2015/11/11

もう一つの日本文化(「カムイ達U」)  文化・芸術
 前回(2015/7/30)のブログで、「日高振興局管内に住むアイヌ男性」が書いたエッセイをご紹介した。

 それをきっかけにお会いしてみると立派な方(アイヌ語で言えば[nispa])であり、以降、若干の交流をいただいている。
 まず、エッセイ第二弾「カムイ達U」をいただいた。これについては文末に掲載したのでお楽しみいただきたい。

 次に、「新冠御料牧場におけるアイヌ強制移住」の資料探査の依頼をいただいた。

 私は特段、資料の探査能力が高いわけでもないのだが、自宅は「札幌市中央図書館」まで徒歩5分のところにある。可能な範囲で協力することとした。

 とりあえず、同図書館にあった「平成8年12月25日 新冠町発行の [続新冠町史]」及び「昭和60年12月1日発行 山本融定著の [日高国 新冠御料牧場史]」の関係部分をコピーし送付した。

 さて、この「新冠御料牧場におけるアイヌ強制移住」であるが、私も欠片は知っていた。

 このブログにおいても、浦川太八さんから聞いた話などを[2011/11/14・アイヌ政策推進会議の欺瞞・その5]や[2010/4/3・三方良し]で、ほんの少しご紹介したが、それ以上の内容は知らなかった。

 それが、今回、送付に当たって私も資料内容を読んでみると、本当に酷い仕打ちだ。人権侵害などという言葉の範疇に収まるものではない。

 主な経緯等(事実)は次のとおりだ。

@明治5年(1872)、アイヌが住んでいた北海道日高地方南部の約700平方kmが日本政府(北海道開拓使)により「新冠牧馬場」とされた。

 これは「東京23区全体の621平方km」より広い面積だ。
 *明治21年(1888)「新冠御料牧場」と改称される。(宮内庁所属牧場、皇室財産)
 
Aここは、古くからアイヌコタンが存在していた地域であり、11のアイヌコタンがあり、535人のアイヌが住んでいた。(明治6年「地誌提要 浦川支庁原稿 上」)

 それをアイヌには何の協議(相談)もないまま牧場用地に、そのまま編入されたということだ。

 そして、明治10年(1877)、牧場内のアイヌの土地は国有地(官有)とされ、自由売買は禁止される。

 *最終的には、「大正5年(1916)、姉去(あねさる)コタン74戸の平取村上貫気別(かみぬきべつ)への強制移住」をもって、この地域のアイヌコタンは全てが「地区(牧場敷地)外への転居」を強制されたことになり、この地域のアイヌ社会はほぼ崩壊した。

 *その間も、敷地内に点在していたアイヌの強制転住が数回行われ、多くのコタンが消滅した。

 *敷地内における大きな強制転住としては、明治28年(1897)?に滑若(なめわっか)コタン(約90人)、万揃(まにそろ)コタン(約50人)を姉去コタンに集約したことなどがある。

 *他にも「・・・新冠川と厚別川流域に点在とする自然コタンを姉去に集住させ・・・」などが記録されている。

B(この地区のアイヌに限らないが、)明治初頭までのアイヌの生業は、主に漁場での労働、自営でのサケ漁と販売などで収益を得る一方、冬場はクマ、シカ、キツネ、ウサギなどの毛皮猟を生活の糧にしていた。

 ところが、明治中期に入ると漁場労働から排除、サケ漁も禁止されるなど主要な生業の道を断たれ、居宅周辺の粟、稗栽培だけでは十分でなく、生活は非常な困難に遭遇していた。

Cこういったことから、(全道的に)アイヌに対して勧農政策がとられ、御料牧場でも、明治28年(1897)?にアイヌ一戸に付き2町歩(ちょうぶ:約2ha)の土地(耕作地)を割渡することとした。

D割渡しを受けた下姉去地区は、まだ森林で日中も暗くて歩けない程の所であったが、牧場長から「この給与地は、永久無料で貸すものであるから、その御礼に御料の農園の労働をせよ」との言葉があり、姉去コタンから12km以上離れている御料農園の労働を行った。

 (アイヌは、協議(相談)のないまま、土地貸付を受けた小作人と位置づけられたことになる。)

