2018/9/16

「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展と峠宛て書簡について  館外展・関連企画

広島市現代美術館で開催中の「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展は、丸木美術館が所蔵する《原爆の図》初期三部作と、広島市現代美術館が所蔵する再制作版の《原爆の図》を比較展示することを目的としてはじまりました。

クリックすると元のサイズで表示します

また、《原爆の図》に注ぎこまれた丸木夫妻の戦前から続く絵画の実験や、峠三吉との交流をはじめとする広島とのかかわりも紹介され、見ごたえのある内容になっています。

丸木美術館の企画としては、これまでにも「原爆の図をめぐる絵画表現」(2004)や「原爆の図はふたつあるのか」(2016)などを開催していますが、今回のように他館――それも広島で、《原爆の図》の成立過程と展開の一端を紹介していただけるのは本当にありがたいことです。

クリックすると元のサイズで表示します

もっとも、今回新たに公開された赤松俊子(丸木俊)から峠三吉宛ての書簡のひとつ(展示番号4-13)の翻刻には、明らかな誤りが見つかりました。
展示パネル・図録に掲載された書簡の翻刻の内容は次の通りです。

京都同学会主催の原爆展であなたの影の詩は日に三十回も朗読されたでしょう。丁度わたしたちの第五部作少年少女の向いにあったのです。‟影がある”‟影がある”と、くりかえしくりかえし京大の文学部の人人が朗読しては感想をのべていたのです。そうして十日間は無事に終わりました。四国五郎さんの弟より又申出ありました。わたしはこれでわたしの責任を果たしたような気持ちです。

四國五郎の弟・直登は1945年8月に被爆死していますから、「申出」があるはずがないと、展覧会初日からお気づきになった方もいることでしょう。

確かに難読箇所ではあるのですが、正確には「四国五郎さんの弟よも見事でありました」と読みます(私もすぐに誤りに気づいて担当学芸員に指摘したものの、結局読み解けず、歌人の相原由美さん、俊の弟の赤松淳さんにご教示いただきました)。

実際、1951年7月、京大同学会主催により京都の丸物百貨店で開催された綜合原爆展には、峠の詩「影」とともに、四國の詩「心に喰い込め」が掲示されていました。その詩の中で、「弟よ」という言葉が印象的に使われているのです。俊が「見事」と褒めているのは、「心に喰い込め」で間違いないでしょう。

この件は広島市現代美術館にもお伝えしたので、近日中に修正が入る予定です。すでに展示をご覧になり、図録を手もとにお持ちの方は、修正をお願いいたします。
0

2018/9/15

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク  企画展

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク。
あいにく雨模様となりましたが、集まってくださった参加者に対し、1時間にわたって作家自身による作品解説が行われました。

クリックすると元のサイズで表示します

1982年生まれの加茂さんは、「震災の後ぐらいから、自分が絵を描くことで社会に対して何ができるかということを考えるようになった」と言い、2017年に知人から広島で展覧会を開催する話をもらったことをきっかけに、市民が描いた「原爆の絵」の模写に取り組みました。

クリックすると元のサイズで表示します

本人や遺族から模写制作の許可をとり、線の一本一本や、筆の動きを想像して「描きながら見る」という行為。それは体を動かし、頭を使い、目で見るというかたちの「追体験」であったと加茂さんは考えます。

一方で、描いた方たちと出会うことで、「追体験」はあくまで「直接体験」とは違う、わかったような気持ちになっても、常に「ずれ」があり、その「ずれ」を考えていくことが重要だ、とも気づいたそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

加茂さんは、みずからの作品に、市民が描いた原爆の絵の中から印象深かった要素を取り入れ、再構成して《追体験の風景》として制作していきます。

クリックすると元のサイズで表示します

そうした経験を通して、「原爆という大きな出来事も、実は個人の記憶の総体として存在しているのかもしれない」と考えた彼は、体験者らの肖像と原爆の記憶の二重像を描きました。

クリックすると元のサイズで表示します

その手法は、福島第一原発事故の帰宅困難区域に自宅のある大学時代の友人家族の一時帰宅に同行して制作した絵画にも用いられています。

クリックすると元のサイズで表示します

水俣の隣にある津奈木町で滞在制作をした際には、汚染された水俣湾を埋め立てて造られた公園・エコパーク水俣に、この場所で起こったことを記憶するために水俣病患者らが設置した石彫をスケッチしました。

