2016/8/7 NHKラジオ深夜便 「小さな美術館発・平和への願い」

2017/1/19

【ミュンヘン出張A】ダッハウ強制収容所  調査・旅行・出張

ミュンヘン出張2日目は、都市圏鉄道Sバーンに乗って、近郊の町ダッハウ(Dachau)へ。

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この町には、ナチスによって最初期に建てられ、後に多くの強制収容所のモデルとなったダッハウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte Dachau)があるのです。

ダッハウ駅からバスで約10分、強制収容所前の停留所で下車します。
入場は無料。インフォメーションセンターの横を通って、林の中の小路をしばらく歩いて行くと、収容所の入口の建物が見えてきました。

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屋根の上には見張り塔が見えます。
鉄扉には「ARBERT MACHT FREI」(働けば自由になる)の文字がデザインされています。

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門をくぐると、雪が積もっているせいか、敷地の中はとても広く感じました。

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写真では見えにくいかもしれませんが、記念碑の文字のところに、一輪の花が捧げられていました。

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現存する管理棟の前には、1997年につくられたモニュメントが建っています。
有刺鉄線と苦悶する人間の姿がモチーフになっています。

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管理棟の内部はミュージアムになっており、多数の資料で収容所の歴史を伝えています。
記録映像を観るシアターもあり、英語版とドイツ語版が交互に上映されていました。

展示によれば、もともとは第1次世界大戦時の火薬工場として使われていた廃工場を、親衛隊(SS)の兵営にするつもりでナチスが購入したそうです。
しかし1933年3月、バイエルン州警察長官ハインリヒ・ヒムラーが、強制収容所の設置を発表。
当初はナチスの台頭に反対する政治犯や宗教家、前科者、ホモセクシュアル、ホームレスなどを収容するための施設でした。

ユダヤ人の収容が本格化するのは、「水晶の夜」事件や第2次世界大戦がはじまった後のこと。
ダッハウはアウシュビッツのような「絶滅収容所」ではなく、「労働収容所」でしたが、劣悪な生活環境、過酷な労働、さらに拷問や人体実験によって命を落とす人も多かったようです。

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管理棟の裏には、政治犯のための牢獄もありました。
細長い建物の中央を貫く一本道の廊下の両脇には、小部屋がならびます。
窓のほかには何もなく、息がつまりそうな小さな部屋です。

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外に出て、収容者棟に向かいました。
本来、収容者棟は左右に18棟ずつ並べられていましたが、戦後に取り壊され、今は2棟だけが復元されています。
真ん中の道は美しいポプラ並木。70年ほど前に囚人たちが植えたものです。

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建物の内部には3段ベッドがありました。
1棟に250人が収容可能だったとのことですが、ナチスの敗戦が近づくと、前線近くの収容所の囚人が次々とダッハウに移送され、多いときには1,600人があふれかえっていたそうです。
単純計算で、ひとつのベッドを6人以上が使用するという状態です。
水や食糧は不足し、チフスが蔓延しました。

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結果的にダッハウ強制収容所には30以上の国々から20万人が送り込まれ、ユダヤ人はそのうちの3分の1弱の数だったそうです。
そして3万2,000人以上が収容所内で死亡、他に約1万人が疾病、栄養失調、自殺などで亡くなったそうです。

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この日のミュンヘンの最高気温は-2度。最低気温は-14度。
外を歩いているだけで、とにかく寒く、体が芯から冷えていきます。
風は冷たく、粉雪も時おり舞っていました。
室内の展示施設には暖房がありましたが、かつての収容所の寒さは耐え難いものだったでしょう。
寒さに弱い私は、それだけでもう気持ちが沈みます。

収容所の外れの小川の向こうには、小さな死体焼却施設もありました。
それも最後の頃には、あまりの死者の多さに焼却も間に合わなかったのでしょう。
1945年4月、連合国軍が収容所を解放したときには、火葬場の近くにうずたかく死体が積まれ、貨車の中にもそれぞれ100体以上の死体が詰め込まれているのを発見したそうです。

その直後には、米軍によって収容所職員や戦争捕虜が虐殺されたとのことで、つくづく人間の罪の深さを思い知らされる場所でした。
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2017/1/18

【ミュンヘン出張@】ハウス・デア・クンスト「POSTWAR展」  調査・旅行・出張

あちこちに雪の残る氷点下のミュンヘンを再訪しています。
目的は、もちろんハウス・デア・クンスト(Haus der Kunst,芸術の家)で開催されている「戦後:太平洋と大西洋の間の美術,1945-1965」(Postwar: Kunst zwischen Pazifik und Atlantik, 1945-1965)を観るためです。

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以前にも学芸員日誌に書きましたが、ハウス・デア・クンストは、1937年にヒトラーによって建てられ、こけら落としにナチスの推奨する芸術を一堂に集めた「大ドイツ芸術展」を開催したという複雑な過去を背負った建物。
館長は、ナイジェリア出身のオクウィ・エンヴェゾー(Okwui Enwezor)。2015年に非欧米圏出身者で初めてヴェネツィア・ビエンナーレのキュレーターを務めるなど、世界を代表するキュレーターで、今回の展覧会でも、重要な企画者の一人です。

この企画は、第2次世界大戦が終結した1945年から20年間の大規模な世界の変動を、西洋的な視点をずらして多焦点化しつつ、8つのテーマ別セクションを設けて、65カ国の258人の芸術家による350点の作品によって再考しようという試みです。

ちなみに会場内はすべて撮影禁止。
大判の図録は847頁の重厚なもので、値段は67ユーロ。作品解説のみの展覧会ガイドは319頁で10ユーロ。どちらもドイツ語版、英語版の二種類が揃っていました。

