2016/5/22

長崎県教育文化会館所蔵の原爆の図《母子像》  作品・資料

すっかり遅くなってしまいましたが、4月に俳優の岡崎弥保さんから御教示頂いた、長崎にあるもうひとつの《原爆の図》についての報告です。

昨夏の「知られざる原爆の図展」で紹介できなかったのが本当に残念なのですが、長崎県教育文化会館の2階ロビーに、原爆の図《母子像》が常設展示されているそうです。
丸木美術館関連の画集や資料には一切掲載されていなかったため、これまでまったく気づきませんでした。

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制作は1985年夏。大きさは縦横2メートルほど。
丸木夫妻の画業の中でこの絵がどのような意味を持つのかと言われると、すぐには位置づけられないのですが、実はジャン・ユンカーマン監督の映画『劫火―ヒロシマからの旅』の中に、この絵の制作風景が何度も登場しているのです。

画面右にうずくまっている男性は丸木位里さん。パンツ一枚でモデルになる姿が、映画に収められています。
画面左端の中央で地面に丸くなって寝ころびながらこちらを見ている少年は、俊さんが囲炉裏で服を焼いて、手でもみほぐし、黒焦げになった服を着せるという印象的なシーンで登場します。
画面上部でお尻を出してうつぶせに寝そべる若者は、90年代なかばから丸木美術館の事務局長を務めたSさんの息子のJさん。今も丸木美術館にかかわってくれています。
この作品が描かれた経緯を、2000年3月20日付『ながさき教育新聞』に、平山惠昭さんが詳しく記しています。
平山さんは当時公立中学校教諭で、長崎市同和教育研究会の事務局長を兼務。春陽会に所属していた画家でもあるようです。

記事によれば、まず、1984年8月8日から12日まで「原爆の図」長崎展が市民会館で開かれ、このときに第15部《長崎》を長崎市国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に寄贈するという話が持ち上がったそうです。
実際、《長崎》は半年後の1985年2月1日に正式に寄贈されるのですが、長崎でもう一枚絵を描きたいという丸木夫妻の意向と、ぜひ描いてほしいという「長崎展」実行委員の思いが重なり、同年12月に丸木夫妻は長崎を再訪。40日余りを稲佐町の平山さんの家で過ごし、大作を描くことになりました。それが、現在はブルガリア国立美術館に所蔵されている《地獄の図》です。
映画『劫火』のオープニングには、平山家で制作をする丸木夫妻の姿が映し出されています。
完成した《地獄の図》は、1985年1月29日に長崎の悟真寺で披露。記者会見の様子も映画に収められました。
この《地獄の図》制作中に、当時の県教組委員長の近藤禮司氏が丸木夫妻のもとを訪ね、県教組のために一枚《原爆の図》を描いてほしいと依頼したそうで、埼玉の東松山に帰宅してから描いたのが、今回の《母子像》というわけです。

丸木夫妻が晩年に手がけた外伝的な《原爆の図》のいくつかは、公式の画集や刊行物に掲載されていないので、これからもどこかに収められている絵が掘り起こされることがあるかもしれません。
次回長崎に足を運んだときには、この《母子像》を訪ねてみたいと思っています。
ご教示くださった岡崎さんをはじめ、資料を提供してくださった長崎の関係者の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2016/5/21

アーサー・ビナードさん紙芝居打ち合わせ  来客・取材

朝から詩人のアーサー・ビナードさん、童心社編集部のNさんとカメラマンが来館され、《原爆の図》をもとにした紙芝居の打ち合わせと追加の作品写真撮影などを行いました。
写真は、打ち合わせの後で、某テレビ局の取材を受けるアーサーさん。

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刊行が遅れている紙芝居のタイトルは、『やわらかい はだ』から『ちっちゃな こえ』に変更になったようです。
今回は紙芝居にするため、《原爆の図》に大幅な修正を施しているのですが、その状況を確かめるということもあって、アーサーさんみずから実演して下さいました。
個人的な感想としては、以前に見たよりずっと良くなっているものの、できればもう少し粘って、さらに練り上げていった方が良いかなという感じです。
せっかくアーサーさんが《原爆の図》に挑むのだから、もっと高く飛び上がって、思わぬ方向にひっくり返ってから、着地してほしい……。
いえ、言うのは簡単ですし、自分も書き上げなければならない仕事をまとめきれずにいるのですが。
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2016/5/20

ポレポレ座「水はみどろの宮」原画展  他館企画など

午後から渋谷のNHK放送センターで行われたさいたま局視聴者委員の会議に出席し、帰りに東中野のポレポレ坐で開催中の山福朱実さん『水はみどろの宮』挿絵原画展に立ち寄ってきました。

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石牟礼道子さんの紡ぎ出した人間と自然の魂の交感の物語に、「親子二代の縁」でつながる山福朱実さんの幻想的な版画が命を吹き込んでいます。
土や水の匂いが漂ってくるような世界の中に、ぽつりと一艘の舟が浮かんでいる版画があって、丸木夫妻が《水俣の図》を描くときに石牟礼さんが水俣を案内されたことを思い出し、きっと三人は、こんな舟に乗って、生者と死者の世界を自在に往来しているのだろうなと幻想を抱いて、とても気に入りました。

