2016/8/7 NHKラジオ深夜便 「小さな美術館発・平和への願い」

2016/9/27

【ミュンヘン出張C】NSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン  調査・旅行・出張

ミュンヘン出張最終日は、昨年5月にオープンしたばかりのNSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン(NS-Dokumentationszentrum München)へ。

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かつてナチスの党本部が置かれていたブラウン・ハウスがあった場所に建てられた資料館です。
(左隣の建物は元総統官邸=現ミュンヘン音楽大学)。

昨年の米国巡回の際には、ワシントンD.C.のホロコースト博物館やニューヨークのユダヤ博物館を訪れました。それらは迫害された側からの展示でしたが、ミュンヘンはナチスの結党の町。ナチスをいかに生み出したかという重い歴史を見つめるという立場からの展示になります。

5階建ての施設には、ナチス台頭前史から、人種差別と独裁政治の時代を経て、戦後ナチスとどう向き合ってきたのかをたどる内容が、映像を中心に展示されています。

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若い学生と思しきグループがいくつも訪れて、解説を聞いている様子が印象的でした。

個人的には、今回の出張に関連する「ドイツ芸術の首都―モダニズムの焼却」のコーナーを興味深く見ました。「大ドイツ美術展」(1937年7月18日〜10月31日)と「退廃美術展」(1937年7月19日から11月30日)に関する写真と映像の紹介です。

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「大ドイツ美術展」の会場は、昨日まで展示のために通っていたハウス・デア・クンスト(開館時の名称はハウス・デア・ドイチェン・クンスト)。
当時の会場写真を見ると、内装がほとんどそのまま残されていることがわかります。

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映像では、展覧会初日に行われたハウス・デア・クンスト落成記念パレードの様子も紹介されていました。

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会場写真には、先日、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)で見たばかりのアドルフ・ツィーグラーの《四大元素》も見えます。

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一方、「退廃美術展」の会場は、考古学研究所の2階という劣悪な環境。ルートヴィヒ・ギースの彫刻《磔刑図》や、キルヒナー、クレー、シュヴィッターズ、モンドリアン、ノルデら錚々たる画家たちの絵が展示されていて、来場者が押し寄せている光景が記録されています。

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本来、9月末に終了予定だった展覧会は、あまりに観客が多かったため11月末まで延長されたのでした。

ミュンヘン滞在の最後には、カンディンスキーはじめ「青騎士」などのコレクションで知られる市立レーンバッハギャラリーを駆け足で見ましたが、あまりに時間が足りませんでした。

限られた日程ではありましたが、「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」が二つでセットになっていたことを、あらためて実感する今回の出張。
そうした歴史性を踏まえた土地で、「Post War」展がどのような反響を呼ぶか、楽しみに思いつつ、夕方の飛行機で帰国しました。
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2016/9/26

【ミュンヘン出張B】原爆の図展示完了  調査・旅行・出張

午前中からハウス・デア・クンストで展示作業の続きです。
昨日の2mを超える高さでの展示作業に比べれば、今日の展示はまったく問題なし。

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無事に展示が終わってから、作品の状態チェック票へのサインの記入や、絵に観客が近づかないための注意喚起の方法、帰りの梱包についての打ち合わせを行いました。

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天井の高い空間なので、《原爆の図》を二段掛けしてもそれほど窮屈ではありません。
ただ、上の作品は細部が見えないので、絵の力が強い第2部《火》を上にしたのは正解でした。
下の第6部《原子野》は、一見地味ですが細部を作り込んだ作品なので、そのあたりをじっくり見て欲しいところです。

隣の壁はイサム・ノグチの展示スペース。
これから核を題材にした彫刻などが配置されるようです。

ハウス・デア・クンストの展示作業はまだまだ続きますが、私の仕事はこれで終了。
迷路のように壁面を増設した会場を歩きましたが、まだ展示されていない作品がほとんどで、全体像はよくわかりませんでした。

できれば会期中にミュンヘンを再訪して、じっくりと展覧会を見ながら考えたいところです。

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今回の展示では、ミュンヘン在住18年の日本人女性画家に、たいへんお世話になりました。
展示スタッフみんなでコーヒーを飲んだり、昼食をとったりしているときは、なかなか2人で話す機会はなかったのですが、最後の昼食で初めて2人になって、日本語でゆっくり話すことができました。
以下は、そのときの会話の内容の書き起こしです。

   *   *   *   *   *

ミュンヘンから見る今の日本は、他国の人たちと協調していくためには絶対にあり得ない論理を、国内だけで語っているように感じる。近代の歴史認識にしても、原発事故にしても。

ドイツだっていろいろ問題はあるが、70年前の戦争の反省を、まわりの国や民族といっしょに考えてきたという点は、日本と大きく違う。

多チャンネルになったテレビは、毎日、どこかで必ず1本はナチスの番組をやっているくらい、ドキュメンタリが多い。近代史の反省を、メディアが牽引して進めている。

日本は隠蔽しかしないというイメージがある。原爆だって被害の強調ばかりで、そのことで戦争全体の責任を隠蔽している。

ハウス・デア・クンストのような、ナチスの遺産的建物を、今も美術館として活用することには批判がないわけではない。けれども、外壁にはクリスチャン・ボルタンスキの《レジスタンス》という作品が展示されている。
これはナチスに抵抗した地下組織のメンバーの顔写真をもとにしたプロジェクト。
日本でこうした作品が展示されるだろうか?