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8年の歳月をかけ、多くの研究者やキュレーターが関わり、前例のない規模で結集させたという展覧会を、8つのセクションに沿って紹介していきたいと思います。

   *   *   *

1.余波:零時と原子の時代(Aftermath: Zero Hour and the Atomic Era)

展覧会は、原子爆弾の黙示録的なイメージと、強制収容所の恐怖から幕を開けます。
戦争の終結は、ヨーロッパ主導の政治の終わりと、米国の軍事支配の時代のはじまりを意味しました。それは同時に、冷戦と軍拡競争という新しい戦争を引き起こします。
キノコ雲の図像は、皮肉にも、軍事技術によって地球規模の相互意識が接続する象徴となりました。

原爆に焦点を当てた最初の部屋の正面には、丸木夫妻の原爆の図第2部《火》と第6部《原子野》が掲示され、右側の壁には、イサム・ノグチの《Memorial to Man》の写真が大きく引き伸ばされています。ノグチは核の破壊によって荒廃した地球から火星に文明を移す未来を想像し、ナスカの地上絵のような人類の記念碑を構想しました。
他にもヘンリー・ムアの《Atom Piece》などの彫刻や、カレル・アペルの《広島の子供》などの絵画、山端庸介が被爆翌日の長崎で撮影した写真のうち7点が展示され、アラン・レネの映画《ヒロシマ・モナムール》の部分映像と米軍撮影の原爆投下の記録映像も投影されていました。
ドイツを代表する現代美術家のヨーゼフ・ボイスのインスタレーション《Monuments to the Stag》やゲルハルト・リヒターの油彩画《Bomber》が展示され、展覧会全体の印象を決定づけるような作品の多いセクションでした。

【主な作品】(タイトルをクリックすると出品作の画像に移動します)
Memorial to Man (Isamu Noguchi)
Hiroshima Panels (Iri & Toshi Maruki)
Manifesto Nuclear BUM (Enrico Baj)
Hiroshima Child (Karel Appel)
Atom Burst (Roy Lichtenstein)
Atomic Power (Weaver Hawkins)
Nuclear Composition (Nucleare Movimento)
Liquidation of the Ghetto (Andrzej Wróblewski)
Hand Monument to the Heroes of the Warsaw Ghetto II (Alina Szapocznikow)
Monuments to the Stag (Joseph Beuys)
War (Mieczysław Berman)

2.形象の諸問題(Form Matters)

戦後、欧米を中心に世界を席巻した「アンフォルメル」、「抽象表現主義」、そして日本の「具体」といった非定型を志向した前衛芸術運動に焦点を当てたセクションです。
戦争と破壊をもたらした科学的合理主義への批判から幾何学を拒否し、身体性や物質性、偶然や物理的法則を好んだ戦後の典型的表現であると意味づけられていました。
日本からは草間彌生、工藤哲巳、白髪一雄、嶋本昭三が出品。世界的に広がった運動のため、展示作家数、作品数がもっとも多いセクションでした。

【主な作品】
Big Shot – Gallery J Session (Niki de Saint Phalle)
Sunset in Alabama (Jean Fautrier)
Spatail Concept (Lucio Fontana)
The Flowing Movement and Condensation in mind (Tetsumi Kudo)
Green Square (Mohan Samant)
Work II (Kazuo Shiraga)
Black Form on Grey Square (Antonio Tàpies)

3.人間の新しいイメージ(New Images of Man)

広島、長崎、アウシュヴィッツは西洋文明の失敗を意味していました。しかし、戦後、またしても国連や世界人権宣言などの西洋主導の権威的な枠組みを整備し、「公正」な制度を確立しようという矛盾した試みが生まれます。
芸術家は、抑圧的な社会体制における個人の権利をめぐる議論の中で、人間の本質そのものを深く探究しようとしました。
このセクションでは、フランシス・ベーコンの《教皇》や河原温の《考える男》など、人間性の喪失に恐怖する現代人の変形した姿や、パブロ・ピカソの《朝鮮の虐殺》、ダヴィド・シケイロスの《合衆国のカイン》など政治的な意味を持つ人間像が提示されています。
西側のモダニズムにも東側のマルクス主義にも属さない、非欧米圏の独自の人間像も印象に残りました。

【主な作品】
Baggar in Cirebon (Affandi)
Pope (Francis Bacon)
Man (Maqbool Fida Husain)
Thinking Man (On Kawara)
Massacre in Korea (Pablo Picasso)
Negroes [Nuba] (Gerhard Richter)
Cain in the United States (David Alfaro Siqueiros)

4.リアリズム(Realisms)

冷戦期におけるもう一方の代表的な表現は、ソ連、中国など東側諸国を中心に広がった社会主義リアリズムでした。
雪の中で山越えをする毛沢東と人民の一行を描いた水墨画や、朝日を浴びて大地に立つスターリンの肖像画など、「偉大な人物」を顕彰する作品がひときわ目を惹きます。

とはいえ、「リアリズム」とは決して単一のスタイルだったわけではなく、工事現場で鉄骨の上に座り本を読みながら休憩する労働者を描いたチェコ・スロヴァキアの画家Willi Sitteの油彩画や、米国で黒人教育の歴史を描いたJohn Biggersの作品、そしてアンドリュー・ワイエスのリアリズム絵画などもこのセクションに含まれています。

【主な作品】
The History of Negro Education in Morris County, Texas (John Bigger)
Portrait of Georgy Zhukov, Marshal of the Soviet Union (Vasiliy Yakovlev)
Marching Across the Snow-Covered Mount Minshan (Jia Youfu)
The Morning of Our Motherland (Fyodor Shurpin)

5.具体的なビジョン(Concrete Visions)