クリックすると元のサイズで表示します

不知火海の朝夕の光景と石彫を描いた絵画をならべて設置し、遥かな過去と未来を想像し、つなぎあわせていく「祈り」をテーマにしたインスタレーションも発表しています。

このとき加茂さんは、熊本の方言である「のさり」という言葉に出会い、衝撃を受けました。
「のさり」とは授かりものという意味で、水俣病患者の漁師が「水俣病も、のさり」と受け止めていることを知り、「祈り」と「のさり」という言葉を抱えて、再び福島へ向かうのです。

クリックすると元のサイズで表示します

今回の展覧会の最後に設置された作品は、福島の帰宅困難区域の境界に設置されているフェンスを描いた絵画です。
フェンスの内側を見つめる加茂さんの想像力は、いつの間にか境界を反転させ、自分自身の姿をフェンスの向こうに描いています。加茂さんによれば「人為的なものを超えた超人為的な」空気や時間や光が、その人影を包み込んでいます。

一見、明るく色鮮やかなグラフィック・デザインのような絵画ですが、加茂さんの「追体験の光景」は、痛みをいかに分有できるか、という姿勢で丸木夫妻の共同制作につながります。
また、2016年に丸木美術館で回顧展として取りあげた広島の画家・四國五郎は、加茂さんが模写した市民の描いた原爆の絵の募集の呼びかけにかかわっています。
同時開催として展示中の岡崎市の小学生が描いた徳応寺版「原爆の図」模写も、模写による追体験という点で、加茂さんの作品とつなげることができそうです。
そんな、さまざまなことを考えながら、作品解説を興味深く聞きました。

10月20日(土)午後2時15分からは、福島県立博物館の川延安直さんと加茂さんのトーク「広島と水俣と絵画を通して福島を考える」を行います。
展覧会の会期は10月21日(日)まで。
見応えあり、です。
0

2018/9/13

【京都出張】儀間作品返却/ギャラリーヒルゲート  調査・旅行・出張

儀間比呂志展の作品返却のため、京都の立命館大学国際平和ミュージアムへ。
午前中のうちに、無事に作品点検と返却が終わりました。お預かりした分の図録も、最終日の2日前に完売。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。ちなみに図録は、立命館大学国際平和ミュージアムに直接連絡すれば、まだ購入することができます。

クリックすると元のサイズで表示します

午後は京都国立近代美術館で特集展示「バウハウスへの応答」を観た後、寺町通りのギャラリー・ヒルゲートへ立ち寄り、画廊主のHさんにご挨拶。
8月6日ひろしま忌の窪島誠一郎さんの講演がキャンセルになった際、代役の相談に乗っていただいたのです。そのとき代役を務めてくださった司修さんの個展が、ちょうどタイミング良く開催中。古事記と宮沢賢治の世界を描いた緻密なスクラッチのシリーズでした。

ギャラリーの2階で珈琲を飲んでいると、亡き針生一郎館長が、ふらりと入ってくるような錯覚を覚えました。
特に待ち合わせをしたわけではないのに、偶然同じ時間にヒルゲートに立ち寄り、まるでそれが当然であるかのように打ち合わせがはじまったのは、もう何年前のことになるでしょうか。
Hさんとそんな昔話や近況報告をして、つい長居をしてしまいました。
0

2018/9/11

加茂昴展展示作業  企画展

9月15日に開幕する「加茂昴展 追体験の光景」。

クリックすると元のサイズで表示します

今日からはじまった展示作業には、作家の加茂さんとともに、「戦争画STUDIES」のバーバラ・ダーリンさんが手伝いに来てくれました。聞けば学生時代の同期だそうです。
写真は、水俣を描いた絵画群を展示する二人の様子。今回の展示は広島・水俣・福島における追体験がテーマです。

少し前のことになりますが、10月から特別展示(テーマはチェルノブイリの予定)を行う気鋭の写真家・小原一真さんとの打ち合わせには、アフリカ・ジンバブウェの記憶を描いた初個展を終えたばかりの吉國元さんが同行してくれました。やはり以前からの友人同士だそうです。