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芸術において政治性は重要な要素のひとつ。もちろん、ユーモアや皮肉を使って表現を直接的でないものにすることもある。
私は東京の美大に通って、こちらに来るまでは政治的な問題をまったく教わらなかったし関心もなかったけど、今は日本に戻るたびに違和感を覚える……

   *   *   *   *   *

個人的に共感する意見は多く、私も丸木美術館ではそうした現状を何とか変えていこうという想いを持って仕事をしているけれども、一般に広がっているとは言い難いので、これからも頑張ります、と答えました。
これからも、ずっとこの会話を抱えながら、仕事をしていくことになりそうです。

仕事を無事に終えたので、夕方は、オクトーバー・フェストの会場であるテレージエンヴィーゼに行ってみました。
ビアツェルト(ビールテント)の中は、数千人の酔っ払いがビールを飲む凄い光景。

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お酒をあまり飲まない私には、異教の集会に潜入したような、すごい迫力と緊張感でした。
せっかくなので、ビールも注文してみました。人生初のビアガーデンが、まさかミュンヘンになろうとは、まったく予想もしていませんでしたが。
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2016/9/25

【ミュンヘン出張A】原爆の図展示作業その1  調査・旅行・出張

ハウス・デア・クンストにて《原爆の図》展示作業。
屏風画の上下二段掛けは初体験で、しかも昨日会場に来るまでそんな展示プランは聞かされていなかったのですが、何とか1日がかりで上段の展示を終えました。

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多国籍の展示スタッフによる、ドイツ語、英語、のみならず、ときにスペイン語、もちろん日本語も入り混じる議論の時間が長く、たいへん疲れました。
(展示スタッフに日本人の女性画家が一人いて、細かい相談をドイツ語に通訳してくれたのはとても助かりました)

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それだけ慎重に、万一の事故のないように作品を扱ってくれたわけです。
明日の下段の展示はもっと簡単に、短時間で終わることでしょう。

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思い起こすのは2011年の目黒区美術館の幻の「原爆を視る」展。
もし、あのとき実現していたら、前代未聞の《原爆の図》4段掛け計画があったのですが、果たして本当に展示できていたかどうか・・・。
地上8mの高所で4曲の屏風をフラットの状態にして壁に固定するのは、至難の技だったかもしれません。

日本の美術館では多くの場合、展示作業まで一括で輸送業者が行いますが、昨年の米国展も今回のミュンヘンも、若いアーティストなどのパートタイムのスタッフが、美術館のコーディネートのもとに集まって展示を行っています。
美術館に愛着を持つスタッフが、力を結集して展示作業を行うあたりは、丸木美術館に似ていますね。日本では丸木美術館が展示替えの日に当たっていたので、少しだけ懐かしく思い出しました。

午前中、ちょうど、スタッフのみんながコーヒー休憩をしている間、ぼくは携帯電話で日本のNHKのラジオ番組「ちきゅうラジオ」にインタビュー出演していました。
おかげでコーヒーは飲み過ごしてしまいましたが、臨場感はお伝えできたのではないかと思います。

http://www.nhk.or.jp/gr/ondemand/index.html

こちらのサイトで1週間ほどラジオ放送の内容が聞けるようです。
(インタビューは25分頃から。携帯電話のせいか、ちょっと音質が悪いですが)

今日は、イサム・ノグチの彫刻や山端庸介の写真、カレル・アペルの絵《広島の子供》も展示されることが分かってきました。
誰に聞いても出品作品の全体像をなかなか教えてもらえず、全体を把握している人間は果たしているのかと不安もありますが、少しずつ展覧会は開催に向けて前に進んでいるようです。
(ちなみに図録は、開幕後にできる予定だそうです)

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2016/9/24

【ミュンヘン出張@】ハウス・デア・クンストへ  調査・旅行・出張

昨日から、ドイツのミュンヘンに来ています。
10月14日より開幕するハウス・デア・クンスト(芸術の家)の「Post War : Art Between the Pacific and the Atlantic, 1945-1965」に《原爆の図》が2点展示されるため、展示作業に立ち会うのです。

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ハウス・デア・クンストは、1930年代にアドルフ・ヒトラーの強力な後押しで建てられた、古代ギリシャのパルテノン神殿風の柱が正面に並ぶ立派な美術館。
1937年には、ナチス公認芸術を推奨する「大ドイツ芸術展」が、別会場の「退廃芸術展」とともに同時開催されています。

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そんな複雑な過去を持つ美術館で、「戦後美術展」が開催されます。
50ヵ国180人の芸術家による350点の作品を展示する大規模な展覧会。
全体は8つのセクションに分けられていて、最初のセクションが「核の時代」です。

今日、美術館に行って分かったのは、最初の展示室の正面に、《原爆の図》が二段掛けで展示されるということ。第2部《火》と第6部《原子野》の展示だから、朱色の炎と墨の暗闇の対比が鮮やかになるでしょう。
同じ部屋には、海外の芸術家が原爆に触発されて描いた作品がならびます。ヨーゼフ・ボイスが原爆を描いた作品も出品され、原爆のドキュメントフィルムも投影されるそうです。
《原爆の図》はすでに届いていましたが、開梱と展示作業は明日の朝から行う予定になっていました。
玄関ホールには、元永定正の具体美術協会時代のビニールに色水を入れて吊るす作品が、すでに設置されていました。

