2017/4/21

【広島出張2日目】アートギャラリーミヤウチ/ギャラリー交差611  調査・旅行・出張

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が、館内の職員に呼びかけて原爆の図保存基金に協力して下さることになり、この日は朝8時半の開館と同時に館長さんに御礼のご挨拶。

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丸木夫妻はまだ遺影登録をしていないというので、登録用紙を頂きました。
さっそくご遺族の方と相談しなければ。

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意外に未登録の方も多いそうで、祈念館としては登録を呼びかけているとのことです。

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その後、廿日市のアートギャラリーミヤウチにて「テレポーティング・ランドスケープ」展と、英国のグループ・オトリスの映像作品《ラディアント》を観ました。

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学芸員の今井さんには、こちらの都合で通常開館の1時間前にギャラリーを開けて頂き、とてもありがたかったです。

「テレポーティング・ランドスケープ」は、「観る者を時空間の彼方へと瞬間的に拉い去る」風景、というコンセプト。

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例えば、小田原のどかさんの作品《↓》は、かつて長崎爆心地に設置されていた矢形標柱を、ネオン管を使って、3階から2階へ突き抜けるように実寸大で再現しています。
この矢形の意味を知った瞬間、この場所は爆心地となり、あるいは私たちの方が長崎爆心地へと拐われる、ということでしょうか。

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小宮太郎さんの《垂直で水平な風景を撮る》という作品は、一見、ありふれた窓のようですが、この画廊の窓の複製で、彼はこの窓を新潟や京都、小倉に持って行き、風景写真を撮っています。これらの土地に共通するのは原爆投下候補地であったということ。つまり、広島とそれぞれの土地が、彼の作品を媒介にして突如入れ替わるのです。

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諌山元貴さんの《screen》は、焼成していない陶土の壁が、徐々に水に侵食されて崩れ落ち、やがて壁の向こうの白い光に包まれるという無音の映像作品。
丸橋光生さんの《像と棒》は、石膏像などに斜めに棒を立てかけることで、重心を視覚的に揺さぶる作品で、いずれも観客の先入観を異なる次元に「瞬間移動」させる展示になっていました。

オトリスの1時間ほどの映像《ラディアント》は福島原発事故をテーマに、港千尋、重信メイらのインタビューと、古今のさまざまな原発ドキュメント、震災、アート関連映像と音楽をモンタージュしながら、核と現代社会の問題性を多層的に浮かび上がらせる作品。2012年のドクメンタ出品作で、日本では初公開とのことでした。

昨日初めてお会いした写真家のSさんが、「あの立地で、あれだけの企画をされると、われわれは何も言い訳ができなくなる」とアートギャラリーミヤウチを評価していたけれど、意欲的な企画には本当に感心させられます。
広島の中心部からは少し離れていますが、無理しても足を運ぶ意味のある場所だと思います。

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そして最後に、ギャラリー交差611で始まった小原一真写真展「silent histories/ 沈黙ノ歴史」に駆け込みました。
以前に新井卓の公開制作が行われた新興のギャラリーで、その時は都合がつかなかったから、今回訪ねることができたのは幸運でした。

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小原一真さんは1985年生まれの若い写真家で、主に福島原発やチェルノブイリをテーマに撮影し、すでに国際的に高い評価を受けています。
今回は、大阪大空襲によって身体に傷を負った方々の長く重い「沈黙ノ歴史」を、ポートレイトや資料、本人の証言テキストなどを組み合わせて表現していました。

展覧会の初日だったこともあり、写真家本人にも会って話をすることができました。
福島やチェルノブイリの作業員も、大阪の空襲被害者も、「復興」に向かう社会の中で置き去りにされ、苦しみの声をあげることもできずに沈黙を強いられた立場の人たち。そんな彼らの痛みをどう受け止め、表現していくことができるかを考え続けている姿勢が伝わってきて、飛行機の出発までの限られた時間でしたが、刺激的な会話は楽しいものでした。

手作業で本を作るのが好き、とのことで、ちょうど展覧会のカタログも自分で綴じていたので、注文して後から送ってもらうことにしました。
手もとに届くのが楽しみです。
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2017/4/20

