2016/6/21

【広島出張】原爆の図など作品返却/峠三吉詩碑  調査・旅行・出張

今日もまた早朝の飛行機で広島出張。
「原爆の図はふたつあるのか」借用作品を、無事に広島市現代美術館、広島市立中央図書館、広島平和記念資料館に返却しました。
これでようやく、ひと安心。これからは「四國五郎展」準備に集中です。

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日帰りなので、あまり時間がなかったのですが、平和記念公園内の峠三吉詩碑を見てきました。
シンプルな碑石と設置台は、四國五郎のデザインによるものです。
この詩碑が建立されたのは1963年8月6日。除幕式には丸木夫妻も出席していたようです。

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2016/6/19

東京新聞サンデー版「絵で見る沖縄戦」/市民意見広告  掲載雑誌・新聞

2016年6月19日付『東京新聞』サンデー版の特集は「絵で見る沖縄戦」。
2面見開きカラーで丸木夫妻の《沖縄戦の図》をはじめ、宮良瑛子さん、儀間比呂志さんの作品が並びます(ほかに「体験者が描く沖縄戦の絵」も紹介)。
また、沖縄県立博物館・美術館の豊見山愛さんが、丁寧なテキストを書いて下さっています。レイアウトも見やすく、教材に使える内容です。

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制作はサンデー版編集部の石井友恵記者。
以前に、「丸木俊特集」も組んで下さった勉強熱心な記者さんです。
私も企画立ち上げの段階で、画家の選定や豊見山さんの紹介など、少しばかり協力をしました。
その関係で、丸木美術館も300部ほど頂いています。
しばらくは美術館内で無料配布していますので、ご来館の方はどうぞお持ちください(なくなり次第配布は終了します)。

   *   *   *

また、同日付『朝日新聞』には全面を使って市民意見広告が掲載されました。
紙面デザインは、新宿書房の『《原爆の図》全国巡回』を手がけて下さった鈴木一誌さんで、《水》の母子像部分は、本の内扉のために撮影した写真です。

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市民意見広告は、この後、読売新聞、毎日新聞にも連日掲載されるとのことです。
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2016/6/19

「四國五郎展」展示作業  企画展

一日がかりで怒濤の展示替え作業。
長時間お手伝い下さったボランティアの皆さま、どうもありがとうございました。

「原爆の図はふたつあるのか」展の撤去が終わり、代わって「四國五郎展」の作品の位置を大まかに決めました。

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過酷なシベリア抑留を体験し、郷里の広島を原爆で焼かれ、最愛の弟を失った一人の画家が、生涯をかけて描き続けた絵画から約80点を展示します。

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新しい表現の形式が次々と登場する20世紀において、流行の最先端の芸術として評価されるよりも、変わらず「誰にでもわかる」表現を選び取ることは、きっと大きな苦悩と葛藤があったことでしょう。

それでもなお描かずにはいられないほどの強い「平和」への思いを、なぜこの画家は持ち得たのか。
そして、その残された作品を、なぜ今、私たちが見るべきなのか。
ぜひ、丸木美術館に足を運んで、常設展示の《原爆の図》と合わせて、この機会に四國五郎の作品を実際に見て下さい。

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今見る、ということが大事な意味を持つ展覧会になると思います。
芸術には、脈々と受け継がれてきた、社会的主題の絵画の系譜があります。その歴史に光を当て、今を生きる私たちの時代につなげていくのも、美術館の重要な役割のひとつです。

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シベリア、広島、そして占領下の日本と現代を往還するような空間ができつつあります。
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2016/6/17

【広島出張2日目】 広島市現代美術館「東松照明展」  調査・旅行・出張

広島出張2日目は、広島平和記念資料館で用事を済ませ、広島市現代美術館で「東松照明ー長崎ー展」を観て、最後にギャラリーGにちょっとだけ顔を出してから、帰京。

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「東松照明展」は、長崎のみの写真展としては過去最大級の規模という約350点の展示。
生前のH元館長が、「丸木美術館で東松の長崎の写真展をやるべきだ」と提案したことがあるのを思い出しながら、ひとつひとつじっくり観ました。
そのせいもあってか、展示を見ながら、なぜ「今」、「広島」で、「東松の長崎の写真展」を企画するのか、その意味をもう少し掘り下げて考えたいという気もしました。

もちろん、広島で「東松の長崎の写真」を見るということは、興味深い試みです。
むしろ広島から長崎を見る、あるいは長崎から広島を見るという視線は、互いにもっとあってもいい。
そして、広島と長崎が共同で原爆を主題にした表現を検証していくという試みも、行っていかなければいけないと思います。
今回の「東松展」が、その端緒となると良いのですが。