それぞれの活動を興味深く見ていた若い世代の表現者たちがつながっていて、互いに誘い合って丸木美術館に来てくれるのは、とても嬉しいです。
こちらも彼らの活動をしっかりサポートしていかなければと思います。
0

2018/9/9

【沖縄出張】平和博物館・市民ネット/ひめゆり戦跡ツアー  調査・旅行・出張

昨夜のうちに広島から福岡経由で沖縄へ移動し、今日は初の沖縄開催となった「平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会」の第2日目に合流。

クリックすると元のサイズで表示します

午前中はひめゆり平和祈念資料館で、説明員Oさんの講話を聞きました。
以前に体験者のお話を聞いたことはあるものの、若い世代の説明員に代わってから講話を聞くのは初めて。途中、体験者の証言映像を交えつつ、当事者とは異なる視点からの解説がよく練られていて、語りの継承をいち早く実践してきた館ならではの蓄積の厚みを感じました。

昼食のときには、ひめゆり説明員の先駆者で旧知のNさんと、互いの館を取り巻く現状について情報交換。年に一度の交流会ですが、他館の話は大いに刺激になります。

午後はひめゆり戦跡をめぐるフィールドワーク。伊原第三外科壕・ひめゆりの塔から出発し、貸切バスに乗って山城本部壕、荒崎海岸をまわりました。

クリックすると元のサイズで表示します

ひめゆり平和祈念資料館の前にある伊原第三外科壕は、南風原町にあった陸軍第三外科が南部に撤退して入った壕。6月18日に突然の「解散命令」があった翌19日朝の米軍の攻撃で、中にいた100人のうち81人(うち、ひめゆり学徒・教師は42人)が亡くなっています。

クリックすると元のサイズで表示します

壕の近くには、1946年に建てられた小さな塔と、1957年に建てられた(2009年改修)大きな慰霊碑がありますが、慰霊碑の百合の彫刻の作者が玉那覇正吉であることに初めて気づきました。玉那覇は、ニシムイ美術村の芸術家の一人で、対馬丸記念館の近くにある沖縄戦戦没学童慰霊碑「小桜の塔」の彫刻も手がけています。

クリックすると元のサイズで表示します

ひめゆりの塔から海に向かう途中にある山城本部壕は、沖縄陸軍病院の本部が置かれた場所。壕の近くに「沖縄陸軍病院之塔」が立っています。

クリックすると元のサイズで表示します

滑りやすい足もとに気をつけながら壕の中に降りていくと、空間は案外広く、奥には泉もあったのですが、奥の方は院長室として使われ、ひめゆり学徒の居場所は入口付近だったとのこと。

クリックすると元のサイズで表示します

6月14日に壕入口を砲弾が直撃すると、学徒2名を含む病院関係者十数名が死傷。その後、学徒と教師は壕から移動するよう命じられ、ふた手に分かれたものの、ジャンケンに勝って伊原第三外科壕に移動した7名は全員が死亡しました。

クリックすると元のサイズで表示します

荒崎海岸は、6月21日、日本兵を追ってきた米兵の銃撃を受け、岩場に隠れていたひめゆり学徒7名と教師1名を含む10名が、手榴弾で自決した場所です。
ゴツゴツした岩肌に、「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が埋め込まれています。

クリックすると元のサイズで表示します

1949年に遺族によって碑が建てられ、一度倒壊した後、1972年に再度作られたとのこと。
遠く摩文仁の丘を見渡せる美しい海岸ですが、当時は波打ち際まで米軍艦が押し寄せ、逃げる場所はなかったそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

荒崎海岸からバスまで歩いて戻る途中で雨が降り始めたものの、辛うじて予定通りにフィールドワークを行うことができました。
細心の気配りで案内してくださった、ひめゆり平和祈念資料館の皆さんに感謝。
「かつて、ひめゆりの証言者の方々は、死んでいった仲間たちが守ってくれるから、雨に降られずにすんだ、と言うことがあったけれど、今日は私たちもそんな思いです」という言葉が印象的でした。