戦後の主流となった抽象画はアンフォルメルのような非定型スタイルに代表されますが、南米では「反主義」的な生命主義がモダニズムに結びつき、絵画なら色彩や構成、立体なら素材と量塊を重視する「コンクリート・アート」(具体芸術)が発展しました。
キューバやブラジル出身者の作品が多く、入口の大ホールに天井から吊られている元永定正の色水の作品も、このセクションに位置づけられているようです。

【主な作品】
Color Cube (Aluísio Carvão)
Untitled [Transformable Structure] (Sandú Darié)
Struggle Between Life and Death (Erhabor Emokpae)
Work [Water] (Sadamasa Motonaga)

6.コスモポリタン・モダニズム(Cosmopolitan Modernisms)

おそらく、このセクションが、この展覧会を特徴づけるもっとも重要なテーマなのでしょう。
ここでは、自由や開放といったコスモポリタン(国際人)の概念は、第2次世界大戦を経て、亡命、移住、ディアスポラへと大きく変化した、と定義されています。
「新たなハイブリッド」とは、(旧)植民地の出身者が西洋で学び、あるいは抑圧を逃れた難民が故郷を離れて他の安全な場所を見つけたときに現れるというのです。

とはいえ、残念なことに、このセクションの出品作家を、私はほとんど知りません。
昨年の米国出張の際に個展を観た、米国南部の黒人の歴史を描いたジェイコブ・ローレンスだけは、かろうじて知っていました。
作家の出生地をチェックすると、シリアやイラン、エチオピア、ナイジェリア、スーダン、エジプトといった国が目につきます。しかし、死没地は米国や英国が多いことに気づきます。
今回の展覧会は、作家情報の欄に生没年のほか都市名も明記されています(丸木夫妻の死没地が埼玉でなく東京と誤って記されているのは残念)。
そうした表記は、新たな「コスモポリタン」像を浮き上がらせるための工夫だったのだと気づきました。

【主な作品】
Night Flight of Dread and Delight (Alexander Boghossian)
Early Figures (Avinash Chandra)
Mask with Musical Instruments (Uzo Egonu)
Four Sheep (Jacob Lawrence)
Devil’s Dog (Prince Twins Seven Seven)

7.形を求める国家(Nations Seeking Form)

このセクションも「ナショナリズム」という重要なテーマに焦点を当てています。
第2次世界大戦における大規模な破壊を反省した欧米の芸術家は、腐敗し、軍国主義的な姿勢をとる国家や権力との協調を拒みました。
ジャスパー・ジョーンズによる黒い星条旗の油彩画や、黒人に犬をけしかける白人警官のイメージをシルクスクリーンで印刷したアンディ・ウォーホルの作品などが挙げられています。

しかし、アジアやアフリカ諸国など、新たに独立を勝ち取った国々では、ナショナリズムは異なる価値を持っていたという視点も盛り込まれていました。
「戦後」のこの時期、ナショナリズムという概念は、さまざまな状況の中で変化を続けていたのです。

ナイジェリアの芸術家Ben Enwonwuは、国家のアイデンティティを確立するための表現を模索し、ヨーロッパの偏見を助長しかねない伝統的なマスクや楽器などのイメージをあえて用いて、政治的な役割を果たしています。
また、ユダヤ人の《終わらない航海》を描いたMitchell Siporinの絵画が展示される一方で、パレスチナ出身のIsmail Shammoutが描いた《悲劇の始まり》も並んでいるという点も、興味深いところでした。

【主な作品】
Going (Ben Enwonwu)
The Confederacy Alabama (Robert Indiana)
News of Gandiji’s Death (Krishen Khanna)
Beginning of the Tragedy (Ismail Shammout)
Endless Voyage (Mitchell Siporin)

8.ネットワーク、メディア、コミュニケーション(Networks, Media & Communication)

展覧会の最後のセクションは、ネットワーク技術の進化とコミュニケーションが取り上げられています。
ナム・ジュン・パイクのビデオアートや、松本俊夫の実験映像《銀輪》(今展での出品作家名は「実験工房」)も上映されていました。

戦後20年の「最先端」の映像表現が懐かしく見えるほど、その後のメディアの進化は著しく、資本と結びつきながら、国家やイデオロギーといった従来の概念を超えて、世界規模で影響をもたらしているように見えます。
その問題はこの企画の射程ではありませんが、メディアアートの登場が示すのは、すでに前兆が生まれていたということでしょう。
新たな技術の時代の幕開けは、功罪を併せ持ちながら大勢の人間の運命を押し流していくという点で、最初のセクションに取り上げられた原子力にも接続していくように思いました。

【主な作品】
Ginrin [Silver Wheel] (Jikken Kōbō)
Cut Piece (Yoko Ono)
Axle (Robert Rauschenberg)
Electric Dress (Atsuko Tanaka)

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2015年を中心に、日本国内でもやはり「戦後70年」あるいは「1940年代」を回顧する企画が続きましたが、国内だけの視点では見えないものがあまりにも多いと、この展覧会を観て痛感しました。

《原爆の図》についても、単独で展覧会を開いた昨年の米国巡回展とは、まったく異なる視点を提示されたような気がします。
ほとんどのセクションのテーマに、《原爆の図》との関連性を見出すことができそうです。

この展覧会に出品されたことの意味をどう考えるのか。
すぐに結論を出すのではなく、今後じっくりと考え続けていきたいと思いますが、ともあれ、《原爆の図》の歴史に残る、重要な展覧会であったことは確かでしょう。
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2017/1/16

熊谷守一宛赤松俊子書簡資料  作品・資料

愛知県美術館のI学芸員から、岐阜県歴史資料館が所蔵している熊谷守一書簡資料の中に、赤松俊子(丸木俊)から熊谷宛の1940年代の書簡があるという貴重な情報を頂きました。
以下、その4通の葉書・書簡を書き起こします。