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1961年に原水協の仕事で初めて長崎を訪れたことを機に、その後は個人的に何度も現地に足を運び、やがて移り住んだ東松は、1945年8月9日11時2分の長崎を起点にしながら、文化や自然、歴史性へと写真の視界を拡げ、撮り続けていきました。
決して癒されない「傷」を抱えながら、なお生き続ける人や土地が重ねてきた歳月の「深み」と美しさ」が、心に沁みる展覧会です。
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2016/6/16

【広島出張初日】四國五郎展作品集荷  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機で広島に飛び、「四國五郎展」にむけての作品集荷。
四國五郎アトリエでは長女Mさんご夫婦と長男Hさんに加えて、広島大Kさんと2人の学生の強力な助っ人も加勢して下さって、作品の梱包作業を行いました。

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予定通り午後2時に業者の車に積み込み、その後、平和記念資料館と市立中央図書館もまわって、合計80点ほどの作品や資料を借用。
心配していた雨も、なんとか本降りにならずにすみ、ひと安心でした。
25日からはじまる展覧会に向けて、いよいよ準備が本格化してきました。

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企画展「四國五郎展 シベリア抑留から『おこりじぞう』まで」
2016年6月25日(土)〜9月24日(土)

峠三吉のガリ版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1924〜2014)。
1944年に徴兵されてシベリア抑留を体験し、1948年の帰還後は峠三吉らとともにサークル誌『われらの詩』の刊行や、反戦詩と絵を一枚の紙に描いて街頭に貼ってまわる「辻詩」の活動を展開。1950年10月、丸木夫妻の《原爆の図》全国巡回の出発点となった広島での展覧会を支えたのも、峠や四國ら「われらの詩の会」の仲間でした。その後も「広島平和美術展」を組織・運営しながら、原爆や母子像をテーマにした絵画や絵本を描き続けるなど、生涯をかけて「平和」への思いを貫きました。
今展では、シベリア抑留時代のスケッチから、被爆死した弟の日記、峠三吉や丸木夫妻との交流を示す資料、辻詩、絵画、絵本原画などを紹介し、四國五郎の遺した幅広い表現とその意味を振り返ります。

●オープニング・トーク 「四國五郎という画家がいた」
6月25日(土)午後2時 出演:四國光(四國五郎長男)、永田浩三(武蔵大学教授)
ご長男である四國光さん、今夏に『ヒロシマを伝える 〜詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち〜』(WAVE出版)を刊行予定の永田浩三さんをお迎えして、生涯をかけて原爆・平和を描き続けた四國五郎の人となりや仕事についてお話し頂きます。

WEBページはこちら
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2016/2016shikoku.html
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2016/6/12

富山県水墨美術館/フォルツァ総曲輪  調査・旅行・出張

大阪の研究会の帰りに、北陸新幹線に乗って富山に立ち寄りました。

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午前中は神通川の橋を渡って富山県水墨美術館へ。
広々とした庭園がとても気持ちのよい美術館でした。

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開催中の企画展は「美人画の四季 松園、恒富、清方から麦僊まで」
この日が最終日ということもあってか、館内は賑わっていました。
水墨美術館とはいっても、必ずしも水墨画専門の美術館というわけではないようです。

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展覧会を見た後は、路面電車に乗って市の中心部へ。昼食に海鮮丼を食べました。

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午後は、9月で閉館になってしまうという映画館、フォルツァ総曲輪を訪ねました。

近くに新しいシネコンができたからという理由で、「役割を終えた」という行政判断なのだそうですが、たんなる映画館ではなく、市民の集う“場”としての存在感もあるスペースなので、閉館してしまうのはたいへん残念です。

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受付には、丸木美術館のイベントなどをサポートして下さっているY子さんがいらっしゃいました。
この日は、映画専門のシアターホールではなく、イベントホールで上映された『わたしの自由について SEALDs 2015』を観ました。
SEALDsの疾走感を鮮やかに捉えた記録映画で、3時間という上映時間もまったく長く感じません。
監督は地元の富山出身の西原孝至さん。ふだんは「情熱大陸」などのテレビ番組を撮っていると聞いて、納得でした。
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2016/6/11

兵庫県立美術館「1945年±5年」展/みんぱく共同研究  館外展・関連企画

朝一番の飛行機で神戸に飛んで、兵庫県立美術館で開催中の「1945年±5年 激動と復興の時代 時代を生き抜いた作品」展を観ました。

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1945年を中心軸に、1940年から1950年までの激動の時代を、約70名の作家、約200点の作品で振り返る企画です。
丸木美術館からは原爆の図第1部《幽霊》を貸出、そのほか、未完作の原爆の図《夜》や、丸木俊の《裸婦(解放されゆく人間性)》、丸木夫妻のメーデースケッチも出品しています。