【広島出張初日】広島市現代美術館「殿敷侃展」  調査・旅行・出張

広島出張。夏の展覧会と秋の重要案件の打ち合わせ・ご挨拶の仕事を終えて、午後は詩人の井野口慧子さんとともに広島市現代美術館の「殿敷侃展」に行きました。

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殿敷侃は1942年広島生まれ。3歳のときに父が爆心地付近の広島郵便局で原爆に遭遇し、直後に母とともに父を探して入市、二次被爆しました。
そのため8歳で母を失い、高校卒業後、国鉄に勤めますが、20歳の頃に肝臓病のため長期入院、絵を描きはじめます。

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鉄かぶとなど両親の遺品を細密な点描で描いた作品は以前に観たことがありましたが、今回の展覧会では、初期の具象的な油彩画(最初期には、川べりの「原爆スラム」を描いた作品がありました)や、『朝日ジャーナル』の表紙を飾ったポップアート、アンディ・ウォーホル風のシルクスクリーン作品、ヨーゼフ・ボイスの影響を受けた晩年の廃物や漂流物のインスタレーション作品など、50歳で亡くなるまでの表現の全貌を俯瞰することができました。

一見、原爆から離れていくようなテーマの作品でも、例えばエッチングではクギや櫛などのモチーフを型取りして転写するような手法が原爆の影を想起させ、シルクスクリーンでは父の遺した爪のイメージが増殖して新聞紙やポスターなどの画面全体を覆い、プラスチックの廃材を焼き固めたオブジェは社会において不当に蹂躙された存在を想起させるというように、原爆体験とは切り離すことができません。

1981年、日本被団協が被爆者援護法の制定を求める運動として全国で上演した構成劇「原爆の非人道性と国の戦争責任を裁く国民法廷」の山口会場で、殿敷のキノコ雲やケロイドをモチーフにしたシルクスクリーン作品が舞台美術に使われ、体験を語る証人のひとりとして殿敷自身も「出廷」したという話も興味深いところです。

同行した井野口さんは、晩年の海の漂流物を使ったインスタレーションのプロジェクトに参加されていたとのことで、作家の人柄や当時の「協働」の記憶などのお話を伺いながら、会場を観てまわりました。

展覧会は5月21日まで。4月29日(土)午後2時からは、原爆文学研究会でもお世話になっている広島市立大学の柿木伸之さんの講演会も行われます。
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2017/4/18

本橋成一写真展「ふたりの画家」展示とNHKラジオ  TV・ラジオ放送

本橋成一写真展「ふたりの画家」展示作業の光景です。

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写真左端はスタッフの仕事を温かく見守る本橋さん。
天井から吊った丸木夫妻の写真が格好良いですね。

4月18日(水)午後6時からは、NHKさいたま放送局のFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に出演して、本橋成一写真展と、丸木美術館開館50周年、「原爆の図保存基金」について、渡辺裕之アナウンサーとお話しします。

今年の5月は話題が盛りだくさんです。
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2017/4/18

共同通信配信「学芸員、大臣「がん」発言に憤り」  掲載雑誌・新聞

自宅で、いろいろと仕事に追われていた休館日。
突然、世の中では「学芸員」が注目ワードになったらしく、共同通信社の記者から電話がありました。

まともに語るべくもない話題とも感じましたが、最近の一連の閣僚の「失言」の数々には、バラバラの事象のようで、一貫した暴力性を感じています。そして彼らが決して「失言」と思っていないであろうことも。
また、現在の学芸員を取り巻く環境や、もしかすると教育現場などの状況の悪化も、こうした空気とは決して無関係とは言えないのではないか、とも考えています。

配信された記事は、『日本経済新聞』など各紙で取り上げられたようです。

学芸員、大臣「がん」発言に憤り
ー2017年4月18日『日本経済新聞』
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLZO15423710X10C17A4CR8000/

以下は、記事からの一部抜粋です。

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 被爆の惨状を描いた「原爆の図」の大半を常設展示している原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で長年学芸員を務める岡村幸宣さん(42)は、「今の時代だけでは判断できない普遍的な価値を見いだすのが学芸員の仕事だが、経済活動への結び付きしか考えていない」と憤った。

 原爆の図は虫食いや紫外線の影響で傷みが激しい。保存と展示の両立に日々頭を悩ませており「学芸員の仕事に全く理解がない」と憤慨する。


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2017/4/16

『朝日新聞』に「原爆の図保存基金」掲載  掲載雑誌・新聞

「原爆の図」虫食いに泣く 丸木美術館、新館建設へ寄付募る
 ―2017年4月16日付『朝日新聞』

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記事全文はこちらから(無料会員登録が必要です)。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12894151.html?_requesturl=articles%2FDA3S12894151.html&rm=149
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2017/4/12