最初の書簡は、1940年に俊が単身旅行した「南洋群島」からの葉書。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和15年2月2日消印
南洋ヤップ島コロニー南拓吉田方
赤松俊子

先生。奥様は如何ですか。
こゝは汗を流し。眞黒になつて
描いてゐます。人間はみんな南に
発生して、動いてゐるうちにもゝ色の
や、黄色のや黒いのが、その土地、土地
で出来上ったのだらうと考へてよろ
こんでゐます。不便ですから遠い遠い
所だと思つてゐます。虫がないてゐます。


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住所が「ヤップ島」とありますが、2月にはまだパラオ諸島にいたのではないかという疑問はあります。
「南拓」とは南洋拓殖株式会社の略で、大日本帝国の南洋進出のための国策会社。本社はパラオ諸島コロール島にあり、燐鉱探掘や海運、拓殖・移民事業への支援を行っていました。

2通目は3月3日の消印で、こちらは「パラオ島」から。
「かやちゃん」とあるのは、現在、豊島区立熊谷守一美術館を守っている娘さんの熊谷榧さんですね。

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熊谷守一先生・奥様、かやちゃん・まんちゃん・ぼーっちゃん宛葉書
昭和15年3月3日消印
パラオ島 赤松俊子

よく先生のおうちのことを思い出します。
この間は七十とん位の船で小さな島に行きまし
た。荒海をサンブサンブと走りました。デツキで勇
ましい人のやうに唄ってゐましたが、大波にザブリと
顔を洗はれてしまひ、すっかりしよげて船室に入り
ました。そしたらすつかり船よひをして赤公は蒼白
になりました。まはりを一丈近い白波にかこまれた小さな
島に、島民(土人のことを言います)も日本人も一しよになつ
一つぱい住んでゐました。地球といふところは誠に、人の住
むべく出来た所よと感たんいたしました。描くより遊ぶ
方が多い毎日で、孤独といふことや放浪といふことなど考へてゐます。


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3通目は、翌1941年、丸木位里と結婚して広島・三滝町の位里の実家に挨拶に行ったときの書簡。

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熊谷守一先生宛書簡
昭和16年8月21日消印
広島市三瀧町
丸木位里内
赤松俊子

(前欠)
何かをと考へてゐましたが、これがこちらの
名物ださうです。
大根おろしに醤油かけて召上つて下さい。(ほかに
どんな調理法があるか私はよくしりませんが。)

暑いけれどもカラリとした夏です。こゝは乾燥
してゐるからかと思います。

今年は日本画の材料で描きました。おかしいで
せうか。御批評下さいませ。持って東京へ
行くの止めました。あんまり家中が大さわぎて手
傳つて横着よめさんごはんたきもしなかつたので気
がひけるので。

田舎にでもこんなやさしい人はないだらうと思ふ程両親
はやさしい人です。びっくりしてゐます。
けんくわ腰で生きてゐた私は、こんどは腰ぬけ武士
みたいになるかと思っておかしがつてゐます。ヒョウシヌケ
のやうですから。
これでもまだ強情っぱりでそんなゑを描いて行ったら、よ
つぽどのガンコ者だと思ってゐます。
 赤松俊子
熊谷先生
奥様
オムコサンの位里は、先生の所へ伺ったことよろこんで時々先生がして下さった話しを
言ひ合つてゐます。


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前半部分が欠落しているので、話が途中からになっているのですが、「大根おろしに醤油をかけて」食べる「名物」というのが気になります。
「今年は日本画の材料で描きました」とあるのは、《アンガウル島へ向かう》《休み場》《踊り場》というこの時期に手がけた実験的な南洋の三部作を指すのでしょう。
位里の影響を受けたと思われる墨の滲みやかすれを生かした、後の《原爆の図》の前触れとも思える作品ですが、先日来館された画家・研究者のGさんによれば、「この時期の熊谷も日本画作品を手がけていて、油絵具が入手しにくくなっていた時期に洋画家が日本画素材を使うようになっていたかもしれない」とのこと。
こうした時代背景の検証も必要なようです。

最後は、やはり広島からの葉書。
書きかけて中途でそのままになっていたものを、あらためて加筆して出したもののようです。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和16年8月28日消印
廣島市三瀧町
丸木位里方
赤松俊子

暑うございます。
御げんきでゐらつしやいますか。
私は
こちらへ参りました、こちらでゑを
作らうと考へてゐります。
今日は山へ行つて瀧を浴びてきました。

コレハヅツトマヘニカイテソレナリニナツテヰタハガキデシタ、先生から
のおたよりをとてもよろこびました。


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俊が熊谷守一を師として慕っていたことが伝わってくる、貴重な書簡資料。
2012年に一宮市三岸節子記念美術館で開催された「生誕100年 丸木俊展」では、南洋の三部作がそろって公開されていたので、こうした書簡も紹介できれば良かったのですが、資料の存在を知らなかったことが返す返すも残念です。
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2017/1/15

NHKラジオ深夜便「明日へのことば」再放送のお知らせ  TV・ラジオ放送

1月18日(水)午前4時台のNHKラジオ第1放送の番組「ラジオ深夜便」で、昨年8月7日午前4時台に放送された「小さな美術館 平和への願い」のアンコール放送が行われます。
詳しい番組表はこちらから。
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/pro/b2.html

あらためて、番組を企画して下さったディレクターの齊藤佳奈さんに感謝です。
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2017/1/14

山下アキ イラスト展 まつやまノート  他館企画など

東松山駅近くの元米屋を改装したcomeya gallery。
ご夫婦が土曜日限定で開けている小さなスペースで開催中の「山下アキ イラスト展 まつやまノート」を見てきました。
http://yamashitaaki.com

