2017/4/13

もう一つの日本文化(学習会「先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ」開催記録(その2))   
 木村さんが共同代表になっている【平取「アイヌ遺骨」を考える会】 の学習会 『先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ』 が先月(3月)18日、平取町・二風谷生活館で参加者110名と盛会裏に開催された。

 懇親会出席者は凡そ40名、反対意見をも自由に発言できる開かれた学習会だった。とても意義のある学習会だったといえる。

 学習会プログラム
 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)
 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v
 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」
 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」
 D市川守弘さん(弁護士)「地元の土に遺骨を戻すには」
 E自由な意見交換
 F閉会のあいさつ 木村二三夫(平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)

 さて、【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(講演録)の提供があったので、引き続き(その2)をご紹介する。

 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v

 うえき・てつや 1956年生まれ。専門は哲学。著書に『新版 学問の暴力 アイヌ墓地はなぜあばかれたか』(春風社)、『植民学の記憶 アイヌ差別と学問の責任』(緑風出版)など。

 『みなさん、こんばんは。植木と申します。
 まず、そもそも、なぜ大学にこれほど数多くのアイヌの方々の遺骨があるのか、ということをお話します。

 話は19世紀にさかのぼります。ヨーロッパで、人間の頭の骨への関心が高まります。当時、骨相学という、かなり怪しげな学問が流行って、頭の骨の形を調べれば、その中の脳のことが分かって、脳は精神をつかさどっているから、人間の心の中が分かるのではないか──そういう流行が起こったのです。

■先住民族の頭骨が狙われた理由
 これはかなり怪しかったのですけれども、もう少し本格的な学問としては、比較解剖学とか形質人類学、自然人類学とも呼ばれていますが、そういった学問が19世紀のヨーロッパやアメリカで始まり、頭の大きさを測ると「人種」の比較ができる、という考えが広まりました。

 そのためにサミュエル・モートンというアメリカの解剖学者、あるいはポール・ブロカというフランスの人類学者、こういった人たちが、あちこちの先住民の墓地を掘り返したり、あるいは刑務所で亡くなった方の骨を集めたり、といった研究を行なったわけです。

 その背後には進化思想がありました。人間は動物から進化してきた、だから人間の中にも「進化した人種」と「遅れた人種」がいるのではないか──そういう人種の序列化の考え方があったと思います。その中で、アイヌ民族に関しても、外見が比較的欧米の人たちと似ているということで、特に欧米人(の研究者)が、「なぜアジアにわれわれの仲間がいるんだ?」と相当関心を抱いていたようです。

 その結果、北海道では、江戸時代の末期に有名な盗掘事件が起こっています。1865年、慶応元年、江戸時代の最後ですね、箱館(函館)にイギリスの領事館があったのですけれど、そこの領事館員が、近くのアイヌ墓地から遺骨を持ち去るという事件が起こりました。箱館の近くの落部村で13人分、森村で4人分が持ち去られました。

 しかしこの時は、アイヌの方々が当時の箱館奉行所に訴え出たものですから、箱館奉行はイギリスと交渉して、最終的にイギリス政府は「墓地を発掘するのは犯罪だ」として処理しました。犯人は禁固刑にされ、イギリス領事がアイヌに謝罪しました。

 持ち出された遺骨も元に返されたことになっているのですが、本物だったかどうかは……。特に森村の4体に関しては、本物はロンドンに送られて、帰ってきたのはニセモノではないか、と言われています。落部村の盗掘事件の時は慰霊碑が作られまして、これもいろんな歴史的な経緯があったのですけれども、現在は八雲町にあります。

■研究者の「盗掘」を和人が手助け
 明治時代になると、日本人も研究を始めるわけですね。最初に始めたのは小金井良精という人物です。所属は帝国大学医科大学、現在の東京大学医学部です。東大には今でも小金井良精像というのがあります。小金井は1888年と89年、明治21年22年に、2回にわたって北海道旅行をして、160人程度の遺骨を掘り出して持ち去ったと考えられています。