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気がつくと、7階から本橋成一さんとスタッフのOさん、Nさんがドヤドヤと下りて来られて、この日納品されたばかりという立派なIZU PHOTO MUSEUMの「本橋成一展」図録を手渡され、なんだか自分までが「サークル村に片足を突っ込んだような」嬉しい気分になるのでした。
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2016/5/17

【広島・山口出張4日目】四國五郎アトリエ調査  調査・旅行・出張

近現代史研究者Kさん、広島大学Kさんとともに、一日がかりで四國五郎アトリエ調査を行いました。
6月25日から9月24日まで予定している「四國五郎展」のための調査です。

峠三吉の私家版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1924〜2014)。

昨年は旧日本銀行広島支店で市民の手によって大規模な回顧展が開催されました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2492.html

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画像は、四國五郎の自画像(1967年)。

1944年に徴兵されてシベリア抑留を体験し、1948年の帰還後は峠三吉らとともにサークル誌『われらの詩』の刊行や、反戦詩と絵を一枚の紙に描いて街頭に貼ってまわる「辻詩」の活動を展開。
1950年10月、丸木夫妻の《原爆の図》全国巡回の出発点となった広島での展覧会を支えたのも、峠三吉や四國五郎ら「われらの詩の会」の仲間でした。
その後も「広島平和美術展」を組織・運営しながら、原爆や母子像をテーマにした絵画や絵本を描き続けるなど、生涯をかけて「平和」への思いを貫きました。

夏の展覧会では、シベリア抑留時代のスケッチから、被爆死した弟の日記、峠三吉や丸木夫妻との交流を示す資料、辻詩、絵画、絵本原画などを紹介し、四國五郎の遺した幅広い表現とその意味を振り返ります。

四國五郎のご子息のHさんの尽力により、展覧会開催に向けて、米国の歴史学者ジョン・ダワーさんからのメッセージも届きました。

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When Hiroshima and Nagasaki were bombed in August 1945,
the United States was the only country that possessed nuclear weapons.
Now there are nine "nuclear-weapons nations," and soon there may be more.
Japan could even be among them--a terrible thought,
but no longer impossible to contemplate.

We must never forget the militarism that led to Hiroshima,
the tragedy of those who were killed, the suffering and grief of those who survived.
And the passionate antiwar artwork of Shikoku Goro is a brilliant--indeed,
indispensable--way of remembering.

Shikoku Goro's great contribution lies in his ability to convey,
at one and the same time, not just nuclear horror, but also the opposite of this.
His art sets life against death, love against hate, hope against fear.

Ten years ago, on the 60th anniversary of the end of the war,
I was moved to present some of Shikoku Goro's work in an online project at my university,
Massachusetts Institute of Technology.
Today, he speaks to me--and to all of us--more powerfully and urgently than ever.


「原爆の図丸木美術館」に常設されている丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」と一緒に四國五郎の作品が展示されるのは、なんともすばらしい機会である。

この三人の作品は、単に1945年8月に日本に投下された原爆の恐ろしさを思い起こさせるだけではない。戦争と平和がいかに絡み合っているかということを作品を観る者の心にうったえてくるし、創造性豊かな三人の作品から私が個人的に受ける忘れがたい印象は、美と創造性と平和、さらには人間の命の大切さの深淵な確認ということである。

私は、1980年代に、丸木美術館を幾度も訪ねたが、それが丸木夫妻に関する英語の本とドキュメンタリー映画製作へとつながった。広島・長崎原爆投下60周年にあたる2005年には、四國五郎の見事な絵で描かれた被爆者証言を、当時私が勤めていたマサチューセッツ工科大学の援助で運営するネットサイトに載せることができた。日本の丸木夫妻と四國五郎の作品には、他には類がない密接な関連性が見られる。三人の作品は、核戦争というものがいったいどんなものなのかを世界中の人々に思い起こさせる上で、特別な力強さを持っている。

私の祖国である米国でも、また日本でも、軍国主義が再び台頭しつつある今、四國五郎と丸木夫妻の芸術作品は、今まで以上に緊迫性をもって私たち一人一人に語りかけてくる。
 2016年3月21日
 ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)
 翻訳:田中利幸(歴史学者)


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丸木夫妻の仕事と共通点も多く、また、実際に深い交流もあった四國五郎の残した仕事を紹介できる貴重な機会を、今から本当に楽しみにしています。
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2016/5/16

【山口・広島出張3日目】平安堂梅坪にて浜崎左髪子作品調査  調査・旅行・出張

午前中に広島へ移動して、午後は取材を一本受けた後、近現代史研究者Kさんと老舗和菓子店・平安堂梅坪本社へ、浜崎左髪子(さはつし)の絵を見に伺いました。

浜崎左髪子は、丸木位里の友人だった日本画家。生まれは1912年2月15日というので、丸木俊とわずか4日違い。位里とは11歳差になります。
ハワイ・ヒロ市の生まれというので、当時広島では珍しくなかったハワイ移民の息子(位里の父も一時期ハワイに行っていました)なのでしょう。