NHKニュース「原爆の図新展示施設に寄付を」  TV・ラジオ放送

2017年4月12日夕方のNHK総合テレビ・首都圏ネットワークにて、「『原爆の図』新展示施設に寄付を」というニュースが紹介されました。

以下のWEBサイトで動画が期間限定公開されています。
http://www3.nhk.or.jp/lnews/saitama/1106065661.html

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「原爆の図」新展示施設に寄付を
04月12日 17時36分

原爆投下後の広島や長崎の悲惨な様子を描いた絵画、「原爆の図」を展示している埼玉県東松山市の美術館は、作品の傷みが激しいことから、作品を展示・保存する施設を新たに建設することになり、広く寄付を呼び掛けています。

「原爆の図」は、画家の丸木位里・俊夫妻が15部からなる作品を30年かけて完成させたものです。
このうち14部の作品を展示・保存している東松山市の「原爆の図丸木美術館」では、作品の虫食いや紫外線による痛みが激しいことから、作品を展示・保存する施設を新たに建設することになりました。
新たな施設は今の美術館に併設する形で作られ、温度や湿度を適切に管理できるほか、防虫対策が施されているということです。
一方、新たな施設は比較的狭く、すべての作品を一度に展示できないことから、美術館は同じ大きさの作品のレプリカを作って今ある建物に展示する計画です。
美術館は、建設費などに見込まれる5億円を目標に、今月から広く寄付を呼びかけていて、学芸員の岡村幸宣さんは、「『原爆の図』を適切に展示・保存し、平和の尊さや命の大切さを後世に伝えていきたい」と話していました。


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2017/4/11

【沖縄出張】沖縄県立博物館・美術館「山元恵一展」  他館企画など

沖縄県立博物館・美術館で開催中の「山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム 夢のかけら」を観ました(4月23日まで)。

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山元恵一(1913-1977)は、那覇市で生まれ、東京美術学校でシュルレアリスムのグループ「貌」に参加して杉全直や福沢一郎と交流。
1941年に沖縄へ帰り、戦後に首里のニシムイ美術村に石積みのアトリエ「石の家」を建て、1951年には沖縄のシュルレアリスム絵画の代表作である《貴方を愛する時と憎む時》を発表しています。

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展覧会は、「序章 山元恵一と県立二中」、「第1章 青春の輝き―グループ貌とその時代」、「第2章 占領下の人物と背景」、「第3章 実験的絵画の時代」、「第4章 失われしものへのオマージュ」、「第5章 シュルレアリスムの拡がり」という6つの章に分かれています。

序章では山元と同時代の県立二中(現那覇高校)の画家、第1章では東京時代の交友画家、第5章でも70年代の沖縄のシュルレアリスム画家の作品の展示がほとんどなので、全出品作158点のうち85点と山元の絵画自体は決して多くはありません。
とりわけ、戦前の山元の絵画が1点も存在していないのは、辛い気持ちにさせられます。
沖縄戦の圧倒的な破壊が、個々の歴史も断絶させていることを、否応なく意識してしまいます。

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前半のハイライトは《貴方を愛する時と憎む時》で、この作品は1951年11月3日-5日に那覇琉米文化会館で開催された第3回沖展に出品されて専門家投票で首位を獲得したそうです。
煉瓦造りの廃墟の前に、黄布をまとったマネキンや黒い水差し、レモンなどがならび、白い胸部のマネキンや、目をかたどった針金のようなものが宙に浮いています。

タイトルが意味する「貴方」とは、妻の文子さんの話では「人間に対してではないらしい」とのことらしく、1951年という時期―サンフランシスコ条約で占領解放から沖縄が取り残された―を考えると、日本を意味しているようにも思えます。
ともあれ、この時代に描かれた作品で現存するものは少なく、他にシュルレアリスム的な傾向のものは見られないため、展覧会では少し唐突な印象を受けました。

その後、米軍統治の時代が続く中で、山元はさまざまな抽象表現の実験を試みていきますが、後半のハイライトは1970年代の牛頭骨をモチーフにした20点近くのシリーズでしょう。
このシリーズは、私が「石の家」を訪れたとき、いつも壁に飾られていました。

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(撮影は2016年4月)