松本竣介の《街(自転車)》や小磯良平の《斉唱》などモダンな生活風景からはじまり、満州・朝鮮・台湾など植民地の風景、従軍した兵士たちの見た風景、銃後の生活と続いていく1940年代前半。
筥崎宮から約30年ぶりに外部貸出されたという女流美術家奉公隊の共同制作《大東亜戦皇国婦女皆働之図(春夏の部)》は、吉良智子さんの好著『女性画家たちの戦争』とあわせて観ることをお勧めします。
そして廃墟の風景からはじまる1940年代後半は、立ち直る人びと、とりわけ女性たちの姿が印象的に描かれ、最後は《原爆の図》と浜田知明の《聖馬》の空間で幕を閉じます。
近年の潮流ではありますが、タブローばかりでなく、スケッチも数多く紹介されています。
前田藤四郎の琉球を主題にした版画原画や満州スケッチ、山下菊二の台湾スケッチ、吉田博の造船所スケッチ、水木しげるのトーマスケッチなどなど。

展覧会の特徴としては、従軍画家による「作戦記録画」の数が少なく、全体的に風景と暮らしに主題をおいた作品が多い印象を受けました。
図録に収録された担当学芸員の出原均さんの論考によれば、「私と公の関係」を問題として1940年代を読み解こうという狙いがあるようです。

戦争画を否定することによって、戦争画にまつわる多くのことが過度に否定されてしまった」と出原さんは述べています。戦時中、上からの強制的な「公」があまりにも巨大だったため、戦後は「個人の立場を取り戻す」ことが正当化されるあまり、下からの「公」を作る動きがあっても、公ということ自体に対する忌避にさらされてしまったというのです。

それは、「大衆が描かせた絵画」と丸木夫妻自身が語った《原爆の図》と全国巡回展の評価をめぐる問題に関わります。
一見、戦時中の「聖戦美術展」と類似している全国巡回展について、出原さんは次のように述べています。

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占領下、実態の知られていない被爆者を描くという、夫妻の発案から出発し、様々な市民組織に支えられて巡回(左翼系の協力はあったが)した点で、主に国が主導した作戦記録画の制作・巡回とは真逆である。当時の《原爆の図》の圧倒的な大衆性は、その大衆性が連作において様々に反映するという点も含めて、戦後における公をどう捉えるかの試金石であり、それはまた、戦時中における公との違いをどう捉えるかによっても明らかになるだろう。

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さらに出原さんは、「《原爆の図》とは逆に、私的なものをより徹底することで、戦争を振り返ったのが浜田知明である」と述べています。大画面の戦争画や《原爆の図》が追求したのとはまったく逆の方向性である小さな版画の画面に描かれた「私性」。

異なる方法で上からの巨大な「公」に対峙した丸木夫妻の《原爆の図》と浜田知明の《初年兵哀歌》の「大きな幅こそ、戦後美術の豊かさを示すものかもしれない」というのが、最後の展示室に込められた、展覧会の意図のようでした。

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広島市現代美術館で原爆の絵画について深く研究されていた出原さん(1992年の丸木位里展の担当学芸員でもありました)が、原爆をどのように見せるか、という点にも関心がありました。
福井芳郎《ヒロシマ原爆》(1948年)、古沢岩美《憑曲》(1948年)、山本敬輔《ヒロシマ》(1948年)といった作品は、かつて出原さんが紹介されたこともある、原爆を描いた絵画としては欠かせない作品ばかりですが、今回興味深かったのは、原爆投下後の最初期のスケッチとして、高増径草の墨とパステルによるスケッチを取り上げていることです。

論考の中で、出原さんは、軍機保護法などの制約があった時代、画家が描いた廃墟のスケッチはおおむね「戦後に描かれたもの」ではないかと推測されています。
広島が被爆した8月6日と翌日にその惨状をスケッチしたとの画家の発言もあるが、それを示す確実な資料があるわけではない」という鋭い指摘には、はっとさせられました。

今回、高増のスケッチが紹介されているのも、彼が原爆投下から1か月後の広島でスケッチをしている姿が、残留放射能の有無を調べるために広島入りした米軍の戦略爆撃調査団が撮影した写真に収められているという「証拠」があるからなのでしょう。

出原さんの論考とは無関係なのですが、赤松俊子(丸木俊)も8月下旬に広島入りして2点の丹念な焼け跡スケッチを残しているので、もしかすると原爆投下後の広島を描いた画家としては、彼女も「最初期」に加えていいのではないかと、ふとそんなことを思ったりもしました。