クリックすると元のサイズで表示します

最後にバスの車窓から魂魄の塔を見て、F新館長の解説を聞き、その後に解散。
1946年、戦後の沖縄で最初に建てられた慰霊碑である魂魄の塔は、10年ぶりの再訪。ひめゆり平和祈念資料館は4度目、山城本部壕と荒崎海岸は、今回初めて訪れました。
仕事で沖縄へ行くことは多いのですが、南部戦跡をまわる機会はなかなかないので、貴重な体験でした。
2

2018/9/8

【広島出張B】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕  館外展・関連企画

広島市現代美術館「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展が開幕しました。

クリックすると元のサイズで表示します

レセプションには、位里の母校である広島市立飯室小学校の全校児童が貸切バス2台で駆けつけて参加。福永館長と丸木ひさ子さんの挨拶に続いて、この日のための学習の成果を、代表の児童が立派に発表していました。

クリックすると元のサイズで表示します

そしてギャラリートークには、あいにくの雨にもかかわらず、本当に大勢の方にご来場いただき、感謝しています。会場をいっぱいに埋めた来場者の中には、被爆者の証言をもとに「原爆の絵」に取り組む基町高校の生徒たちの姿もありました。

クリックすると元のサイズで表示します

当初はひとつひとつの絵を見て歩き、関係者の方々(親族、研究者などなど)をご紹介しながらまわれればと考えていたのですが、この人数ではとても無理だと判断し、展示室ごとに移動しながら概説をするという方法に切り替えました。

1時間にわたるトーク、《原爆の図》三部作(本作/再制作版)の前では特に時間を割いて話したものの、それでも語りきれないのが《原爆の図》。トークの後もたくさんのご質問をいただきました。

クリックすると元のサイズで表示します

これから2か月半にわたって広島の方々に観ていただきながら、新しい出会い、新しい発見があることを願っています。
0

2018/9/7

【広島出張A】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕前日  調査・旅行・出張

午前中はO市まで、歌手の二階堂和美さんを訪ねて行きました。
ローカル線に揺られて、車窓から宮島を眺める小旅行のような時間。

クリックすると元のサイズで表示します

落ち着いた雰囲気の古い宿場町の小さなお寺で、11月の企画のこと、丸木夫妻ゆかりの飯室のお寺の住職のこと、そして亡くなってしまった高畑勲さんのことなど、小一時間お話ししました。

クリックすると元のサイズで表示します

午後は広島市現代美術館で、明日から開幕する「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展を拝見。
会場をまわりながら、解説員の皆さんに作品解説も行いました。皆さんしっかりメモをとりながら聞いてくださり、気がつけば解説は2時間を超えていました。

クリックすると元のサイズで表示します

展覧会は、《原爆の図》以前の位里と俊の作品紹介からはじまり、《原爆の図》三部作の「本作」と「再制作版」を比較して並べているのが見どころです。「再制作版」のための下図や、展覧会の印刷物などの関連資料も紹介されています。

担当学芸員のSさんは、今回、広島市立中央図書館にある峠三吉資料から、丸木位里・俊の書簡を見つけてくださいました。そこには、『原爆詩集』(1951)の装幀を褒める二人の言葉が記され、「原爆の図展」に「われらの詩の会」の詩を送ってほしいと依頼していたこともわかりました。
副館長のTさんは、私が見逃していた山陰地方の新聞から、再制作版のきっかけとなった幻の「原爆の図」米国展について、賀川豊彦や桜沢如一らが協力していたという新たな情報を補完し、図録の論考にまとめてくださっています。

明日、午前10時半からのギャラリートークでは、こうした新たな知見も取り入れながら、《原爆の図》と広島とのかかわりを中心に、お話しできればと思っています。
0

2018/9/6

【広島出張@】「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展に向けて  調査・旅行・出張

関西と札幌行きの便が欠航となり、混乱していた羽田空港を後にして、広島に来ています。
広島もまた、空港から市内に向かう途中のところどころに豪雨災害の跡が残っていました。

