2017/4/13

もう一つの日本文化(学習会「先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ」開催記録(その4))  
 木村さんが共同代表になっている【平取「アイヌ遺骨」を考える会】 の学習会 『先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ』 が先月(3月)18日、平取町・二風谷生活館で参加者110名と盛会裏に開催された。

 懇親会出席者は凡そ40名、反対意見をも自由に発言できる開かれた学習会だった。とても意義のある学習会だったといえる。

 学習会プログラム
 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)
 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v
 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」
 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」
 D市川守弘さん(弁護士)「地元の土に遺骨を戻すには」
 E自由な意見交換
 F閉会のあいさつ 木村二三夫(平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)


 さて、【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(講演録)の提供があったので、引き続き(その4)をご紹介する。

 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」

 おだ・ひろし 専門は人類学・平和研究など。著書に『エスノグラフィー入門  <現場>を質的研究する』(春秋社)、『平和の人類学』(共著、法律文化社)など。

 『みなさん、こんばんは。小田博志と申します。きょうこの大切な機会にお招きいただき、「考える会」共同代表の木村さんと井澤さんにお礼を申し上げます。ありがとうございます。本来でしたら、こういう高いところからお話する立場にはないというのはわきまえておりますが、ここでお話しさせていただきます。

 私からみなさんにお伝えしたいことは「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」というタイトルに表されておりますが、その前に、今日のこの(学習会の)機会のもとになっているアイヌ遺骨の問題を作り出してしまった、そして過去に作っただけではなく、現在も不透明で、誠実さに欠けると受けとめられるような対応を続けている、その大学の一員としてお詫び申し上げます。申し訳ございません。(北海道大学)内部にいる者として、人のいのちと尊厳に関わるこのことに、もっと人間的で誠実な対応ができる、そういう組織にしていくために、ささやかながら働きかけていきたいと思っています。

■消し去られた個人の尊厳
 今日のみなさんへのお話は、平取からではなくて、札幌から持って行かれた遺骨についてです。北大に、ではなくて、遠いドイツのベルリンです。いまこのことについて調べており、なおかつ、みなさんにもご協力いただきたいことがありますので、この1体のお骨のことについて、お話ししたいと思います。

 かつて人類学者は、人を人と思わないというのか……。それが「誰か」ということに関心を持たずに、「人種」とか「民族」といった大きいくくりで遺骨を捉えていたんですね。それを研究すると何かが分かる、と。その時に消し去られたのが個人の尊厳です。一人ひとり、かけがえのない存在の尊厳です。きょうは、1体の遺骨についてお話しするのですが、その一人を大切にするという姿勢によって、数字にして統計処理する、というような学問のあり方とは違う方向性を示すことになるのではないか、という思いもあります。

 その遺骨には番号が振られています。「R.V.33.」。どういう意味合いなのかは後ほどお話ししますが、先月、ドイツのベルリン自由大学の研究室でこの頭骨と対面しました。額にマジックで書き付けてあるんです、「R.V.33.」と。(顔の)左側にも「Aino Yezo R.V.33.」と書き付けてありました。(遺骨に文字を)書き付けること自体が、何というのか、冒涜的なことだと思いますけれども、さらには(この遺骨が)誰なのかは分からない、ということでした。

 では、その遺骨はどのようなものであったのか。お手元に「骨から人へ」というタイトルで始まる資料をお配りしています。これはベルリンに行って帰ってきた時に報告のつもりで書いたものです。きょうのお話はこの内容とかぶるんですけど、この通りには進まないので、お持ち帰りになって、ゆっくりお読みいただければと思います。それとは別にドイツ語の資料と日本語の新聞記事がウラオモテに印刷されているプリントが、私のお話に関する資料です。

 これがどういうものだったのか、そもそもなぜドイツ・ベルリンにあるのか、ということなのですが。調べていきますと140年近く前にさかのぼります。明治の初期ですね。あるドイツ人旅行者が札幌に訪ねてきます。その時、このような経緯でこのアイヌの遺骨を持って行ったんだ、ということを文字にして報告しています。お手元の資料の「骨から人へ」の真ん中あたりに、1880年に発行されたドイツ語の雑誌の記事から引用しています。ちょっと読ませていただきます。

 みなさんの前にあるアイヌの頭骨は昨年、1879年、明治12年6月に、札幌の近くで[小田:「札幌の近く」というのは「札幌本府」、今の道庁にあたるところです]札幌に住むドイツ人ベーマー氏と一緒に私が発掘しました。発掘地は札幌から約10分のところにあり、現在日本政府の農業試験場の中に位置しています。そこには約15年前にはまだ大きいアイヌの村がありました。

 その墓地はまだ、札幌に住むアイヌによってアイヌ墓地として知られ、また外から見ても、地面に立てられた5フィート(約150センチ)の高さの木製の槍によってアイヌ墓地だと分かります。その槍の上部は羽根の形に削られ、何本かの細い布もしくは樹皮のヒモで巻き付けられていました。その墓は、資料によれば、男性と女性各一人の共同の墓のようでした。地表から約1.5フィート(45センチ)下に、われわれは骨の集まりを見つけましたが、それは2体の遺体であることを示していました。[小田:で、ここからが問題なのです]冒瀆的なことをしていると思われる危険から、夜の闇に紛れて、慌てて掘り起こしたので、われわれには一つの頭骨を持ち帰るのがやっとでした。

■倫理なき当時の人類学
 よくもまあこんなことを言えるなあと思います。つまり、墓を暴いて盗掘したっていうことを公言しているんですね。しかもそれが文字になって今でも読める。これはシュレイジンガーという人ですけれども、彼はある研究会の席上でこういう報告をしたわけですが、それに対して、この団体の代表であるルドルフ・ヴィルヒョウという人は、普通だと「そういうことはしてはいけない」と叱って「元に戻しなさい」と言うと思うのですが、逆に感謝しています、「日本から貴重な骨を持ってきてくれてありがとう」と。さらに「このシュレイジンガーさんに続く人が現れることを、日本にいるドイツ人に呼びかけます」とさえ言っているんです。

 このことが示しているのは、当時の人骨収集が、その目的を達するためであれば、盗掘をすることも辞さない、まったく倫理観が欠けたところで行なわれていた、ということです。
これは1870年代から1880年代の話です。北大でアイヌ遺骨の「収集」が始まったのは1930年代からですから、それより前の時代です。

 ベルリンは、人骨の研究で非常に重要な場所でした。中心になった一人がルドルフ・ヴィルヒョウです。この人は(現代の)医学の教科書に名前が載っているくらいの有名人で、病理学の分野の人です。加えて彼には形質人類学者の顔もあって、植木先生のお話の中にありましたように、「頭の骨の形状を測定すると人種のタイプが特定できる」という、今になってみるとまったく間違った前提に立った研究を進めていたのです。