丸木夫妻との関わりで言えば、1949年の戦後最初の広島県美展の審査員をつとめ、丸木スマの絵を出品して入選させたそうですし、1950年10月の広島での「原爆の図展」の際には、当初繁華街で開きたいと言った丸木夫妻の希望を受けて、中国新聞社や福屋に掛け合ったようです。戦前は南画風の絵を描いており、反骨精神のある人だったというので、位里とは気があったのだと思います。

左髪子は平安堂梅坪の先代の会長と同郷の大河(広島市南区)出身という縁もあり、女学校の美術教師を務めた後に、社員のような扱いを受けて平安堂梅坪のロゴや包装紙のデザインなどを手がけました。そのため、本社には絵画やスケッチ類、絵馬、絵付け皿などが大量に残されています。
今回は、平安堂梅坪の従業員でブログ「浜崎左髪子と広島」を運営されているSさんからお誘いを頂き、丸木俊が描いた先代会長夫人のデッサンもあるというので、出張のついでに足を運んだのでした。

戦前の作品はもっぱら焼けてしまったようですが、繊細な描写のデッサンは残されていました。
戦後は厚塗りの油彩のような作風を積極的に取り入れ、シュルレアリスムやキュビズムの影響を受けたと思われる作品もあります。

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本社2階の廊下に展示されていたシュルレアリスム風の《蝶》や、1階玄関わきに展示されていた金箔の下地の上に厚塗りの顔料を重ねた《朝の海》などは、西洋の表現を取り入れた戦後の新しい日本画の流れを感じさせるものでした。

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本人が残したスクラップ帖も残されていて、それを見ると林武の絵の切り抜きがあり、同行のKさんは「ああ、やはりこの厚塗りの花の絵は林武の影響なのね」と納得の様子。
今回の調査では見られませんでしたが、左髪子は原爆スラムを描いた《スラム街》(広島県立美術館蔵)や、原爆ドームを題材にした作品も残しています。
作品のほとんどに制作年が記されていないのが残念ですが、新しい日本画を模索した実験的な表現や、ユーモラスな世相批判など、見どころの多い画家でした。
丸木位里と同時代の広島には興味深い画家が多いですが、一部を除いて、なかなか画業が紹介されていないのが残念なところ。
限定500部とはいえ、左髪子は画集が存在しているだけ恵まれているのかもしれません。

当初、われわれの訪問に戸惑い気味だった会長さんからは、最後には原爆投下当日に風邪で休んで生き残った広島一中の生徒だったという体験談を聞かせて頂いた上に、お土産まで頂戴してしまいました。
会長さん、そして、お誘いいただいたSさんに、心から御礼を申し上げます。
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2016/5/15

【山口・広島出張2日目】原爆文学研究会/中原中也記念館/YCAMシネマ  調査・旅行・出張

午前中は山口大学にて原爆文学研究会総会。
会員アンケートをもとに、今後の研究会の方向性を話し合いました。
一部の会員の方からは、学会としてより方向性を明確にした方がいいという意見が出ていたようです。その一方で、古くからの会員のなかには、初期の大らかさが失われつつあるという懸念もあるということを知りました。
個人的には、研究者のみの学会になるのではなく、幅広い関心・立場の人びとが参加できる会の方針に惹かれているので、今後も適度にオープンな居心地のよい会であって欲しいと思いました。

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午後は、研究会の世話人でもあるN館長のいる中原中也記念館へ。
企画展は「DADA ツァラそして中也 1916→1923」
今年はダダイズム誕生から100年ということで、中也が受けた影響から、ウルトラマンの怪獣ダダまで、幅広く紹介されている内容でした。

さらに山口県立美術館へ行こうと思ったのですが、途中で山口情報芸術センターを見つけて、予定を変更。YCAMシネマにて映画を観ることにしました。
贋作画家マーク・ランディスの素顔に迫る『美術館を手玉にとった男』と、2013年10月のバンクシーのニューヨーク滞在を記録した『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』の2本です。

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『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』は期待通りの作品でしたが、それ以上に『美術館を手玉にとった男』が予想外の面白さでした。
邦題は内容とズレがあり、「手玉にとった」というよりは、大真面目に贋作絵画を全米20州46館の美術館に寄贈し続けた統合失調症の男性のドキュメンタリ。
もちろん寄贈時には虚偽の来歴を語るのですが、本人には悪意がなく、自らの行為を「慈善活動」と呼びます。金銭を騙し取っていたわけではないから、当初はFBIまで捜査に乗り出したものの、結局、罪には問われなかったようです。

ホームセンターで入手できる素材やカラーコピーなどを駆使して、古今の多様なアート作品を、美術館学芸員も気がつかないほど精巧に作り込みます。
制作過程から発表方法までの独創的な行為はアートと呼べそうな気もしますが、肝心の作品だけがオリジナリティを持っていません。
映画の中でも、「あなた自身の絵を描きなさい」と良心的に忠告する人が現れます。しかし、仮にオリジナルの絵を描いたとすれば、その途端に、彼は平凡なアーティストの一人になってしまうでしょう。

