C世界的な脱原発の工程表づくり
D日本は停止中の原発を再稼働しないこと
E途上国への原発輸出の禁止
F地方自治体の役割などを強調し、福島を支援する国際ネットワークを進めること
その詳細は、以下のWEBサイトから見ることができます。
http://npfree.jp/download/yokohama_declaration.pdf
また、「東アジア脱原発自然エネルギー311人宣言」が紹介され、韓国と日本からすでに100人ずつの署名者が集まっていることも報告されました。311人宣言は2012年3月11日に正式に発表され、日中韓を中心とする東アジア行動ネットワークになるそうです。
http://npfree.jp/download/statement_311.pdf
延べ1万1,500人が参加したという脱原発世界会議。
気がつけば慌ただしく会場内を駆けまわり続けた2日間でしたが、さまざまな刺激と勇気を蓄えることができたような気がします。
この会議で得たものを、丸木美術館の日々の活動にどう生かしていくか。
そして、私たちの生きる未来にどのように小さな一歩を踏み出していくか。
原爆の図三部作の原寸大複製画を撤去しながら、そして電車に乗って家に帰るまでの道すじのあいだ、熱くなった胸を抑えながら、自分にできることは何かをずっと考え続けていました。
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