 彼はそういう研究──まがい──のために、アイヌだけではなく世界中から人骨を集めました。今、ベルリンにはこの「ルドルフ・ヴィルヒョウ・コレクション」をはじめ合わせて3つの巨大な人骨コレクションがあって、数千から1万を超える人骨があると言われています。ドイツはその後、第1次・第2次世界大戦をくぐり抜けることになったので、資料が散逸したり、遺骨の保管場所も二転三転したりして、失われたり、(多くは)当時の由来がはっきりしない状態になっています。

 この「R.V.33.」と私は対面して──。この遺骨は、コタンの墓地に埋葬されて平和な眠りに就いていたわけですよね、それがある日突然、何の断りもなく土から引き離されて、全然知らないところに連れて行かれて、公衆の面前にさらされて、勝手に測定されました。測定人類学の研究対象にされたのです。しかし、頭骨を測定してみると、ある集団の中の個体間の差の方が、集団間の差よりも大きいらしいということがわかってきて、人骨測定による人種研究は20世紀初頭にはヨーロッパでは下火になります。

 その後、血液型によって人種が分かるかも知れない、といったようなことに関心が移っていきました。その当時です。血液型と性格は対応しているかも知れないという考え方が出てきたのは。みなさん、血液型で性格が分かるなんていうのは、レイシズム(人種主義)ですから、決して真に受けないようにしてください。

■ふるさとへの帰還を望む
 さて、(集められた遺骨は)その後、ほぼ放置の状態で、返されることもなく140年近く経って現在に至っています。私が対面した遺骨は、紙袋に入っていました。人間としての尊厳がまったく奪われているというふうに思いました。

 ではその奪われた尊厳をどういうふうに回復できるだろうか。遅すぎるのかも知れませんけれども。そういうことをぜひみなさん、一緒に考えていただきたいと思います。

 やはり重要なのは、ふるさとの元の土にお戻しすることではないでしょうか。ふるさとに戻る。そういったことを考えたときに、「返還」という言葉と「帰還」という言葉の違いを意識するようになりました。「返還」というのは「集めた側が返す」ということですけど、「帰還」となると、その遺骨が人として「帰る」、お骨に主体性を見出す、そういうニュアンスが入る言葉だと思います。

 その遺骨が人としての尊厳をもってふるさとに帰還することが、まず望まれることだと考えます。そのために必要なのは、どこがふるさとだったのかを特定することです。1880年の雑誌の記事だけでは、どこだったのかが分からなかったのですが、ベルリンで文献を調べていくうちに、それを特定できる文書が見つかりました。みなさんのお手元にある北海道新聞の記事をご覧ください。

 「カイラクエン[偕楽園]から持ってきた」ということが1882年の雑誌に掲載されていました。偕楽園というのは──JR札幌駅西口にヨドバシカメラがありますよね、そこから西のほうに歩いて行くと突き当たりに窪んだような地形の場所があります。現在そこは偕楽園緑地と呼ばれています。そこにかつて池がありました。そこと、その南側にある、現在は伊藤組の社長さんの敷地内にあるメム(湧水)から流れ出た水がサクシュコトニ川となって流れていました。

 広大な農業試験場も設けられた、都市公園である偕楽園が作られたのです。その農業試験場は「偕楽園試験場」とも呼ばれたそうです。その土地の歴史をたどると、そこにサクシュコトニ・コタンというアイヌ・コタンがあったのです。そのコタンで生活していた人が、「R.V.33.」となってドイツに運んでいかれたということが分かりました。

■当事者の声を聞く枠組み
 サクシュコトニ・コタンは、ある意味で、北海道の開拓、あるいは植民地化の最初の犠牲になったコタンの一つではないかと思います。明治初期にサクシュコトニ川のサケ漁が禁止されて、そのコタンの人たちはサケが捕れないので生活していくのが困難になったこともあり、よそへと移住せざるを得なくなったのでしょう。

 そうやって人が住まなくさせられた所で盗掘が可能になった、ということのようです。なお、シュレイジンガーをアイヌ墓地に案内したベーマーとは、「お雇い外国人」のルイス・ベーマーだと考えられます。彼は札幌官園に従事して、北海道にホップ栽培を普及させた功績で知られている人でもあります。

 その官営の農業試験場を引き継いだのが札幌農学校、現在の北海道大学です。そのことを思うと、その大学で働いている者として、また非常に複雑な思いがいたします。

 このサクシュコトニのコタンの歴史をもう一度掘り起こして、いったいどんなところだったのか、どんな暮らしがあったのか、ということを思い描けるようにすることも、「R.V.33.」と番号を付けられた遺骨が尊厳ある形で帰還できるようにするために大切なことだと思っています。

 ところでこの「R.V.」というのは、ルドルフ・ヴィルヒョウ(Rudolf Virchow)の略です。ですからこれはこの遺骨の人物の名前ではないんです。人骨を集めて研究した人の頭文字がつけられている。このことも屈辱的なことではないかと思います。

 大切なのは、今では解体されてしまっていますが、そのコタンの子孫の人たちの声をまず聞くことのはずです。何よりの当事者は、その遺骨のふるさとであるコタンの構成員の子孫だからです。しかしこれまでの遺骨返還の協議のあり方を見ていると、当事者の声をちゃんと聞いて、その意思を反映させる枠組みがなかったと思います。

 これは大きい問題です。日本政府、北海道大学、北海道アイヌ協会などの限られた人たちが意志決定して、それを当事者の頭越しに下ろしてくる。だから対立が生まれるのです。そうではなくて、まずもっと幅広く当事者の声を聴くべきです。対話の場を設けるべきです。そしてその声に対応できる仕組みをボトムアップに作り上げていくことが望まれます。

 いま子孫の方々を捜して、聞き取りもさせていただいているところです。石狩アイヌというところまで範囲を広げて、ゆかりの人たちと連絡を取って、サクシュコトニ・コタンのこと、祖先がそこの出だとおっしゃっていた豊川重雄さん(1931-2015)のこと、そしてこの遺骨について調べていっています。それがドイツ・ベルリンにある遺骨を迎えいれる動きにつながっていくことでしょう。「(ゆかりのある)こういう方がいるよ」というのをご存知でしたらぜひご紹介ください。

■「人間らしさ」の回復に向けて
 本当に尊厳ある帰還のためにさらに大事なこと、それは、この遺骨をふたたび「研究対象」にさせないということです。白老の慰霊施設に送られると、そうなる可能性があります。それでいいのでしょうか。