 それから大正時代、清野謙次という京都帝国大学医学部の教授が1924年、当時日本領だったカラフトの栄浜から、約50人のカラフトアイヌの遺骨を持ち出しています。

 幕末の事件と大きく違うのは、和人がこの2人に協力したということです。地域の警察や医学関係・医療関係者、それから戸長、そういった人たちが協力していた。アイヌの人々に対しては、その目を避けて、無断で掘り出していた。もし見つけられたら大変なことになるからと、こっそり持ち出したわけです。明らかな盗掘であったということです。

 小金井が1回目の旅行の時、1888年7月28日から31日まで、平取に立ち寄った記録が残っています。小金井自身が書いた「アイヌの人類学調査の思ひ出 四十八年前の思ひ出」という文章が、戦前の1935年に『ドルメン』という雑誌に掲載されましたが、その中の59頁から60頁に書かれています。それから、つい昨年の暮れに『小金井良精日記 明治篇1 1883-1899』(クレス出版)が刊行されました。215頁から217頁にかけて平取での様子が書かれています。

 それらを見ますと、先ほど名前が出ていましたペンリウクが、小金井を案内しました。遺骨の発掘に先だって小金井は、生体計測と称してアイヌの方々の体のサイズをいろいろ測るわけです。平取では──2つの資料で数字が一致しないのですが──20名ないし15名程度の生体計測をした、と小金井自身が書き残しています。

 ただ小金井は、平取では墓地の発掘は行なっていません。他の地域では、たいてい和人が小金井を案内しています。和人の案内でこっそりとアイヌ墓地を掘り返したのですが、平取では、ペンリウクというアイヌの指導者が対応したために、おそらく墓地に近づくことができなかったのではないか──これは推測ですが、そう思われます。

■昭和時代の「国家的発掘」
 昭和時代、1930年代になると、国家的発掘と言いますか……。1930年代というのは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間です。世界各国が「科学技術を発達させないと国力を高めることができない」と、科学技術を積極的にバックアップした時代です。日本にも日本学術振興会ができて、国のお金を使って積極的に科学技術の研究をした時代です。

 その学術振興会の第八小委員会が「『アイヌ』の医学的民族生物学的調査研究」という大規模な調査研究を始めます。平取でもかなり大規模な研究が行なわれましたが、その中で、北海道大学医学部解剖学第一講座・第二講座の山崎春雄、児玉作左衛門という教授が調査研究を担って、遺骨発掘を担当しました。

 二人は北海道各地、さらに当時日本領だったカラフトや北千島で大量の遺骨を発掘します。児玉作左衛門の論文によりますと、戦前だけで500以上の遺骨を手に入れた、とあります。さらに戦後になっても静内などで大規模な発掘が続けられました。最終的に北海道大学には1000以上の遺骨があることが現在分かっています。

 北海道大学は2013年3月に「北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書」を出しています。それに遺骨のリストが載っていて、ナンバー690から706の17人分の遺骨が平取からの分とされています。

 抜き書きした資料がみなさんのお手元にもあると思いますが、単に「平取町」と記載されているものが4つ、「貫気別」6つ、「長知内」が4、「荷負」2、「二風谷」1、というふうに遺骨が掘り出されています。そのうち個人特定可能──誰の遺体かが分かる可能性があるのは9体分だけです。あとは全然、誰のものか分からなくなってしまっています。

 先ほど名前が出ました二つの講座のうち、第一講座は1933年、主に貫気別や荷負で掘っている。第二講座は戦後に掘っていることがその一覧表から分かります。それから札幌医科大学に10体あります。この2大学以外にも(平取から持ち出した遺骨を)持っている大学がある可能性もありますが、きちんとしたリストを把握していないので分かりません。

 さて、先ほどのペンリウクの遺骨ですけれども、北大の調査報告書の17頁によりますと、1936年7月10日づけの「時事新報」(北海樺太版)という当時の新聞に、〈平取部落の土人が学術研究のため土中から尊敬するペンリウクの骨格を掘り返し北大医学部に寄贈し〉たとあります。