そんな中で、8日から広島市現代美術館ではじまる「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

クリックすると元のサイズで表示します

広島駅に開通した南北自由通路のデジタルサイネージの動画に、展覧会の案内が流れていました。

クリックすると元のサイズで表示します

他にも、広島駅南口地下広場のショーウィンドウや、八丁堀福屋の隣の金座街アーケードの懸垂幕、街なかのあちこちにポスターが掲示されています。

クリックすると元のサイズで表示します

広報担当の方によると、8日午前10時半から行うギャラリートークへの関心も高く、当日は盛況と思われるとのこと。

昨日はいくつかの場所へ挨拶まわり。エディオンプレイガイド(サンモール1階)へ、11月18日の奈良美智さんらが出演される丸木美術館主催イベントの前売券も納品してきました。広島市内で直接チケットを購入できる拠点ができたので、本格的に告知を進めていきたいと思っています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2018/hiroshima.html

ギャラリーGでは、昨年亡くなられた美術家のいさじ章子さんの追悼展を観ました。直接お会いする機会はなかったものの、ご著書をお送りいただいたことがあり、一方的に近しく感じていました。若き日の抽象的な油彩画と、死の間際にも表現し続けた言葉の作品による、静謐な展示でした。
http://gallery-g.jp/exhibition/isajisyouko/

夜は2015年の米国展でお世話になった広島テレビのWさんと待ち合わせ。小鰯の刺身や鯒の煮付け、穴子の茶碗蒸しなどの美味しい料理を楽しみつつ、しかしカウンターで飲んでいる別のお客さんの「今年の災害の多さは異常。広島の豪雨災害がもう過去のことみたいになっとる」という言葉が聞こえてきて、胸に刺さりました。

この困難な時代に、《原爆の図》どのように読みなおしていけるのか。なかなかうまくは話せないかもしれませんが、そんなことを考えながら、トークに臨みたいと思っています。
1

2018/9/1

シンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉  イベント

午後1時半からシンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉。
あいにくの天候にもかかわらず、大勢の方にご来場いただきました。

クリックすると元のサイズで表示します

共催の音筆舎は、広島の原爆を扱った音楽を研究されている能登原由美さんの立ち上げた団体。能登原さんとはこれまで、日本平和学会や広島大学、米国の日本文学研究会などで一緒に発表する機会が多かったのですが、今回は「美術」と「音楽」の領域を横断しながら、「戦争/暴力」と表現の問題をさらに深めて考えることができないかという提案をいただき、シンポジウムが実現しました。

クリックすると元のサイズで表示します

はじめに映画『原爆の図』(1953年、今井正・青山通春監督、音楽を担当した大木正夫は、その後交響曲第5番「ヒロシマ」、第6番「ベトナム」を作曲)を上映。
「戦争画」をはじめ現代美術における戦争表現の紹介を続けている飯田高誉さんと、現在ベトナムで音楽研究を行っている加納遥香さんにも発表していただき、何より、全体を俯瞰しながら的確に議論を導く柿木伸之さんのコメントが、シンポジウムを引き締めてくださいました。

この企画は一回限りでなく継続して行っていく予定で、いずれ記録として残していくことも検討中です。
出演者の皆さま、そしてご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
0

2018/8/25

福島ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」トーク  講演・発表

福島市のギャラリー・オフグリッドにて、山内若菜展トークイベント。
3.11後、被曝した牛や馬を殺処分にせず育て続ける「牧場」の絵画に包みこまれるように、参加者みんなで車座になって座り、画家の話を聞きました。

クリックすると元のサイズで表示します

福島のことを知りたいという思いに突き動かされて現地に通い、さまざまな人の話を聞き、絵を見た岡山の中学生の率直な感想にも耳を傾け・・・彼女の語る制作動機を、しかし目の前の絵画は、どこか軽々と飛び越えていくような印象を受けます。
考えを整理するより先に、描きたいという欲求が彼女の手を動かし、絵筆の先から濃厚で強靭なイメージがあふれ出てくるのです。

その作品世界を、来場者にどのように伝えられるのか。
福島の核被害をテーマにしていることもあって、事前の不安は決して小さくなかったのですが、真摯に語るべき言葉を探し続ける画家の姿に、周囲の人たちが次第に引き寄せられていく気配を感じて、安心しました。

きっとこの空間は、福島ではマイノリティに属するのだろうと思いますし、私たちは「境界」の外側から来た越境者に過ぎないのですが、しかし、この日会場に流れていた空気感は、決して悪くなかったと思います。

地元福島の方がたはもちろん、東京から駆けつけてくださった方が何人もいて、本当に心強い限りでした。忘れがたい夜になりました。
ご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
0