何より彼は、模写にこそ創作意欲を感じているようです。だから事実が発覚した後も贋作を続けます。それが経済的、芸術的価値を持とうが持つまいが、どうやらあまり関係がありません。その意味では、彼の作品はアール・ブリュットのようでもあります。

「これはアートではない」と言われてしまいそうな、アートとそうでないものの境界にある営みに惹かれる自分にとっては、触るものすべてを黄金にしてしまうようなバンクシーの活躍とあわせて観たせいか、何とも心に沁みる切ない映画なのでした。
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2016/5/14

【山口・広島出張初日】第50回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機に乗って、山口宇部空港へ。
山口大学で開催される第50回原爆文学研究会に参加するため、新山口駅から“貴婦人”の異名をとるC57形蒸気機関車1号機「SLやまぐち号」に乗って、湯田温泉駅へ。

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山口大学大学会館にて行われた研究会では、昨年11月に新宿書房より刊行した『《原爆の図》全国巡回』の書評会をやって頂きました。

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評者は東村岳史さん。丁寧に読み込んで頂いて、本当にありがたい限りです。
提示された論点は、大まかに整理をすると、以下の4点でした。

@巡回展の「祝祭性を帯びた」不思議な魅力と観客の反応について・・・ヨシダ・ヨシエが多くの観客のなかに見出したという「恥じらい」とは何か。
A時期と場所、観客の多様性による反応の違い・・・丸木夫妻はタイプの異なる〈他者〉といかに向き合い交信することができたのか。
B同時代における意味の再考と今日的意義・・・巡回展の盛衰を文化運動として内在的に説明することは可能か。観衆参加型の巡回展に、今日的意義は見出せないか。
C巡回展が果たした社会的機能・・・「精神安定装置」として戦争の記憶を枠にはめ、思考停止に導いたという批判は成立するのか。

さらに「同時代であれ今日であれ、“精神不安定装置”として機能しなければ、《原爆の図》の存在意義はないのではないか」というTさんの発言をはじめに、さまざまな質問が時間いっぱいまで続きました。
たしかに1950年代の巡回展には、戦争を悲劇的に記憶する「精神安定装置」という一面が表れていたように思いますし、それは今も続いているのかもしれません。

丸木夫妻の画業を全体的に見れば、1970年以後の共同制作は、それまでの視点の反省から「精神不安定装置」としての性格を強めていくのですが、それらの作品の評価は、初期作品には及びません。それが絵画的な問題なのか、思想的な問題で評価に結びつかないのかは、少し丁寧に考えたいところです。
また、それでは初期作品は「精神安定装置」的な性格しかないのかといえば、もちろんそうではなく、そこに、ヨシダさんの見た「恥じらい」の意味の解釈がかかわってくるのかもしれません。
Kさんによる、本来見るべきものではないものを見るという狼狽こそが「恥じらい」の意味であり、それを呼び覚ます点において「精神不安定装置」たりえたという指摘には、考える道すじを示された思いがしました。
ともあれ、《原爆の図》については、すでに神話化され、定まっていると思われがちな枠組みを疑い、問い直しつつ再構築する作業を常に続けていくことが重要なのでしょう。

もうひとつの書評は村上陽子さんの『出来事の残照ー原爆文学と沖縄文学』
広島・長崎の原爆と沖縄戦という、これまでつなげて論じられることがありそうでなかった領域を、バランスのよい構成から共通の問題意識を浮かび上がらせる素晴らしい一冊なのですが、そこに容赦なく切り込んで批評していくスリリングな応酬に、文学研究という枠を超えて、大きな示唆を受けました。

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新緑の美しい季節。川の流れも穏やかで、山口はとても景色の良いところでした。
夜は湯田温泉の居酒屋で研究会の皆さんと懇親会。
午前3時起きだった私は、1次会のみで失礼しました。
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2016/5/12

『埼玉新聞』も緊急取材  掲載雑誌・新聞

“「核廃絶の追い風」県内の被爆者、オバマ大統領の広島訪問に希望”
 ―2016年5月12日『埼玉新聞』

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テレビ中継から一夜明けて。『埼玉新聞』にも記事が掲載されました。
保坂記者の精力的な取材、こちらから全文を読むことができます。
http://www.saitama-np.co.jp/news/2016/05/12/11.html

基本的に取材については率直にお話ししていますが、誰の広島訪問であろうと、「来てよかった」ではなくて、「来てから先」が大事だと思っています。何を感じて、どう生きるか。
それは日本人であろうと、同じことですね。自戒を込めて。
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2016/5/11

NHK、テレビ埼玉の緊急取材  TV・ラジオ放送

昨夜遅くに突然取材の電話が鳴って、朝から丸木美術館は撮影でバタバタでした。
インタビューを受けるかどうかも含めて、かなり迷いがあったのですが、今朝の朝日新聞に載っていたK論説委員の社説に背中を押されました。
発言の機会があるなら、やっぱり発言しておこうと。