牛骨とともにレモンやかぼちゃ、メトロノームなどのモチーフが描かれ、背景の淡いピンク色と牛骨の赤色が印象に残ります。
また、今回の展覧会で初めて知ったのですが、同時期には、フロッタージュの手法を用いた幾何学的なドローイングも数多く残していたようです。

1972年の「本土復帰」の頃から、沖縄では多くの画家がシュルレアリスム風の絵画に取り組みはじめます。
それは、1973年4月7日-22日に沖縄タイムスホールで開催された「現代の幻想絵画展」の影響が大きかったようですが、山元にとっては戦前の東京の記憶がシュルレアリスムという表現手法と分かち難く結びついて、日本と沖縄が遠ざかり、あるいは近づくたびに愛憎の思いと共によみがえるようにも感じられました。

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午前中には、T学芸員に連れられて、福沢一郎記念館のI学芸員とともに「石の家」を訪問しました。
私は昨春に続いて3度目の訪問。妻の文子さんをはじめ山元家の方々が温かく迎えて下さりました。

展覧会には、画家である文子さんの油彩画も2点展示されていますが、夫の亡き後の1990年頃に制作したもので、文子さんのお話を伺っていると、織布の美しい端切れを集めたスクラップ帖がセットのように登場してきます。
それらは戦後の長きにわたって生活を支えるための手段であり、沖縄の女性が許された唯一と言っていいような自己表現の手段でもありました。しかし、こうした仕事の意味はもちろん、日本美術史上に語られる機会はほとんどありません。

ミュンヘンのPostwar展に提示されていたような、複合的な文化体験から生じる「新たなハイブリッド」の表現は、現在、沖縄の若手現代美術家の間で花開き、国際的にも高い評価を獲得しています。
しかし、沖縄の美術の流れを見ていく上では、歴史の複雑な層の中に落ち込むように「残されなかったもの」「描かれなかったもの」のことを、思わずにはいられません。

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今回、「石の家」に伺ったところ、ニシムイ美術村の跡地がポケットパークとしてきれいに整備されていました。
日曜美術館の特集や、県立美術館の企画展、原田マハさんの『太陽の棘』など、近年の注目度の高まりのおかげでしょうか。
とはいえ、現存するアトリエは1件だけなので、近所の方からは「山元家の公園」と言われているとか。
ともあれ、文子さんもお元気そうで、ゆっくりとお話ができて良かったです。

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夕方は沖縄タイムス社を訪れて、展覧会の御礼報告。
夜の飛行機で慌ただしく沖縄出張を終えました。

帰路の途中で、画家の儀間比呂志さんの訃報を知りました。
2008年に町田市国際版画美術館で開催された「美術家たちの南洋群島」展のレセプションでお会いしたことを懐かしく思い出します。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-477083.html
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2017/4/10

【沖縄出張】佐喜眞美術館など/栄町市場  調査・旅行・出張

沖縄へ向かう途中、一人芝居の北島角子さんの訃報を知りました。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-475924.html
2000年に初めて沖縄へ行き、佐喜眞美術館を訪れたとき、訳が分からないまま連れられて、知花昌一さんの民宿の庭先で北島さんの一人芝居を観ました。それはとても強烈な沖縄体験でした。

今回の沖縄出張の主目的は、展覧会でお世話になった方々への御礼とご挨拶。
北島さんと縁の深い佐喜眞美術館の皆さんには、お会いできるだろうかと不安になりましたが、佐喜眞館長のご家族が温かく迎えて下さいました。北島さんの御親戚であるU学芸員にお会いできなかったのは残念ですが、仕方ありません。

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展覧会の御礼報告をした後、コレクション展を観ました。
丸木夫妻はじめ、丸木スマ、大道あや作品が目を楽しませてくれます。
沖縄なのでなかなか観ることができませんが、佐喜眞美術館の大道あやコレクションは、《薬草》《牡丹祭》《小江戸祭》など、質の高い作品が多いのです。

   *   *   *

午後は琉球新報社に御礼報告し、夜はキュレーターの居原田遥さんに連れられて、栄町市場のすぐ隣にある、手塚太加丸くんが主宰するシェアハウスに遊びに行きました。
太加丸くんは昨年の「私戦と風景」展の出品作家で、今も丸木美術館の裏の林には、彼が暮らした小屋が残っています。