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午後からは大阪・国立民族学博物館にて共同研究会「放射線影響をめぐる「当事者性」に関する学際的研究」の第3回研究会に参加。
今後の研究会の進め方を討議した後、桑原牧子さんの「フランス領ポリネシアの核実験被ばく問題」、小杉世さんの「ニュージーランドから見た太平洋核実験―キリバス、仏領ポリネシアを中心に」の二つの発表を聞きました。
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2016/6/9

『中国新聞』に“若き位里作 幻の絵馬”紹介  掲載雑誌・新聞

若き位里作 幻の絵馬 広島県安芸太田の神社に2点 初期画業伝える人物画
―2016年6月7日付『中国新聞』
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60408

4月18日に調査した丸木位里が若き日に手がけたという絵馬についての記事が、中国新聞に掲載されました。執筆は、取材に同行して下さった西村文記者です。
当日の取材の様子は、丸木美術館学芸員日誌にも記しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2711.html

2点の絵馬は、いずれも「昭和4年」の制作。日本武尊と楠木正成・正行親子が描かれています。

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以下は、記事からの一部抜粋。

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 4月18日、奥田元宋・小由女美術館(三次市)の永井明生学芸員と、原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員が同神社を訪れて調査し、位里さんの作と確認した。
 位里さんは現在の広島市安佐北区安佐町飯室の出身。東京で日本画の修業をした後、23年の関東大震災を機に帰郷。絵馬は29年、友人が副住職を務めていた安芸太田町の光明寺滞在中に制作したとみられる。当時は左翼思想の影響を受け、詩や短編を芸備日日新聞(後に中国新聞と合併)に投稿していたが、画家としての活動については不明な点が多かった。
 岡村学芸員は「当時の思想信条とは別に、親しい人からの依頼に応じたのだろう」と推測。後に再び上京し、水墨画家として活動を始めてからは人物を描いておらず、「初期の人物画は興味深い」と絵馬に見入っていた。
 調査に立ち会った同町郷土史研究会会長斎藤泰行さん(82)は「地元でも絵馬の存在を知っている人は少ない。郷土の宝として大事に守っていきたい」と話していた。


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地域で大切に守って頂きたい絵馬ですね。
絵馬の存在を教えて下さった斎藤会長に感謝です。
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2016/6/8

「原爆の図はふたつあるのか」新聞紹介多数!  掲載雑誌・新聞

現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」についての新聞記事が、この一週間で4回掲載されました。
おかげさまで、電話での問い合わせや来館者が増え、美術館は嬉しい悲鳴をあげています。
以下に、記事をまとめてご紹介いたします。取材して下さった記者の皆さま、どうもありがとうございました。

   *   *   *

「原爆の図」2枚目の葛藤
―2016年5月31日付『朝日新聞』夕刊文化欄
http://www.asahi.com/articles/DA3S12386173.html

(以下は一部抜粋)
 再制作版は50年ごろ、米国での展示(実現せず)に備えた「控え」として描かれた。当時「原爆の図」は平和運動の高まりとともに草の根で全国を巡回しており、展示要請が増えると再制作版も各地を巡るようになった。ただ、その公開に葛藤もあったようだ。俊は「冷汗(ひやあせ)を流し」「恥ずかしく」などと後に記している。封印した時期もあった。夫妻は70年代に3作とも加筆し別の美術館へ収めた。並べてみると、背景の描き込みや朱を用いた人物の輪郭線などの違いが明らかだ。(小川雪記者)

   *   *   *

ふたつの原爆の図「再制作版にも力」
―2016年6月1日付『毎日新聞』朝刊埼玉版
http://mainichi.jp/articles/20160601/ddl/k11/040/190000c

(以下は一部抜粋)
 今回の企画展は、同美術館の協力で初めてオリジナルと再制作版を並べて展示している(「幽霊」のオリジナルだけは、兵庫県立美術館に貸し出し中のため複製を展示)。「ふたつの原爆の図」を見比べると、全体の構図や大きさはほぼ同じだが、「水」の再制作版の背景にオリジナルにはない墨が流され、折り重なって倒れた人々の体にも彩色されているなど、表現が大きく異なる点もある。
 丸木美術館の岡村幸宣学芸員(41)は「再制作版は見る人へのインパクトを、オリジナルより強めているように見える。オリジナルとは別の、力がある作品という意見も多く、評価を見直していきたい」と話している。
(中山信支局長)

   *   *   *

二つの「原爆の図」同時展示
―2016年6月3日付『朝日新聞』朝刊埼玉版
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160601000879.html