 かつて盗掘され、何の許可もなく研究対象にされたのが「R.V.33.」です。それをまた研究対象にするということは、不当な行為の繰り返しであり、倫理的に許されないことです。

 遺骨の問題は、単なる遺骨の問題にとどまらないと思います。現在の遺骨協議のあり方も一方的だと思いますが、1869年に開拓使が設置され、「北海道」という名前が一方的に付けられて、アイヌモシリが日本の領土に組み入れられます。こうした流れは全て「一方的」に進められたわけです。

 その中で、サクシュコトニ・コタンもそうなんですけど、土地が奪われ、サケやシカを捕る権利が奪われ、どんどん奪われていったのがアイヌのみなさんだと思います。その「奪われる」歴史の中で、遺骨=からだまで奪われてきた。このことにどれだけ、歴史を直視して、人間らしい対応できるのか、いま生きている私たち、特に北大の責任が問われていると思っています。

 人種主義の研究は、盗掘も辞さなかったわけですから、相手を人間と見なさない行為です。そのことによって、研究者もまた人間らしさを失ったのだと思います。相手を人間として(尊重し)尊厳ある形で対応していくことによって、人間らしさを失った研究者と大学組織も、ふたたび人間らしくなっていくんだと思います。遺骨の尊厳ある帰還とは、そういう歴史の流れの中で、人間らしさの回復にもつながっていくのとても重要なことがらではないでしょうか。

 私にできることはささやかですが、こういうお話をさせていただく機会があればまた参りたいと思っています。きょうは聞いていただいてありがとうございました。(拍手)』
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2017/4/13

もう一つの日本文化(学習会「先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ」開催記録(その3))  
 木村さんが共同代表になっている【平取「アイヌ遺骨」を考える会】 の学習会 『先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ』 が先月(3月)18日、平取町・二風谷生活館で参加者110名と盛会裏に開催された。

 懇親会出席者は凡そ40名、反対意見をも自由に発言できる開かれた学習会だった。とても意義のある学習会だったといえる。

 学習会プログラム
 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)
 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v
 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」
 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」
 D市川守弘さん(弁護士)「地元の土に遺骨を戻すには」
 E自由な意見交換
 F閉会のあいさつ 木村二三夫(平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)


 さて、【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(講演録)の提供があったので、引き続き(その3)をご紹介する。

 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」

 とのひら・よしひこ 1945年、深川市生まれ。浄土真宗本願寺派一乗寺住職。空知民衆史講座代表、NPO法人東アジア市民ネットワーク代表。著書に『遺骨 語りかける命の痕跡』(かもがわ出版)など。

 『みなさん、こんばんは。(壇上の)えらい高いところからで、ちょっと恥ずかしいんですが、ここからお話をさせていただきます。

 私は、浄土真宗という仏教の僧侶でございまして、深川市からやって参りました。ここでお話しする人間としてふさわしいかどうか、ちょっと不安なんですけど、植木先生が遺骨問題の基本的な経緯をお話し下さいましたので、私は、自分のプライベートなレベルのことも兼ねながら、思いをお伝えできればなと思っています。

 みなさんのお手元に配られているのが私の発表原稿であります。半分これを読みながらですけれども、お聞きいただければありがたいなと思う次第です。

■浦河町のMさんの証言
 私がこのアイヌ遺骨問題に出会いましたのは1986年ですから、もう30年以上前のことになります。(当時録音した)テープをとってありましたので、それをひもといて分かったのですけれど、その年の4月22日、浦河町のMさんをお訪ねしたのです。その時の証言を聞いてください。

 「昭和3(1928)年、私が17歳の時に、北大の教授が(アイヌ墓地を発掘して遺骨を)持っていった。それ以前にも発掘に来たが、遺骨が古すぎて研究材料にならない、ということで、2回目に来た。その時の遺骨は、死亡して3年〜6年足らずの新しいものだった。

 キナ(遺体を包むゴザ)もしっかりしていて、肉も付いたまま、ブリキの缶に入れて、ハンダでしっかり封をした。(学者たちは)1体に30円払って買っていったようなものだ。僕のところには、北大の先生が3人泊まっていて、墓の発掘を了解したが、Aさんのところは了解を取らないで発掘したものもあった。北大でちゃんとお祀(まつ)りするから、ということだった」

 私はこの話を聞いたとき、本当に驚愕しました。盗掘があったことがきっちり証言されています。お金を払ったからよい、ということではもちろんないでしょう。むしろ、もっと罪が深いかも知れない。

 肉の付いた骨をブリキ缶に入れて持って帰るというのも、まことに異常な行為だと言わなければなりません。その相手が人間の遺体だという認識に立つならばとてもできるようなことではない「墓暴き」だった。

 しかも、その時(研究者は)「ちゃんとお祀りをします」と言っているんですね。それすらも果たされていないでしょう。まったく研究材料にされたわけです。

 私は当時、この話を聞いて、まわりの人々に一所懸命、この話をしましたけれど、とてもそれ以上、広がるものでもありません。時間だけが過ぎていきました。

■頑(かたく)なだった北海道大学
 改めて私がアイヌ遺骨問題に出会うのは2008年です。小川隆吉エカシが、情報公開法に基づいて、北大にアイヌ遺骨に関する情報公開を求めて、活動を始めました。それを手伝え、というわけです。

 私は、小川さんと一緒に北大に出掛けました。小川さんはそれまで、たびたび北大医学部のアイヌ納骨堂と称する「北大医学部標本庫」の前に立って、その中の遺骨を取り戻したいんだと言い続けてきたわけです。

 情報公開法に基づいて公開を迫りましたけれども、北大は最初、渋っていました。なかなか出さない。小川さんは、市川利美さんの支援を受けながら、さまざまな形で情報の公開を迫り、やがて北大から文書が公開されるようになります。出てきた文書はかなりの量でした。それを解読するため、さまざまな人たちが集まって、北大開示文書研究会をつくって、文書の解読を始めるわけです。

 それでもこの当時、この遺骨の問題を多くの人に知ってもらうのは至難の業だと感じたのを覚えています。たとえば新聞記者にこの話をしても、「よく分からない」と言ってなかなか記事にしてくれないという状況でした。

 開示された文書を読む中で、小川隆吉さん、城野口(じょうのぐち)ユリさんのご親族、先祖のお骨を(北海道大学の研究者たちに)持って行かれていたことが分かります。おふたりは、北海道大学に交渉して、「遺骨を返してもらいたい」と申し出るわけです。でもね、当時の北大の態度はきわめて頑(かたく)ななものでした。