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那覇では、以前に牧志公設市場に行ったことはありましたが、栄町市場を訪れたのは初めてでした。
迷路のような狭い路地を歩き、かつての沖縄現代美術の実験場・前島アートセンター(現在は解散)の移転先だった跡地にも案内してもらいました。

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この界隈は、戦前はひめゆり学徒隊で知られる沖縄県立第一高女があったようです。
今も戦後の闇市の猥雑な雰囲気を残し、独特の賑わいが続いています。
http://www.sakaemachi-ichiba.net/about.html

市場を抜けた先のビルの2階と3階が、太加丸くんのシェアハウス。
この日は10人足らずの若者たちが滞在していたので、屋上に上がって、心地よい夜風に当たり、市場の明かりを見下ろしながら、彼の近況やシェアハウスの運営の話を聞きました。

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だいたい1か月以上滞在する人からは家賃をもらうけれども、短期滞在者は無料。
たぶん生活上のルールはほとんどなくて、なんとなく順番に食事を作ったりしているようです。
台湾から来た滞在者もいて、特に仕切られた空間もないので、みんな適当に居場所を確保して住みついている感じでした。
屋上の空間ではアートイベントをしたり、フリーマーケットを開いたりしているとのこと。
全国にはこういう場所がいくつかあって、互いに訪ねて行って交流しているそうです。
ぼくはこうした若者たちの動向には疎いので、ただただ面白がって聞いていました。

密集した家の屋根を渡って市場まで行けそうな、このシェアハウスの立地は魅力的です。
風に乗って、酔客たちの騒ぎ声がかすかに聞こえてきました。
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2017/4/9

童心社60年展  他館企画など

銀座・教文館の「童心社60年展」、最終日の朝一番に駆け込んでから美術館に出勤しました。

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家族でたいへんお世話になっている絵本の原画の数々。関連グッズも充実していました。
奇しくも高校の大先輩というT社長にお会いしてご挨拶することもできました。

今年は、丸木美術館50年、童心社60年というダブルメモリアルイヤー。
現在進行中のプロジェクトも、素晴らしい発表ができることを期待しています。
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2017/4/7

「原爆の図保存基金」へのご協力のお願い  分類なし

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2017年5月、原爆の図丸木美術館は開館50周年を迎えます。
美術館の核となる《原爆の図》は、近年、ますます歴史的・社会的な意味が大きくなり、美術史的な視点からも20世紀を代表する絵画作品として、国内外で高く評価されつつあります。
一方で、丸木美術館は、建物の老朽化や、展示室・収蔵庫の温湿度管理および紫外線・虫害・塵埃対策の未整備などの現実的な問題に直面しています。
将来的に《原爆の図》は、人類の普遍的な財産として、重要文化財や世界遺産に選ばれる可能性もあるでしょう。
しかし、すでに画面上には虫食いなどの深刻な被害が表れ、このままの状態では作品の保存に支障が出ることは間違いありません。
そこで、50周年という節目を期に、「原爆の図保存基金」を立ち上げることにしました。

◎作品保存管理のできる新館の建設

基金は具体的に、ふたつの計画を考えています。
ひとつは、《原爆の図》保存展示のための新館建築です。
現在の美術館の東側敷地内に、温湿度管理・虫害塵埃対策の可能な100u程度の展示室と、都幾川を展望できる休憩スペース、地下収蔵庫と美術輸送車用の搬出口を備えた建物を建設します。
完成後は、《原爆の図》14点のうち3、4点ずつを、新しい展示室で、年4回程度の展示替えを行いながら、期間限定で順番に公開します。
また、現在ある建物の展示室では、《原爆の図》14点の原寸大複製屏風を作成し、これまで同様に常設展示していきます。

◎資料整理・保存と公開の充実

ふたつめは、丸木夫妻関係資料の整理・保存、つまりアーカイブの整備です。
現在も、丸木夫妻に関する新聞・雑誌掲載誌や発行物、書簡などの資料収集を進めていますが、広く一般に公開できるだけの整理やデジタル化の作業まではできていません。
絵画作品とともに、その制作の背景や受容の歴史などの資料を未来に残すことは、作品理解を深めるために重要です。将来的には、インターネット・アーカイブの確立や、ウェブサイトの多言語化・海外発信の充実を目ざします。