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長崎生まれ、安西水丸塾出身のイラストレーターである山下さんが、画廊のオーナーに連れられて東松山の町を歩き、自分の好きな風景や建物を線画・点描のかわいらしいイラストで描いています。

嬉しいことに、11点の作品の中には、丸木美術館の外観や、駐車場に立つメタセコイアの大樹も描いたものが含まれています。
山下さんが長崎出身ということもあるのですが、丸木美術館の建物や風景も気に入って下さったようです。

他に、県立松山高校、本町通り、駅前通りのレトロな家、丸十製陶所、市野川のほとり、国島金物店、下沼の風景、八幡神社、島田歯科医院の待合室が描かれています。

会期は1月21日まで。と言っても、もう21日だけしか開いていないのですが、お近くの方は、どうぞお見逃しなく。
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2017/1/14

『神戸新聞』に原爆の図複製画展の紹介  掲載雑誌・新聞

「原爆の図」鑑賞し平和学習 姫路・白鷺中
 ―2017年1月14日付『神戸新聞』姫路版
http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201701/0009827870.shtml

現在、兵庫県姫路市の白露中学校で展示中の《原爆の図》原寸大複製についての記事が、神戸新聞姫路版に紹介されました。
小さな企画ですが、美術の先生が熱心に準備をして実現した企画です。
子どもたちの心に、絵の迫力が届くと良いですね。
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2017/1/9

シンポジウム「道場親信の思想と仕事」  他館企画など

午前中、美術教育を進める会の方々が丸木美術館を訪れて下さったので、昨日の続きで簡単に館内の説明。小高文庫で昨年のNHK広島局の番組を見て頂いた後、午後からは東京・水道橋の在日本韓国YMCAアジア青少年センターで開催されたシンポジウム「道場親信の思想と仕事:『下丸子文化集団とその時代』刊行記念の集い」に駆けつけました。

シンポジウムの内容は次の通り。

1. サークル文化運動をめぐって
  宇野田尚哉(東アジア冷戦と広島の運動の観点から)
  水溜真由美(筑豊の運動とサークルネットワークの観点から)
2. 住民運動・市民運動をめぐって 安田常雄
3. 戦後論と反戦平和運動をめぐって 太田昌国
4. 社会運動の夢と文化をめぐって 酒井隆史
(司会)戸邉秀明


登壇者の方々が、それぞれ、道場さんの若すぎる死を受けながら、彼の後に残されていったものを整理しようと努めている様子を、共感しながら聞き続けました。

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道場さんが亡くなってしまったことはいまだに信じられないけれども、シンポジウムのおかげで、著作の中に「存在」する道場さんが語りかけてくれるし、そのために、これから1950年代という時代に向き合う中で、いつまでも道場さんを近くに感じ続けるだろうと、少し落ち着いて考えられるようになった気がします。

個人的には、共産党の強い影響下に展開され、後に共産党の方針転換により全否定されたという悲壮感の漂う1950年代の文化運動を、これほど明るく軽やかに、楽しそうに語ることのできる人がいるのか、というのが、道場さんに出会って感じた一番の衝撃でした。
道場さん、鳥羽さん、川口さんという三人の、比較的年齢も近い先輩たちの「明るさ」がなければ、1950年代の《原爆の図》全国巡回展の調査に乗り出す勇気も出なかったでしょう。

シンポジウムの席で酒井隆史さんは、「末端」の立場で左翼運動にかかわっていたというご自身の父親の話を「だからこそ聞きたいんだ」と言ったという道場さんについて、やや誇張気味な表現だと断りながら、歴史の「メシア」だったかもしれないとおっしゃっていました。

『反戦平和』という課題を担う運動は多岐にわたる。課題も“現場”もそれぞれ切実に存在する。それを一挙的に「結集」することは不可能だし、運動経験に対する敬意にも欠けている」(『占領と平和』)

歴史を使い捨てるのではなく、歴史と対話すること」(『抵抗の同時代史』)

こうした道場さんの言葉に導かれながら、これからも、自分の課題を見つけ出していこうと思っています。

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写真は2015年4月に丸木美術館で開催した幻灯上映会の一場面。
左から鳥羽さん、鷲谷さん、道場さんです。
このとき道場さんは、奥多摩山村工作隊製作の幻灯「山はおれたちのものだ」を、本当に楽しそうに熱演されていました。
忘れられない思い出です。
http://fine.ap.teacup.com/applet/maruki-g/201504/archive
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2017/1/9

『毎日新聞』に富山妙子展紹介  掲載雑誌・新聞

富山妙子さん:新作油彩画など特別展示 14日まで、丸木美術館
 ―2017年1月9日付『毎日新聞』東京版
http://mainichi.jp/articles/20170109/ddl/k13/040/006000c

以下は、記事からの一部抜粋。取材して下さった明珍美紀記者に、御礼を申し上げます。

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「終わりの始まり 始まりの終わり」と題した今回の展示では、赤く染まった旧満州の荒野や、福島の原発事故などをモチーフにした新作をはじめ、過去の作品のプリントを組み合わせたコラージュなど計30点が並ぶ。高橋さんと会場を訪れた富山さんは「アジアとの真の友好関係を築くことこそ大事。生きている限り描き続ける」と話した。

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2017/1/8

「美術教育を進める会」主催講演会  講演・発表

寒い中、震えながら都心に出て、東京家政大学で行われた美術教育を進める会主催の講演会「原爆の図の旅と非核芸術」へ。

美術教育にたずさわるさまざまな方々に向けて、2時間ほど映像を交えて話をしました。
内容は、1950年代の《原爆の図》誕生の背景から全国巡回、そして「3.11」後の現在まで続く“非核芸術”の紹介。
日頃、やんちゃな生徒たちに接しているためでしょうか、Chim↑Pomの話になると、会場の皆さんが思いのほか盛り上がって下さったので、こちらも調子に乗って長めに話してしまいました。