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キュレーターとスケジュールを確認して、作業員の皆さんと顔合わせの挨拶をしたところで、今日はやることがなくなってしまったので、午後はアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)、ノイエ・ピナコテーク(新絵画館)、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)を見てまわりました。
そんな機会だったので、ピナコテーク・デア・モデルネの「国家社会主義下の芸術家」の展示室は、とりわけ興味深く見ました。
展示されていた画家はアドルフ・ツィーグラー、ゲオルグ・コルベなど。
ヒトラーに称賛された画家たちの作品です。

明日はいよいよ展示作業。日本時間25日午後6時半より、NHKラジオ第1/NHKワールド・ラジオ日本「ちきゅうラジオ」のコーナー「ちきゅうズームアップ」に現地から電話出演して、展覧会の様子をお伝えいたします。
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2016/9/21

『琉球新報』「落ち穂」連載第7回 自分の目  掲載雑誌・新聞

2016年9月21日『琉球新報』連載コラム「落ち穂」第7回。

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四國五郎展の仕事をしながら、2年前の宮良瑛子さんの展覧会を思い起こしました。
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2016/9/19

NHK(中国地方限定)「もうひとつの原爆の図」放映のお知らせ  TV・ラジオ放送

中国地方限定のテレビ番組紹介です。
今のところ、全国放送の予定はありませんが、中国地方の方はぜひご覧ください。

http://www4.nhk.or.jp/P2936/x/2016-09-23/21/40730/8240361/

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2016年9月23日(金)午後7時30分〜8時
NHK総合 フェイス “もうひとつ”の「原爆の図」

1950年に発表された丸木位里・俊夫妻の代表作「原爆の図」。実は、作者自身が描いたもうひとつの作品があることが分かった。なぜ作者は2つを残したのかその謎に迫る。

広島出身の画家・丸木位里と俊夫妻の代表作で、被爆の実相を伝えた「原爆の図」は、実は“もうひとつ”あることが分かった。全15部のうち初期の3部がオリジナルと同じ1950年に作者自身の手によって描かれていたのだ。なぜ「原爆の図」は2つ作られたのか。この謎を読み解き原爆報道が禁じられていたGHQ占領下での制作秘話や、4年間で170万人もの人々を動員した、知られざる「原爆の図」全国巡回展の旅を掘り起こす。


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2016/9/17

平塚市美術館「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展開幕  館外展・関連企画

平塚市美術館の「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展のオープニングに行ってきました。

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今夏の「四國五郎展」はシベリア抑留が大きなテーマになっていますが、展覧会はあと1週間で閉幕。入れ替わるように《原爆の図》は平塚に行き、香月泰男の「シベリア・シリーズ」とともに展示されています。

油彩画でシベリアを表現した香月泰男、日本画で原爆を表現した丸木夫妻、そして写真で広島を表現した川田喜久治。
この三様の作品によって、「平和を願う」気持ちを、開館25周年を迎えた美術館から伝えたいという企画です。

ちなみに平塚では、ちょうど60年前に「原爆の図展」が開かれており、オープニングパーティに出席された落合市長や草薙館長も、挨拶の中でその歴史について触れられていました。

1950年代の全国巡回展の記録の掘り起こしが、こうしたかたちで現在の「原爆の図展」の力になっていることも、私にとっては非常に嬉しいことです。
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2016/9/17

『美術手帖』に「四國五郎展」展評  掲載雑誌・新聞

本日発売の『美術手帖』に、美術史家の足立元さんによる「四國五郎展」評が掲載されています。

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 この端倪すべきアーティストについて、公立の美術館はいっさいコレクションに加えず、近年まで無視してきた。たしかに、かつては反戦反核のメッセージがアナクロニズムとして疎まれたかもしれない。しかし、ここ10年ほどで社会とアートの状況は大きく変わった。世界的な格差問題や排他主義の潮流に面して、社会関与型アートが際立つようになり、そのなかで既存の美術史に名を残さなかったものも脚光を浴びつつある。加えて、この回顧展では、四國が丸木位里・俊夫妻との関わりのなかで捉えられたことで、社会運動史の視覚表象――それは戦後美術史を再構築するだろう――の地下茎のごとき隠れた強い広がりが浮かび上がった。

『前衛の遺伝子』の著者である足立さんは、四國五郎と峠三吉の「辻詩」の“前史”として、望月桂と大杉栄の表現活動を取り上げています。
また、ナホトカ時代の文化活動や魯迅の木刻運動に学んだことに着目して、「戦争を挟んで、日本・中国・ソ連の間で三角形の文化往来があった」と指摘。
さらに、四國五郎が山路商に抱いていた敬意について「戦後における四國の活動に、山路の弔いという意識もあったならば、それはヒロシマ・シュルレアリスムの復讐・復権でもあったのだろう」と結んでいます。
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2016/9/15

