2018/8/4

沖縄県立博物館・美術館「儀間比呂志の世界」展ギャラリートーク  講演・発表

沖縄県立博物館・美術館にて「儀間比呂志の世界」展ギャラリートーク。
佐喜眞美術館の「本橋成一展」のトークと完全に日程が重なってしまって、「どちらに行こうか迷った・・・」と何人かのお客さんに言われ、申し訳ない限りでした。それでもご来場下さった皆さま、本当にありがとうございました。

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学芸員の豊見山さんにお会いしたのも、沖縄県立博物館・美術館を訪れたのも、2008年の「美術家たちの「南洋群島」」展がきっかけでした。
それから10年の歳月が流れ、その間、何度沖縄を訪れたか覚えてはいませんが、私はもっぱら豊見山さんの眼を通じて、沖縄の美術を近しく感じ、学んできました。
今回、儀間比呂志について、豊見山さんとクロストークをさせていただいたことは、ひとつの節目のような気がしています。
「南洋群島展」の調査で行われた儀間さんの貴重なインタビュー映像(2007年撮影)を見たことも、その思いを強くさせました。

インタビューの中で、儀間さんは、戦後、郷里の沖縄に帰ることができず、大阪で油彩画を学んだ後、東京の上野誠の家を訪ねて影響を受け、木版画に取り組んでいったと語っています。
やがて儀間さんは木版画一本に絞っていくのですが、「高価な油彩画より安価で複数刷れる木版画の方が多くの人に見てもらえる」という彼の言葉は、中国の木刻運動の影響を受けた戦後の版画運動の発想に重なります(「原爆の図」を描く前の赤松俊子=丸木俊も前衛美術会で木版画に取り組んだ時期がありました)。
また、初期油彩画の力強い線描や造形的な特徴は、メキシコの壁画運動の影響も感じさせます。豊見山さんの解説によれば、1955年に「メキシコ美術展」が大阪を巡回しており、儀間さんも見ていたかもしれません。
1950年代は儀間さんにとって画家としての自己形成期。民族の歴史と誇り、抑圧する者への抵抗の精神を、自身のルーツである沖縄に重ねながら、強固な表現に練り上げていったと思われます。

しかし、1956年に初めて沖縄で開催した個展は、必ずしも郷里の美術界に受け入れられなかったようです。
当時の沖縄美術の主流は、「ニシムイ美術村」の美術家たち。つまり、戦前に東京美術学校で学び、アカデミックな表現やシュルレアリスムの影響を受けたエリート層が中心となって、戦後の沖縄画壇を形成していたのです。
戦争の破壊とその後の過酷な米軍統治は沖縄を孤立させ、儀間さんが影響を受けた1950年代の文化運動も、沖縄には生まれていなかったようです。
その意味では、儀間さんは「沖縄の画家」ではなかった。1950年代における沖縄の「外側」の方法論によって、沖縄の抱えている問題を立ち上げ、日本の人びとに、そして沖縄に対しても突きつけていったのではないか。
そして、そんな儀間さんの作品に、当時の沖縄の先鋭派である『琉大文学』の新川明さんが共鳴し、歓迎したというのも、また興味深いところです。
儀間比呂志、もう少し続けて考えたい作家です。
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