2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

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名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

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寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

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当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

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画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

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炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

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子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

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「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
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