2018/8/20

東京藝術大学 芸術と憲法を考える連続講座クロストーク  講演・発表

東京藝術大学にて、芸術と憲法を考える連続講座(主催:音楽学部楽理科、共催:自由と平和のための東京藝術大学有志の会、後援:日本ペンクラブ)の第9回「イメージする。表現する。行動する。−核兵器のない世界へ−」。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員でピースボート共同代表の川崎哲さんとクロストークを行いました。

クリックすると元のサイズで表示します

川崎さんには、昨年12月16日、オスロでのノーベル平和賞授賞式から帰国した翌日に丸木美術館で講演をして頂きました。
今回は、そのとき以来の再会。川崎さんはあれから全国で90回以上の講演をされてこられたそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

川崎さんのお話で印象に残ったのは、核兵器禁止条約の締結のためにもっとも努力したのがメキシコ、オーストリア、コスタリカの3国だったということ。
いずれも核被害の直接的な“当事国”でないにもかかわらず、自分たちの文脈にひきよせて、その非人道性/不条理を考えていたという話を聞いて、世代を超えて核被害の記憶を継承するためのヒントを得たような気がしました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木夫妻をはじめ、私の発表で紹介した「空想非核芸術美術館」の美術家の多くも、直接的な“当事者”ではありません。
忘れたくても忘れることのできない“当事者”の〈記憶〉だけでなく、“非当事者”のもたらす〈想像力〉が、これからの世界を変えていくための重要な鍵となっていくのでしょう。

川崎さんには、「原爆の図保存基金」への応援メッセージもいただきました。

==========

川崎哲
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員、ピースボート共同代表

核兵器の非人道性に対して世界の国々が明確な認識をもったことが、2017年7月の核兵器禁止条約成立を導きました。同年末、ノーベル委員会は、核兵器の非人道性に注目を集め核兵器の禁止に貢献した市民の運動に対してノーベル平和賞を授与しました。この法規範に真の実効性を与えていくのは、私たち市民の力です。《原爆の図》を今こそ世界に広げ、一人でも多くの世界の人たちに見てもらいましょう。

==========

川崎さん、力強いメッセージをありがとうございます。
そして、ご来場くださった大勢の方々、お世話になった有志の会の皆さま、本当にありがとうございました。
0

2018/8/17

【北海道出張A】秩父別・善性寺  調査・旅行・出張

北海道出張2日目は、N学芸員やギャラリー北のモンパルナスのSさんらとともに、赤松俊子(丸木俊)の生家である秩父別町・善性寺を10年ぶりに訪問。

クリックすると元のサイズで表示します

目的のひとつは、俊が10代の頃、東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)に通うため、資金援助の意味を込めて郷里の人びとに依頼されて描いた絵画を撮影することでした。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

まずはベニヤ板に油彩で描かれた《赤松清潤の像》と《出淵虎治の像》。
どちらも親戚を描いた肖像画で、赤松清潤が着ているのは屯田兵の軍服とのこと。1930年(俊18歳)頃の制作と思われます。北海道の気候のせいか、保存状態は非常に良好でした。

クリックすると元のサイズで表示します

そして同じ頃に俊の父親を描いた《二世淳良法師の像》。この作品は以前にも見ていましたが、あらためて記録撮影。

クリックすると元のサイズで表示します

絵の中で着用されている極楽鳥文様の七条袈裟も現存するとのことで、俊の甥にあたる現住職が、わざわざ見せて下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

さらに、俊の母校である秩父別小学校に展示されていた《パラオ島》も、1年ほど前に善性寺へ戻っていました。
この油彩画は、俊が当時日本の統治下にあった「南洋群島」を訪れた1940年の作。
伝統的な集会所ア・バイに腰をかけてこちらを見ている二人の子どもの照れ笑いをしているような表情が印象的です。画家とモデルの親密な関係が伝わってきました。

   *   *   *   *   *

今回の善性寺訪問のもうひとつの目的は、日本画を専門とするN学芸員とともに、丸木位里の《龍虎之図》を調査することでした。

クリックすると元のサイズで表示します

この大作は、丸木夫妻が結婚の報告のために1941年末に秩父別を訪れた際に描かれ、翌1942年の第3回美術文化協会展に出品された記録が残っています。
その後、善性寺の本堂の襖絵として使われて、1992年に屏風に表装しなおされた際に、傷んでボロボロになった部分に新たに紙を貼り、位里自身が加筆したとのこと。