 (当時在住していた)ジョン・バチェラーは「それはアイヌの人骨ではない」と言ったが、掘った山崎春雄教授が、「小金井良精がペンリウクの生態計測をしている。その時の計測数字と一致しているから間違いなくペンリウクのものだ」と言った、という記事のあることが、報告書に書かれています。

 戦後に北大の教授になった伊藤昌一という人物も、「平取の大酋長ペンリウクの遺骨を提供された」というふうに書いています。ですから、北大はこれがペンリウクの遺骨であると考えていた。さきほどの遺骨リストの一番上、「690番/平取1」とあるものです。

 このことに関しては、きょう会場にお見えになっている土橋芳美さんが、つい数日前、『痛みのペンリウク』という本をお書きになって、この問題にとりくんでいらっしゃいます。この会場の受付でも販売されていますので、お読みになってみてください。

■政府方針は「最大で23体しか返さない」
 このように集められた遺骨が、北大以外にも、大阪大学とか他の大学にもあるわけですが、最終的に現在、どうなっているのか。文部科学省が2013年度に調査しました。

 2014年1月までに判明している分として、全国12の大学に、個体として、つまり一人分の遺骨であると確認できるものは1636。そのうちだれのものか分かりそうなのが23……たった23です。それとは別に、一人分かどうかも分からなくなってしまって、箱に入っているものが515箱あることが分かりました。配布資料に大学別の数字を入れています。

 これに対して日本政府はどうしようとしているのか。ご存じのように2014年6月に閣議決定が行なわれて、「民族共生の象徴となる空間」というのを整備することになりました。その象徴空間に「遺骨を集約し、アイヌの人々による尊厳ある慰霊の実現を図る」ということになっています。

 問題は、それと同時に、「集約した遺骨については、アイヌの人々の理解を得つつ、アイヌの歴史を解明するための研究に寄与することを可能とする形で保管する」。つまり研究に使うかもしれません、ということが言われていることです。要するに政府は、返せるものが返すが、残りは集約して研究に利用するかもしれない、というふうに言っています。

 返せるものは返す、ということで、そのためのガイドラインが政府から示されています。「個人が特定されたアイヌ遺骨等の返還手続に関するガイドライン」というものですが、名前から分かるように、個人が特定された遺骨しか返さない。

 つまり、約1600体と515箱ですから合わせて2000人分くらいの遺骨が各大学にあるわけですが、個人を特定できる可能性があるのは、23体だけです。最大で23体しか返さない、と政府は言っているわけです。

 さらに、返す相手は「祭祀承継者」です。先祖代々のお墓を守っている、そういう人物が今もいれば、その人に返します、と。ですから事実上、返さないと言っているのに等しいわけです。すべての遺骨は返還の対象外で、それらは象徴空間に集約される。で、研究に利用されるかもしれない、というのが現在の状況です。

■「起源」と「先住性」は無関係
 では、なんでそれほど研究にこだわるのか? 研究者の言い分はこうです。(アイヌの遺骨を調べると)人類起源の研究にたいへん役立つ。人類がどのようにして、ヒトがどのようにして生まれたか。そのために遺伝子──ミトコンドリアDNAという──を取り出す必要がある。それによってアイヌ民族の起源を明らかにできる。だからアイヌのための研究をしているのだ、こういうふうにいっているわけです。

 たとえば、これは2014年の北海道アイヌ協会主催のシンポジウムで百々幸雄さんという人類学者の方が「アイヌ民族が北海道に先住していること。縄文時代、あるいはそれ以前にさかのぼることができるってことが、われわれの研究で分かるんですよ」と言ってるんですね。

 あたかもそれが「アイヌが先住民族であることを明らかにする研究」であるかのような言い方をしているのです。「研究しなくなったら、アイヌは北海道在来の人ではなくなっちゃうんですよ」「先住民族でなくなっちゃうんだよ」というようなことを研究者は言っているわけです。だから研究に協力しなければいけないと思っている人がおられるわけです。
ですが、これは根本的な誤解です。

 基本的に、先住民族という時の「先住」は、国連に出された報告書に、「先住の共同体、人々、民族とは、侵略とか植民地化を受ける以前にそこに住んでいた」ことだ、と書いてあります。何も民族の起源を2000年、3000年さかのぼって、あるいは1万年前まで確かめなくちゃいけない、という話ではない。