WAITING ROOM 『間(のめ)』展  他館企画など

恵比寿のWAITINGROOMで開催中のdoubles2『間(のめ)』展を見ました。

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居原田遥 x 手塚太加丸、大下裕司 x 結城幸司という二組のキュレーターとアーティストによる企画。屋久島生まれ沖縄在住の手塚太加丸は、故郷の白川山の自然の中で《石を動かして積む》。あるいは会場の空間に《木を切って並べる》―こちらは今冬に丸木美術館で用いた手法を発展させたものです。杉や檜の濃厚な香りが、都会のビルの一室を満たしています。

同じ空間には、アイヌ民族をルーツとする結城幸司の版画が並んでいました。布に刷った大作《オホーツク間》の熊の額の円環状の模様は神話からの引用で「たましい」を表しているそうです。

小さな企画ですが、両者の時間軸のスケールは大きい。
北の大地と南の島という辺境の「間」。
受け継いだ過去と伝え残す未来の「間」。

それぞれの作品はもちろん、その鮮明な対比を試みたキュレーションの妙が光る展示です。
10月9日(日)まで。
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2016/9/14

道場親信さんの訃報  その他

道場親信さんの訃報が届きました。とても辛いニュースです。

http://www.asahi.com/articles/ASJ9G519ZJ9GUCVL00X.html

広島の研究会で、原爆の図全国巡回展について最初に発表をしたとき、親身になって励まして下さったことを忘れません。
昨年4月の丸木美術館の幻灯上映会でも脚本を読み、シンポジウムに参加して下さって、ユーモアたっぷりに1950年代の文化運動について語られていました。
7月の早稲田大学の研究会でお会いしたときにも笑顔を絶やさず、「かならず復活する」とおっしゃっていたので、本当に残念でなりません。
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2016/9/14

ハウス・デア・クンスト「POST WAR」展のため《原爆の図》搬出  館外展・関連企画

いよいよ今日、原爆の図第2部《火》と第6部《原子野》がドイツ・ミュンヘンに旅立ちました。
HAUS DER KUNSTという美術館で開催される、「POSTWAR — ART BETWEEN THE PACIFIC AND ATLANTIC, 1945 — 1965」に出品されるのです。
68か国から、218人のアーティストの350点以上の作品を集め、第2次世界大戦後の20年を振り返るというスケールの大きな展覧会です。

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木箱は昨年のアメリカ展のときのもの。
よくぞ取っておいてくれました、と美術運送業者さんに褒められました。

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展覧会は10月14日からはじまりますが、私は作品設置のために来週末からミュンヘン出張です。
と言っても、設置をしたらすぐに帰国してしまうのですが、9月25日(日)午後6時半からNHKラジオ第1/NHKワールド・ラジオ日本の番組「ちきゅうラジオ」の「ちきゅうズームアップ」のコーナーで、10分ほど現地から展覧会の準備の様子をリポートする予定になっています。
街の賑わいやビールについても話して下さいと無茶ぶりされているので、やや不安ではあります。
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2016/9/13

『朝日新聞』に「四國五郎展」紹介  掲載雑誌・新聞

四国五郎、反戦の絵筆 原画や抑留中の日記、丸木美術館で回顧展
―2016年9月13日『朝日新聞』夕刊文化欄
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12557155.html?rm=150

6月の四國五郎展のオープニング・トークに取材に来て下さった小川雪記者が、展覧会の紹介記事を書いて下さいました。
会期はまだ10日間ありますので、未見の方はぜひ、ご来館ください。
以下は、記事からの一部抜粋。

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 会場には油彩画や挿絵原画、抑留中の豆日記など約80点を展示。貴重な資料でもあるのが、50年代初頭、峠の詩に四国が画をつけて「辻詩(つじし)」と呼んだポスターだ。街頭に貼りだし、占領軍や警察が来るとはがして逃げた。さながらストリートアートで、100枚以上描いたが、今は8枚だけが残る。四隅に残る多数の画びょうの跡が生々しい。

 四国は常々、「自分の絵は壁に飾る絵ではなく、平和のために使ってもらう絵だ」と語ったという。共に画家を目指した弟を原爆で失った怒りと悲しみをばねに、終生、絵を売らずに描き続けた。70年代には地元テレビで被爆体験を絵で残そうと呼びかけ、多くの記録画が集まった。

 一方、平和運動と芸術の間で葛藤もあったようだ。自らの創作を、画に賛や句を合わせる日本の絵画の伝統につなげ、意気込みを記してもいる。同館の岡村幸宣学芸員は「四国は理念一辺倒ではなく、絵と言葉を組み合わせて絵画の可能性を深めた」と話す。


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小川記者、どうもありがとうございました。
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2016/9/8

永田浩三著『ヒロシマを伝える』の事実誤認について  書籍

今夏、刊行された永田浩三さんのご著書『ヒロシマを伝える−詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』は、原爆投下後、占領下の時代に原爆被害を伝えた表現者たちの物語です。
永田さんの多方面にわたるご活躍には以前から敬意を頂いていますし、その問題意識にも共感しているのですが、一方、この書籍に事実誤認が少なくないことは、刊行当初から関係する研究者たちの間で話題になっていました。

私から指摘できることは丸木夫妻関係の記述に限られていますが、中には重要な誤認も含まれていたので、著者の永田さん、WAVE出版担当のSさんと相談の結果、明らかに事実と異なる個所に限って、WAVE出版のサイトに正誤表を公開して頂くことになりました。
念のため、学芸員日誌ブログにも、永田さんのお書きになった正誤表を公開しておきます。