 北大は、「遺骨問題などの交渉はすべて北海道アイヌ協会に一本化している」というわけです。「協会以外の人には一切会わない」「もし北大と話がしたいんだったら、北海道アイヌ協会に相談して、アイヌ協会から話してもらうようにしてください」というのが、私たちに対する北大側の回答です。

■アイヌの先住権としての遺骨再埋葬が実現
 でもこれはまったくおかしな話ですね。遺骨を持って行かれたアイヌにさえ会わない、というわけですから。小川さんと城野口さんはそれでもめげずに、北大総長に会いたいという手紙を出しました。

 私たちは「これから会いに行きます」という文書を出して、2012年2月17日、北大に出掛けるわけです。雪の降る午後でした。しかしその日、北大はなんと、ガードマンを雇ってね、建物の中におふたりを入れないわけです。そして玄関口で追い返してしまいました。

 その時の城野口さんの怒りを込めた言葉が今も私の耳に残っています。
 「覚えておきなさい。これがシャモのやり口さ」
 
 そしてふたりはその年の9月14日、札幌地裁に遺骨返還を求めて提訴するわけです。
 裁判が始まりました。こうなるとさすがの北大も応じないわけにはいきません。口頭弁論で、遺骨を持って行かれた非道を訴えた城野口さんでしたが、もともと城野口さんは病気がちだったのです。北大病院に入院しなければならなくなります。

 原告の高齢化を気遣った裁判官が、和解の提案をしてきました。市川弁護士たちがユリさんの意向を聞きに病院に行ったとき、私も研究会の代表として立ち会いを求められました。

 病床のユリさんは、「遺骨が帰ってくるなら」と慰謝料の請求を取り下げる和解案を了承します。「生きているうちに必ず先祖の遺骨を取り戻したい」という一心だったと思います。「遺骨を取り戻さなければ死んでも死にきれない」と語っていた城野口さんは、2015年3月27日に亡くなります。

 和解が成立したのは、翌年2016年3月25日でした。そしてその年の7月17日、ついに再埋葬が実現するわけです。杵臼(きねうす)のコタンに12人の遺骨が帰ってきました。

 感動的な再埋葬であり、先住民族アイヌの先住権の行使として、歴史的な再埋葬になったと思います。あの時の朗々とした葛野(次雄・コタンの会副代表)さんのカムイノミの声が、私の心にも深く残っています。

 北大は「遺骨は祭祀承継者(さいししょうけいしゃ)に返す」と主張していたのでしたけれども、遺骨を受け取る「コタンの会」は、コタンから持って行った遺骨だからコタンに返してほしいという主張をしました。

 北大は、杵臼コタンに返して欲しいという「コタンの会」の主張をのまざるを得ませんでした。
 ここに、先住民族としての、アイヌの先住権としての遺骨再埋葬が実現したのです。

■無視されたままの遺骨は死に切れない
 私は1970年代から、戦争と植民地支配によって、日本に強制連行された朝鮮人やタコ部屋労働者の遺骨の発掘と遺族への返還の運動に携わってきました。アジア・太平洋戦争の時代に、日本に強制的に連行された朝鮮人は70万人といわれ、中国人は4万人に達します。

 たくさんの犠牲者が強制労働の中で死んでいくのですけれども、戦後の日本政府は遺骨の返還に努力しようとはしていません。今も日本国内に残された東アジア出身者の遺骨は、日本と東アジアの国々の人々との間に突き刺さった棘(とげ)となって、解決されずにおります。

 残されたままの犠牲者の遺骨について、政府も企業も責任を果たさないまま、70年が経ったということです。

 私は、北海道の犠牲者の埋葬地を探し、遺骨の発掘を行ない、市民の手で遺骨を故郷に帰す努力を続けてきました。そして2015年、つまり一昨年の9月、115体の遺骨を携えて韓国にお返しする旅を実現しました。

 他郷で死を強いられ、故郷に帰られず、無視されたままの遺骨は、いまも死に切れていないのではないか、と私は思っています。人は、悲しまれ、惜しまれて、親族や友人から見送られて、初めて死を迎える。そして死んでいくことができるのではないでしょうか。

 どんな社会であれ、どんな宗教であれ、死者をモノのごとく扱い、捨てておくということは、死者を冒涜するだけではなくて、いま生きている私たち自身をも冒涜し、否定し去ることになると思います。

 発掘され、持ち去られ、大学で研究材料にされたアイヌの遺骨。そのアイヌの人々は死に切れていないのではないか。私はいま、そう思っています。

■先住権の確立のための一歩をともに歩みたい
 いまも自然人類学の研究者たちの中には、何としてもアイヌ人骨の研究を続けたいと思っている人たちがいます。私も何度もその人たちの話を聞きました。しかし、命の意味を無視し、死者を冒涜(ぼうとく)してまで続けられる研究とは、いったいどんな研究なんでしょう? 

 1600体あまりのアイヌ人骨を所有する北大をはじめとした12の大学と、人類学者たちは、自分たちの過去を率直に顧(かえり)みて、アイヌに心からの謝罪を伝えるべきだと思います。そして、明治以来、一方的な同化政策を続け、アイヌの先住権を奪い続けてきた日本政府も、アイヌに深く謝罪すべきです。

 そのことをしないで、おカネを注ぎ込むだけで、(2020年東京)オリンピックまでに象徴空間をつくって、そこにお骨を集めてアイヌ文化を宣伝して、100万人の観光客を動員しようとする政府の方針に対しては、私は憤りすら覚えずにいられません。

 私も責任ある和人のひとりとして、遺骨を取り戻すアイヌの闘いに参加し、先住権の確立のための一歩をともに歩みたいと願っています。

 ここに来る前に、土橋芳美さんの『痛みのペンリウク』を読みました。北大に持ち去られた土橋さんの先祖に連なる偉大なエカシ、ペンリウクの遺骨は、行方不明だそうです。北大はどんなずさんな遺骨の管理をし続けてきたのでしょうか。

 みなさんの努力でどうか、平取から持ち去られた先祖の命を取り戻してください。私もできることをさせてもらいたい。

 死者が死者として安心して眠れるとき、私たち生者もまた、安心して生きていける世の中になるのではないでしょうか。このことを私の思いとしてみなさんにお伝えしました。どうもありがとうございました。(拍手)』
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2017/4/13

もう一つの日本文化(学習会「先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ」開催記録(その2))   
 木村さんが共同代表になっている【平取「アイヌ遺骨」を考える会】 の学習会 『先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ』 が先月(3月)18日、平取町・二風谷生活館で参加者110名と盛会裏に開催された。

 懇親会出席者は凡そ40名、反対意見をも自由に発言できる開かれた学習会だった。とても意義のある学習会だったといえる。

 学習会プログラム
 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)
 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v
 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」
 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」
 D市川守弘さん(弁護士)「地元の土に遺骨を戻すには」
 E自由な意見交換
 F閉会のあいさつ 木村二三夫(平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)