講演会の後は、近くの喫茶店で打ち上げ会。
皆さんの感想もとても勉強になり、全体的にとても好評だったので嬉しく思いました。
とはいえ、ずっと話しっぱなしだったので、風邪はやや悪化。
その後の夕食会はキャンセルさせて頂いて、大事をとって早めに帰宅しました。

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写真は東京家政大学教授を務めた長沼孝三のレリーフ《愛の花園》(1978年)。
帝展、日展などの官展系で活躍した彫刻家で、1949年7月には上野駅前広場に戦後初めての野外彫刻《愛の女神》を設置したことで知られています。
社会批判や念仏踊りを主題にした作品を日展に出品し続けていたというので、少し調べてみたいところです。
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2017/1/7

『丸木美術館ニュース』第128号発送作業  美術館ニュース

丸木美術館ニュース第128号の発送作業。
毎年恒例、新年最初のボランティア作業は、19人という大勢の方々が集まって下さり、無事に作業は終了しました。
皆さま、いつも本当にありがとうございます。

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今号の表紙は、おめでたい作品ということで、丸木スマの《春駒》。
開館50周年のスタートにふさわしい絵だったのではないでしょうか。

ニュースの内容は以下の通りです。

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丸木美術館ニュース第128号 (発行部数2,200部)

ミュンヒェンの芸術の家に掲げられた《原爆の図》(柿木 伸之)…… p.2
平塚市美術館「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治展」を終えて(勝山 滋)…… p.3
壷井明、街へ! もう一つの別の現代美術(粟津 ケン)…… p.4
富山妙子展「終わりの始まり、始まりの終わり」展を観て、イベントに参加して(レベッカ・ジェニスン)…… p.5
平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞受賞報告 まだ終わらない本、これから始まる本(村山 恒夫)…… p.6
元理事長 水原孝さんを偲ぶ/監事 若本武志さん逝去/リレーエッセイ第58回(関町 卓朗)…… p.7
丸木位里・丸木俊の時代〈第24回〉位里と歴程美術協会(岡村 幸宣)…… p.8
丸木美術館開館50周年に寄せて〈第4回〉わたしと丸木美術館(草薙 静子)…… p.10
丸木美術館情報ページ/美術館の書棚から(小寺 美和)…… p.11
写真で見る 丸木美術館の日常風景(山口 和彦)…… p.12

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ご執筆下さった皆さま、どうもありがとうございました。
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2017/1/6

「柳幸典展」「クラーナハ展」「坂口寛敏展」  他館企画など

新年はじめの美術館巡り。
まずは横浜へ行き、閉幕間近のBankART Studio NYKの柳幸典「ワンダリング・ポジション」展(1月7日まで)。

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1階から3階までの会場を効果的に使って、憲法第9条の条文がネオンで分節化され解体された《アーティクル9》など、社会的な批評性を含んだ過去の作品を一堂に会する見応えのある展示でした。

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1990年代に制作された、代表作ともいうべき《アント・ファーム》シリーズは、砂に着色して国旗や紙幣を描き、プラスチックのケースをチューブでつないで、アリに境界を浸食させるというコンセプト。
国家という人工的な概念を揺さぶるアリたちの「自然な」営みは、境界なき現代社会を生きる私たちの姿のようにも見え、あらためて示唆に富んだ作品だと感じます。

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3階部分には、ギリシャ神話のイカロスのエピソードをもとにした三島由紀夫の「太陽と鉄」の言葉が浮き上がる鏡の迷路が設置され、「天空」に向かって歩き続けると、突然、広島型原子爆弾リトルボーイの「原寸大」彫刻に突き当たります。

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さらに、《目のある風景》という靉光のシュルレアリスム絵画を思わせる副題のついた、肉塊ならぬ瓦礫とフレコンパックの山の中からこちらを見つめる巨大な眼のインスタレーション《Project God-zilla》にたどり着きます。

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90年代から社会の「揺らぎ」を表現してきた柳さんの、ひとつの帰結点として提示された「3.11」後の世界。
その余韻に浸りながら、上野に移動して、国立西洋美術館「クラーナハ展―500年後の誘惑」へ。

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日本初の本格的回顧展ということで、ヨーロッパの美術館ではたびたび目にするユディトやサロメ、ヴィーナス、ルクレティアといった彼独特の細身の女性像を、あらためてじっくりと見ることができました。
村山知義、岸田劉生といった日本の画家たちへのクラーナハの影響が紹介されていたのも興味深かったです。

最後に、東京藝術大学美術館「坂口寛敏退任記念展 パスカル 庭・海・光」へ。

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坂口さんには、2008年に丸木美術館で行った「シシュポス ナウ―罪と罰のでんぐり返し―」展でたいへんお世話になりました。
以後、たびたびお会いする機会があり、教え子の生徒たちと丸木美術館との関わりもあったので、退任記念展はぜひ拝見したいと思っていたのです。

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こちらも「3.11後」の世界の提示でしょうか。
防護服や灰、鉛に包まれた枯木などが素材として用いられながら、しかし、整然と“美”を主張しています。
会場では、坂口さんの担当教官に当たる野見山暁治さんのお元気そうな姿を見かけ、坂口さんからはミュンヘン滞在の思い出やヨゼフ・ボイスの話を伺って、ちょっと元気になったような気分で、早々に帰宅しました。
まだ少し正月の風邪を引きずっているので、レセプションは失礼しました。
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2017/1/4