◎未来に歴史をつなぐために

こうした目的を達成するため、「原爆の図保存基金」は、目標金額を5億円に設定しました。
丸木美術館にとっては、かつて例がないほどの大規模な募金活動となります。けれども、避けて通ることのできない試みです。
この美術館は、行政や企業の資本に頼ることなく、ひとりひとりの市民の力に支えられて、50年という長い歳月を生き続けてきました。これからも、《原爆の図》を中心に、自由で自立した活動のできる美術館として、次の50年に歴史をつないでいきたいと願っています。
どうぞ、ご理解の上、皆さまのお力をお貸しください。よろしくお願いいたします。

       公益財団法人原爆の図丸木美術館

【郵便振替口座】
口座名称:原爆の図保存基金
口座番号記号:00260‐6‐138290
※他行等からのお振込の場合は、店番029 当座預金 口座番号0138290


寄付金額は任意となりますが、1万円以上寄付された方には記念誌をお送りいたします。10万円以上寄付された方のお名前は、新館に掲示いたします(希望制)。
この寄付は寄付金控除の対象となります。遺贈・相続財産のご寄付も受けつけています。
詳しいお問い合わせは、原爆の図丸木美術館(0493-22-3266)まで。
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2017/4/3

【ミュンヘン出張】 リーメンシュナイダーの彫刻  調査・旅行・出張

ミュンヘン出張の最後は、バイエルン国立博物館で、ティルマン・リーメンシュナイダーのコレクションを観ました。

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リーメンシュナイダーは、クラーナハやデューラーと同じ時代を生きた彫刻家で、ヴュルツブルグに工房を構え、市議会議員や市長も務めました。
ところがドイツ農民戦争の際に市民の側についたとして投獄され、利き腕を折られて彫刻家生命を失ったとの説もありますが、財産を没収されて失意の晩年を過ごしたというのです。

作品は南ドイツのあちこちの教会など残されているものの、死後、作者の名は忘れ去られ、300年後に墓碑が発見されるまで、長い間注目されることはありませんでした。

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大ヤコブ 1505年頃


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聖セバスチアン 19490年頃


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天使に支えられる聖マグダレーナ 1490〜1492年


私が博物館を訪れたのは開館直後だったので、リーメンシュナイダーの作品が置かれている第16室には、しばらくの間誰も来ず、一人で静かに彫刻群に向き合うことができました。

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聖家族祭壇の聖アンナ 1505〜1506年


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聖バルバラ 1508〜1510年


きめ細かな木彫で表現されたルネサンスのリアリズム。当時としては珍しく、着彩を好まなかったそうで、自然の素材を生かした彫刻は、東洋の仏像を想起させるところもあります。

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聖遺物用胸像(聖アフラ) 1499〜1500年


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聖遺物用胸像(聖セバスチアン?) 1950年


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ヨハネス礼拝堂の祭壇 1513〜1515年 リーメンシュナイダーと工房の作品

しばらく前に、ある方から『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』という本を頂いて、一度はドイツで本物を観てみようと心に留めていたので、最後に観ることができて良かったです。

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4人の兵士を率いるカイアファ 1485〜1490年


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マリア、ヨハネ、2人の悲しむ女たち


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12使徒像 1500年頃


長く忘れられた後に再発見され、評価が高まる芸術家の仕事には、心を惹かれます。
同じ時代に芸術の真価を見きわめることの難しさを知ると同時に、本当に優れた作品の時代の超えた強さを感じられるからなのでしょう。

そしてそれは、未来に残る作品を守り伝えるという、自分自身の仕事にもつながっているのだ、と思うのです。
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2017/4/1

【ミュンヘン出張】「Postwar」展撤去作業  調査・旅行・出張

半年にわたって開催された「Postwar展」もついに3月26日に閉幕。
作品撤去に立ち会うために、ミュンヘンに出張に来ています。
1月にあれだけ寒かったミュンヘンは、もうタンポポが咲いて、ハウス・デア・クンストのある英国庭園は新緑にあふれていました。
今日の気温は20度。もはや上着さえ必要ありません。

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開館前にハウス・デア・クンストへ行くと、扉の前で、展示作業のとき現場のリーダーだったスペイン人の女性にばったり出会いました。彼女は英語をほとんど喋れないのに、すぐにこちらを思い出してドイツ語で話しかけてくれたので、ちょっと嬉しかったです。

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展示スタッフの皆さんとも再会。
2日間にわたった展示作業と違って、撤去・梱包は非常に素早く進んでいきます。
本日の「メイン・イベント」―2段がけの屏風絵を下ろす作業―も、多くの人手を必要としつつ、祭りの後の山車の解体を想起させるような手際の良さですぐに終わりました。