(以下は一部抜粋)
 同館学芸員の岡村幸宣さん(41)によると、丸木夫妻は1950年に三部作を発表。このとき、米国での展覧会の依頼を受けた夫妻は紛失を恐れ、画家仲間とともに本作を模写した再制作版を描いた。岡村さんは「単なる模写ではなく、『本作』とは独立した別の作品」と評価する。
 このときの米国での出展は実現しなかったが、複数の展示の依頼があり、再制作版は北海道、四国、九州などを巡回。本作と同様に各地で関心を集めた。
 ただ、作者には苦悩もあった。再制作版は本作に劣ると感じていた俊さんは、両作品を並べて展示した際のことを自著で振り返り「あとから描いた絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていく(中略)恥ずかしくなって、疲れ果てて帰路につく」と吐露している。
 一時は門外不出となった再制作版は74年、丸木美術館栃木館の開館にあわせて夫妻が加筆し、再び世に出た。しかし96年に栃木館の閉館に伴って広島市現代美術館に寄贈された後は、ここ20年近く公開されていなかったという。
 二つの絵の構図は同じだが、再制作版は色彩が加えられ、白地の余白に墨が流れるなど、細部に違いが表れている。岡村さんは「制作過程で揺れ動く作者の葛藤が読み取れる。原爆の本質を伝えるため、加筆するなどして表現し続けたのではないか」と話す。
(平良孝陽記者)

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「原爆の図」二つあった 幻の米国展へ再制作
―2016年6月8日付『埼玉新聞』朝刊

(以下は一部抜粋)
 丸木美術館の学芸員岡村幸宣さんによると、再制作版は輪郭や色の使い方がはっきりしているなど「被爆の惨状を明確に伝えたいという意図が込められていた可能性がある」という。
 再制作した「原爆の図」の展示を巡っては、俊さんが「絵の前で冷や汗を流しながら、言葉だけはだんだん激しくなっていくのです」と苦悩を回想記に記している。理由として、俊さんは原爆の悲惨な実相を伝えるためとはいえ、再制作版を展示することにためらいがあったのではないかと推測されている。
 再制作版は74年、丸木美術館栃木館に展示され、96年の閉館に伴い、広島市現代美術館に寄贈された。今回は同美術館の協力を得て、模写した3部作を東松山の丸木美術館に展示している。
 岡村さんは「二つの作品を通じて、丸木夫妻の深い思いを知り、原爆被害を伝えるために再制作した意味とは何か、芸術表現の根源に迫る機会になる」と話している。
(保坂直人記者)

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2016/6/3

富田牧子さんチェロコンサート  イベント

午後2時から1階奥の新館ホールで、富田牧子さんのチェロコンサートが行われました。
富田さんは、2012年に一宮市立三岸節子記念美術館で「生誕100年丸木俊展」が開催された際、コンサートをして下さった方です。
いつか丸木美術館で、という話を頂いていたのですが、ようやく実現することができました。
出演は、富田さんと、パーカッション奏者のコスマス・カピッツァさん。

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丸木夫妻の描いた戦争や公害の暴力の絵画が並ぶ空間に、チェロの伸びやかな音色が溶け合い、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる演奏会でした。

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この日の曲目は以下の通り。

鳥の歌(カタロニア民謡)
G.B.ヴィターリ:パッサ・ガッリ *
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調〜プレリュード、アルマンド、クーラント
B.バルトークの「農民の歌」による即興
 *
G.リゲティ:無伴奏ソナタ
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調〜サラバンド、メヌエット、ジーグ

休憩
パーカッションソロ
ブルガリアの踊り *
Z.コダーイ:無伴奏チェロソナタより 第1楽章
B.バルトーク:ルーマニア民俗舞曲
 *
鳥の歌 *
[*チェロ+パーカッション] 

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とりわけ、「鳥の歌」は、丸木美術館の空間だからこそ、心に沁みて聞こえました。
丸木美術館のホトトギスは、ふだんはゲンコウカケタカと鳴くのですが、この日ばかりはピース、ピースと鳴いていました。

素晴らしい演奏を聞かせて下さった富田さん、コスマスさん、そしてご来場くださった皆様に、心から御礼を申し上げます。
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2016/5/30

川越スカラ座『無音の叫び声』  川越スカラ座

久しぶりの川越スカラ座で、原村政樹監督の『無音の叫び声』を観ました。

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山形県上山市牧野の農民詩人・木村迪夫にスポットを当てたドキュメンタリ映画です。
1935年に生まれ、戦争で父や親戚を亡くした木村は、農民詩人の先達である真壁仁らと出会い、農業に従事しながら60年にわたって詩を書き続けました。

映画には登場しませんが、1951年4月に山形市美術ホールに丸木夫妻の《原爆の図》が巡回してきた際には、真壁が4月22日付『山形新聞』に「原爆の図三部作展について」という評論を寄稿しています。
もしかすると、木村さんも展覧会をご覧になっていたかもしれません。