『「サークルの時代」を読む――戦後文化運動研究への招待』  書籍

2017年、丸木美術館開館50周年の節目の年の仕事始め。
年末年始の休館中に、戦後文化運動合同研究会の10年間の貴重な活動の成果をまとめた『「サークルの時代」を読む――戦後文化運動研究への招待』(影書房)をご恵送頂きました。

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東京南部の下丸子文化集団、大阪の『ヂンタレ』、広島の『われらの詩』、九州の『サークル村』など、1950年代には各地でサークル運動が同時多発的に広がっていきました。
そうしたサークル運動の多くが、2000年代に入ってから、これまた同時多発的な「発見」があって若手研究者たちを中心に読みなおされていくのですが、その中心的役割を果たしたのが戦後文化運動合同研究会でした。

丸木夫妻が《原爆の図》を背負って全国を巡回したのも、1950年代はじめの占領下/朝鮮戦争下。
まさに「サークルの時代」であり、各地で展覧会に尽力した人びとの中には、サークル運動関係者が少なくありませんでした。
私が広島大学の川口さんから声をかけて頂いて、1950年代の原爆の図全国巡回についての報告をしたのは、2009年8月の原爆文学研究会・戦後文化運動合同研究会でした。

そのときは、自分がなぜこの場で発表しているのか、原爆文学研究会や戦後文化運動合同研究会が何者であるのか、まったく理解していなかったのですが、この本によって、戦後文化運動研究会の歴史を初めて知り、自分の研究が偶然にもその大きな流れのひとつであったことに気づきました。

昨年9月に亡くなられた道場親信さんの遺著『下丸子文化集団とその時代――一九五〇年代サークル文化運動の光芒』(みすず書房)とあわせて、この機会にあらためて、「サークルの時代」の意味を読みなおしたいと思っています。
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2016/12/28

『中国新聞』に富山妙子展紹介  掲載雑誌・新聞

未来への伝言 95歳の筆 富山妙子さん特別展示
 ―2016年12月28日付『中国新聞』
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=67968

中国新聞社文化部森田裕美記者の記事。
先日、峠三吉100周年企画記事のために来館されたのですが、「憧れの人」という富山さんの特別展示も紹介して下さいました。
以下、記事からの抜粋です。

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「富山妙子 終わりの始まり 始まりの終わり」展。出品は30点と小規模ながら、「芸術とは何か、何のために描くのか」と自問を重ねてきた画家の、未来への伝言のような空間になっている。

 神戸市に生まれ、少女時代を旧満州(中国東北部)で送った。本展のために制作した「始まりの風景」は、赤く染まる広大な大地。「私にとって旧満州の風景は、戦争の始まりであり、私の人生の始まり」と話す。

 その行き着いた先にある現在。同じく新作の「終わりの風景 崩れゆくもの」=写真=も赤が鮮烈だが、奥には深い闇が広がっていて、暗く重苦しい。経済大国へ突き進んだ社会の末路を表したといい、遠景のきのこ雲や崩壊した建物が、中央に配した異様な塊への想像をかき立てる。

 福島第1原発後に描いた「フクシマ―春、セシウム137」なども出展。富山さんは「ひとたび戦争をすると、苦しみは世代や世紀を超えても癒えない。原発事故も同じ」と語った。


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富山妙子さんの特別展示は1月14日までです。
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2016/12/26

『琉球新報』連載「落ち穂」最終回 「命」の絵画  執筆原稿

2016年12月26日付『琉球新報』連載「落ち穂」最終回 「命」の絵画

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14回にわたった連載コラムもこれで終了です。ご愛読ありがとうございました。
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2016/12/24

第51回原爆文学研究会/坂口博『校書掃塵』  調査・旅行・出張

クリスマス・イヴにもかかわらず、神戸センタープラザで開催された第51回原爆文学研究会に参加。いつものように濃密な内容で、6時間半にわたって白熱した発表・質疑が続きました。

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研究発表1 林京子:核と帝国と日本人娼婦 山崎信子(リーハイ大学・アメリカ)
研究発表2 音楽における原爆の表象──原爆詩の扱いとその変遷に着目して── 能登原由美(「ヒロシマと音楽」委員会委員長)
研究発表3 台湾現代文学における「核」の表象 李文茹(淡江大学・台湾)
原爆文学「古典」再読4──峠三吉『原爆詩集』 発題者:川口隆行(広島大学)/野坂昭雄(山口大学)


山崎さんの発表は、林京子の作品に登場する日本人娼婦(具体的には『黄砂』の「お清さん」)に焦点を当てながら、上海租界の日本人コミュニティから「国辱もの」と阻害される彼女に対する作者の共感を、「3.11」後の脱原発行動に結びつけて考える内容でした。

能登原さんの発表は、原爆音楽に取り上げられた被爆詩人による原爆詩を分析するもの。詩を中心に見ていくので、音楽といっても合唱曲が中心になります。
もっとも多く取り上げられていた詩人は峠三吉(25作品35曲)で、『原爆詩集』の「序」つまり「にんげんをかえせ」の知名度とインパクトは大きいのですが、その多くは50〜60年代で、2000年代以後は1曲も作られていないとのこと。
逆に2位の原民喜(23作品24曲)は、60年代まではほとんど取り上げられていなかったものの、70年代以後に増え続け、2000年代にも林光の「原爆小景完結編」(2001年)や信長貴富の「無伴奏混声合唱のために「廃墟から」より」などの曲が生まれています。
ちなみに3位は栗原貞子(20作品25曲)で「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」といった特定の曲が多く取り上げられ、以下、米田栄作(13作品30曲)、橋爪文(9作品14曲)、大平(山田)数子(8作品15曲)と続いていきます。