取材に来た地元記者も、「(厳しい意見も含めて)自由に話して下さい」と言ってくれたので、できるだけ率直にインタビューに応えました。
もちろん、話した言葉のすべてが放映されるわけではありませんが……。

正午のNHKのニュースでは、全国中継と首都圏と、2回ほど放映されたようです。
WEBの記事が(おそらくは期間限定で)出ているので、以下に紹介しておきます。

まずは全国中継版(動画つき)。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010516201000.html

続いて首都圏版(動画つき)。
http://www3.nhk.or.jp/lnews/saitama/1106956301.html

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 アメリカのオバマ大統領が被爆地、広島を訪問することが決まったことについて、原爆投下後の広島や長崎の悲惨な様子を描いた絵画を展示している埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」では、「原爆で苦しんだ人たちが、その恐ろしさを訴え続けた成果だ」と話しています。

 東松山市の「原爆の図丸木美術館」は、画家の丸木位里、俊夫妻が、原爆投下後の広島や長崎の凄惨な姿を30年にわたって描き続けた連作の絵画、「原爆の図」を展示していることで知られ、この絵は、被爆70年の去年、アメリカの首都ワシントンで初めて展示されました。

 オバマ大統領が、今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地広島を訪問することを決めたことについて美術館の学芸員岡村幸宣さんは、「原爆で苦しんでいる人たちが、その恐ろしさを訴え続けた成果だと思います。今でも原爆で苦しむ人たちがいて、こうした現状にどのように向き合うのか、そして、核廃絶に向けた具体的な道筋をどこまで示せるかが問われていると思います。安倍総理大臣も同行するということですので、日米が本気で恒久平和に取り組んで欲しいです」と話していました。


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動画の内容とテキスト記事は微妙に異なっていますが、地元記者Tさんが受け止めて下さった思いは、テキスト記事の方により強く反映されているように思います。

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また、午後からはテレビ埼玉のインタビュー取材も受けました。
こちらは夕方と夜のニュースで放映されたようです。
おそらく期間限定で、動画がWEBで見られます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160511-00010000-teletamav-l11

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 アメリカのオバマ大統領が5月27日に被爆地・広島を訪問することになりました。アメリカの現職大統領が被爆地を訪れるのは初めてです。今回の訪問決定を受け、「原爆の図」で知られる画家故・丸木位里・俊夫妻ゆかりの埼玉県東松山市の原爆の図・丸木美術館でも歓迎の声が上がっています。

 原爆の惨禍を描いた15部の連作「原爆の図」。東松山市下唐子にある原爆の図・丸木美術館に展示されています。画家の故・丸木位里・俊夫妻が被爆地・広島で目のあたりにした地獄絵図ーその絶望と破壊の有り様を後世に伝えていこうと夫妻が心血を注いで完成させた作品です。長年、丸木美術館で学芸員を務める岡村幸宣さんは、オバマ大統領の広島訪問の決定について「今回は歴史的なこと。これは長い歳月の間、原爆の痛みや苦しみを世界に訴え続けてきた被爆者の方々の成果があらわれた出来事だと思います。」と話しました。

 今回の大統領訪問決定について去年6月には「原爆の図」のうち代表的な作品「火」や「幽霊」など6つの作品が海を渡り、アメリカの首都ワシントンやボストンなどで展示されましたアメリカでは、「戦争の終結を早めた」として原爆投下を肯定する考え方が依然、根強いともいわれています。今回、オバマ大統領が広島を訪問する際、核兵器廃絶に向けて短時間の演説や声明発表を行う方向で調整が進められているということです。


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2016/5/11

『琉球新報』『沖縄タイムス』に宮良瑛子展シンポジウム記事掲載  掲載雑誌・新聞

4月30日に沖縄県立博物館・美術館で行われた「宮良瑛子展―いのち」シンポジウムの関連記事が、連休中に掲載されたようで、『琉球新報』と『沖縄タイムス』から届きました。

魚眼レンズ 「沖縄女性の美術」後世に
 ―2016年5月4日『沖縄タイムス』

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あしゃぎ 「私たちの記憶」にする絵画
 ―2016年5月5日『琉球新報』

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人間描き 社会見詰める 画家 宮良瑛子展シンポ
 ―2016年5月5日『沖縄タイムス』

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お世話になった豊見山学芸員はじめ美術館関係者の皆さん、そして取材して下さった記者の皆さん、本当にありがとうございました。
宮良瑛子展は10月16日まで行われています。
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2016/5/5

丸木美術館49周年開館記念日  イベント

今年もまた、丸木美術館開館記念日がやってきました。
前日まで荒れ模様の天気で心配されたのですが、朝、起きてみたら雲一つない快晴。
この日の有料入館者は127名。友の会会員やボランティアを含めれば、220人を超える人たちが丸木美術館に集い、49回目の開館記念日を祝いました。

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恒例の美術館クラブ工作教室では、木工作家の遠山昭雄さんが、竹でウグイス笛を作っていました。子どもから大人まで、大勢の人が楽しみながら参加していたようです。