戦争の記憶を忘れ、高度経済成長をひた走ってきた戦後の日本の、もうひとつの物語。
変わりゆく東北の農村で、畑を耕し、詩を書き、出稼ぎに出て、ゴミ屋を開業し、記録映画製作にも関わり、戦没者の遺骨を拾いに南洋の島を訪れ、地を這うような視線で時代の流れに抗し続けてきた一人の人間の生き方を、原村監督が丁寧に描写しています。

残念ながら私は仕事で都合がつきませんでしたが、週末の土曜日には田中泯さん、日曜日には澤地久枝さんが来館され、トークを行ったとのこと。豪華ゲストに会場も大盛況だったようです。
原村監督は川越在住で、毎日のように川越スカラ座にも来場され、私が観た月曜日の午前中の回でも、急きょアフタートークをして下さいました。

映画にあわせて、農文協より『無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫は語る』を刊行されており、こちらもお勧めです。
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2016/5/29

NHK日曜美術館アートシーンにて「原爆の図はふたつあるのか」紹介  TV・ラジオ放送

NHK Eテレの日曜美術館アートシーンで、現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」が紹介されました。
とてもよくまとまった内容で、大きな反響が続いています。取材して下さったSさんに感謝。
以下、番組の内容を書き出します。

   *   *   *

―原爆の図第3部《水》のアップから全体像へ

ナレーション 1945年、広島に落とされた原子爆弾。その被害を今に伝える絵があります。原爆の図。

―映画『原爆の図』(1953年)より、丸木夫妻の制作の様子。

ナレーション 描いたのは、丸木位里と俊夫妻。原爆投下直後の惨状を目にしたふたりは、その状況を伝えようと描きはじめました。

―古い原爆の図展の会場写真(1952年1月三菱美唄展会場)。

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ナレーション 作品を撮影した写真。不思議なものが写っていました。黒く塗られた空です。

―古い写真から現在の原爆の図第3部《水》へ画面転換、本作と再制作版の《水》を比較。

ナレーション しかし、作品を見ると、空は黒くありません。実は、同じタイトルの作品が、もうひとつ存在するのです。

―会場風景。キャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション ふたつの原爆の図をならべて展示する、初めての展覧会です。

―原爆の図第1部《幽霊》の本作から再制作版へ画面転換。

ナレーション 焼け出され、さまよう人びと。もうひとつの原爆の図は、まったく同じサイズ。同じ構図。なぜ描かれたのでしょうか。

―ふたつの《水》の絵を背景に、岡村インタビュー。

岡村 1950年の暮れに、アメリカ人が丸木夫妻のところに来て、原爆の図をもっていきたいというので、当時占領下の時代で、原爆の図がどういうふうにアメリカに行くのか、そして、無事帰ってくるのかどうかというのが一番心配だったんだと思うんですね。それで、模写をするんですね。

―画面転換による原爆の図第2部《火》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 二つの原爆の図は、実はまったく同じではありません。再制作した方の絵では、人びとを包む火の輪郭が、よりくっきりと描かれています。夫妻は1970年代、再制作版の原爆の図に、さらに筆を加えていました。

―画面転換による原爆の図第3部《水》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 水を求めて川に向かった人びと。夫妻は、再制作版の背景を黒く塗り、さらに、人びとの肌に生々しい色を加えました。年月とともに遠ざかる戦争の記憶。加筆することで、よりリアルにその悲劇を伝えようとしたのでしょうか。

―再制作版《水》の母子像部分のアップ。ふたたびキャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館で、6月18日まで。

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2016/5/29

「いま、被災地から」展/第五福竜丸展示館40周年記念レセプション  他館企画など

午前中、ピースあいちのM事務局長と都内で打ち合わせ。
その後、東京藝術大学大学美術館で開催中の「いま、被災地から―岩手・宮城・福島の美術と震災復興―」展を観てきました。

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第1部は岩手・宮城・福島の美術を紹介することで、「東北美術」の特質や精神性を浮かび上がらせる内容。そして第2部は、被災した作品の修復の成果を紹介する内容でした。
挨拶文の中に、「美術の中心は首都圏にしかないのではありません。さまざまな地域にさまざまな核があり、それらが相互に連関しながらそれぞれの美術をつくっています」という文章があったことに、共感しました。

岩手なら橋本八百二の《津軽石川一月八日の川開》、佐々木一郎の《帰り路、松尾鉱山(長屋)の夕暮》。宮城なら金子吉彌の《失業者》、大沼かねよの《野良》、狭間二郎の《東北の野》、菅野廉の《亜炭鉱の人々》。福島なら酒井三良の《雪に埋もれつつ正月はゆく》、若松光一郎の《ズリ山雪景》、吉井忠の《百姓祭文》・・・。
それぞれの土地の匂いが漂ってくるような作品の数々を、これだけまとめて観る機会も、なかなかないように思います。
丸木美術館とかかわりのある作家では、佐藤忠良さんや高山登さん、安藤栄作さんの作品も出品されていました。
来場者に無料配布しているパンフレットが充実していて、お勧めです。