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「この展覧会は作品が多すぎて、本当は2回にわけるべきだった。観る人もちょっと混乱してしまうでしょう。今は、すでに梱包されている作品も多いから、ゆったりした空間で絵が見られるわよ。まだ見ごたえのある作品も残っているから、ひとまわりしていらっしゃい」とは、展示全体のとりまとめをしていたチーフ・スタッフの談。

木箱があちこちに置かれている静かな会場をひとめぐりした後は、ハウス・デア・クンストで開催中の他の企画展を2本観ました。
「ハルーン・ファロッキ展」「フリー・ミュージック・プロダクション展」です。

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ハルーン・ファロッキはドイツ併合下のチェコスロバキアに生まれた映像作家で、リュミエール兄弟の最初期の映画を題材にした『労働者は工場を去って行く』(1995年)などの作品で労働・生産・消費の社会的変遷を見つめる硬派な展覧会。

フリー・ミュージック・プロダクション(FMP)は、戦後のベルリンの先駆的なフリージャズのレーベルで、東ドイツのアーティストとも協同し、冷戦のイデオロギー・システムに挑戦する最初のプラットフォームのひとつになったそうです。
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2017/3/29

安藤栄作さんが第28回平櫛田中賞受賞  その他

彫刻家の安藤栄作さんが、第28回平櫛田中賞を受賞されたという嬉しいニュースが発表されました。

http://www.sanyonews.jp/article/508867

安藤さんは、東日本大震災で福島県いわき市の自宅・アトリエを失った後、関西に移住して彫刻活動を続けており、丸木美術館でも2013年に個展、2016年に「Post3.11」というグループ展を行っています。

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写真は、丸木美術館での個展の際の会場風景。

少し前のことになりますが、平櫛田中美術館から連絡があり、安藤さんに素晴らしい知らせをおつなぎするという役回りになったので、そのことも含めて、嬉しい体験でした。

以下は、審査委員の水沢勉さんが記された、安藤さんの受賞についての文章です。
水沢さんが後押しされた、ということも、私にとっては大きなよろこびの理由でした。

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木を叩くひと ― 安藤榮作について
                                 
 安藤榮作は愚直なまでに木彫にこだわりつづけている。
2011年3月11日の東日本大震災で被災し、さらに福島第一原発事故もあり、発生後まもなく福島県いわき市を家族とともに離れ、現在は奈良県に住んで制作に打ち込んでいる。大きな人生の転機であったと思う。長く暮らした場所を離れることは、自分自身にとっても、家族にとっても、そして、さまざまな人間関係に支えられてはじめて成立する仕事(制作)にとっても、まさしく生木を剥がすような痛恨の出来事であったにちがいない。
 しかし、それにもかかわらず、いや、むしろそれだからこそ、この木彫家は、ますます木彫に徹するようになったとみえる。元来、刀の彫りの鋭さや冴えを強調するよりも、そこに費やされたエネルギーのほうを印象づけるように、あえて荒れた木肌のままの仕上げを好んできた。ささくれたり、割れたりすることも、この作家には希貨であり、木であればこその表現の恵みとして受けとめてきたのではなかろうか。
斧の打痕というべき無数の凸凹は、つい触りたくなるようななつかしさの感情を呼び起こす。それも、そうした行為の結果として生まれた作品が、それぞれに独立した完成作というよりも、連続する創作の発露であり、証しであるからではなかろうか。それらは、過去と現在と未来とをつなぐ、連続する制作のまさにそのただなかで生まれているのだ。それらは、終わらない、終えてはならない、祈りに似た、ひたむきな行為の持続の意志の産物であり、中心部にその意志が真っ赤に過熱した鉄棒のように貫いている。
 無数の鑿痕が集合して面となり、作品の表面を覆い尽くしている。打たれたエネルギーを木の表面は受けとめ、それを木の内部へと伝え、木全体の密度が高まったように感じられる。それゆえにそれは熱を帯び、懐かしく、だれもがつい触りたくなるのだ。
 生まれたかたちにはそれぞれにかけがえのない意味が宿り、冷たい記号としての抽象的な概念を指示したりすることもない。それはあくまで個物でありつづけようとする。それぞれに名前があるべきだとそれらは静かに主張している。シリアの爆撃で落命したこどもたちに捧げられた小さなひとがたは個性を大声で主張しないが、個性をおのずと宿して、わたしたちに名づけをうながさずにおかない。そして、いかにもこの彫刻家らしいことに、そのひとつひとつが集合して、さらに大きな人型になって壮大な作品に変貌することもある。
 近作の《鳳凰》(2016年)。その壮麗さにわたしは圧倒された。金色に輝いているわけではない。名人技を揮う細部を見せつけて圧倒するわけでもない。しかし、なにかここにも無数の小さな鳥が集合しているように感じられるのだ。木を叩く無数の音。それがまるで鳥の鳴き声のように幻想されるのだ。木と叩くと悪魔は退散するという古い言い伝えがある。安藤の《鳳凰》ほど、その言い伝えに相応しい作品はないのではなかろうか。