もっぱら丸木夫妻に関する箇所は私が指摘しましたが、広島の地名や人名、施設名などの表記については(お名前は出せませんが)日常的に被爆者の証言に深くかかわっていらっしゃる方からの指摘が多くありました。その他、四國五郎のご遺族や他館施設の方からの指摘も含まれています。

丸木美術館での販売分につきましては、この正誤表を折りこむことにしますが、すでにお求めの方も、正誤表を照らし合わせながらお読みになることをお勧めします。
永田さんの精力的な活動には敬意を表しますが、重要な問題に多く触れているご著書だけに、誤った情報が流布することを危惧します。

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『ヒロシマを伝える』本文中の表現および誤植に関して

この度は弊社出版物をご購入頂きありがとうございます。本文中に適切でないと思われる 表現及び誤植がありましたので、ここにお詫びし訂正させていただきます。

 2016年8月25日
 著者・永田浩三
 株式会社WAVE出版

3頁15行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
31頁13行目 (誤)掘立小屋だった →(正)削除
39頁5行目 (誤)白島町の逓信病院 →(正)東白島町の広島逓信病院
45頁13行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
51頁15行目 (誤)平野川 →(正)京橋川
58頁15行目 (誤)紙屋町 →(正)中区大手町
58頁12行目 (誤)2016年 →(正)2015年
61頁11行目 (誤)広島中学 →(正)中学校(四國によれば、広島中学とある)
64頁3行目、8行目 (誤)広島産業奨励館 →(正)広島県産業奨励館
72頁7行目 (誤)二歳 →(正)11歳
78頁1行目 (誤)中島公園 →(正)中島町
79頁8行目 (誤)広島市 →(正)広島市立
81頁6行目 (誤)広島 → (正)広島県福山
83頁 図版のキャプション(誤)日鋼争議(赤松俊子・画 丸木美術館蔵)→(正)日鋼ストの門(赤松俊子・画 個人蔵)
88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。
94頁12行目 (誤)9月23日 →(正)8月29日
125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町
134頁4行目 (誤)松重重人 →(正)松重美人
136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除
136頁 図版のキャプション (誤)『みんなの詩』→(正)『われらの詩』
137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人
161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)
240頁5行目 (誤)森重明 →(正)森重昭
240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除
242頁 図版のキャプション (誤)米軍捕虜の死 →(正)米兵捕虜の死


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単純な表記の誤りはともかくとして、訂正箇所には解説が必要なところもあるので、以下、主に丸木夫妻の箇所にしぼって、解説を付記します。

88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。

永田さんが言及されているのは、俊が日鋼争議を描いた唯一の油彩画《広島日本製鋼事件によせて》(1949年)を指すと思いますが、以下の図版の通り、裸婦像を中心にした作品で、その左奥に桃色のチマチョゴリを着た女性像が描かれているものの、「白いチマチョゴリの女性を中心に」とは言い難い作品です。

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125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町

飯室村のルビ「いいむろ」は誤り、「いむろ」と読みます。
しかし、そもそも丸木家は1931年に広島市内三滝町に転居しています。1950年当時中学生だったという佐藤光雄氏の年齢から考えて、丸木スマの隣家に住み、防空壕を共有していたという回想は、広島市三滝町でのことと思われます。

136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除

「原爆の図三部作完成記念会」の告知ビラには、確かに山田五十鈴の名があります。
その告知ビラを紹介している刊行物は拙著『《原爆の図》全国巡回』(64頁)のみなので、永田さんはおそらく拙著を参考にして「山田五十鈴がかけつけた」と書かれたのでしょう。
しかし、後日報道された1950年8月26日付『婦人民主新聞』の記事には山田五十鈴のことは一切触れられていません。ビラに名前があっても、当日は来なかった可能性が高いです。少なくとも、私の知る限り、「かけつけた」と言いきる根拠を示す資料は存在しません。

137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人

全国巡回展については不明な点が多く、拙著『《原爆の図》全国巡回』に記している通り、「現在判明しているだけで、少なくとも」という前置きが必要です。それは、永田さんが訂正されている「170万人」だけではなく、その直前の「全国170か所」という数字についても同様です。

161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)

→青木文庫の『原爆詩集』は、昔の文庫本によくある画一的な表紙で、表紙原画を俊が担当したという事実はありません。広島市立中央図書館には、俊の描いた表紙原画が存在しますが、文庫用ではなく、単行本を想定したものでしょう。しかし、『原爆詩集』が文庫として刊行されることになった時点で、表紙画は没になったと思われます。今春、丸木美術館でも「未使用原画」として展示しました。

240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除


もっとも事実誤認を危惧するのは、この「米兵捕虜」の箇所です。
永田さんは、四國五郎の弟・直登の日記についても言及していますが、彼の8月7日の日記の中には、「元の野砲の所で一名の米兵を眞ぱだかにして手足をくくり棒切で通行人にうたしていた」という記述が存在します。
米兵捕虜の虐待についてはさまざまな議論があり、永田さんが言及されている森重昭氏のご著書でも、相生橋の米兵の虐待はなかったのではないかと推論が記されていますが、直登の日記に登場する西練兵場付近での虐待の記録は、おそらくもっともリアルタイムに近い状況で記された、極めて信憑性の高いものです。