 さて、【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(講演録)の提供があったので、引き続き(その2)をご紹介する。

 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v

 うえき・てつや 1956年生まれ。専門は哲学。著書に『新版 学問の暴力 アイヌ墓地はなぜあばかれたか』(春風社)、『植民学の記憶 アイヌ差別と学問の責任』(緑風出版)など。

 『みなさん、こんばんは。植木と申します。
 まず、そもそも、なぜ大学にこれほど数多くのアイヌの方々の遺骨があるのか、ということをお話します。

 話は19世紀にさかのぼります。ヨーロッパで、人間の頭の骨への関心が高まります。当時、骨相学という、かなり怪しげな学問が流行って、頭の骨の形を調べれば、その中の脳のことが分かって、脳は精神をつかさどっているから、人間の心の中が分かるのではないか──そういう流行が起こったのです。

■先住民族の頭骨が狙われた理由
 これはかなり怪しかったのですけれども、もう少し本格的な学問としては、比較解剖学とか形質人類学、自然人類学とも呼ばれていますが、そういった学問が19世紀のヨーロッパやアメリカで始まり、頭の大きさを測ると「人種」の比較ができる、という考えが広まりました。

 そのためにサミュエル・モートンというアメリカの解剖学者、あるいはポール・ブロカというフランスの人類学者、こういった人たちが、あちこちの先住民の墓地を掘り返したり、あるいは刑務所で亡くなった方の骨を集めたり、といった研究を行なったわけです。

 その背後には進化思想がありました。人間は動物から進化してきた、だから人間の中にも「進化した人種」と「遅れた人種」がいるのではないか──そういう人種の序列化の考え方があったと思います。その中で、アイヌ民族に関しても、外見が比較的欧米の人たちと似ているということで、特に欧米人(の研究者)が、「なぜアジアにわれわれの仲間がいるんだ?」と相当関心を抱いていたようです。

 その結果、北海道では、江戸時代の末期に有名な盗掘事件が起こっています。1865年、慶応元年、江戸時代の最後ですね、箱館(函館)にイギリスの領事館があったのですけれど、そこの領事館員が、近くのアイヌ墓地から遺骨を持ち去るという事件が起こりました。箱館の近くの落部村で13人分、森村で4人分が持ち去られました。

 しかしこの時は、アイヌの方々が当時の箱館奉行所に訴え出たものですから、箱館奉行はイギリスと交渉して、最終的にイギリス政府は「墓地を発掘するのは犯罪だ」として処理しました。犯人は禁固刑にされ、イギリス領事がアイヌに謝罪しました。

 持ち出された遺骨も元に返されたことになっているのですが、本物だったかどうかは……。特に森村の4体に関しては、本物はロンドンに送られて、帰ってきたのはニセモノではないか、と言われています。落部村の盗掘事件の時は慰霊碑が作られまして、これもいろんな歴史的な経緯があったのですけれども、現在は八雲町にあります。

■研究者の「盗掘」を和人が手助け
 明治時代になると、日本人も研究を始めるわけですね。最初に始めたのは小金井良精という人物です。所属は帝国大学医科大学、現在の東京大学医学部です。東大には今でも小金井良精像というのがあります。小金井は1888年と89年、明治21年22年に、2回にわたって北海道旅行をして、160人程度の遺骨を掘り出して持ち去ったと考えられています。

 それから大正時代、清野謙次という京都帝国大学医学部の教授が1924年、当時日本領だったカラフトの栄浜から、約50人のカラフトアイヌの遺骨を持ち出しています。

 幕末の事件と大きく違うのは、和人がこの2人に協力したということです。地域の警察や医学関係・医療関係者、それから戸長、そういった人たちが協力していた。アイヌの人々に対しては、その目を避けて、無断で掘り出していた。もし見つけられたら大変なことになるからと、こっそり持ち出したわけです。明らかな盗掘であったということです。

 小金井が1回目の旅行の時、1888年7月28日から31日まで、平取に立ち寄った記録が残っています。小金井自身が書いた「アイヌの人類学調査の思ひ出 四十八年前の思ひ出」という文章が、戦前の1935年に『ドルメン』という雑誌に掲載されましたが、その中の59頁から60頁に書かれています。それから、つい昨年の暮れに『小金井良精日記 明治篇1 1883-1899』(クレス出版)が刊行されました。215頁から217頁にかけて平取での様子が書かれています。

 それらを見ますと、先ほど名前が出ていましたペンリウクが、小金井を案内しました。遺骨の発掘に先だって小金井は、生体計測と称してアイヌの方々の体のサイズをいろいろ測るわけです。平取では──2つの資料で数字が一致しないのですが──20名ないし15名程度の生体計測をした、と小金井自身が書き残しています。

 ただ小金井は、平取では墓地の発掘は行なっていません。他の地域では、たいてい和人が小金井を案内しています。和人の案内でこっそりとアイヌ墓地を掘り返したのですが、平取では、ペンリウクというアイヌの指導者が対応したために、おそらく墓地に近づくことができなかったのではないか──これは推測ですが、そう思われます。

■昭和時代の「国家的発掘」
 昭和時代、1930年代になると、国家的発掘と言いますか……。1930年代というのは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間です。世界各国が「科学技術を発達させないと国力を高めることができない」と、科学技術を積極的にバックアップした時代です。日本にも日本学術振興会ができて、国のお金を使って積極的に科学技術の研究をした時代です。

 その学術振興会の第八小委員会が「『アイヌ』の医学的民族生物学的調査研究」という大規模な調査研究を始めます。平取でもかなり大規模な研究が行なわれましたが、その中で、北海道大学医学部解剖学第一講座・第二講座の山崎春雄、児玉作左衛門という教授が調査研究を担って、遺骨発掘を担当しました。

 二人は北海道各地、さらに当時日本領だったカラフトや北千島で大量の遺骨を発掘します。児玉作左衛門の論文によりますと、戦前だけで500以上の遺骨を手に入れた、とあります。さらに戦後になっても静内などで大規模な発掘が続けられました。最終的に北海道大学には1000以上の遺骨があることが現在分かっています。

 北海道大学は2013年3月に「北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書」を出しています。それに遺骨のリストが載っていて、ナンバー690から706の17人分の遺骨が平取からの分とされています。

 抜き書きした資料がみなさんのお手元にもあると思いますが、単に「平取町」と記載されているものが4つ、「貫気別」6つ、「長知内」が4、「荷負」2、「二風谷」1、というふうに遺骨が掘り出されています。そのうち個人特定可能──誰の遺体かが分かる可能性があるのは9体分だけです。あとは全然、誰のものか分からなくなってしまっています。