 また、姉去コタンのアイヌは、この農園労働の合間に「新地250町歩」を伐採・開墾した。

E明治34年(1901)8月22日、閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王が牧場に来場し、視察を行った。

 その際に、白髪のアイヌエカシ(古老)が進み出て「この地方は我ら祖先の開墾せしものなるをお取上げとなり、為に我らは今日難渋を極めいるを以って、何とぞ返還あらんことを請う。」と明晰に陳情した。

 *この件は、浦河支庁長により「当該エカシの失言」として処理された。

 *この件の他にも、「大正5年の上貫気別への強制移住」後の大正14年(1925)2月26日、アイヌ49人の連名で【祖先より住居していた牧場敷地内(姉去コタン)への帰還等を請う嘆願書】が新冠村長あてに提出されている。

F大正3年(1914)、牧場長から「姉去コタンのアイヌに対し[貸付地である姉去コタン及び耕作地(開墾地)]を返還するようにとの通知がなされる。

 *アイヌが祖先より代々住居していたコタン、新たに伐採・開墾した「新地250町歩」も全て御料牧場の所有物であり、「アイヌは土地貸付を受けている小作人に過ぎない」という考え。

G表面上の理由は「アイヌに対する現在の貸地面積は狭くて将来も貸地を拡げる余地はない。だからアイヌ各戸の家族数の殖えるのを見越し、一戸当たり5町歩(約5ha)と(現在の)二倍半に相当する面積をあて、無償で附与する。」というもの。

 *実際は「姉去貸付地は土地が平坦で肥沃であるため、ここを牧場直営の穀物生産(飼料)用地にする。」ということ。

H移住先は、姉去コタンから50km離れた山中の「上貫気別」(現在の平取町 貫気別 旭地区)」とされた。

 姉去コタンが所在する新冠などの日高地方の太平洋岸の地域は、道内では温暖な地域であるが、「上貫気別」は内陸であり、日高山脈の幌尻岳のすそ野に位置するので、春の融雪は遅く秋の降霜は早いなど、温暖ではなく過酷な入植地である。

I最終的に姉去コタンのアイヌ約70戸300人の移転が完了したのは、大正5年(1916)3月であった。

 入植者の話では、「給与された土地は山を平面的に見て5町歩を一戸分として区分したもの」であり、「山の中の境界もなく、沢あり、川あり、山ありで、地図のどこがどうだか、さっぱりわからない状況」であった。

 また、「土地の多くは、岩石交じりの傾斜地」であり、新冠(姉去コタン)では考えられないほど地味が痩せており、「かんばって開墾しても畑らしい畑にならず、作物もほとんど獲れない状況」だった。

 *このようなことから、前述したように大正14年、【祖先より住居していた牧場敷地内(姉去コタン)への帰還等を請う嘆願書】が提出されることになった。

J法務局(平取出張所)が保管している当時の上貫気別の土地台帳では、新冠(姉去コタン)出身の71名(71戸)が確認できる。

 ただし、前述のような土地の状況だったことから、実際に開墾した者は27名(27戸)である。

 残りは、新冠や静内、厚賀等、日高地方でアイヌが多く住んでいるところに、伝手を頼りに移っていったという。
 つまり、姉去コタンというコミュニティは崩壊した。(崩壊させられた。)

K昭和20年(1945)の敗戦により、皇室財産であった御料牧場は財産凍結され、牧場開放の声が(一般の日本人やアイヌから)挙がりだした。

 こうした中、旧姉去地区を中心とした「大富、万世、明和地区」を新たな入植地とすることが決定され、最終的に、アイヌ22戸、日本人48戸が入植し、開放運動は終息した。


 雑駁ではあるが、このような経緯・概要だ。

 それにしても、こんな不当なことが国家による行政行為として行われていたことに戸惑いを感じる。

 この「新冠御料牧場に係るアイヌ強制移住」の資料の整理を行っていて、ふと思い出したものがある。

 我家には「昭和63年9月に北海道(道庁〜道立文書館)が発行した[北海道史略年表]」(A6版・159頁の小冊子)というものがあるのだ。

 当時、新聞記事で無料配付が案内されていたため、道庁赤れんが庁舎(道立文書館)に行ってもらってきたものだ。

 今までは書棚にあるだけで、じっくり読んだことがなかったが、ここではどう記述されているのか確認した。
 

 記述は、次の3つだった。

・1872年(明治5)この年 開拓使、新冠牧馬場を設置する

・1916年(大正5)3月 新冠村姉去部落の全アイヌ80戸、新冠牧場の都合で平取村上貫気別に強制転住させられる

・1946年(昭和21)5月 北海道アイヌ協会の小川佐助ら、増田道庁長官に対し新冠御料牧場の4万町歩をアイヌ3500戸に下付するよう陳情する

 この3つを探すため、全頁を確認した。(読んだ。)