そして、1950年10月の五流荘展の際、四國五郎は「4部、5部の資料のために」直登の日記を丸木夫妻に手渡したと自らの日記に回想しています。日記をもとに《原爆の図》を描いたと記すならば、1951年に発表した第4部《虹》でしょう。
1971年の《米兵捕虜の死》を描く際には、原爆資料館主査小堺吉光が同行し、当時陸軍中国憲兵隊司令部特別協力班長だった柳田博、陸軍歩兵第1補充隊第2部隊に勤務し米兵捕虜の世話に当たっていた増本春男から話を聞いたという記事が、1971年2月12日付『中国新聞』に紹介されています。
そうした資料からも、「(直登の)日記をもとに、1971年、丸木夫妻は、『原爆の図』第13部「米兵捕虜の死」を描いた。」というくだりは、明らかな誤りです。

参考までに、《米兵捕虜の死》制作の経緯については、丸木俊の著作『幽霊―原爆の図世界巡礼』(1972年、朝日新聞社)に詳しく記されています。
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2016/9/6

『琉球新報』「落ち穂」連載第6回 オスプレイの音  掲載雑誌・新聞

2016年9月6日『琉球新報』文化欄の連載コラム「落ち穂」第6回。

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8月27日に丸木美術館で一人語りをした大月ひろみさんのことを書きました。
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2016/9/3

対談「四國五郎の画業を貫くもの」  企画展

午後2時から、「四國五郎展」の関連企画として、川口隆行さん(広島大学准教授)と小沢節子さん(近現代史研究者)による対談「四國五郎の画業を貫くもの」を行いました。
ご子息の四國光さんをはじめ、大勢の関係者、研究者、一般の方々が来場して下さいました。
以下に、その抄録を掲載いたします。

   *   *   *

岡村(司会) 今回の「四國五郎展」は、「広島」や「平和」というわかりやすい物語を前面に出すのでなく、あえて客観的に画家の生涯の画業を紹介することを心がけました。
 今日の対談では、シベリア抑留体験から「辻詩」活動を経て、70年代以後の活動にいたる四國の表現について、お二人にお話し頂きたいと思います。

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川口 8月に舞鶴引揚記念館へ行き、収容所が中央アジアから極東まで広大な地域のあらゆる場所にあったことに圧倒されました。
 捕虜と言っても、どこにいて、何年に引き揚げたかによって、さまざまな体験があったのだと気づかされました。

 四國は1944年に徴兵され、翌45年8月に満州で捕虜になりました。
 10月頃にハバロフスク地方第5収容所ホルモリン地区に収容され、強制労働で体調を崩し、46年4月にゴーリン病院へ送られます。47年9月にはナホトカ集結地に送られますが、すぐには帰国せずに、翌48年11月に舞鶴へ引き揚げています。

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 ゴーリン病院を描いた絵があります。90年代に回想して描いたものですが、右下にポスターのようなものが貼ってあります。「狂信者」という言葉とかつての現人神・昭和天皇が描かれています。

 収容所では、いわゆる「民主化運動」が行われていました。旧日本陸軍の抑圧的な上下関係を解体し、自分たちが生きのびるために、下からの民主化を行う必要があったわけです。
 四國は『帰雁』という雑誌を発行し、この小冊子などを通じて、軍隊の人間が自分の感情や経験を表現する喜びを獲得していったと回想しています。

 『愛の勝利』や『板橋事件』、『幽霊大いに怒る』、『闇の花』など、日本で同時代に出ていた話題をもとにした芝居が、収容所の中で上演され、その台本も四國が手がけました。
 久米宏一の後任として『日本新聞』の挿絵も担当しています。久米は戦前から有名なプロレタリア運動の担い手の一人でした。ナホトカでは久米と入れ違いになったものの、デッサンなどの影響を受けながら、表現の探求をしていくのです。

 興味深いのは、抑留時代に経験した雑誌編集、壁新聞、紙芝居などが、四國のその後の表現活動のほとんどをカバーしているということです。
 シベリア体験はもちろん過酷なものでしたが、表現を獲得する「学び」の場でもあり、50年代、あるいは70年代以後の表現につながっていっただろうと思うのです。

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小沢 「学び」にいたるまでには、日本軍兵士としての自己否定が必要であって、上からのソ連軍の働きかけもあったのですが、自分たちがなぜ戦争に引き出されたのか、なぜ苦労しているのかということへのある種の解答が民主化運動の経験の中で与えられたのだろうと思います。
 それはイデオロギー的なものではあったと思いますが、自分が今まで生きてきた大日本帝国という国家の仕組みそのものに問題があるんだ、それを変えていかなければいけないんだという認識があって、そこから表現に結びつくと思うんですね。
 もちろん、そこにはポツダム宣言に違反して、ソ連軍が自分たちを捕虜にしているという認識は出てこないんだけれども。

川口 ソ連讃美というか、教条主義的な危うさもあります。90年代に回想するときに、それを消すこともできたと思うんですが、そのまま描き残している。それも含めてあの時代とは何だったのかと、捉えなおす作業だったと思うんですね。

小沢 人生の最後に客観的に把握するときに、なるべく自分の経験に正直に再現しようとしているところが四國の誠実さですね。シベリア体験は、若い四國にとってやっぱり目からウロコが落ちた、そしてその後の人生の道筋にかかわる大きな意味があったのだろうと思います。