クリックすると元のサイズで表示します

加筆によって1941年の発表時からどの程度改変されたのかが気がかりだったのですが、今回あらためて調査して、主要な部分はほとんど変わってないことがわかりました。

クリックすると元のサイズで表示します

伝統を踏まえた図像でありながら、位里独特の絵画感覚が、虎の量感や龍と雲の構成の大らかさなどに散見されます。
彼の画業をたどる上で重要な意味を持つ作品であると再確認できたのは、大きな収穫でした。

クリックすると元のサイズで表示します

秩父別は見渡す限り広大な平野が広がるスケールの大きな土地。雨上がりの青い空には、「赤松の名にちなんだ」本堂の赤い屋根がよく映えていました。
1

2018/8/16

【北海道出張@】札幌・ギャラリー北のモンパルナス  調査・旅行・出張

久しぶりの北海道出張。
雨のせいもありますが、気温は18度と、熱風の埼玉とは別の国のようです。

午前中に北海道立近代美術館と三岸好太郎美術館を観て、午後は広島の奥田元宋・小由女美術館のN学芸員とともに、札幌のギャラリー北のモンパルナスで丸木位里作品の調査を行いました。
きっかけは、今年7月に同ギャラリーで開催された「丸木位里展」の出品作に、1943年夏制作の水墨画《昇仙峡》が含まれていたことでした。

クリックすると元のサイズで表示します

現在、市場に出てくる丸木位里の作品は、もっぱら1970年代から80年代にかけての国内外の旅行の際に描いた風景画が中心。1940年代前半の水墨画が出てくるのは、たいへん珍しいです。

クリックすると元のサイズで表示します

1943年といえば、美術団体の統制が進められ、展覧会の開催が激減していった時期ですから、位里の《昇仙峡》は描かれはしたものの、発表されなかったかもしれません。

クリックすると元のサイズで表示します

位里は1939年頃から水墨の実験を繰り返しており、《昇仙峡》の画面に見られる細かい点描は、当時の彼の関心の方向性をよく伝えています。
地味な小品ではあるけれど、あまり活動の記録が残っていない時期の作例を伝える貴重な一点です。
0

2018/8/15

『信濃毎日新聞』社説「戦争の記憶」  掲載雑誌・新聞

ひろしま忌とその翌日に、時間をかけて取材してくださった信濃毎日新聞のN論説委員による社説が掲載されました。

戦争の記憶 「分かりたい」思いを胸に
 ―2018年8月15日『信濃毎日新聞』社説
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180815/KT180811ETI090002000.php

以下、信毎webより一部抜粋です。

=====

 位里さんと俊さんの作品群は完結していない。私たちの生きる社会に続編はある。

 「平和利用」のかけ声の結果、福島は核の惨禍にさらされた。沖縄県民は「安全保障」の名目で今も主権を奪われている。
 過労死や自殺が後を絶たず、人と人との関係は薄れて孤立感が深まっている。戦争とは質の異なる暴力に追い詰められ、身近な命が悲鳴を上げている。

 東京や広島、長崎、沖縄で、曽祖父母や祖父母世代の体験を語り継ごうと、3世、4世に当たる若者が多様なアイデアで活動を始めている。心強くはあるものの、戦争の記憶はそうした一部の人たちだけが担い、受け継いでいくものではないはずだ。

 原爆の図をいかに「自分の絵」として見てもらうかが、これからの美術館の課題だという。丸木夫妻の願いをたぐり寄せようとする国内外の人たちの支えで、館は半世紀存続してきた。
 戦時に生きた人々の苦難を共有することはできない。知ったつもりに、寄り添えた気になるより、目の前にある命の問題と交錯させながら、「分かりたい」との思いを持ち続けたい。


=====

Nさんの強い気持ちの伝わってくる良い記事です。どうもありがとうございました。
1

2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

クリックすると元のサイズで表示します

名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

クリックすると元のサイズで表示します

寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

クリックすると元のサイズで表示します

当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

クリックすると元のサイズで表示します

子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

クリックすると元のサイズで表示します

「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