もっとも多く取り上げられた詩篇は峠三吉『原爆詩集』より「序」の12作品ということですが(2位は原民喜『原爆小景』より「永遠のみどり」8作品、3位大平(山田)数子「慟哭」7作品、4位原民喜『原爆小景』より「コレガ人間ナノデス」と峠三吉『原爆詩集』より「八月六日」ともに5作品)、その中に、岡田和夫の「峠三吉の詩による混声合唱のための主題と変奏」(1959年)が入っていることが目に留まりました。
岡田は1967年に宮島義勇が監督となり製作された映画『原爆の圖』(映画『原爆の圖』製作委員会)で音楽を担当し、クライマックスのシーンで「ちちをかえせ ははをかえせ」の混声合唱が歌われているのです。
映画のために作られた合唱曲かと漠然と考えていましたが、同一の曲であれば1959年にすでに作られていた曲を映画で使用したということになります。能登原さんに確認したところ、岡田はまだ存命で活躍中とのこと。機会があれば、ぜひ一度当時のお話を伺いたいところです。

李さんの発表は、原爆投下が植民地支配からの解放を意味する歴史的シンボルである台湾における「核」の表象について。
中国の核保有や原爆の被害についての報道がほとんどない中、1980年代に「抑圧されている人びと」、原発労働者や少数民族の電力会社に対する抗議運動を紹介した雑誌『人間』には、日本の原発報道の草分け的存在である樋口健二の写真が多く使われていたそうです。
この雑誌は反政府(つまり反国民党、親中国)的な立場の雑誌で、公害問題や社会問題を追及することで国民党政府を批判し、中国本土の日本に対する戦争責任への追及や反帝国主義の動きと連動しているという指摘も興味深く聞きました。

峠三吉『原爆詩集』の再読では、岩波文庫版に収められたアーサー・ビナードの解説で、「朝」で繰り返される「ゆめみる」のフレーズについて「一種の諷刺性にも聞こえる気がする」と述べている個所に、「当時の峠は米国の“原子力の平和利用”とは関係なく、ソビエトの綱領に即して“ゆめ”見ていたのでは?」という批判と、「それでもなお、3.11後の私たちには、その読み替えが意味を持つ」という意見がたたかわれたのがスリリングで印象的でした。
作品が作られた当時の社会の文脈を解読しつつ、今の時代にどう読み直し、意味を見出していくのか。その問題は、丸木夫妻の《原爆の図》にもつながっていくことでしょう。

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今回の研究会に参加した目的のひとつは、原爆文学研究会創設以来、会の中心となって活動をしてこられた坂口博さん(火野葦平資料館館長)の『校書掃塵 ―坂口博の仕事T―』(花書院)を入手することでした。
坂口さんが長年書き重ねてこられた、火野葦平や「サークル村」などに関する論考50本と、書誌篇の22誌の総目次解題をまとめた600頁を超える著作です。

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坂口さんには、2009年に初めて原爆文学研究会に参加したときから、たびたび貴重な情報やアドヴァイスを頂いてきました。とはいえ、これまで坂口さんがどのような仕事をされてきたのか、私はほとんど知らなかったのです。
これだけのヴォリュームになると、すべての文章に目を通すのもたいへんですが、興味を惹かれた部分を拾い読みしていくと、筑豊の地に根を下ろして、地を這うように文学の原点を掘り進めてきた坂口さんの姿が少しずつ見えてくるような気がします。

あとがきに書かれた次の一節は、坂口さんの著書、そして原爆文学研究会の空気を象徴しているように思いました。

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 第1部から第6部まで、長短五十本の論考を集めたが、その大半を火野葦平関連が占めることとなった。この傾向は、その後も続いているが、ほかのパートに関しても、やり残している課題はまだ多い。また、ここ十数年は自らの嗜好による仕事よりも、依頼されたものが多く、もともと取り組みたい問題に向かう余裕がなかった。もちろん、さまざまな関係性のなかで、多くは数人の協働作業による仕事は、それはそれで新たな知見を得る、いい機会となっている。二十代、三十代をほとんど孤独に進み、そのまま進むことを想定していた私にとって、考えられない事態である。

 そうしたなかで、私の文学に対する考えも、次第に変容したに違いない。

 個人的営為としての文学表現から、集団創造への力点の移動はもとより、文化運動・文学活動における「下から」の方向性は、けっして譲れないものとなっている。文学に限らない現在の閉塞状況を打ち破るためにも、その裾野からの拡がりに期待したい。トップダウンではなく、ボトムアップ方式こそが、新たな地平を拓く。

 そのような意図を強めながら、これらの仕事を進めてきたのだった。著名な詩人・小説家といった表現者を産み出す背後に、数多くの〈無名〉の表現者がいる。彼/彼女らを視野に入れてこそ、ひとりの表現者の世界も見えてくる。そして、この作業に終わりはない。ただ、本書でもって、その方向性だけは指し示すことができただろう。第7部書誌篇(ここの内容については、その扉裏に説明している)の人名索引には、千名を超える名前が並ぶ。その全員の来歴を明らかにしたいという、私の欲望は消えない。現実には、その二割もわかっていないに違いない。


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著名な表現者を生み出す背後に、数多くの〈無名〉の表現者がいる――その言葉は、《原爆の図》を手がかりにして、未知の1950年代の人びとの姿を追い続けてきた自分には、実感を持って響くものでした。

《原爆の図》全国巡回展の動向を調べはじめたばかりの頃、丸木美術館の関係者も含めてほとんど反響がなく、「孤独」のままに調査を進めていた私にとって、原爆文学研究会との出会いは、(褒められるにせよ、厳しい意見を頂くにせよ)初めてきちんと仕事に向き合ってくれる人たちとの出会いでもあったのです。
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