 先ほど名前が出ました二つの講座のうち、第一講座は1933年、主に貫気別や荷負で掘っている。第二講座は戦後に掘っていることがその一覧表から分かります。それから札幌医科大学に10体あります。この2大学以外にも(平取から持ち出した遺骨を)持っている大学がある可能性もありますが、きちんとしたリストを把握していないので分かりません。

 さて、先ほどのペンリウクの遺骨ですけれども、北大の調査報告書の17頁によりますと、1936年7月10日づけの「時事新報」(北海樺太版)という当時の新聞に、〈平取部落の土人が学術研究のため土中から尊敬するペンリウクの骨格を掘り返し北大医学部に寄贈し〉たとあります。

 (当時在住していた)ジョン・バチェラーは「それはアイヌの人骨ではない」と言ったが、掘った山崎春雄教授が、「小金井良精がペンリウクの生態計測をしている。その時の計測数字と一致しているから間違いなくペンリウクのものだ」と言った、という記事のあることが、報告書に書かれています。

 戦後に北大の教授になった伊藤昌一という人物も、「平取の大酋長ペンリウクの遺骨を提供された」というふうに書いています。ですから、北大はこれがペンリウクの遺骨であると考えていた。さきほどの遺骨リストの一番上、「690番/平取1」とあるものです。

 このことに関しては、きょう会場にお見えになっている土橋芳美さんが、つい数日前、『痛みのペンリウク』という本をお書きになって、この問題にとりくんでいらっしゃいます。この会場の受付でも販売されていますので、お読みになってみてください。

■政府方針は「最大で23体しか返さない」
 このように集められた遺骨が、北大以外にも、大阪大学とか他の大学にもあるわけですが、最終的に現在、どうなっているのか。文部科学省が2013年度に調査しました。

 2014年1月までに判明している分として、全国12の大学に、個体として、つまり一人分の遺骨であると確認できるものは1636。そのうちだれのものか分かりそうなのが23……たった23です。それとは別に、一人分かどうかも分からなくなってしまって、箱に入っているものが515箱あることが分かりました。配布資料に大学別の数字を入れています。

 これに対して日本政府はどうしようとしているのか。ご存じのように2014年6月に閣議決定が行なわれて、「民族共生の象徴となる空間」というのを整備することになりました。その象徴空間に「遺骨を集約し、アイヌの人々による尊厳ある慰霊の実現を図る」ということになっています。

 問題は、それと同時に、「集約した遺骨については、アイヌの人々の理解を得つつ、アイヌの歴史を解明するための研究に寄与することを可能とする形で保管する」。つまり研究に使うかもしれません、ということが言われていることです。要するに政府は、返せるものが返すが、残りは集約して研究に利用するかもしれない、というふうに言っています。

 返せるものは返す、ということで、そのためのガイドラインが政府から示されています。「個人が特定されたアイヌ遺骨等の返還手続に関するガイドライン」というものですが、名前から分かるように、個人が特定された遺骨しか返さない。

 つまり、約1600体と515箱ですから合わせて2000人分くらいの遺骨が各大学にあるわけですが、個人を特定できる可能性があるのは、23体だけです。最大で23体しか返さない、と政府は言っているわけです。

 さらに、返す相手は「祭祀承継者」です。先祖代々のお墓を守っている、そういう人物が今もいれば、その人に返します、と。ですから事実上、返さないと言っているのに等しいわけです。すべての遺骨は返還の対象外で、それらは象徴空間に集約される。で、研究に利用されるかもしれない、というのが現在の状況です。

■「起源」と「先住性」は無関係
 では、なんでそれほど研究にこだわるのか? 研究者の言い分はこうです。(アイヌの遺骨を調べると)人類起源の研究にたいへん役立つ。人類がどのようにして、ヒトがどのようにして生まれたか。そのために遺伝子──ミトコンドリアDNAという──を取り出す必要がある。それによってアイヌ民族の起源を明らかにできる。だからアイヌのための研究をしているのだ、こういうふうにいっているわけです。

 たとえば、これは2014年の北海道アイヌ協会主催のシンポジウムで百々幸雄さんという人類学者の方が「アイヌ民族が北海道に先住していること。縄文時代、あるいはそれ以前にさかのぼることができるってことが、われわれの研究で分かるんですよ」と言ってるんですね。

 あたかもそれが「アイヌが先住民族であることを明らかにする研究」であるかのような言い方をしているのです。「研究しなくなったら、アイヌは北海道在来の人ではなくなっちゃうんですよ」「先住民族でなくなっちゃうんだよ」というようなことを研究者は言っているわけです。だから研究に協力しなければいけないと思っている人がおられるわけです。
ですが、これは根本的な誤解です。

 基本的に、先住民族という時の「先住」は、国連に出された報告書に、「先住の共同体、人々、民族とは、侵略とか植民地化を受ける以前にそこに住んでいた」ことだ、と書いてあります。何も民族の起源を2000年、3000年さかのぼって、あるいは1万年前まで確かめなくちゃいけない、という話ではない。

 起源はどうあれ、北海道の場合だったら、日本政府が北海道を支配し始めた時に、すでにそこに住んでいた人びとイコール先住民族、ということです。「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書」(2009年)でも同じように、「(先住民族とは)歴史的に国家の統治が及ぶ以前からそこに暮らしていた人たちのこと」というふうに書かれています。ですから、民族の起源になんてさかのぼる必要はないのです。

 先住民族とは、植民地化の時点で先住していた人たちのことです。北海道の場合、江戸幕府が東蝦夷地を直轄し始めたのが1799年、本格的に支配し始めたのは明治になって開拓使が設置された1869年ですから、18世紀末、あるいは19世紀後半の時点で住んでいたということで十分に先住性が示されています。

 民族の起源なんて関係ありません。先住性を明らかにするために民族の起源をさかのぼる必要はありません。先住民族とは、「北海道に最初に住みついた人」という意味ではないのです。

 先住性と起源を混同してしまうと、「北海道に最初にアイヌが住みついたのかどうかなんて分からないじゃないか」「だから先住民族ではない」というようなわけの分からない誤解が生み出されて、むしろ混乱の元になるだけです。

■「正しい研究」は可能だろうか
 いずれにせよ、遺骨について研究するには、正しい研究がされなければならないのですが、現在、「正しい研究」はどのようにしなければいけないのか。もしも遺骨を研究利用するならば、当然、最新の研究倫理に従わなければなりません。