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出店では、今年もボランティアの若者たちが販売をがんばってくれました。

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子どもたちの玩具をあつかったフリーマーケットもありました。

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午後1時からは、開館記念日の集い。
今年は、東日本大震災から5年という節目の年です。
1930年代のスペインの詩人ガルシア・ロルカの活動に倣った“芸術のサーカス小屋”キャラバン・ラ・バルラッカによる、命の重さをテーマにした歌あり演奏あり、講演あり、能ありというバラエティに富んだ公演がはじまりました。
丸木夫妻の壁画に囲まれた空間は、重層的な視点で命を考えるための舞台装置のようです。

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オープニングは、Guelb er Richat ensemble(ゲルブ・ゲルブ・アル・リシャット・アンサンブル=砂漠の音楽隊)による「砂漠にサーカスがやってくる」。
一瞬で会場の空気を変える鮮やかな歌と演奏には、いつも心を奪われます。

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続いてモンゴル民謡オルティンドー歌手・伊藤麻衣子さんが、馬頭琴の音色にあわせて歌います。演奏はアマルジャルガル・ドルギオンさん。続いて彼の超絶技巧のホーミーが会場に響きわたると、観客から感嘆の大きな拍手が。音楽は国境を軽々と超えていきます。

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再びGuelb er Richat ensembleが登場し、石巻市の大川小学校をテーマにした曲『雪が降るでしょう』と『イヌワシの空』を演奏。『イヌワシの空』は、大川小で奇跡的に助かった4人の児童のなかのひとりの少年が畦道を歩く姿を見て生まれた曲だそうです。

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そして、大川小学校で命を奪われた児童の遺族で元教師の佐藤敏郎さんによる講演。
大川小学校の校庭で何が起きていたのか、なぜ尊い命を救えなかったのか。
そして、残された者同士の対立を生むのではなく、そこから何を学び、ともに未来へ希望をつないでいくのか。
自然災害への対処というだけでなく、私たちの身近にあるさまざまな価値観や組織のあり方を見直すことが、「3.11」によって現代社会に突きつけられた課題である、という言葉は、重く響きます。
もっとも大切に、中心に置いて考えなければいけないのは「命」よりほかにないはずです。

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第1部のトリを飾るのは、シテ方宝生流の能楽師・金井雄資師による仕舞いの『桜川』。
生者と死者が共存する静謐な世界。天窓からひとすじの光が差し込み、能楽師の肩に光と影の絶妙なコントラストを生み出しました。

   *   *   *

休憩をはさんで第2部は、「ヨシダ・ヨシエを偲ぶ会」。
今年1月4日に86歳で逝去した美術評論家ヨシダ・ヨシエさんを追悼する会です。

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美術家で、前衛美術研究者でもある嶋田美子さんが、1960年代から70年代にかけてのヨシダさんの活動について発表をして下さいました。
嶋田さんは、ヨシダさん所蔵の美術資料を米国のUCLAにヨシダ・ヨシエ文庫として寄贈するために奔走された方でもあります。
1962年に国立市の公民館で企画した名高い「敗戦記念晩餐会」から、1980年に銀座の地球堂ギャラリーで企画した「戸村一作遺作展」まで、従来の「芸術」の枠組みを拡張し、既存の権威に対して抵抗する人たちに寄り添い続けたヨシダさんの闘いの軌跡が、鮮やかに浮かび上がる発表でした。

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その後は、映画監督の前田憲二さん、美術家の村田訓吉さんがそれぞれの視点からヨシダさんに別れの言葉を述べられ、最後にヨシダさんのご長男の可久也さんが、自由奔放な人生を生き切ったヨシダさんの豊富なエピソードの一端を披露しつつ、ご挨拶をして下さいました。

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最後は、可久也さんの呼びかけによってこの日のために組織された「ヨシダ・ヨシエ追悼合唱団」による、林光作曲・原民喜詩の「原爆小景」の合唱。
力強く、胸に迫る、心のこめられた歌声でした。
ヨシダ・ヨシエさん、林光さんはじめ、原民喜や丸木夫妻、原爆で亡くなった方々への追悼の思いを込めて、合唱の後には黙祷が行われました。

出演者やボランティアの皆さまをはじめ、ご来館くださった方々に心より御礼を申し上げます。
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2016/5/4

『東京新聞』に“「原爆の図」二つあった”紹介  掲載雑誌・新聞

「原爆の図」二つあった 丸木美術館初の同時展示 胸に迫る「再制作版」
 ―2016年5月4日『東京新聞』朝刊

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現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」の紹介記事が『東京新聞』の社会面に掲載されました。
さっそく電話などで大きな反響を読んでいます。

記事全文はWEBサイト「中日新聞プラス」でもご覧になれます(会員登録が必要)。
http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=363029&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113

ふたつの《原爆の図》を比較できる機会はなかなかないので、ぜひ皆さま、ご覧になって下さい。
会期は6月18日まで。
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2016/5/2