 起源はどうあれ、北海道の場合だったら、日本政府が北海道を支配し始めた時に、すでにそこに住んでいた人びとイコール先住民族、ということです。「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書」(2009年)でも同じように、「(先住民族とは)歴史的に国家の統治が及ぶ以前からそこに暮らしていた人たちのこと」というふうに書かれています。ですから、民族の起源になんてさかのぼる必要はないのです。

 先住民族とは、植民地化の時点で先住していた人たちのことです。北海道の場合、江戸幕府が東蝦夷地を直轄し始めたのが1799年、本格的に支配し始めたのは明治になって開拓使が設置された1869年ですから、18世紀末、あるいは19世紀後半の時点で住んでいたということで十分に先住性が示されています。

 民族の起源なんて関係ありません。先住性を明らかにするために民族の起源をさかのぼる必要はありません。先住民族とは、「北海道に最初に住みついた人」という意味ではないのです。

 先住性と起源を混同してしまうと、「北海道に最初にアイヌが住みついたのかどうかなんて分からないじゃないか」「だから先住民族ではない」というようなわけの分からない誤解が生み出されて、むしろ混乱の元になるだけです。

■「正しい研究」は可能だろうか
 いずれにせよ、遺骨について研究するには、正しい研究がされなければならないのですが、現在、「正しい研究」はどのようにしなければいけないのか。もしも遺骨を研究利用するならば、当然、最新の研究倫理に従わなければなりません。

 遺骨もDNAも人の体から採取された研究用試料です。これらのことを「人体由来試料」と呼ぶわけですが、現在は、人体由来試料を研究に使う場合、必ず本人の承諾を得なければならない、というルールが設けられています。いわゆるインフォームド・コンセント(十分な説明を尽くした上で同意を得ること)ですね。

 本人が死亡している場合は代りになれる人(代諾者)の承諾をきちんと得ることが条件です。その文書記録が残っていなければなりません。これが現在のルールです。こうしたことが、文部科学省と厚生労働省が2014年に出した「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」に書かれています。

 したがって、(アイヌ)遺骨の研究をするとしても、当然この指針に従わなければいけない。問題は、だれが(すでに死亡している)本人に代わって承諾するのか、という点です。

 北海道アイヌ協会が認めてくれたから(研究して)いいのだ、と一部の研究者たちは言っています。けれど、政府は「遺骨は祭祀承継者にしか返さない」と言っているのだから、「(研究する場合も)祭祀承継者の承諾を得なければならない」とだって言えると思います。そうなると、研究はほとんど不可能です。少なくとも遺族の方、あるいはアイヌの伝統的な死者供養の様式に従えばコタンの承諾を得ることが、明らかに必要だろうと考えられます。

 (しかし現実には)大学に保管されている遺骨は、本人ないしそれに代わる人の承諾を得るという手続きをまったく踏まえていないわけです。これをそのまま研究に使ってしまうことは、現代の研究倫理に基づけば不可能です。現代の研究倫理の元では、大学にある遺骨は研究できないはずです。

 ところが現在、日本人類学会と日本考古学協会は、北海道アイヌ協会と一緒に、今後の研究調査のやり方に関する報告書を作っているわけですが、それを読んでみると、埋葬後100年以上経った遺骨であれば、「アイヌ」の承諾を得れば、コタンや遺族の意見にかかわらず──これは書いてありませんが実質的にそういうことです──遺骨を研究利用できるんだ、というような研究指針を作ろうとしています。

 (大学に収集されている遺骨の)大半は(埋葬から)100年以上経っています。「アイヌの承諾」を「北海道アイヌ協会の承諾」ということにすれば、ほとんどすべての遺骨を自由に研究できることになります。そういう話がいま進んでいます。果たしてこれでよいのでしょうか?

 以上が私からの問題提起です。おそらくこの後に登場される方々が、「では、どうしたらいいのだろうか」というお話をしてくださると思います。少し駆け足でしたが、私の話はここまでです。ご静聴ありがとうございました。(拍手)』
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