 遺骨もDNAも人の体から採取された研究用試料です。これらのことを「人体由来試料」と呼ぶわけですが、現在は、人体由来試料を研究に使う場合、必ず本人の承諾を得なければならない、というルールが設けられています。いわゆるインフォームド・コンセント(十分な説明を尽くした上で同意を得ること)ですね。

 本人が死亡している場合は代りになれる人(代諾者)の承諾をきちんと得ることが条件です。その文書記録が残っていなければなりません。これが現在のルールです。こうしたことが、文部科学省と厚生労働省が2014年に出した「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」に書かれています。

 したがって、(アイヌ)遺骨の研究をするとしても、当然この指針に従わなければいけない。問題は、だれが(すでに死亡している)本人に代わって承諾するのか、という点です。

 北海道アイヌ協会が認めてくれたから(研究して)いいのだ、と一部の研究者たちは言っています。けれど、政府は「遺骨は祭祀承継者にしか返さない」と言っているのだから、「(研究する場合も)祭祀承継者の承諾を得なければならない」とだって言えると思います。そうなると、研究はほとんど不可能です。少なくとも遺族の方、あるいはアイヌの伝統的な死者供養の様式に従えばコタンの承諾を得ることが、明らかに必要だろうと考えられます。

 (しかし現実には)大学に保管されている遺骨は、本人ないしそれに代わる人の承諾を得るという手続きをまったく踏まえていないわけです。これをそのまま研究に使ってしまうことは、現代の研究倫理に基づけば不可能です。現代の研究倫理の元では、大学にある遺骨は研究できないはずです。

 ところが現在、日本人類学会と日本考古学協会は、北海道アイヌ協会と一緒に、今後の研究調査のやり方に関する報告書を作っているわけですが、それを読んでみると、埋葬後100年以上経った遺骨であれば、「アイヌ」の承諾を得れば、コタンや遺族の意見にかかわらず──これは書いてありませんが実質的にそういうことです──遺骨を研究利用できるんだ、というような研究指針を作ろうとしています。

 (大学に収集されている遺骨の)大半は(埋葬から)100年以上経っています。「アイヌの承諾」を「北海道アイヌ協会の承諾」ということにすれば、ほとんどすべての遺骨を自由に研究できることになります。そういう話がいま進んでいます。果たしてこれでよいのでしょうか?

 以上が私からの問題提起です。おそらくこの後に登場される方々が、「では、どうしたらいいのだろうか」というお話をしてくださると思います。少し駆け足でしたが、私の話はここまでです。ご静聴ありがとうございました。(拍手)』
3

2017/4/13

もう一つの日本文化(学習会「先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ」開催記録(その1)ほか)   文化・芸術
 木村さんが共同代表になっている【平取「アイヌ遺骨」を考える会】 の学習会 『先人たちの遺骨をふるさとの地・平取へ』 が先月(3月)18日、平取町・二風谷生活館で参加者110名と盛会裏に開催された。

 懇親会出席者は凡そ40名、反対意見をも自由に発言できる開かれた学習会だった。とても意義のある学習会だったといえる。

 学習会プログラム
 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)
 A植木哲也さん(苫小牧駒澤大学教授)「アイヌの遺骨がこうむった学問の暴力=v
 B殿平善彦さん(北大開示文書研究会共同代表)「アイヌの遺骨はコタンの土へ」
 C小田博志さん(北海道大学教授)「骨から人へ―尊厳ある遺骨の帰還のために」
 D市川守弘さん(弁護士)「地元の土に遺骨を戻すには」
 E自由な意見交換
 F閉会のあいさつ 木村二三夫(平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)

 さて、【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(講演録)の提供があったので、順次掲載していく。

 その前にFMピパウシの「木村ニ三夫の言いたい放題」の4月(今月)9日放送分について、木村さんから言い足りなかった部分を付け足したので掲載してくれとの依頼があったので、ご紹介する。

 『FMピパウシ・リスナーの皆さん、イランカラプテ!木村ニ三夫の言いたい放題の時間です。

 3月18日、私達は「遺骨を考える会」主催の学習会を開きました。そして多くの皆さんから関心と共感を得ることができました。

 人としての誠を見た思いです。集まった皆さんから「人である事」を感じることができた事が私には嬉しかった。

 皆さんの声が、国、大学に届いたかの様に数日後、国に動きがありました。皆さんもご存じの様に北海道新聞にて「アイヌ民族の遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも」の記事が出ました。

 私達もこの機に乗じて、地域のアイヌ協会、市町村などの自治体、市町村議会などが一緒になって返還を求めるべきではと思います。

 ともかく国は急いでいる。「なぜなのか?」魂胆は見え見えである。
 尊厳ある慰霊施設と称して白老へ集骨して、過去のおぞましい歴史に「ふた」をしたいのであろう。

 そして研究体制の整備と2020年のオリンピックに向けての対外的パフォーマンスという国にとっては一石三鳥ではないのか。

 危ない、危ない、アイヌはその昔からこう行った手口で人権も尊厳も、そしてアイヌモシリをも奪われてしまった。

 北海道アイヌ協会の偉い人達よ、こんな騙しの手口が判らないのか。

 政府は3月23日のアイヌ政策推進会議の作業部会で、北大などで研究目的で保管されているアイヌ民族の遺骨について、発掘された地域のアイヌ民族団体が返還を求めた場合、身元不明でも返還に応じる方針を示した。

 北海道アイヌ協会は、それを受けるかのように、3月28〜29日の両日、理事会を開催したが、外部傍聴をシャットアウトした。今後の活動方針などを論議すべき開かれた場でなければならないのに、隠す、騙す、といった手法は国(政府)のやり方とよく似ている。

 29日の新聞記事にこんな馬鹿げたことが!「国側の方針」の中で、民族の伝統的な方法で供養し続ける事などを条件とする考えを示したとあったが、「笑っちゃうね!」。

 墓泥棒からそんなことを言われる筋合いはない。国側(大学等)は、自分達が墓泥棒だという認識も無いのだろうか?揃いも揃って教養のない輩の集まりだ。盗人猛々しいとはこの事だろう。

 更に言わせてもらうと、憲法において信仰の自由が保障されているこの国において、正当な持ち主に返すに当たって、こんな条件を付すことが可能と考えているのだろうか?
 北大の一部教授にお聞きしてみたいものだ。

 木村ニ三夫の言いたい放題の時間でした。』


 次に学習会【平取「アイヌ遺骨」を考える会】から開催記録(その1)をご紹介する。

 @開会のあいさつ 井澤敏郎(平取町町議会議員/平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表)

 『みなさん、こんにちは。私は、木村二三夫さんと一緒にこの学習会の共同代表をしています、井澤敏郎と申します。本日は遠路お集まりいただき、たいへんありがとうございました。