【沖縄旅行3日目】対馬丸記念館、山元恵一アトリエ、不屈館など  調査・旅行・出張

午前中、まずは波之上宮の近くにある対馬丸記念館へ行きました。

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対馬丸は、1944年8月21日、800人あまりの学童を含む疎開者約1800人を乗せて那覇港を出航。
翌22日夜に、トカラ列島の悪石島付近で、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて撃沈されました。
老朽化した貨物船であったため、約10分であっという間に水没。護衛船も米軍の攻撃を恐れて立ち去り、乗員のうち生還したのは1割ほどという大惨事となりました。正確な死者数はいまだに不明だといいます。

子どもの頃、父が対馬丸のことを書いた児童書を買ってきて、怖くてなかなか読めなかったことを思い出しました。
その当時は子どもたちの悲劇として読みましたが、今は送り出した親の悔恨が身にしみます。
すでに制海権がないことは周知の事実で、学童の疎開希望者が定員に満たなかったため、学校の先生が説得にまわって人数を集めたそうです。そうしたこともあって、生還した先生は責任を感じて沖縄に戻れず、よその土地で暮らしたという話も聞きました。死んでいった人も辛いけれど、生き残った側、取り残された側も、生きながら殺されたような思いだったのでしょう。
無理に無理を重ねた戦争の矛盾が凝縮されたような悲劇ですが、事故後も箝口令が敷かれ、語ることができなかった遺族の無念は計り知れません。
そして、対馬丸の撃沈からわずか49日目の1944年10月10日には、那覇市街も米軍の無差別空襲で焼け野原となってしまうのです。

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1997年には海底に沈む対馬丸が発見されましたが、老朽化が激しく遺族の強い要望にもかかわらず引きあげは断念されました。その代わりに対馬丸記念館が建設されたとのことです。

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記念館の裏には、対馬丸の犠牲者を悼む「小桜の塔」があります。
愛知県のすずしろ子供会が、沖縄に子どもたちのための慰霊碑がないので、自分たちの力で作りたいと募金をはじめ、愛知県内に広がって沖縄に贈られた慰霊碑だそうです。
1954年5月5日に除幕式が行われました。

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船のかたちを模したレリーフは、船首を那覇港に向けているそうです。
鳩のブロンズ像は、「ニシムイ美術村」の芸術家のひとりである玉那覇正吉がデザインしたもので、1978年に設置されたとのこと。
記念館入口にはオリジナルの石膏像が置かれていました。

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公園内には、対馬丸以外の戦時遭難船の犠牲者を偲んだ、宮良瑛子さんの手による「海鳴りの像」も立っています。
宮良さんの絵に登場する女性のような、下半身の骨格がやけにどっしりとした母親が、息絶えた子どもを胸に抱く像です。
美しい蝶が一羽、ひらひらと「海鳴りの像」のまわりを飛んでいました。
蝶は死者の魂の象徴で、丸木夫妻の《沖縄戦の図》にも描かれていることを思い出します。

   *   *   *

対馬丸記念館の後は波之上宮やビーチ、福州園を歩き、午後は沖縄県立博物館・美術館のT学芸員にご案内いただいて、「ニシムイ美術村」の跡地へ。原田マハの小説『太陽の棘』のモデルとしても知られるようになった芸術家コロニーです。

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ぼくは2014年7月に続いて2度目の訪問ですが、近現代史研究者のKさんは初めて。
「ニシムイ美術村」の詳しい情報は、前回のレポートを参照してください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2361.html

前回も訪れた山元恵一の琉球石灰岩を積み上げて作られたアトリエ(以前の米軍払い下げの住宅が台風で吹き飛ばされていたという話を聞いて、Kさんは「ブーフーウーのウーの家」を連想されていました)にお邪魔して、しばし、和やかなひとときを過ごしました。

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前回はご家族の方にお会できなかったのですが、今回は山元さんの息子さんのお連れ合いにとても丁寧に迎えて頂き、恵一の妻である山元文子さんに、わずかな時間ではあるもののお会いすることもできました。文子さんも沖縄女流美術家の第1世代の画家でしたが、「一家に画家は二人いらない」と結婚後に染織に転向したといいます。その美しい織物も見せて頂きました。

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とても居心地のよい、モダンで涼しいアトリエですが、個人の住宅なので一般公開はしていません。
沖縄で数少ないシュルレアリスム画家である山元恵一の画業も興味深く、T学芸員によれば、来年春に県立美術館で個展を企画中とのことなので、今からとても楽しみです。

   *   *   *

沖縄旅行の最後には、T学芸員に「不屈館」に案内していただきました。
沖縄復帰のため米軍占領下で抵抗運動を行った瀬長亀次郎の資料館で、開館から3年目を迎える新しい施設です。

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瀬長亀次郎の娘さんの内村千尋館長には、2年前に国際平和博物館会議でお会いしていたので、思わぬ機会に伺うことができて嬉しく思いました。
決して大きな施設ではなく、わかりやすい場所にあるわけではないので、T学芸員に案内されなければ、簡単にたどり着けなかったかもしれません。