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川口 ナホトカ集結地で、帰国する日本人の世話をするために1年間残ったと言っていますが、嫌々残ったわけではなくて、「海を越えれば日本に帰れる、しかし帰ってしまえば外国へ行くということは二度とできぬと考えた。大陸を西へ行けばパリにたどり着く。帰れば取り返しのつかなくなるような気がして、ここに残ると申し出た」と語っています。
 収容所は日本人だけでなく、ドイツ人やイタリア人やロシア人がいて、さまざまな文化の交流の場所でもあった。今まで触れたことのない出会いや文化、経験、可能性を期待していたのだろうと思います。
 付け加えると、一般的にソ連の締め付けが厳しくなるのは冷戦が激化する48年頃からで、四國は自由を感じられたギリギリのところで帰国したのではないかと思います。

岡村 帰国した四國は、峠三吉らと「辻詩」の活動をしていく。

川口 「辻詩」は、当時の左翼の文化運動の中で、峠や四國が関わった「われらの詩の会」以外でも行われた表現活動です。
 絵と文章でわかりやすいメッセージを伝えて街頭に張り出し、警官が来たら剥がす。画鋲の跡が何個あるかで張り出された数がわかる。主に峠が詩を書き、四國が絵を描くという、二人が中心となった活動でした。
 今回の展示では、プロパガンダと思われた「辻詩」が、実は表現として、たいへん面白いものだったことを示せたと思います。

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 たとえば、「祖国の地上にふみにじられた……」という詩に、靴底の跡を組み合わせている。単純なリアリズム絵画ではなくて、詩の持つ意味をデザイン化していく。

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 「なぜに」という峠の詩の初出は『広島文学サークル』第4号ですが、その詩に「首切り」などの新聞記事や米兵相手の女性「パンパン」をコラージュで組み合わせている。

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 林幸子の詩「黒いひまわり」をもとにした「辻詩」もあります。
 「辻詩」には、いくつかつくり方があって、即興でつくった「辻詩」にしか残っていない詩もあるし、もともとあった詩をそのまま使っているものもあるし、もとあった詩を峠が再構成して作ったものもあります。
 「黒いひまわり」は峠が再構成していますが、黒いひまわりや死者の亡霊のイメージが抜けて、むしろ朝鮮戦争で飛び立つ爆撃機が強調される。

小沢 赤い人体は、峠の『原爆詩集』の表紙につながっている。

川口 人体のリアリズムというよりは、象徴的な描き方をしています。
 四國は後にリアリズム的な描き方を選びとっていくのですが、50年代の表現にはかなり幅があって、「辻詩」などを通して、さまざまな実験をしているんです。

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 多賀孝子の「母と妹」という詩は、『われらの詩』第6号に掲載されていますが、これも峠が再構成している。
 この詩が面白いのは、お母さんと姉が「ムッちゃん」の死を悲しむ詩なのですが、もとの詩を読むと、8月8日の福山大空襲を詠んでいるんです。
 ところが再構成されると、福山の空襲であるということが消えて、観る人は原爆で亡くなった「ムッちゃん」の詩として読む。いいのか悪いのかは別ですが、ある戦争で亡くなった子どもの思い出として受容されていく。福山と原爆の経験がつながったものとして理解されていく契機になるのかもしれない。

小沢 子どもの顔などは俊さんの絵に似ている。

岡村 《原爆の図》にあってもおかしくないですね。

川口 四國は「辻詩」について、言葉を解説するための絵でも、絵を解説する言葉でもなく、絵と言葉が組み合わさることで相乗効果をあげるのが望ましいと理論的に解説しています。
 収容所で学んだ社会主義リアリズムだけではなくて、ロマンチズムとか象徴主義とか、あらゆる芸術の手段を試みていいはずだと、表現の可能性を「辻詩」を通して実践したいと言っている。
 たんなるプロパガンダではなくて、表現の可能性を、朝鮮戦争反対運動のさなかに、一番激しくやっていたのだろうと思います。

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岡村 まさにその「辻詩」の活動をしているときに、広島に「原爆の図展」がやってきて、峠や四國もかかわっていく。そこで四國は俊に「辻詩」を見せて、俊も非常に感心して激励したということが四國の日記に出てくる。
 言葉と絵による表現といえば、《原爆の図》も語りとともに原爆被害を伝えるという点で重なります。

川口 峠のメモを分析すると、「原爆詩画展」の全国巡回を構想していたようです。
 《原爆の図》や「辻詩」など、さまざまな絵と言葉の組み合わせを展示する。実際に展示ルートのメモまでありますが、当時の日本共産党内部の政治対立などの複雑な状況の中で実現しなかった。《原爆の図》全国巡回展の成功を見て、構想したのでしょう。

岡村 それは、あり得たかもしれない未来だったけれども、実際には峠は死去し、四國が残される。そして70年代半ば頃から、再び言葉と絵の表現が四國のまわりで展開されていきます。

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小沢 今回の展覧会は、シベリア抑留から「辻詩」の再評価が中心となっていて、50年代の文化運動を見ることができたのは画期的な意味があったと思います。
 けれども四國の仕事がそれだけであれば儚いものとして消えてしまったでしょう。一般の人びとが、四國の名を記憶しているのは、『おこりじぞう』や『広島百橋』など70年代以後の広島の表現にあるからです。