 また本日ご講演をいただきます4人の講師のみなさまにお礼申し上げます。さらに、この学習会にご協力いただきましたコタンの会さま、北大開示文書研究会さま、また地元、平取町教育委員会さまにお礼申し上げます。

 そしてまた、この学習会のコーディネーターとしてご協力いただいたフリージャーナリストの平田剛士さんに厚くお礼申しあげたいと思います。さらには、地元開催に協力してくれた大勢の若い方々の協力に感謝します。

 「ゼロから1の道は、1から1000の道よりも遠い」という言葉を、大学時代の恩師から教わりましたが、北大からアイヌ遺骨の返還を昨年7月に実現した「コタンの会」と北大開示文書研究会の働きは、その「ゼロから1の道」を開いた偉大な行動であったと思います。

 今日の学習会では、その開かれた「1の道」を「1.1」にでも進められるように、講師の方々と、会場にお集まりのみなさまとで、築き上げていただければと思っておりますので、ぜひ活発なご意見をいただければと思います。

 さて、平取町議会の議場には、名誉町民の11名の方の写真が掲げられています。もちろんみなさまご存知の萱野茂先生のお姿もありますが、その先頭にいらっしゃるのが平村ペンリウク氏です。

 ペンリウク氏は、1903年、明治36年に71歳でお亡くなりになっておりますが、30年後の1933年にその遺骨が掘り起こされ、そのご遺骨は北大アイヌ民族納骨堂に、「平取1」という番号が振られて、収集・保存されています。

 ご存じの方がいらっしゃいましたでしょうか。この平村ペンリウク氏を含めて平取町民の北大での17遺骨と、札幌医科大学の10遺骨は、このままでは故郷・平取の地に帰ることができず、国が2020年までに白老町に造る「アイヌ象徴的空間」の「慰霊施設」に「標本」となって保管され続けることになります。

 「事実は曲げられない」という言葉がありますが、アイヌ遺骨にとって曲げられない事実とは何なのか。本日の学習会でみなさまに学んでいただければ幸いです。

 みなさま、本日はこの学習会にお集まりいただき、本当にありがとうございました。(拍手)』
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2017/3/25

もう一つの日本文化(アイヌ民族遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも 政府方針)  文化・芸術
 ここのところ、連日、北海道新聞の記事の関係で木村さんから電話がかかってくる。

 一昨日は、【アイヌ遺骨返還 浦幌も和解 札幌地裁 北大から最多76体】の記事、昨日は【アイヌ民族遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも 政府方針】の記事だ。

 電話の度に[意見交換]となる。木村さんは「私の解説」が役に立つと言うし、私は「木村さんが説明してくれる地元アイヌの反応の予想など」がとても参考になる。

 さて、この2つの記事だが、木村さんは辛口だ。
 木村さんと私で合意した見解について、表明する。


 昨日(3/24)の北海道新聞(朝刊)に【アイヌ民族遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも 政府方針】という記事が出た。

 『政府は23日のアイヌ政策推進会議の作業部会で、北大などで研究目的で保管されているアイヌ民族の遺骨について、発掘されたのアイヌ民族団体が返還を求めた場合、身元不明でも返還に応じる方針を示した。…』という内容で、一般的には好意的に受け取られているようだ。

 だが、アイヌの歴史の中で、何度も、悪知恵の働く日本人に煮え湯を飲まされてきたかを痛切に感じている木村さん、性根が素直でなく、長い期間従事していた仕事が先ずは疑って考えるような性質だった私の2人は、単純に良かった良かったとは思わない。

 その理由は、一昨日(3/23)の北海道新聞(朝刊)記事【アイヌ遺骨返還 浦幌も和解 札幌地裁 北大から最多76体】における北大の態度だ。

 『…原告側代理人によると、和解では、北大医学部の研究者が1934〜35年に浦幌町内の墓地から持ち去ったとして返還を求めた64体に加え、北大側は新たに12体を返還対象にした。北大側からは「箱に入っている遺骨を整理した」と説明を受け、浦幌町内から掘り出されたとみられるが、詳しい発掘時期や場所などは不明という。北大は理由を明らかにしていない。…

 …和解後、札幌市内で記者会見した浦幌アイヌ協会の差間(さしま)正樹会長(66)は「遺骨を私たちの土地に返してもらい、安らかに眠ってもらう道が開けた」と喜ぶ一方、新たに12体を返還対象とした北大の遺骨の管理については「どこから掘り出したかも説明がなく、ぞんざいな扱いに腹が立つ」と述べた。北大は「裁判所の求めに応じ和解した。コメントは差し控える」(広報課)とした。…』

 北大の態度は、「情報は北大が有している。情報を出す出さないは北大の自由だ」と言わんばかりの傲慢なものだ。返還する遺骨の何の情報も出さず、説明責任も果たさない。

 返還を受けた地元において、返還された遺骨がどこからどんな風に掘り出さ れたかなどの情報が全くない中で、想いを寄せたイチャルパ(供養)ができると考えているのだろうか?

 恐らくは、そんな事には全く関心もなく、露ほども思わないのであろう。
 道義上も情報公開の精神とも程遠いこの態度は何なのだろうか。

 この2つの記事が1年も離れているならば、木村さんも私もそれほどは気にしないが、昨日の今日である。

 この北大の態度、状況が変わらなければ、国の方針が【アイヌ民族遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも】と変わったところで、正しい返還は全く期待できない。

 なぜなら、北大から提供される情報は信用できない。信憑性に欠けるからだ。
 このままでは、未来永劫、北大が有している情報は明らかにならないだろう。

 では、どのように北大が有している情報が信用できるようになれば、【アイヌ民族遺骨、発掘地域に返還 身元不明でも】という国方針が、実行段階で担保できるのだろうか?

 あくまで一般論だが、イメージは、列車事故などにおける原因究明調査の為の第三者(公正・中立な専門家)によって構成される事故調査委員会方式だ。

 なぜ第3者によって構成される事故調査委員会方式が有効かというと、その事故を起こした組織に原因調査を求めた場合、自分たちのミスは隠すからだ。

 例え、悪意がなくとも、自分の属する組織に対しては、手心を加えるのが人情だ。いずれにしても踏み込んだ調査結果にならないことが多い。

 なお、事故調査委員会は、発生事案の原因究明を目的としており、事故の責任の所在については基本的に言及しないことが基本だ。

 いずれにせよ、一昨日の新聞記事のように「返還する遺骨の何の情報も出さない」など、社会的な信頼を失なわせるような出来事が日常的に行われている北大においては、アイヌ人骨に関連する事実調査は客観性のある調査、すなわち第三者による調査でなければ信用されないと木村さんと私は考える。
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