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テレビ番組のVTRや、自宅書斎を再現した展示スペース、自筆原稿、愛用品なども見せて頂きましたが、個人的に興味深かったのは、いくつか展示されていた瀬長亀次郎の肖像画でした。儀間比呂志、宮良瑛子、照屋勇賢という錚々たる芸術家の手によるものです。
とりわけ沖縄を代表する若手現代術家のひとり照屋勇賢の紅型染めは、Heroesと題するシリーズの一環で、沖縄県立博物館・美術館には安室奈美恵のヴァージョンが展示されていましたが、不屈・反骨の政治家である瀬長亀次郎を「民衆のイコン」のようにポップに取り上げてしまう感覚がなかなかすぐれています。

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短い滞在日程でしたが、今回の沖縄旅行もまた、実りの多いものになりました。
お世話になった皆さまに、心より御礼を申し上げます。
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2016/5/1

【沖縄旅行2日目】佐喜眞美術館・浦添市美術館  調査・旅行・出張

今回の旅行をご一緒している近現代史研究者Kさんと、宜野湾市の佐喜眞美術館へ。
私にとっては2年ぶりの訪問です。

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企画展は「山城見信展 KURŪ(黒)」
画面せましと力強く展開される、黒を基調とした抽象表現。
荒ぶる感情、表現への欲求があふれるような作品です。

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毎日来館され、ときどき作品に手を加えているという山城さんご本人にもお会いできました。
山城さんは1937年に那覇市に生まれ、沖縄戦を前にヤンバルに疎開。「敵は米兵」と教えられながら実は日本軍が一番恐ろしかったこと、盲学校などで教えた教員生活、戦争に向かいつつある現政権への危機感、常に新しいことに挑戦を続ける創作活動についてなど、さまざまなお話を伺いました。

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その山城さんの絵画から続いていく先に、《沖縄戦の図》の部屋があります。
かつて訪れたときには、比嘉豊光さんの「島クトゥバで語る戦世」の写真が展示された壁面の向こうに《沖縄戦の図》が見える、という構成だったのですが、今回は《沖縄戦の図》と向かいあうように比嘉さんのオジイやオバアの写真が展示されていて、彼らの記憶が互いに向き合い、往還するように感じられる空間になっていました。

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屋上から見渡す米軍基地は、日曜日のためかとても静かで、小鳥の鳴き声が絶え間なく聞こえてきました。

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昼食をとった後、佐喜眞館長に浦添市美術館まで車で送って頂きました。
世田谷美術館を手がけた内井昭蔵の設計で、塔と回廊をつなぐイメージという不思議な外観の美術館です。
漆芸専門の美術館とのことで、企画展は「漆器トラベル」。
沖縄とアジアとの歴史的な関わりの深さを感じることのできる内容でした。
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2016/4/30

【沖縄旅行初日】沖縄県立博物館・美術館「宮良瑛子展」シンポジウム  講演・発表

沖縄県立博物館・美術館にて開催中のニューコレクション・シリーズ1「宮良瑛子展―いのち」の関連シンポジウムに参加しました。

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第1部「宮良瑛子をめぐる二つの場所から」では、はじめに宮良さんと、「最初に絵を認めてくれた」という画廊沖縄の上原誠勇さんが対談。
続いて、岡村が2014年に丸木美術館で開催した「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」についての報告を行いました。

第2部のパネルディスカッションでは、「宮良瑛子と沖縄」と題して、宮良さん、上原さん、岡村とともに、沖縄女流美術家協会の後輩画家である山川さやかさんが加わり、担当学芸員の豊見山愛さんがコーディネーターを務めて下さいました。

「沖縄の男性美術家たちが中央の美術団体に流れ込み、モダニズム一辺倒だった時代に、宮良さんはまわりの動きに惑わされずに女性としての自分の目で社会の動きの全体像をとらえていた」と語る上原さん。沖縄美術界の現場に長年立ち会い続けてこられた上原さんの言葉には重みがあります。

そうした状況のなかで、東京から来た宮良さんが、沖縄発の美術のプラットホームを整備しようと苦闘してきたというのも不思議なようですが、「越境者」だからこそ見えたものもあるのでしょう。
外からの目で沖縄を見つめながら、沖縄に根を下ろして外の世界を見つめる視線も育んだ宮良さん。
めまぐるしく変化する20世紀の美術の動向のなかで、「自分はこうするより仕方がない」とみずから選びとった主題と表現を粘り強く深めてこられた仕事が、こうしてまとまって公立の美術館に収蔵され、県民の財産として残されていくことは、激動の時代の記録という点でも、沖縄にとって重要な意味を持つことでしょう。
豊見山さんをはじめ、尽力された美術館の方々の見識に敬意を表します。

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新収蔵品をふくむ約30点の作品と年譜で宮良さんの画業の軌跡をふりかえる展示は、とても見応えのある素晴らしいものです。
宮良さんは「会場が立派過ぎて私の絵が落ち着かない。丸木美術館の展示の方がよく見えた」と何度もおっしゃっていましたが・・・これには苦笑するしかありませんでした。
展覧会は10月16日まで。
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