 すると、「新冠牧場」関係以外にも、アイヌの強制移住が数件が記述されている。

 *前述した「明治28年の滑若コタン、万揃コタンの強制転住」が記述されていないことを考えると、【アイヌの強制移住】は、[北海道史略年表]記述以外にも多数あるものと思う。


この略年表の前書きは、次のように書かれている。

 「本年は蝦夷地が北海道と改称されてから120年目にあたります。この年表はこれを機会に本道の歴史的あゆみをふりかえってみようとするものです。この年表は、先史時代より昭和63年までの基本的事項を収録しています。・・・」

 次に[はんれい]では、次のように書かれている。

 「この年表には、北海道史の基本的事項を記載しましたが、それらの時代背景等を知る上で必要な日本史及び世界史上の出来事も合わせて記載しました。・・・」


 では「新冠牧場」関係以外の強制移住の記述をご紹介する。

・1870年(明治3)8月 開拓使、高知藩支配下の夕張郡のアイヌに、他郡への転居を命じる

・1875年(明治8)10月 樺太・千島交換条約に基づき、樺太からアイヌ108戸841人を天塩国宗谷へ移住させる(翌年6月さらに石狩国対雁に移す)

・1884年(明治17)7月 参事院議官安場保和ら、占守島に到り同島のアイヌ97人を色丹島に移す

・1885年(明治18)この年 根室県、釧路村のアイヌ27人を阿寒郡セツリ原野へ移住させる

・1886年(明治19)この年 網走市街のアイヌ居住地を東部海岸に移し、市街を和人移住者で独占

・1889年(明治22)この年 新十津川村の区画割に際し、アイヌ地区画を定めて散居のアイヌを集合させる

 *前回(2015/7/30)のブログでご紹介した「・・・明治中期以降、空知地方の石狩川沿いに住んでいたアイヌが、日本政府により[新十津川のウシツベツコタン]に強制移住させられたことや、そこが市街地として発達してくると、さらにそこを追われ、[農業にも不適な奥地]に再移住させられた・・・」は、これである。なお、略年表に再移住は記述されていない。

・1891年(明治24)この年 近文原野区画開放に際し、付近のアイヌのため150万坪を給与予定地とする

・1894年(明治27)3月 道庁、原野解放に際し、アイヌ居住地は1戸当たり1万5000坪以内の地籍を保護地として存置することを決める

・1894年(明治27)5月 上川地方近文原野のアイヌに給与予定の150万坪のうち、45万8000坪のみを割り渡す、残地は他に処分される

・1900年(明治33)2月 道庁、近文給与地からアイヌ移住命令を出す、関係アイヌ・和人の反対運動起こる

・1900年(明治33)4月 鷹栖村有志とアイヌ計4人、上京して各界に移住中止の陳情を行う(5月道庁長官、アイヌの留住を認める)

 と、以上である。

繰り返しになるが、この略年表(資料)は、「北海道(道庁)が、昭和63年に[北海道史の基本的事項を収録]したものだ。

 北海道(道庁)という地方政府(地方自治体)〜行政機関が行った作業だ。
 個々の記述の根拠は、公的文書(公文書等)だろうから、記述内容は事実(歴史事実)だろう。

 さて、近年、我国政府と中国政府及び韓国政府との間で、「正しい歴史認識」が問題となっている。そこでの歴史認識はさておくとして、・・・

 北海道(道庁)は、昭和63年時点(略年表発行年)における【アイヌの強制移住(歴史事実)に対する歴史認識】」は、『北海道史の基本的事項として重要である』ということだ。