 その際、四國にとって大きな意味をもったのは、74年から75年にかけてNHK広島が展開した「被爆市民の絵画」のキャンペーンへの関与でした。四國はテレビスタジオから「絵は上手でなくてもいい」、「絵が描けなければ、言葉を書いてもいい」、「絵の材料はカレンダーの裏でも鉛筆でも何でもいい」と呼びかけます。絵画でなくてもいい、記憶の表現だと言うのです。

 そうした呼びかけの内容は、50年代の峠との共作やシベリア抑留時代の四國自身の体験から来ているのでしょう。
 四國は、被爆者から体験談を聞き絵にすることを構想しながら、被爆していない自分に後ろめたさを感じて断念したこともあったようです。
 そういうかつての記憶が70年代の被爆市民の絵にかかわる中で蘇ってくるんですね。

 そして、実際に集まった「死者が、生き残った被爆者に乗り移って絵筆をとらせているような」絵に衝撃を受ける。それが、その後の彼自身の表現に大きな影響を与えていくのです。
 『広島百橋』は、広島の人と橋のかかわりを絵と文章で綴った本です。
 たとえば、NHKの募集のきっかけになった小林岩吉の絵に描かれた萬代橋も紹介されていますが、戦後30年を経て、「地獄の痕跡」は表面的には風化したかもしれないけれども、人びとの記憶の底には強烈なものとして刻み込まれていたことを知ったと書かれています。

 それから、同じ場所を描いていて、どうして人によって記憶が食い違うのか、という問題も考える。
「非常事態に直面した人間はカメラのように客観的にものを見ることはできないが、自分が生の感覚を通して記憶したものは写真よりも感動的であり、たとえ事実でないにしろそこには真実がある、とテレビで話したが、ふだんから絵画のリアリズムは客観的に真実に迫る行為から生まれると考えているので、いつまでも胸の底にひっかかって消えなかった」と、つまり、自分にとってのリアリズムの意味についても考えさせられるわけです。

 また、川をデッサンしながら、子どもの頃の楽しい記憶を思い出していると、突然被爆した人びとの群れが押し寄せて来るとも書いている。
 四國に被爆体験はないが、そういう「記憶」がフラッシュバックするのです。
 広島の町の歴史的な地層、文字通り重層的に描いて文章を綴ることは、彼にとっても、8月6日を位置づけなおす作業でした。そして、そういう作業によって、四國は初めて、当事者性を獲得していったのではないか。
 『広島百橋』は非体験者である四國がどのようにして当事者性を獲得していくかということを考える上でも興味深い本です。広島の人たちに受容されたのも、そういう本だからでしょう。

 そして、8月6日を広島の人びとが生きてきた歴史と空間の中に位置づけることができたからこそ、次の『おこりじぞう』が出てきた。
 50年代には被爆者でないから描けないと思っていた四國が、70年代80年代には他者の被爆体験の「可視化」ができると確信を持った秘密は、ここにあるのではないかと思います。

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 また、『おこりじぞう』の被爆直後の情景にも、被爆市民の絵が反映されているでしょう。
 原爆を描いた絵本はたくさんありますが、私にとっては、丸木俊の『ひろしまのピカ』と『おこりじぞう』は原爆絵本の傑作です。
 横長の画面の中の文字と絵のバランスや、被爆直後の光景と翌日の空白の対比など、絵本という形態を最大限に生かした表現技法だけではなく、他者の物語を共有できるという確信をもって参加していることが、『おこりじぞう』を傑作にしているのでしょう。

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 NHKの原爆の絵の呼びかけの際には、四國自身の体験として捕虜として連れていかれる途中に、高粱畑をさまよう「満州開拓団」の幼い子どもを見たという絵を描きましたが、他者を見捨てた痛恨の記憶は、多くの被爆者の記憶とも対応していたでしょう。
 一方、90年代のシベリアの絵は、俯瞰しながら体験を客観的に見ている点に特徴がありますが、最初に四國が出会った小林岩吉の絵も同じなのですね。みんなつながっていると思います。

 後は、70年代の朝鮮人被爆者問題への関心や、80年代の高橋昭博の依頼による被爆証言をもとにした紙芝居や絵本の仕事にも注目したい。
 高橋の記憶を描いた絵には、ほかの四國の画風で見ないような生々しい表現もありますが、ここにも市民の絵の影響が感じられます。

川口 四國は「われらの詩の会」の仲間の一人である深川宗俊が記した被爆朝鮮人徴用工の本『鎮魂の海峡』の装幀も手がけている。
 50年代前半の朝鮮戦争反対運動の際に、政治的な緊張感を持ちながら朝鮮人と「連帯」した経験を、70年代にとらえ返す共同作業だったと思います。

岡村 丸木夫妻も70年代に石牟礼道子のルポルタージュをもとに朝鮮人被爆者を描いた《からす》という原爆の図がありますが、同時代に同じような視点が生まれていました。

小沢 丸木夫妻が朝鮮人の問題を描くときにも、50年代の巡回展などでの朝鮮人との協働の体験が70年代の《からす》と無関係ではなかったでしょう。
 四國も丸木夫妻も70年代以後に再び花開いた画家だと思うのですが、そこには50年代前半くらいまでの活動が底流としてあったのだろうと思います。

(以後、質疑応答省略)

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