 水沢 勉


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安藤さん、本当におめでとうございます。
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2017/3/28

『朝日新聞』に「戦後」展評を寄稿  執筆原稿

ハウス・デア・クンストで26日まで開催された「戦後:太平洋と大西洋の間の美術1945―1965」展について、『朝日新聞』夕刊に寄稿しました。

戦後芸術の検証、ドイツで企画展
 ―2017年3月28日付『朝日新聞』夕刊文化欄

以下のWEBサイトで全文をお読みいただくことができます(要無料会員登録)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12864904.html

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記事から一部分を紹介します。

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 冷戦が芸術の潮流も分断した時代。東側では社会主義リアリズム、西側では抽象表現主義が隆盛した。こうした歴史を踏まえつつ、欧米中心的な視線を揺さぶるのが第6章「コスモポリタン・モダニズム」だ。
 ここでは、自由や開放的という「コスモポリタン」の概念が、亡命、移住、ディアスポラ(故郷喪失)へ変化したと定義されなおす。植民地出身者や難民が、抑圧を逃れて安全な拠点を見つけたときに、複合的な文化を体現した人間存在、つまり「新たなハイブリッド」が現れるというのだ。実際、会場には、ナイジェリアで生まれ英国で没したウゾ・エゴヌのように、非欧米圏出身者の作品が、意識的に紹介されている。展覧会の重要なテーマは「越境」だったのだ。
 戦後に広がった「グローバリズム」の概念は、強者のための画一的な社会を生みつつある。しかし、世界は多様で多義的なものだ。各地で「ナショナリズム」の動きが台頭する中、芸術で荒波に対峙する渾身の企画である。


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スケールの大きな、多視線的な戦後の回顧展。
限られた文字数ではありましたが、日本の方々にも紹介できてよかったです。
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2017/3/26

シンポジウム「沖縄の情報は本当に伝えられていないのか」報告  イベント

午後3時からシンポジウム「沖縄の情報は本当に伝えられていないのか」(共催:早稲田大学メディアシティズンシップ研究所)を開催。

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あいにくの雨にもかかわらず、駐車場は満車、会場も満席。
ご来場いただいた皆さま、どうもありがとうございました。

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ゲストスピーカーの伊藤守さん(メディア研究/早稲田大学教授)、津田大介さん(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)、毛利嘉孝さん(社会学/東京芸術大学教授)は、統計データをもとに、それぞれの視点から、ネットメディアの台頭による沖縄報道の「反動」(「ニュース女子」などのフェイクニュースの問題)について分析して下さいました。

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そして、新垣毅さん(琉球新報社東京報道部長)は、沖縄メディアの代表として、東京と沖縄のあいだの「溝」―両論併記の「中立」報道が「本質」を遠ざける問題について語って下さいました。
「人は真実には迫れないが、本質を探求することはできる」という言葉が心に残っています。
また、「現在の沖縄の問題を考える上で、沖縄戦という歴史の記憶から出発している点が、この展覧会は素晴らしい」とコメントして下さったことも、重要だったと思いました。つまり、その悲惨な歴史を共有する(しようと試みる)かどうかで、現実に映る景色も違って見えてくるということです。それこそが、「溝」を考える鍵なのかもしれません。

モデレーターの木村奈緒さん、キュレーターの居原田遥さん、出品作家の川田淳くん、嘉手苅志朗くんもお疲れさまでした。
ゲストスピーカーの発表後、討議の時間があまりなかったのが少々残念。
こうした企画展は、会期中にもっと多くディスカッションの機会を設けてもよかったのかもしれません。
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