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午後は学士会館で第五福竜丸展示館40周年記念レセプションに出席。

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歴史の厚みと知の蓄積、加えて文化の豊かさを感じさせる、素晴らしい式典でした。
この日に向けて周到な準備を進めて来られた職員・関係者の皆さまに敬意を表します。
原爆の図丸木美術館と第五福竜丸展示館の共通点は、どちらも施設の名前に、展示物が入っていること。
つまり、建物が建てられてから中身を探すのでなく、はじめに芯になるものがあって、それを守るために建物がつくられたということです。そのことは、とても重要な意味を持つのだと、正面に掲げられた船影を見ながら、つくづく思いました。
これからも末永く、ともに協力しながら歩んで行きたい大切な施設です。
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2016/5/28

「キセイノセイキ」展/高木仁三郎市民科学基金成果発表会  講演・発表

午前中、東京都現代美術館の企画展「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展を観ました。

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表現と規制の問題を扱った点は意欲的な展覧会でしたが、「現代美術」という文脈の範囲内で行っている限界も感じてしまう内容でした。

その中で、1999年に計画が凍結された東京都平和祈念館の膨大な死蔵資料の存在を引き出そうと試みた藤井光の「爆撃の記録」には興味を惹かれました。

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とはいえ、展示品が存在しない空白にキャプションのみがつけられた異様な空間からは、「忘却に抗する」想像力が、モノを頼りにしないといかに心細いものになるかを再認識させられるばかりで、展示として有効な手段であるかどうかは、にわかには判断ができません。

東京都によって閉じ込められた問題を引きずり出して「可視化」した点は良かったですが、一方で、そうした問題の先に隠されているモノの存在そのものを可視化しようと試みる「野蛮な」アプローチはなかっただろうか、とも考えてしまいました。
理不尽な「規制」に対峙する文化的な「暴力」の必要性を思うと、少々洗練され過ぎてしまったのかもしれません。

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午後1時からは、東京・中央区の日本橋社会教育会館ホールで行われた高木仁三郎市民科学基金「市民科学 研究成果発表会 2016(その1・東京)」に参加しました。
2015年度の助成金を頂いたおかげで、新宿書房『《原爆の図》全国巡回』の刊行をはじめ充実した研究活動ができたので、その成果を報告しました。

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この日の発表は以下の7名でした。

◆深草亜悠美さん
『29年の歴史と記憶:ベラルーシの社会におけるチェルノブイリ事故の受容』

◆岡村幸宣さん
『米軍占領下の原爆の図全国巡回展―被爆体験の国民的共有を目ざした最初の試みの実態調査研究―』
 
◆モザンビーク開発を考える市民グループ 渡辺直子さん
『アグリビジネスによる土地収奪に関するアフリカ小農主体の国際共同調査研究 −モザンビーク北部を中心事例として−』

◆もっかい事故調 田中三彦さん
『福島第一原子力発電所の事故原因と推移過程に関する、運転データと客観的事実にもとづく詳細検討(その2)』

◆原子力資料情報室  澤井正子さん
『高レベル放射性廃棄物処分場選定手続きにおける社会的合意形成手法と安全性確認に関する研究』

◆原子力規制を監視する市民の会  阪上 武さん
『市民による原子力規制行政の監視活動』
   
◆福島老朽原発を考える会(フクロウの会) 青木一政さん
『福島原発事故に伴う生活環境の放射能汚染実態調査と住民の被ばく最小限化』

こうして見ると、私の研究は明らかに異質なのですが、その点について参加者の一人Sさんが、以下の感想を書かれていたので、関連個所のみ抜粋して紹介させて頂きます。

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高木基金のなかでは、異色ともいえる研究であるが、わたしは大変意味のある研究と感じた。

わたしたちの世代を含む多くの日本人が、丸木位里・俊夫妻が制作した「原爆の図」を知っている。原爆によって焼かれた人間の肉体が生々しく描かれたその絵は、被爆体験のないわたしたちに、原爆の恐ろしさを伝える。

今回の研究では、まだ日本が連合国軍の占領下にあった1950年に原爆の図が誕生し、全国で巡回展が開催された背景について、映像や証言、資料の調査から考察している。

研究を行った岡村幸宣さんは、占領下の原爆報道への圧力に抵抗し、核の脅威をいち早く知らせたいと願った人びとの動きが明確に浮かび上がる一方で、原爆の図を巡って、丸木夫妻や他の芸術家も含め日本国民や社会に「ゆらぎ」や「葛藤」が見られたという。