 その後、道庁において、新たな歴史認識を示したということは聞いたことがないので、【アイヌの強制移住という歴史事実は、現在においても「北海道史の基本的事項として重要」と認識されるもの】だろう。

 北海道(道庁)が『北海道の歴史事実として重要』と認識している【我国政府がアイヌ民族に対して行った強制移住】をどう考えていくべきかについては、こと、「政府(開拓使等の行政機関)の不法行為」というような観点だけではなく、私も含め、国民の一人一人が考えていくべき課題ではないだろうかと思う。

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 さてさて、話は変わるが、冒頭のご案内どおり、エッセイ(未発表)第二弾「カムイ達」をご紹介する。

【カムイ達U】

 夜明けと共に、待ちかねた様にアマメチカッポ(スズメ)が騒ぎだす。『アチャボ(お父さん)起きて起きて、今日も晴れのいい天気だよ』と教えてくれる。

 昔から、アイヌはアマメチカッポの[鳴き声]を天気予報の参考にしていた。

 オー寒い!朝夕めっきりと寒くなってきた。そのはず、外は初霜だ。
 出勤時間だ。『さあ、今日もがんばるぞ!』と気合を入れる。出がけにパシュクル(カラス)のファミリーが飛んできて騒いでいる。

 今年生まれた子供達が親パシュクルにまとわりついている。まだ、親のスネをかじっているのか、と思いながら現場へと向かう。

 現場まで40分くらいの所だ。さっそくお出迎えがあった。20〜30羽程のエアミ(カケス)の群れが『ギャギャギャ、お早う』と言っている。

 この時期、俺達の仕事は、枝打ちといってカラ松の枝を2m10cm程に切り落とす作業である。

 楽な作業なので、周りのカムイ達を観察できる絶好の機会である。
 今日は楽しみだ。遠くの方で、ユク(シカ)とキトッパ(クマゲラ)の声がする。

 そのうち近くに来るだろうと、作業を始めて一時間位も経ったか、一羽のイセポ(野ウサギ)が俺の所に走ってくる。

 100m程離れた所で同僚が作業をしているのに驚き、逃げてきたのだろう。そして、また、俺に驚き、急カーブをきって逃げ去っていった。まるで宙を飛んでいるようであった。

 昭和35年頃には、たくさんのイセポがいた。植林木の根をかじるので、害獣として、エルム(野ネズミ)、イセポの駆除が始まった。

 イセポは町役場から一羽100円の懸賞金がき、全町民がこぞってワナかけをしたので、いっぺんに減ってしまった。

 これも人間の勝手で、自然のバランスを崩したなァと思い、作業をしながら遠い昔を思いめぐらしていた。

 お昼近くになって、遠くに聞こえていたキトッパ(クマゲラ)が甲高くけたたましい鳴き声で近くの古木にとまった。

 終戦後、山の木は、復興の為に建築土木、パルプ、枕木等に使われ、多くの山が丸裸にされ、キトッパは住む環境が悪くなり激減した。

 今は戦後70年、森が復活し、キトッパにとって住みよい環境になっているようである。本当に喜ばしいことである。

 午後の作業が始まってすぐ、50m程先でユク(雄ジカ)が雄叫びをあげた。雌ユクが発情をみせるこの時期、雄ユクは黒光りをして男らしくすごくカッコイイ!

 今年は何頭の雌ユクをゲットできるのか、頑張れ!

 カムイ達との楽しい一日。作業が終わり、帰路につく。

 途中、藪の中からチロンヌップ(キツネ)が飛び出してきて車の前に。後ろを振り返りながら前を走る。丸々と太り、毛も冬支度である。

 西日を受け、栗色がピカピカに光っている。これもまたカッコ良い!車の前を50m程優雅に走り、横道にそれ、草むらに消えていった。

 今日は本当にいい一日だった。カムイ達よ、また会おう。

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*この写真は、数年前私が撮影したものでエッセイ内容とは無関係です。
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※2015.12.30 エッセイ作者からの申出により、表題の変更及び作中の一人称の変更を行いました。
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2015/11/20  6:18

投稿者:ブログ管理者
D.X. 様

ありがとうございます。
次回ブログを今月末に予定しています。
改めて宣伝させていただきます。

2015/11/19  14:29

投稿者:D.X.
t260arimaさま

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