「ゆらぎ」や「葛藤」はとても大切なことのように思う。オバマ大統領が広島を訪問すると聞いたとき、わたしはなんとも言い難いものを感じていた。メディアを通じてさまざまな意見に接したが、どれもわたしの中に落ちるものはなかった。むしろ、わたし自身のなかにはっきりと「矛盾」したものが存在することを自覚した。オバマのスピーチを聞いたとき、オバマ自身が「ゆらぎ」「葛藤」「矛盾」を自覚し、優秀なスタッフからの助言もあったであろうが、それでもなお、オバマが自分の言葉として表現しこだわったように感じた。オバマ自身の言葉では無いところもたくさんあっただろう。その分析は専門家に委ね、参考としたい。わたしはオバマのスピーチを聞き、わたしは、日本人は、何にゆらぎ、何に葛藤し、どんな矛盾を抱えているのかを自覚的であらねばなならいと感じた。そして、丸木夫妻や全国巡回展を企画した市民のように、何を問題とし、どう表現するか、どう行動するかを自ら決定することがとても大切なことだと感じた。

今回の研究の成果は、『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が見た!』(2015年11月、新宿書房)にまとめられている。一人でも多くのひとの目に触れてほしいと思う。


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そのように感じて頂けたことを、本当に嬉しく思います。

私にとっては、福島原発事故の科学的な調査分析をはじめ、ふだんなかなか聞く機会のないベラルーシの原発事故後の状況や、モザンビーク開発の問題などの報告もたいへん興味深く、大いに学びの種を得た一日でした。

発表会後の打ち上げ飲み会にも参加し、これで助成金に関する責務をすべて無事に果たすことができたので、ひと安心です。
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2016/5/28

『埼玉新聞』、『東京新聞』などオバマ訪問記事  掲載雑誌・新聞

オバマ大統領来広の余韻の残る翌朝。
スピーチを観た後に取材を受けた新聞の記事が掲載されました。
以下は関連個所のみの抜粋です。

まずは『毎日新聞』朝刊埼玉版。取材は中山信支局長でした。

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「これから意味あることに」

 丸木位里(1901〜95年)、俊(1912〜2000年)夫妻が原爆投下直後の広島などを描いた「原爆の図」を展示する丸木美術館(東松山市)は被爆70年の昨年、首都ワシントンなど米国内の3都市で巡回展示を実施した。会場では「原爆の図」の連作全15作品のうち6作品を展示し、“核超大国”の市民に向け「原爆が人間に何をもたらしたのか」を訴えた。

 また、同美術館の学芸員を務める岡村幸宣さん(41)は昨年、原爆被害の報道が禁じられていた占領期に既に始められていた原爆の図の全国巡回展の全貌を初めて明らかにした著書「《原爆の図》全国巡回」(新宿書房)を出版した。

 戦後71年でようやく実現した米大統領の広島訪問について、岡村さんは「現職大統領が広島に来て、核兵器廃絶を進め、戦争をなくしていこうと述べたことは、非常に意味があったと思う」と評価したうえ、「だが、これで終わるのではなく、これから意味のあることにしていかなければいけない」と訴えた。

 さらに、丸木美術館の役割について「過去の人たちの痛みを自らに近づけるための場所という意味で、ここは『過去に開かれた窓』。ここを現在に生かしていかなければいけないという責任も感じた」と語った。


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続いて『東京新聞』の社会面記事より。

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「被爆者の声聞いて」

 「ちょっと複雑ですね」。丸木美術館(埼玉県東松山市)の学芸員岡村幸宣さん(41)は館内に展示された原爆の図の前のモニターでオバマ大統領の様子を見守り、感想を語った。

 オバマ大統領のスピーチについて「あんなに長く話すより、被爆者の話をもっと聞いたり、原爆資料館を長く見てほしかった。広島を訪れる意味は原爆の被害を知ることにある」と話した。一方で、広島から米大統領が核廃絶のメッセージを発したことは「オバマさんだからこそできた」と評価した。

 「大事なのはオバマさんがこれから何をするか」と話す岡村さん。「今日一日で広島訪問を評価すべきではない。十年、二十年先に今日を振り返った時に、重要な意味を持つ一日だったと言えるようにする必要がある」。それはオバマ大統領だけでなく、すべての人々の課題だと考える。


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なかなかすぐには考えがまとまらず、テレビカメラの前ではしばらく沈黙した後、ようやく言葉を絞り出したのですが、新聞取材のときには少しずつ頭が整理されてきて、話ができるようになっていました。

とはいえ、その後もさまざまな方の賛否の意見を聞く機会が続いているので、もう少し時間をかけて自分の考えをまとめていきたい気もしています。
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